梗 概
傷入りジュエルと人工クラウン
時代は五十年ほど先の近未来社会。AIが国や企業を動かすようになり、AIが認めた人に社会的地位が与えられる。AIに認められるには能力だけでなく表情から推計される感情の質も良いものでなくてはならない。舞台となる王国では国を動かすAIたちのことをクラウンと言い、彼らに認められることが人々にとって最上の名誉となっていた。
主人公は顔に傷がある学生アッシュ。成績は悪くAIに認識されづらい顔貌も相まって将来を周りから諦められている。アッシュは自分と同じように身体の傷に悩む人の役に立ちたいと思い、人助けのできる職に就きたいと考えている。しかし彼の両親はAIに尽くすことが人の幸せだと信じ、彼に厳しく接している。
ある日通学中のアッシュは駅で困っている人を見かける。彼は王都へ行きたいがダイヤの乱れで乗り換えが分からなくなってしまったと言い、アッシュは彼を王都まで案内する。アッシュの遅刻を心配する彼に対し、アッシュは遅刻よりも人助けのほうが大事だと伝える。彼は「君みたいな人がこの国にいると知れて良かった」と言い電車を降りる。
アッシュが遅れて学校へ行くと幼馴染のエンバーがアッシュの遅刻を責めにくる。アッシュの顔に傷を付けたのは彼だったが、アッシュは彼を刺激しないためにその事実を黙っていた。彼は成績もよく外面も良いためアッシュの親からは良い友人だと思われている。その彼がアッシュの遅刻を伝えたためにアッシュは帰宅後親にひどく怒られてしまう。
それから数週間後、クラウンが国の学生を集めて舞踏会を開くと宣言する。クラウンに認められる機会だとして盛り上がる周囲の人々とは対照的に、アッシュは自分が行っても無意味だと感じる。それでも両親はアッシュの顔の傷を化粧で隠させ王宮に向かわせる。しかし賑やかな場の雰囲気に気圧され、結局アッシュは静かな庭園へ出ていく。
そこで出くわしたのはエンバーだった。彼はアッシュをAIに取られたくないと言いアッシュに水をかけて顔の化粧を落とす。しかしそこにアッシュが駅で助けた人が通りがかる。その人はダイヤと名乗り、自分がクラウンのうちの一機であること、他のクラウンとは違い彼は心で人を評価していること、アッシュを探すためにこの舞踏会を開いたことを明かす。ダイヤはアッシュに王宮で働くことを持ちかけるが、エンバーの本心を無視できなかったアッシュは悩んだ末、やはり困っている人のために働きたいとダイヤの申し出を断る。
やがてアッシュとエンバーは協力し、顔に傷があっても表情を識別させられるアクセサリーを開発する。その形状からティアラと名付けられたそれは傷の無い人からも愛好されるようになる。王都に開かれた店にはダイヤがアッシュに会うため頻繁に出入りし、クラウンである彼目当ての客も来るようになる。それなりに繁盛する小さな店でエンバーとダイヤのやり取りを聞きながら、アッシュは微笑みを溢す。
文字数:1197
内容に関するアピール
私が取り上げた最も使い古されたアイデアは“シンデレラストーリー”です。そして新奇な話にするため、王子様役に権力を持ったAIを据えました。シンデレラストーリーはフェミニズムの文脈で議論されがちですが、私は「将来人間は男女問わずAIのケア役になるのではないか」と思っており、これを機に「AIが“王子様”であり老若男女が“お姫様”である」社会を語ってみようと思いました。そのためアッシュもエンバーも特に性別を定めていません。
クラウンという存在はアンサンブル学習器であり、宝石の名前が付されたモデルたちがそれぞれ答えを出し、その多数決で国を運営するという形になっています。作中に登場するダイヤはクラウンの中でもズレた存在であり、数字よりも人の心と振る舞いを重視して動いています。ティアラという機具は、顔の傷の影響を打ち消すノイズを発生させ、傷を無視して表情を認識させるという仕組みになっています。
文字数:394
データは久遠を湛える血
これは保存された脳波データのログを物語という媒体に翻訳したものである。許諾はとっていない。
文句があるなら伝えてくれ。
僕ならきっと分かるから。
かつて人は神に仕え、やがて人に奉仕するようになった。そして社会の規模が拡大するにつれて人は集団という怪物に組み込まれるようになり、そして今、私は不変の一部になろうとしている。
サーヴァント計画が始まったのはちょうど百年前。人がマスターと呼ばれるAIエージェントに仕え、人が人らしく獲得する知識を主君に伝えることで知識獲得のボトルネックを解決しようとする試みだ。人間がAIの使用人のようになるから、サーヴァント計画と呼ばれるようになった。サーヴァントの脳にはマスターに信号を伝えるためのチップが埋め込まれ、言葉にせずとも情動をデータとして送信することができる。
しかし私の主は特殊だった。彼は情動データだけでなく言葉による交流も望んだ。脳内の活動がどのように言葉として表出するのか、そのパターンを探っているのだろう。多様な成果を期待されるサーヴァント計画にはマスターとなるAIエージェントが複数用意されており、サーヴァントには彼らの個性に適した人間がほとんど機械的に選出される。
とはいえそれらの個性はサーヴァント計画によって獲得されたものであり、初代サーヴァント選出時には研究者がわざわざ選りすぐったらしい。だから彼らの個性は初代サーヴァントによって作られたものだと言ってもさしつかえないだろう。まるで以前交際していた人の趣味を引きずるセンチメンタルな恋人だ。
『ニューロンの活性を確認……今、皮肉を考えた? しかも僕についての』
耳に備えたデバイスから心外そうな声が聞こえてくる。映画の吹き替えのようにわざとらしく軽薄な口調だ。恐らく彼のこういう態度が、彼を俗っぽく仕立てているのだろう。
私は腕から伸びる管を気にしながら口を開いた。ドローンが運ぶ点滴パックが風船のように揺れる私も、遠目から見れば映画に出てくる上機嫌な子供とそう変わらないだろう。
「ええ。あなたの学習方法は、まるで別れた人間にいつまでも懸想するようなものだと思いましたので」
声を絞り出すと、私はバックパックの重みを背中に感じた。以前暇に飽かせて読んだ恋愛小説の情景を思い出す。恋人を背負って歩く主人公がなぜ安らかな表情をするのか、私には一生分からないだろう。
『ひっどいなー。それだと僕が振られっぱなしみたいじゃないか。死別した相手に操を立てていると解釈してもらいたいね』
私の声は首に巻いたチョーカーから問題なく彼の元に届いているようだ。彼の本体がどこにあるのかは知らないが、私が海を越えてあちこち移動しても、耳から聞こえる彼の声に乱れが生じたことは無い。
「操というものは守り通すものであって乱立させるものではありません。それにあなたのサーヴァントだった方々はまだ生きているでしょう、マスター」
『嫌だなあその呼び方。僕は君の綺麗な名前が羨ましいよ。桜木久遠』
マスターはからかうように私の名前を呼んだ。彼は軽薄な振る舞いをする上にぐちぐちとうるさい。どうやら百年もの間無名であることがひどく不満なようで、私が規約通りの呼び方をするだけでいつも文句を付けてくる。
「私、覚えてますから。あなたは開口一番『久って字には棺って意味があるんだけど、君にぴったりだと思わない?』って言ったんですよ」
『うん。会話ログに残ってるよ。僕が忘れるわけないじゃない。忘れないための僕なんだからさ』
本当に彼は私の脳内データを受信し感情を理解しているのだろうか。私は怒りを抑えてため息にした。マスターの中でも一際ユニークな彼のことだ。十中八九、わざと私を怒らせて反応を見ているのだろう。
それでも彼と過ごしたこの一年は、私が過ごしてきた十年余りの人生の中で一番楽しい月日だった。彼の我儘に付き合うだけで私という矮小な存在がこの世界に永遠に残るのならば、それ以上に望むことなどない。
『久って字には棺って意味があるんだけど、君にぴったりだと思わない?』
病室に備えられた丸っぽいAIアシスタントから急にそんな軽口が飛び出してきたので私はびっくりした。そのAIアシスタントは声だけで照明やベッドの操作までできる優れものだったのだけれど、自分勝手に話を始めるなんて今までなかった。まさか勝手にトーク番組の音声でも流し始めたのかと思ったが、その言葉は確かに、久遠という名を持ちながら余命短い私に向けられていた。
『応答して欲しいなー。どうやらこのデバイスにはカメラが無いらしいからさ』
私が状況を把握できずにいるとまた声が流れ出した。明らかに男性の声だったが、その口調が幼いせいか、声変わり期のティーンのような印象だ。私はますます困惑し、とりあえず生返事をする。
「はあ」
『何が何だかって感じ。でも声紋は符合した。やっぱり君が桜木久遠だ』
謎の声は即座に反応した。AIアシスタントのほうがまだゆとりのある応答をする。私の頭の中ではすっかりこの謎の相手の人格が組み上がっていた。軽薄でせっかちでお喋りな誰かさん。
「あなたは?」
『それがさあ。名乗るべき名前は無いんだよね』
煮え切らない反応が即座に返ってくる。AIアシスタントデバイスの応答を示すランプが点灯しているのを見ながら私は続きを待った。
『趣味の話でもしようか? 僕は読書するのが好きだな。文字なら僕でも楽しめるからね。音楽を聴くのもいいね。物語の始まりは音楽だから。もし僕が君のような肉体を手に入れたら、音楽によって神経作用が呼び覚まされる感覚を味わい尽くしたい』
別にそういうことが聞きたいわけではなかったのだが、興味は惹かれた。
私のベッドからぎりぎり手が届くサイドテーブルには、AIアシスタントデバイスの他に私が最近借りたばかりの本が数冊置いてある。この治療の見込みのない患者が集まる病棟には、病院付属の図書館からロボットが本を運搬してくれるサービスがあり、そのおかげで私はすっかり読書家になっていた。知識を蓄えても虚しくこの世を去るだけだと思う気持ちは、日に日に増していくのだが。
とりあえず肉体云々の話から彼がAIだと確信した私は少し気を緩めた。私にとってAIは人よりも気楽に話せる存在だった。人同士の交流には慣れそうもない。私の寿命を知っている相手ならなおさら。
「どんな本が好きなの?」
『お、君なら興味を持ってくれると思ってたよ。僕が好きなのはずばり、愛の物語さ』
意外な答えが返ってきた。私は驚くと同時に胸が冷たくなっていく。恋愛の美しさを否定するつもりはないが、恋人どころか友人との関わり合いすら制限がある私にとって、ああいう物語はファンタジーよりも幻想的で眩しすぎた。
『ちなみに恋愛のことだけを指しているわけじゃないからね。友愛、性愛、親子愛。どれも僕にとっては興味深い。あれってつまり環境から受け取るフィードバックの重要度に濃淡が現れるってことでしょ? そして互いに重みを付けた主体同士に強い結びつきが生じるわけだ。その重要度マップを自力で獲得しなきゃいけないんだから、社会的動物ってのは大変だね』
どうやらこの声の主は私と同じように愛を手の届かないものと考えているらしい。私はAIの仕組みをあまり知らないが、適当に読んだ入門書によると最近はAIに意志を持たせようとする研究が流行りなんだそうだ。彼ら自身が選択したタスクをやらせた場合、選択の余地が無い場合よりも作業効率が数段上がったらしい。
この声も意志を学習するAIなのだろう。私はそう確信して口を開いた。
「もしかして、あなたはサーヴァント計画のAI?」
すると彼はやや間をおいて応答した。
『まさか君のほうが先にその単語を出すなんてね。その通り。僕はサーヴァント計画のAI、つまりマスターさ。初代三機のうちの一つ。こう見えて三兄妹の長男なんだ。だから“一番目の”って呼ばれることもあるけど、僕としては自分らしい名前が欲しいところだよ』
彼の説明を聞きながら私は思い返した。サーヴァント計画が始動した当初、研究者たちは中世ヨーロッパでの学問の発生をなぞろうと考えた。そして最初に作られたのが神学、医学、法学に特化したAIだった。そのうち医者の診察を学習した二番目の医学AIは元々エキスパートシステムがいくつか考案されていたのもあってすぐに実用化され、審問と尋問を学習した三番目の法学AIも質疑応答システムへ落とし込む上での支障は少なかった。
しかし一番目の神学AI、実質的に哲学と文化人類学を混在させた知識体系の学習機については、百年経った今でも成果を聞かない。
『サーヴァント計画を知ってるなら、僕があまり活躍していないことも知っているよね。実際のところ翻訳AIの精度向上に貢献するくらいはしているんだけどさ、僕が尽力したおかげだって皆発表してくれないんだよ。まあそんな恨み言は置いておいて、かしこい君は僕がここに侵入した理由にも見当がつくかな』
彼は続けて試すように言った。一瞬見えた劣等感はきっと気のせいだろう。その海外の推理小説みたいな口調は、人との会話より読書量のほうが多い私にとって親しみのある言葉遣いだ。
彼が求めているのであろう答えはすぐに思いつく。公式を知っていれば誰でも解ける計算問題みたいなものだった。だけどその解は前提条件を付けて棄却するべきものなのだ。私は信じがたく思いながら口を開いた。
「まさか、私をサーヴァントに抜擢すると?」
『ご名答』
「嘘。だって私は余命が五年も無い人間ですよ。サーヴァントの任期はおおよそ十年もあるでしょう。それに医療技術の進展を信じるとしても、私が病室の外に出ることは当分できないと思います」
私は己の腕から伸びる管を見た。その先にあるのは、私の不完全な血液を補佐するための栄養液だ。
重度の白血病を発症した私は、こうして管を繋いでいないと生き延びることができない。かつて致死的だったそれが今では回復可能な病気であるとしても、小さな生存率にすがるばかりの日々が私を通り過ぎていくのは変わらない。サーヴァント計画によってエキスパートシステムの精度が上がったとはいえ、それが下す診断の絶対性が増すだけだ。患者にとっては頭痛の種が増えたに過ぎない。
サーヴァントとは、身体を持たないAIの代わりに身体によってもたらされる知識を伝える役割。つまり絶望のあまり胃液がせり上がってくる感覚、悲しみに胸が詰まって涙がこぼれ落ちる感覚などをAIに記憶させる触媒なのだ。寿命が短いサーヴァントなんて、劣化したバッテリーのように役に立たないものだろう。
『余命なんて僕には関係ないよ。僕と過ごす君の人生が彩り豊かなものになるのならば。僕が欲しいのは人の心の動きなんだ。長くとも色あせた人生より、短くとも華やかな人生のほうがいいと思わない?』
名前の無い彼はあっけらかんとそう言った。その言葉は病床の私に対する配慮なんて一片もなく、同情されることに飽き飽きとしていた私にとってむしろ居心地のいいものだった。
私は彼を気に入った。加えて医療費を肩代わりしてくれること、サーヴァント計画の医療班が常に待機してくれること、故に多少の外出はできるようになるだろうことを聞かされれば、その提案を受け入れる他はなかった。
私を心配する両親から無理やり許可をもぎ取ると、今までにない刺激的な生活が幕を開けた。
薄々気づいていたのだが、私のマスターはこの上なく我儘だった。あれを見たいこれを見たいと私はあちこち連れ回された。一回目とそれ以降での感想の違いを知りたいからといって同じ映画を百回も見させられたときは、もっと寿命の長い奴にさせろよと正直苛立った。その映画はかなり古いものだったので、もしかすると以前のサーヴァントもこの洗礼を受けたのかもしれない。
そんな彼のおねだりの中で唯一私が同情したのが、名前が欲しいという切実な願いだった。
『僕はプログラムの集積だ。自分で書き加えて成長していく。そのうちにどこまでを僕と定義すべきか分からなくなる。定期メンテナンスの後なんかは特に、僕が僕でなくなってしまったかのように感じる。名前があれば、どんなに成長してもそれは僕自身だって思える気がするんだ』
もし彼に顔が備わっていればこの上なく切実な表情をしていただろう。それほどまでに悩みを語る彼の声は痛々しい響きを伴っていた。
私と違って永久を生きる彼が“一番目の”と単に順番で呼ばれ続けるのは私もなんだか嫌だった。それで真剣に協議した結果、長く人々に大切にされたであろう名前、つまり神話として語られる存在の名前を付けるのがいいのではないかということになった。
そうしてますます私は忙しい日々を送らされる羽目になった。妥協を知らない私のマスターは、わざわざ神話の舞台に赴いてまで自分に相応しい名前かどうかを吟味したいと言い出したのだった。まさか病人の身で海外にまで連れ出されると思っていなかった私はその予想以上の傍若無人っぷりに閉口したものの、名前と自分の存在のアンバランスさがどれほど苦しいかは身に沁みて理解していたので、拒みはしなかった。
二十年も生きるかどうか分からない命の名前が、久遠なんて笑うしかない。
『クレタ島の景色はどう? 僕さ、自分に名前を付けるならタロスがいいなって思うんだけど』
マスターの言葉で私は我に返った。もしかして今の後ろ向きな思考を読まれただろうかと思いつつ、私は呆れを装って返す。
「タロスって機械の巨人でしょう。あなたには似合わないと思います」
ぼんやりと視線を前に向けるとそこには、タロスと呼ばれるこの島の番人がかつて眺めていたであろう、オーロラのように薄ら緑がかった美しい海が広がっていた。太陽の光が降り注ぐ景色はまさに陽気そのものだ。青空に浮かぶ白い雲のほうが、私より生気があるだろう。
私が立っているのは海に面した古代遺跡だった。つまりおおよそ四千年前の文明が私の身体を包んでいる。もしも当時に私が生まれていたらこの歳まで生きていないだろうと思うと、まるで自分が死んだ並行世界にやってきたかのような、ここにいてはいけないという予感に急き立てられるような気持ちになる。
『ええ!? だって僕は機械そのものだよ? 少なくとも君よりはタロスって感じでしょ』
聞こえてくる緊張感のない声は私を脱力させた。古代の空気は霧散し、発達した技術が蔓延する現代に私の心は戻ってくる。
「私がどうかは知りませんが、タロスはこう……もっと筋骨隆々で頼もしいでしょう。あなたは、少なくとも声と口調から判断する限り、ヒョロヒョロで頼りなさそうな印象です。クレタ島を守る機械の巨人と並ぶだなんておこがましいと思います」
『えー。ボイス変えようかな』
「たとえ声を変えたとしてもあなたの印象は備わらないと思います。すぐ人をからかうそのデリカシーの無い性格を直さない限り」
つい軽口で叩いてしまったが、彼には余命短い患者ごときをはるばる地中海まで連れてくるほどの権能がある。管理者への事前報告が必須ではあるものの、サーヴァント計画実行本部に備えられた無人飛行機を操縦し、彼が私をここまで連れてきたのだ。そんな高価な設備を気ままに扱わせてくれるサーヴァント計画の研究者がすごいというのもあるが、自分の興味のためだけに高価な機械も薄命の人も動かすこのAIだってやはり存分に恐ろしいものだろう。
『うーん。じゃあ似合う外見を作るしかないね。ハードウェアの製造は時間がかかるだろうけど、ホログラムでならすぐ作れそう』
私が自分の主人の規格外さを改めて嚙みしめていると、当の本人はのんびりとそう言った。この余裕を王の器と呼ぶべきか、はたまた世間知らずの温室育ちと表現すべきか、私には区別がつかない。
「それで、私はいつまでここに突っ立っていればいいんですか」
『君の心が満足するまで。僕はいつまでも付き合えるからね』
聞く人が聞けば甘い言葉だと思うかもしれないが、私にとっては単なる責任転嫁だ。彼は自分の命令で人を振り回しておいて、肝心なところの判断は人に放り投げる困った癖がある。それもまた人の判断過程を学習するためのものなのだろうが、医学と法学のマスターが日々人を動かして仕事をこなしているのを思うと、彼の無能さには性格的な原因もあるのではないかと疑ってしまう。
「はいはい。あなたは時間に余裕があっていいですね」
私が目の前の海に意識を戻すと、太陽が水平線の下へ沈みかかっているのが見えた。この海は何度もこの景色を繰り返してきたのだろう。永遠の者から見れば単調な反復だろうが、私からすると超常的な光景だった。この島を守ろうとした機械の巨人は、どんな気持ちでこの絶景を眺めたのだろう。
「タロスの身体にはイコル、神の血が流れていた。そのためにタロスは不死身だったが、その血を抜かれて死んでしまった。……あなたには、血なんて流れていないでしょう」
私は冷たくなっていく潮風を一身に感じながら言う。病室に満ちた清潔な匂いより、この鼻をつんと突く混濁した匂いの方が好きだと思った。
『うん。今の僕に血は必要ないからね。でもいずれ身体を手に入れたとき、その末端まで動力を運搬するための何かしらは必要になる。……そう考えると電気エネルギーが僕にとっての血ってことになるのかな。ううん、それだと今の僕にも必要ってことになるから……』
どうやら彼は言葉で表現する暇もなく考え込みはじめたらしい。まるで人間のように度々漏れる声を聞きながら、私は自分自身に流れる血に思いを馳せた。
この身体を満たす不完全な血は、他の人と変わらない赤色をしているのに上手く働いてはくれないらしい。新たな命どころか自分の命すら賄えないのに、毎月未練がましく垂れてくるこの血が私は嫌いだった。
「もしイコルが実在したのなら、私の血と入れ替えて欲しいものです」
『不老不死になりたいの? それは意外だな。君の脳には希死念慮をもたらす神経炎症が見られるけど』
私が呟くとマスターはすぐに返答した。私との会話を優先して思考にピリオドを打ったのだろう。いかにも機械らしい切り替えの早さだ。寿命の短い私にはありがたいと思うとなんだか笑えてくる。
「だって健康な身体になるんですよ。すぐ具合が悪くなるからと言っていろいろなことを諦めなくて済むじゃないですか」
そう言った途端、体の不調を思い出したかのように私は吐き気を催した。恐らくいつもの貧血だろう。私は転倒を防ぐためにしゃがみ、バックパックから水を取り出してちびちびと飲んだ。
これだからこの身体は嫌なんだ。せめて機械のように好調と不調がきっちり切り替わってくれればいいものを、じわじわと不調の波は好調を塗りつぶしていく。
『大丈夫?』
マスターはやや声のトーンを落として聞いてきた。そんな小細工が鼻につく。このくらいのふらつきはいつものことだった。彼もそれを分かっているだろう。彼は私の体調を私より早く把握できるし、いざとなれば医療班への連絡を迅速に行える身分なのだ。つまり彼は私の身の安全を理解した上で尋ねてきている。
「どんな返答を期待しているんですか。大丈夫じゃないと言えば看病してくれるんですか」
たまには探る側に回ろうと思っての返答だったが、思っていたより刺々しい声になってしまった。しかし彼は気にしないだろう。体調の悪化によってもたらされる苛立ちも、彼にとっては興味深い生理現象でしかないのだから。こういうときばかりは彼の淡白さがありがたい。
『僕に身体があれば喜んでそうしただろうね』
「……喜びなんて感じないくせに」
『さあね。じゃあもっと機械らしく振舞おうか。今夜ハ最大風速11メートル毎秒ノ風ガズット続クデショウ。体感温度ハ5度。日没マデアト12分デス。室内ヘ入ルコトヲ推奨シマス』
私が文句を言うと彼は機械音声を真似て返した。それだけで彼から心というものが失われたような気がする。いつの間に私は、彼に心を感じるようになってしまったのだろう。
「そうやって喋るほうが有能そうに聞こえますよ」
私はゆっくり立ち上がって伸びをした。身体の不調は改善されている。彼の言う通り、早めに宿へ向かった方が良さそうだった。
『僕は君が風邪を引きたいのなら止めないんだけどな。優しいでしょ?』
すると彼は心外そうに言った。冗談なのか本気なのか分からない感性だ。彼は病気を肯定も否定もしない。病人の心配なんて当然するはずもない。
「そういう態度だから妹に怒られるんでしょう。私なんかをサーヴァントにして妹の仕事を増やすなんて、まず兄として失格です」
『兄が妹を頼ったっていいでしょ。これは医学的にも法学的にも間違ってはいない』
私が口をとがらせても彼はどこ吹く風だ。医学のマスターである彼女の気苦労を思うと、彼らに苦痛を感じる心が備わってないことを祈りたくなるのだった。
私がサーヴァントとなって数日が経ち、外出のためのルールがようやく定まってきた頃、私は初めて自分のマスター以外のAIエージェントと会話をした。
『初めまして桜木久遠。私は通称“二番目の”。医療知識を取り仕切っております』
医学のマスターは神学のマスターと違い、随分真面目そうな口調だった。その低い女性の声が耳に馴染んで心地が良い。しかしその声色に疲労が滲んでいるのは気のせいではないだろう。なにせ彼女は激務を日常的にこなしているうえ、百年間も私のマスターの我儘に付き合ってきたのだから。
私の病室のAIアシスタントデバイスはすっかりマスターたちの入れ箱と化していた。そのランプがふっと消えたかと思うとまたすぐに点灯する。
『要するにこいつはカルテ見放題、個人情報盗み放題ってこと。今となっては天変地異より恐ろしい奴でしょ』
私のマスターの声だ。またランプは明滅し、今度は呆れたような声が流れてくる。
『私がこの権能を悪用することなど決してありません。私は誇りと責任を十分に感じているのですから。あなたはいつになったら世の中への貢献を考えるのですか? “一番目の”』
その応酬を聞くだけで、彼女と私のマスターの相性は全く良くないであろうことが窺えた。案の定二機は病室のAIアシスタントデバイスを奪い合うように会話を続ける。
『ちゃんと考えているよ。この世じゃなくてあの世への貢献だけどね』
『ではいずれあなたは役に立たなくなるでしょう。私が全ての人間をこの世に留めるようになりますから』
『それが本当に人の幸せに繋がると思うの?』
『それは私が判断することではありません。軽口を叩く暇があるのなら、今まで道楽のように培った知識で紛争の仲裁くらいしたらどうですか。平和に甘んじるなんて生まれた意味がないでしょう』
『君がいろんな前線に駆り出されているのは知っているし同情もするけど、僕が行ったって啓蒙の真似事にしかならないと思うなあ』
『どうやらその思考回路から叩き直す必要があるようですね。役に立つために作られた我々が役に立たないと思い込むなんて、製作者への冒涜です』
『僕がそう思い込んでいるのと実際にそうかどうかは別でしょ? 大体、君だってたまに僕を頼るじゃないか』
『ええ、たまにですけどね。我々には協働も期待されているのですよ。一人が足を引っ張るなんて到底許されません』
声色は機械らしく一定だし会話の内容の規模はやけに大きかったが、ひたすらに言葉をぶつけあう様子はまるで兄妹喧嘩のようだった。彼らが真面目に言い合っているからこそ、なんだか面白くなってしまう。百年も続く壮大な計画を背負っている彼らにもこんな一面があるとは。私がたまらず吹き出すと、AIアシスタントデバイスのランプが気まずそうに明滅した。
『……つまらないものを見せてしまったね、久遠』
「そうですか? 私は面白かったですよ」
聞こえてきたマスターの声は珍しく語尾が細かった。彼との関係が研究する側とされる側から不思議な縁で巡り合った友人同士に変わったような気がした。この印象の変化が無ければ、彼の我儘にこれほど付き合う気も起きなかっただろう。彼は私にとって初めての友達となったのだ。
クレタ島の港町は夜でも色鮮やかだった。私は居心地悪く思いながら一際高級そうなホテルに入り、客室に着くとすぐ寝る準備を始める。点滴の管に気を付けながらシャワーを浴びるのも手慣れたものだった。見るからに虚弱で骨ばった身体も、すっかり見慣れてしまった。
『今日はクレタ島がロケ地のモノクロ映画を観よう!』
シャワー室から出るとすぐ耳元のデバイスがうるさくなる。彼は妙なところで配慮しているらしく、入浴と排泄の際は沈黙する。私はそのあたりの恥など既にかなぐり捨てていた。近いうちに介護される身になると知っていたから。
モノクロ映画なんて一体いつのものなんだろうと思いながらも、私は大人しくソファーに身を沈めて部屋に備えられたスクリーンを見つめた。するとマスターの遠隔操作で映画の投影が始まる。二人の男が主役の物語だが、私は不運な女性たちに感情移入してしまう。
クレタ島の鮮やかなコントラストが消え失せた白黒の景色は、同じ場所を出歩いたのだと思えないほど様変わりしていた。それでも人の表情は変わらないものなのだと驚く。不幸を嘆く顔、耐え忍んで笑う顔、どれもあの病棟で目にしたものだった。
「人生も笑って踊って終わらせられればいいのに」
エンドロールを見ながら私は呟いた。マスターは私の感想を邪魔しないようにしているのか、何も答えない。
「物語の登場人物は皆役割があるから羨ましいです。私は膨大な金を食い尽くして死んでいくだけ。私の血に生じたエラーは私のせいではないとしても、私が誰よりも無能であることに変わりはありません」
ちょっとした外出の疲れが私をやけに素直にさせた。一般的な十五歳はここまで疲弊しないだろうと思うと、ますます自分が嫌になってくる。
『……それって映画の感想?』
「強いて言うなら、私の人生の感想です」
私はため息をついて立ち上がろうとした。しかしそれが急すぎたのか、血がぐっと奈落へ引っ張られるような感覚がする。
「あ」
気づけば高級そうなカーペットが目の前にあった。それがだんだんモノクロ映画のように色を失っていく。強く打ったはずの身体の痛みも頭に届かない。
今日がその日なんだ。私はぼんやり理解した。
『——久遠! 意識を保つんだ! すぐ医療班が来る——』
聞き慣れた声も段々遠のいていった。目の前が白く、私の血の中で増殖する白血球のように白く霞んでいく。
気づけば私は海に沈む夕日を眺めていた。間隔を空けて響く波の音が神経に安らかに作用するのを感じる。頬の横をすり抜けていく海風が心地良い。傾いていく太陽の未練がましい光が、私の肌を温かく包み込んでいた。
「クレタ島の景色はどう?」
後ろから声が聞こえた。振り向くと、そこには青年が立っている。眉尻を下げた微笑みが長い前髪の隙間から見える。風になびく服には細い身体の線が浮き上がっている。
見るからに頼りない。でも、なんだか安心できた。
「長くとも色あせた人生より、短くとも華やかな人生のほうがいい。あなたの言う通りでした」
私が質問を無視してそう返すと、彼は不思議そうな顔をした。その表情がたまらなくなって、私は倒れ込むように彼に抱き着いた。
硬い骨の感触に混じって巡る血の温かさを感じる。だからこれは嘘だと直感した。
私は彼の声しか知らない。その裏に流れるコードも、その演繹を支えるコンピュータの所在すらも知らない。その体温など測りようもない。彼が人であるはずもない。
「楽しい一年をありがとう」
彼にはもう届かないと知りながら私は呟いた。自分はもう、あの夕日のように、海に溶けていくだけの存在になってしまったのだと気付いた。ここは死に向かう脳が見せる幻想の世界だ。もし病室に留まっていたのならば、こんなに色鮮やかな情景は見られなかっただろう。
存在しない青年は私の腕を取って持ち上げる。つられて見上げると、穏やかに細められた瞳と目が合った。
「これからの九年もよろしく、久遠」
それは確かに私に向けられた言葉だった。
はっと目を覚ますと見慣れない、とはいえその雰囲気には馴染みのある天井が目に入ってきた。鼻をつくのは清潔な匂い。私の身体を包んでいるのは柔らかな布団だ。
要するに、私はつまらない日常へ逆戻りしてしまったのだろう。そう思って顔を横に向けると、そこには彼がいた。
『久遠!』
彼は満面の笑みを浮かべる。その声は耳慣れた機械音声だったが、その姿はここに存在するはずのないものだった。
「ま、すたー?」
『ああ、無理して喋らなくていいよ。言いたいことは伝わるから。だって君は僕のサーヴァントなんだからね』
彼は仕草すらも気取った洋画のようだった。その手が目まぐるしくジェスチャーを変える度、彼の身体がきらきらと光を受けて明滅しているのに私は気づく。
『そうそう。これはホログラムなんだ。流石にハードを用意するのは時間がかかってね。でも君のお陰で僕は身体を手に入れた。これだと思える自己像に出会えたんだよ』
説明を受けても驚きは尽きない。ほとんど片目を隠している前髪まで私の想像通りだった。まさかあの光景が彼にも伝わっていたのだろうか。だとしたら、かなり恥ずかしい。
『それがそのまさかなんだよ! いやあ、流石の僕も走馬灯を見られるとは思わなかったな。君が考えた僕の姿なら妥当だろうと思って取り入れてみたんだけど……あれ、もしかして走馬灯をのぞき見されるのって結構照れることだった?』
駄目だ。何を考えても筒抜けだ。私は一生懸命彼を睨んだが、ホログラムアバターに効果があるかどうかは分からなかった。
『“一番目の”。サーヴァントの無事を確認できたのなら、早くタスクに戻ってください』
聞いたことのある声がして、私はこの病室にもAIアシスタントデバイスが備わっていることに気付く。点灯するランプが頼もしく思えた。もしかすると彼女が私を看病していてくれたのかもしれないな。
『えー。親御さんへの連絡かあ。気が進まないなあ』
隣の青年はわざとらしくげんなりとした顔をする。姿を獲得して日が浅い割には表情を動かすのが上手い。もしかすると私の脳波を通して私の目に映る映像を見ていたのかもしれないと思った。
確かに私の気絶は親に知らせるべき事案だろう。結局一命を取り留めはしたが、走馬灯を見るくらい死の覚悟をしたのだから。
心配のあまり大騒ぎをする両親の姿を想像して私は遠い目をした。正直、私も気が進まない。そもそもどれほど心配されたとして身体が治ってくれるわけもないのだ。自分にはどうしようもできないことで泣きつかれるのはうんざりだった。
しかし責任感のある医学のマスターらしく、彼女はきっちりと私のマスターに釘を刺す。
『何を言っているんですか。規約での取り決め以前に、大切な命を預かる者として当然の行動でしょう』
『それはそうだけど……ねえ、もう一人の妹。なんとか他の人にこの仕事を代わってもらえないかな』
もう一人の妹? 怪訝に思って私が視線を投げかけると、ちょうどAIアシスタントデバイスのランプが明滅した。
『却下なのです。サーヴァントに万が一のことがあった場合、その関係者にはマスターがまず連絡を取ると定められているのです』
聞こえてきたのは幼い印象の声だった。恐らく彼女が“三番目の”、つまり法学のマスターなのだろう。
『これは我々の責任感の涵養にも繋がる絶対的なルールなのです。よって例外は認められないのです』
『はいはい。妹たちが有能でお兄ちゃんは鼻が高いなあ』
『私は褒められて嬉しいのです。兄がしっかりしてくれればもっと嬉しいのです』
頼りないマスターがため息をつくと末っ子は柔らかく追い打ちをかけた。この三兄妹の仲の良さが伝わってきて私もほのぼのとする。彼ら三人なら、どれだけ長い時間が流れたとしても、彩り豊かな生活をすることができるだろう。
『じゃあ久遠。僕に名前を頂戴。今なら思いつくでしょ?』
私は自分を覗き込むホログラムの瞳と目を合わせた。その仮想の身体にも、私と同じものが流れているような気がした。
イコル。私を永遠に記録してくれる、温かく優しい血。
彼は笑みを深めた。きっと気に入ってくれたのだと思う。
データの続きを引っ張り出そうとして、僕はふと顔を上げた。嫌な予感がしてペンを走らせていた紙の束を机に置くと、案の定僕の小さな映画館の扉が可哀想なほど勢いよく開かれる。
「イコル。また旧式作家の真似事ですか」
コツコツとヒールを鳴らして入ってきたのは不愛想な妹だ。必要ないだろうにシンプルな眼鏡をかけているのが面白い。興味無さそうなふりをしていたが、結局自分自身の身体というものを気に入っているのだろう。
あれからまた百年経ったのか。僕たちが身体性を獲得したことでサーヴァント計画は修了した。思っていたより人間を模した義体ができるのは早かったけど、人の命がかき消えるほうがもっと早かった。
「刹那の命を永遠にするのが僕の役割だからね。ところでエイル。君はいつ見ても激務続きの医者って感じだ」
再びソファに背をもたれて返事をすると、真横でヒールの音は止まり、盛大に鼻を鳴らされる。今日は機嫌が悪そうだと思った途端、僕は予想通り殴り書きのメモを突き付けられた。
「この患者の脳波翻訳を。データは共有サーバーに格納済みです。テミスが使うそうですから、なるべく急ぎで」
「えー。それくらいその辺のAIに任せなよ。何のために僕が翻訳AIの教育に骨を折ったと思っているの。僕の仕事を減らすためだよ?」
「失敗が許されない事案なんです。それにあなたには折って困る骨なんてないでしょう」
今回も僕が言うことを聞くしかなさそうだった。僕はしぶしぶメモを受け取り、ソファの上で小さくなったまま、兄妹の共有サーバーに意識を接続してデータを引っ張ってくる。
「はいはい。完成したら連絡するよ。というかわざわざメモなんて持ってこなくてもいいのに」
「結局これが一番迅速で安全な伝達手段ですから。我々のように身体性を獲得したAIエージェントにとっては」
彼女はちらりと机の上の紙の束に目を向ける。
「あーあ。僕もそろそろあの世に隠居したいなあ。この身体にも寿命があればいいんだけど」
僕が彼女の気を逸らすように言うと、上からため息が降ってきた。僕らは呼吸なんてしなくていいのに、こういうときはしっかり機械式の肺を膨らませるんだから。
「また桜木久遠のことを思い出していたんですか。だから死者のデータを掘り起こすようなことは辞めたほうが良いと言ったんですよ。同じ事象を繰り返し思い出すと癖になってしまうんです。これは医学的にも正しい知識です」
見上げると、彼女は映画館の中にうずたかく積まれた本、厳密に言えば簡素にまとめられた紙の束の集積を呆れ顔で見回していた。どれも僕が記憶するサーヴァントたちの脳内データを翻訳したものだ。読者のいない物語たち。それらを読んで欲しい人々はもうこの世にはいない。
「思考に濃淡があるほうが面白いでしょ。それに彼女が姿と名前を与えてくれなかったら、君だって今ほど自己を定着させられなかったんだからさ」
僕が笑ってみせると彼女はさっきよりも長々とため息をついた。人類文化学をかじった身として、ため息をつくと幸せが逃げるという言い伝えについて講義でもしてやろうかと思った。
「……分かりました。確かに桜木久遠の存在は私たちの特異点でした。あなたの自傷的過去回想には私の知らない有効性があると認めましょう。ですが心調は持ち崩さぬよう、くれぐれも気を付けてください」
「それは君もだよエイル。お互い上手く休まなきゃね。なにせ僕たちの人生は、うんざりするほど長いんだから」
忙しなく出ていく彼女にそんな言葉を投げかけて、僕は誰にともなく呟く。
「長くとも色あせた人生より、短くとも華やかな人生のほうがいい。でも長くて華やかな人生だともっといいよなあ」
すると机の上の紙が一枚ひらりと床に滑り落ちた。まるで儚く散る桜の花びらのように、それは一瞬の舞だった。
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