君こそがタイトルロール

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梗 概

君こそがタイトルロール

舞台は2030年代の日本。技術の向上によりロボットを用いた演劇が流行し始めている。東京で活動する劇団ユニット「劇団太陽」はその中核メンバーにエンジニアを据え、ロボット演劇の先駆者として勇名を馳せていた。

荒川睦希(あらかわむつき)は「劇団太陽」に所属する子役。親が借金を理由に蒸発したため、親と面識のあった「劇団太陽」のベテランエンジニア萬谷(よろずや)に引き取られた。萬谷からは学校へ通うよう言われているが子役として学びたいと断っている。

1月の中頃、3月の公演の詳細が萬谷から団員へ伝えられる。その内容は人狼と人間の悲恋であり、睦希は主人公である人狼の幼少期役。その脚本を書いた脚本家の忍田と、その娘でありヒロインの幼少期役として参加する子役の忍田雅(しのだみやび)が顔合わせの日にやってくる。雅の美しさに睦希は緊張してしまう。しかし雅は睦希に対して一切感情を動かさず、ただ忍田の指示に従うだけだった。その落ち着きに睦希は悔しくなり、雅を超えようと躍起になる。

2月の中頃、劇に用いるロボットが完成する。それは人狼を模したロボットスーツで、狼形態に変形すると睦希を乗せて走ることもできる。それに乗ってはしゃぐ睦希はその様子を遠巻きに見ている雅に気づき話しかけにいく。雅は忍田の様子を窺いながらも嬉しそうにロボットに触れる。それを見た睦希は、雅の落ち着きの理由は冷静さではなく忍田への恐怖だと気付く。

2月末、睦希は先輩たちに忍田の足止めを頼み、雅を街に連れ出す。寒空の下、いつもより緊張を解いた雅は睦希に本当の自分を語る。雅は芸名で本名は雅己(まさき)。性別は男。事故で意識不明になった女優が母であり、雅己は彼女の美貌を求めた忍田が生み出したデザイナーベビー。忍田の言う通りに少女として子役をしているが、本当は学校に通って医者になり母を救いたいと言う雅己を睦希は慰めることもできず、ただ彼と共に劇団へ帰る。

公演が始まった3月の頭、睦希が稽古通りにはけることができず、出番のないラストシーンに取り残されてしまう。先輩も動揺する中、雅己が助けに来る。彼のアドリブに先輩たちが乗り、上手く終えることができた。雅己の機転に助けられた睦希は、彼は忍田に縛られているべきじゃないと再度痛感する。

3月の中旬、団員たちは最後の公演を終え打ち上げに向かおうとするも、忍田親子は誘いを固辞して去る。まごつく睦希に萬谷と先輩役者が声をかけ、ロボットに睦希を乗せて送り出す。睦希は忍田親子が乗る車をロボットで追いかけ、並走しながら雅己に声をかける。やがてロボットは失速し車との距離は離れていくが、睦希と雅己は一生懸命叫び、互いの夢を叶えた先での再会を誓う。

4月、雅己と再会したときに学校の思い出話ができるようにしたいと、睦希は学校へ通い始める。広がっていく世界のどこかで雅己も頑張っていると信じて、学業も子役もこなした。

文字数:1196

内容に関するアピール

「シーンを切り替える」という課題を見て最初に思いついたのが演劇というアイデアでした。そこで役としての関係と現実での関係がリンクしながら切り替わるような、子役同士の青春物語にすることに決めました。私は演劇部に所属していたので、その経験を以て情感豊かに描くことができると思います。

劇中作は「人狼が正体を隠したままヒロインを庇って死ぬ」というよくある脚本なのですが、正体を隠したまま死ぬ人狼と自分らしく生きる約束をする子役二人が呼応するように設定しました。

子役二人の絆がテーマなのでロボットの影が薄いのですが、そこはロボット演劇に情熱を燃やす劇団員の振る舞いで補強するつもりです。

ちなみにロボットが道路を走ることの是非については、馬と同じように自転車と同じ軽車両扱いということにしようと思っています。

また登場人物が男性に偏っているので、萬谷をいぶし銀の女性としてバランスを取ります。

文字数:388

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 うちの食洗機は食器を一つ一つ丁寧に洗う。一秒にも満たない時間で手に持った食器のバランス、汚れ、ついた泡の量を計測し、スポンジを再び押し付けるのか、はたまた水で洗い流すのかを決めているのだそうだ。

 単純な反復でも積み重ねれば何かを成し遂げられる。萬谷はこの食洗機の仕組みを睦希に説明しながらそう言った。皿洗い位で何を大げさな、と思った睦希に対し、彼女は「だから学校へ行け」と続けた。

「勉強も友達作りもこつこつ積み重ねるもんだ。そして積み重ねた分だけ、道は開けていく」

 萬谷が食器を渡すと食洗機は不器用に動き始める。稽古を重ねた役者の方がもっと機械的な動きをするだろうな。それでもこのポンコツロボットは、睦希がやってくるよりも前からずっとここで働いているのだ。

「やだね! 俺には劇団があるもん」

 睦希は食洗機の手が空くのを待ちながら、顔全体で嫌な気持ちを精いっぱい表現した。それでも萬谷は睦希から顔を背けはしなかった。彼女の視線はいつだって真っすぐで、にらみ合いに根負けするのはいつも睦希の方だった。

 萬谷に反抗したいわけじゃない。むしろ睦希は萬谷のことを信頼しているし、人として尊敬すらしている。それでも彼女の言うことを聞かないのは、睦希にとって劇団だけが唯一、借金を抱えて行方を眩ませた親に遺されたものだったからだ。

 十二歳の睦月は学校に通わず、劇団太陽の子役として働いている。ロボットが優れた労働者となった今、学ぶ理由を見つけられる人は少ない。睦希もまた、学校に通う理由を持たない一人だった。

「決まった役を演じるのならロボットでもできる」

 萬谷は出し抜けにそう言った。ベテランの裏方である彼女の舞台に何度も上がったことのある睦希には、その言葉の重みが痛いほど伝わってくる。

「あれは確かにお前の居場所だ。だが人は時に居場所を離れなくてはならない。その場その場に応じて役を変えるのが、人間というもんだよ」

 睦希は萬谷の顔から視線を逸らし、食洗機の効率的とは程遠い丁寧な仕事ぶりを見つめた。どうして自分ばかりこんな決断を迫られるのかと文句を言いたい気持ちだった。でも本当に言いたいのは、寂しいという一言だった。家族に愛されて育った子供たちの顔なんか見たくなかった。

「お、睦希!」

 睦希が稽古場に行くと練習着姿の一条が朗らかに手を振った。彼は劇団太陽の役者で、よく通る声が売りの明るい青年だ。彼もまた睦希と同じように、幼少の頃から舞台だけが居場所だったと聞いている。

「今回もまた共演だな。頑張ってこうぜ!」

 その言葉に睦希はなるべく明るい笑顔で返す。

「もちろん! 萬谷さんはやっぱり反対してたけど……」

 睦希は子役として劇団太陽に所属している。それが劇団に面倒を見てもらう条件だった。今まで萬谷の制作する道具類しか売りの無かったこの劇団にとって、睦希は新しい主力となったのだ。

 どんな名優も子役と動物にはかなわない。古くから伝わるその言葉こそが子役という存在の力を物語っている。幼いというだけで無邪気で神聖なものに思われる。逆に言えば、睦希の存在意義は子役であることだけに集約される。

 学校ではきっとそんなことはないんだろうけど……。日頃萬谷から言われていることを思い出し、睦希は顔が暗くなるのを抑えられなかった。萬谷は睦希を働かせることに賛成しなかったが、せめて家事はしなくて済むよう、妙な機械たちが働くあの家へ睦希を引き取ったのだった。

「萬谷さんは睦希のこと心配してるだけだって。睦希は十分すげぇよ。こんなちっちぇえのに仕事頑張ってんだもんな」

 睦希が一条の横へ座ると、すかさず一条が励ますように睦希の背をぽんぽんと叩いてくる。まるで心を読まれているかのようだ。睦希は萬谷が「一条はいつも酔っぱらいみたいな態度なのが問題だな」と溢していたのを思い出し、酔っぱらうと人の心を読めるのだろうかとぼんやり思った。

「はいそこ! 睦希くんに構いすぎない!」

 鋭く指摘しながらやって来たのは綾部だ。一条と同じく役者としてこの劇団に所属する彼女は、性格は一条と正反対で折り合いがあまり良くないらしい。練習中でも練習外でも、この二人が楽しそうに雑談しているところを睦希は見たことがなかった。

「いいじゃんちょっとくらい喋っても」

「基礎練終わってないでしょ! 今日は台本配られる日なんだから早くしてよね。睦希くんも!」

 不貞腐れる一条を怒るついでに視線を向けられ、睦希はぎょっとして身をすくめる。睦希にとって綾部はどちらかといえば苦手な部類だった。小規模だからこそ仲が良く雑になりがちな団員たちを彼女がまとめてくれているのは理解していたが、それでも厳しい注意が飛んでくると少し驚いてしまうのだ。

「仕方ねーや。睦希、一緒にやろうぜ」

 睦希は一条や他の団員に混じって発声練習をする。やがて萬谷が稽古場へ入ってくると、場の空気がすっと引き締まった。

「台本配るぞ」

 萬谷の手には白い束があった。それを一条に押し付けた彼女は、しぶしぶ彼が配っていくのを見張りながら続ける。

「あの忍田蓮直々の依頼だ。ロボット演劇で名が売れる私たちにぜひやってほしいとのことらしい」

「忍田蓮……」

 睦希の隣で綾部が呟いた。台本に視線を落とした彼女の顔は、いつにも増して緊張を帯びている。

「そう。何度も脚本賞を受賞している傑物だ。悲恋が有名だが、今回のものは怪物と人間のラブロマンスで、だから私たちに依頼したらしい」

 頷きを返した萬谷はそう言いながら目を細める。

「ただ先方は妙な条件を付けてきた。どうやら気に入っている子役を一人この劇にねじ込むつもりらしい」

 今回出演する子役は俺だけじゃない。睦希は自信が急に萎んでいくのを感じた。

 他の子役と共演するのは初めてだった。睦希がちやほやされるのは数少ない子役だからであって、役者としての実力があるわけではないと自分でも分かっていた。もしその子役と比較され、睦希では勝てないと思われてしまったらどうしよう。睦希は唇を噛んだ。

「外部の子役かあ。馴染んでくれるといいんだけど」

 一条は睦希の方をちらりと見やってそう言った。その視線も睦希の実力不足を咎めているように思えて、睦希は台本を読むふりをして顔を隠した。

 その脚本家と子役がやってきたのは、睦希が台詞を覚え始めた頃だった。

「忍田雅です。よろしくお願いします」

 忍田が連れてきたのは彼の娘だった。頭を下げる彼女の仕草に動揺は無い。腰まである綺麗な髪と細い手足が儚げなオーラを放っている。稽古用とは思えないほど可愛らしいワンピースがよく似合っていた。

 忍田雅。その名前を睦希は口の中で何度も転がした。きっと彼女は自分よりすごい子役だ。だって彼女は全く睦希を見なかった。それどころか、この場の誰一人その目は映していない。彼女はずっと虚ろな表情をしていた。それがむしろ堂々として見えた。忍田がそう仕立てたのか、彼女はまさに役を入れる箱として完璧な少女だった。

「よろしく雅ちゃん。こっちが睦希くんね」

 綾部が雅に微笑みかける。紹介された睦希は慌ててお辞儀を返すも、雅の表情は変わらない。

「私は綾部。雅ちゃんとは同じヒロインを演じることになるから、演技上の違和感があったら遠慮なく言ってね」

「俺は一条。綾部がうるさかったら俺に相談しろよー」

「誰がうるさいですって?」

 綾部の自己紹介に一条がしゃしゃり出て賑やかになる。その二人に挟まれても雅は顔色一つ変えず、ただワンピースの裾を所在なさげに掴んでいた。

 劇団太陽の春公演のタイトルは「人狼と太陽」。人狼であることを隠しながら生きる主人公が、人間であるヒロインへの恋情に葛藤し、最後にはヒロインを庇って死んでしまうという悲恋物語だ。彼ら二人の出会いは幼少の頃にさかのぼり、森の中を彷徨うヒロインを少年姿の主人公が助けるところから始まる。その幼少期を演じるのが睦希と雅だった。

「じゃ、早速読み合わせしましょうか」

 綾部がそう言うと、低い声が割り込んでくる。

「いや。もう立ち稽古に入ってください」

 声を上げたのは脚本家の忍田蓮だった。綾部が困ったように顔を向けると、彼は続けて口を開く。

「雅はもう台本を暗記しているので心配いりません。今回は特殊な劇だから付けられる動きは早めに付けておきたいんです。……まさか皆さん、まだ台本を見ながらじゃないと台詞を言えない、なんてことはないでしょう」

 蓮は冷たい笑顔を浮かべて場を見回した。かろうじて自分の台詞は覚えたものの、その前後を覚えていない睦希はまだ台本を手放せない。その動揺に気づいたのか、一条が睦希を庇うように歩み出て言った。

「じゃあ立ち稽古しますわ。はい、皆準備準備。台本とペンを忘れずになー」

 その言葉のお陰で台本を持つ理由が台詞を見るためからメモを取るために変わった。自分が今一条に助けられたのは明らかだった。なんだか情けないな。もう一人の子役はもう台本を暗記しているというのに。ちらりと睦希が雅を見ると、彼女は相変わらず凪いだような目をしていた。

 プロローグ。幼少期の主人公とヒロインが出会うシーン。がらんどうの舞台の上に雅が立ち尽くしている。睦希は地明かりの中に足を踏み入れ、彼女にそっと近づく。

「どうしたの。この森は狼が出て危ないよ」

 最初の台詞は台本を見なくても言えた。睦希がそっと安堵していると、振り向いた雅の視線が急に睦希を貫く。

「町はどこ? 私は家に帰らなくちゃいけないの」

 その台詞だけでヒロインの物怖じしない性格が伝わってきた。危ない森に一人で現れた少年を警戒する素振りも見せず、自分は危険な目に遭っても大丈夫だという自信を感じさせる彼女の瞳に、睦希は気圧されそうになる。

「一緒に行こう。一人だと怖いでしょ」

 睦希の返事は少し震えを帯びていた。自分でも雅の存在感に食われていると分かっていた。だけどそれ以上に恐ろしく思ったのは、彼女の揺るがない瞳が、照明の下で突然強烈な光を宿したことだった。普段の彼女はこの輝きを抑圧している。それに気づいた瞬間、睦希は彼女を取り巻く外圧を想像して震えた。

 きっと彼女からほとばしるこの存在感は、役作りではなく、普段我慢している分の八つ当たりだ。そんな悲しみと静かな怒りが、彼女の瞳の奥にあった。

 稽古を終えて家に戻ると、先に帰っていた萬谷が何やら作業をしていた。

「ただいま」

「ああ、おかえり」

 その返事に彼女の集中を悟り、睦希は黙って床に鞄を置く。リビングのテーブルは今や彼女の作業場となっており、睦希が使えるスペースはほとんど無さそうだ。彼女が今やっているのは恐らく配線作業だろう。卓上に散乱しているパーツはどこか見覚えがある。睦希はじっと眺めてようやくそれらの正体に気づいた。あれはたぶん、萬谷が最近買ったバイクの外装だ。

 忍田は彼女の腕を見込んで劇団太陽を頼ったんだろう。睦希は心の中で静かに納得した。あのストーリーに相応しい装置を作れるのは、恐らく彼女だけだ。

「ああ、そうだ。弁当がキッチンに置いてある。朝食は冷蔵庫の中のものを適当にしろ」

 萬谷の言葉に睦希は思考を中断した。そして忙しなく動く彼女の背中に返事をする。

「はーい」

 この様子じゃ明日の朝も萬谷はここで作業しているだろうな。そろそろ健康のことを考えた方がいいんじゃないだろうか。だけど自分の提言を聞いてくれるだろうか。そんなことを考えながら睦希は弁当を装飾された電子レンジに押し込んだ。

 そして一週間ほど経った頃。いつものように睦希たちが稽古をしていると、萬谷がいつもより浮かれた表情で稽古場にやってくる。その表情を見るだけで彼女がやってきた理由を察し、団員たちもそわそわとしだした。

「ついに完成した。この劇の魂ともいえる役者がな」

 そうして彼女が連れてきたのは、野犬のような機械だった。暗色に塗られた流線形のパーツはひんやりと輝き、萬谷の胴にまで届くその身体はどっしりとしている。獣を模した足の間にはバイクの名残のタイヤがあり、それを滑らせて萬谷は冷たい主役を動かした。おどろおどろしくもかっこいい肉食獣の顔の中、じっとこちらを見つめる瞳代わりのレンズは、今まで見たどんなロボットよりも頼もしく思えた。

 これが劇団太陽の誇る技巧。人数規模は小さく公演数もさほど多くない劇団太陽が、それでも業界人から一目置かれている理由。それこそが萬谷という舞台職人が生み出した、演劇のためのロボットだった。

 睦希は唾を飲み込んだ。だからこそ睦希は子役に求められる場の支配というものを怠ってきた。ここで睦希に求められるのは、怪物的に美しいロボットを引き立てる純粋さなのだ。

 どんな名優も子役と動物にはかなわない。しかし舞台に呑まれる役者という点において彼らは等しい存在だ。だけどロボットは決して舞台に馴染もうとせず、その動作に宿すものは何もない。だからこそ彼らの動きの解釈は観客に託される。機械の優れている点は見る人の心を純粋に反射するところなのだと、萬谷はよく言っていた。

「うお。台本見たときどうすんのって思ったけど、実際出来上がったのを見るとすげぇな」

 一条が溢すと綾部が長々と息を吐く。

「全く……呑気な事言ってる場合じゃないでしょ。これがあんたの別の姿ってわけなんだから。私も気を付けるけど、あんたこそ役を食われないように注意してよね」

 彼女の言う通りだった。一条とそのロボットは同じ人物の異なる二つの姿を担当するということになる。ロボットばかり観客の印象に残るようでは駄目なのだ。

「もちろん! 機械との二人三脚、しっかり成し遂げてみせるっての!」

 一条は人好きのする笑みを浮かべたが、その瞳はぎらついていた。彼は細かいことに拘らないように見えて、演技を磨くことにかけては人一倍貪欲だ。ロボットへの対抗心が彼の演技にますます磨きをかけるだろう。

 そうなっては自分も置いていかれるわけにはいかない。睦希は改めて気を引き締めた。

 今回自分に求められるのはロボットを引き立てることではなく、ロボットと同一の存在になること。機械的な獣と恋情に苦しむ人を繋ぐ淡い思い出を演出すること。ロボットと人間が同じ役を演じることは、睦希にとってだけでなく、劇団にとっても初めての試みだった。その挑戦を分かち合う仲間としての一体感が、睦希の心を研ぎ澄ましていく。

 やっぱりここが好きだ。劇団太陽の一員でいられて良かった。睦希はそう思いながら、もう二度と離すまいとするかのように台本を握りしめた。

 その日の稽古はロボットの動き方の指示だけで終わってしまった。ロボットの動きはプログラムされたもので、稽古を通して少しずつコードを修正するのが常だ。長尺の舞台ではずっと動作を合わせるのは不可能に近く、誰かがタイミングを見計らって操作しなくてはならない。その役目はやはり同じ役の人間がいいだろうということで、一条に任された。

「伏せ、起立、一歩前へ……」

 稽古が終わっても一条はロボット操作の練習をしている。本番では暗い舞台袖からの操作になるから、ボタンの位置を完璧に覚える必要があるのだろうと睦希は考えた。

 ロボットの動作はゆっくりだ。自重があるせいで素早く動けないらしい。しかしそれがむしろロボットを手負いの獣のように思わせた。

「この劇のためだけってのがもったいなく感じるくらいかっこいいなあ。雅ちゃんもそう思わない?」

 綾部が隣に座る雅に声をかける。二人は人狼と共演するヒロイン役として、睦希と共に一条とロボットを見守っているのだった。

「最近ああいう乗り物ロボットに凝る人も増えてるらしいし、売ったら結構お金になりそうだと思うんだけどなあ。ね、雅ちゃんはそういうの興味ある?」

 綾部が雅との距離を縮めようとしているのは睦希にも伝わってきた。本心を打ち明けられる関係にならないと良い劇を作れない。それが綾部の信念で、だからこそ彼女は誰に対しても真正面から注意をするのだと睦希は知っていた。それでも雅は相変わらずどこを見ているのか分からない目をして、ただ困ったように首を傾げるばかりだった。

 もしかして彼女は何も言わなくても意図を汲み取ってもらえていたのだろうか。睦希はそっと振り返り、壁際で萬谷と話し合う忍田を見やった。彼は確かに雅を可愛がっているように見える。雅の服装は高級そうだし、忍田はいつも雅の送迎をしている。脚本家として劇に関わっているとしても、こんなにずっと娘と一緒に居るのは過保護なように思えた。

 でも、いいな。親に大切にされて。睦希は雅に視線を戻した。彼女の血色のいい肌もつやつやとした髪も、親に守られて生きてきた証のように思えて羨ましかった。

 雅との初対面から一ヶ月が経った。一条はすっかりロボットの扱いを会得し、綾部もロボットとの演技に慣れつつあるようだった。それでも雅はまだ劇団員の誰にも心を開いていないように見えた。

 公演の日にちが近づき、稽古場で過ごす時間は長くなる。特に睦希と雅は稽古以外の予定が無く、二人だけの場面の稽古をすることが多くなっていった。

「ねえ。なんでこんなところに一人で来たの」

「薬草を取りに。お父さんが怪我で動けないから」

「怪我?」

「狼に襲われたの」

 幼い主人公はそこでヒロインの顔をじっと見つめる。主人公の両親は狼と人間で、どちらも人間に怪物扱いされて殺されたという設定だ。獣として人間を襲う狼の血と、同じ人ですら怪物だと糾弾して殺した人の血のどちらを恨むべきか、まだ主人公は決めかねている。

「狼に……」

「うん。でも大丈夫! お父さん、すごい狩人だから。狼だって何匹も殺してるし」

 雅は元気に駆け出し、その美しい髪を見せつけるようにくるりと振り返った後、ヒロインとしての笑顔を浮かべる。自分の言葉が相手に与えた傷を知らない無邪気な笑みだ。

「ねえねえ。あなたの家はどこなの?」

「ええと……町とは反対の方だよ。森を抜けた先にあるんだ」

「ふーん。あ、それなら……」

 雅が睦希に駆け寄ると、スポットライトが彼女を追いかけて近づいてくる。照明も機械で自動化されているが、雅はもう既にその動きを完璧に把握しているらしい。

 雅は束ねていた髪を解くと、睦希の手を取って何かを巻き付ける動作をした。

「はい! 再会の約束!」

 睦希の腕に付けられたのはシンプルなヘアゴムだった。本番ではこれが白いリボンになる。その再会の約束が、狼姿の主人公にヒロインが気づくきっかけになるのだ。

「……ありがとう」

 睦希は笑顔を浮かべたが、心から笑う気分にはなれなかった。ふと、自分の親は自分に気づいてくれるだろうかと思ってしまった。稽古の途中に考え事なんてよくないと思ったが、同い年の雅がいるせいか、感傷的な気持ちになるのを抑えられなかった。

 観客席の照明が一斉につき、スポットライトがふっと消える。これで主人公とヒロインの出会いのシーンは終わりだ。本番なら暗転して次のシーンが始まるが、役者が揃っていない今は、睦希と雅のシーンしか練習できない。

「ええと、次練習するのは、狼のリボンを見たヒロインが思い出す回想のシーンだよね」

 睦希はきっといつもみたいに無視されるだろうなと思いながら雅に話しかけた。しかし彼女はじっと睦希を見つめ、そっと口を開く。

「今の表情、良かったと思う」

「……え?」

 まさか言葉を返されると思っていなかった睦希は思わず尋ね返した。しかし彼女は観客席の方を見た後、いつもの虚空を見つめる瞳になって黙ってしまう。睦希が不審に思って彼女が見た辺りを見ると、そこには忍田の姿があった。

 もしかして、彼女を縛る外圧の正体は……。睦希がそう思ったときには、既に雅は次のシーンの練習へ移るため、舞台袖にはけていた。

 やがて他の役者が次々に入ってくると、稽古場は途端に賑やかになる。早速舞台ではヒロイン役の綾部とロボットのシーンが始まった。暗い観客席でくつろいでいた睦希は、ふと思いついて横に座る雅に言う。

「ねえ、一緒にコンビニ行こうよ。俺お腹空いちゃった」

 雅は声をかけられると思ってもみなかったらしく、びくっと身体を揺らして睦希に視線を向ける。

「えっと、でも父さんが……」

 言いながら雅が見やった先には、萬谷と並んで稽古を眺める忍田の姿があった。

「すぐそこだから大丈夫だよ。ちょっと抜け出すぐらいならバレないって」

 睦希は困った顔をする雅の手を掴む。こうでもしないと彼女を閉じた心の中から連れ出すことはできないと思った。

「私、ずっと覚えてた。あなたのこと」

 舞台の上で綾部が切なく溢す。本番ではこの台詞をきっかけに回想シーンが始まるのだ。その暗転を利用し、睦希は雅を連れて外に出た。

 外に出ると空はすっかり赤くなっていた。睦希は雅の手を引いたまま駐車場を駆けていく。歩道に出て一息つくと、雅が静かに言った。

「……劇団太陽ってまるで睦希のためにできたみたい」

「え、何で?」

「だって睦希は太陽みたいだから……。放っておいても熱くなって、その熱で周りを引っ張っていくでしょ?」

 放っておいても熱くなるってあんまり褒めてない気がする。睦希はそう思ったが、それ以上に雅の固い表情が気になった。

「じゃあ雅は何?」

 睦希がそう尋ね返すと、彼女はますます暗い顔になって呟いた。

「ええっと……陽炎かな」

「カゲロウ?」

「熱い地面とか炎と彼の上の空気が揺らいで見える現象……熱のせいで気流が乱れて光が屈折するから生じるんだ」

 すぐ傍を車がびゅんと通っていく。雅の声は風にかき消されそうだった。

「本当の形が見えなくなるところとか、眩い光すらも折れ曲がってしまうところとかが、私みたいだなって……」

 その声の震えに気づいた睦希は、どうすればいいか分からず固まっていた。やがて彼女はひゅっと息を吸い、か細い声を溢す。

「……この話、もう止めよう」

 睦希は返事もできず、ただ彼女を見つめていた。すると彼女は止まったままの睦希をそっと見上げる。そこにあったのは舞台の上で見たような光だった。だけど今のそれは、あのときの鋭く真っすぐな光とは違う。

「どうして止めるの」

 どうして自分はこんな我儘を言うんだろうと睦希は思った。

「止めないでよ。今ここで教えてよ。本当の雅を」

 また傍を車が通って雅の髪が風に巻き上げられた。彼女のヘアゴムは、まだ睦希の腕にある。

「なんで知りたいの。知ったって……どうしようもないくせに」

 雅は低く呟いた。睦希はそのとき初めて、雅の喉がうっすら隆起していることに気づいた。今までは髪がその身体の違和感を覆い隠していたのだ。睦希の視線に気が付いたのか、雅はばっと顔を背ける。

「だって、仲間だから……」

 睦希はそう言うのが精いっぱいだった。思いもよらない秘密に触れてしまったのだと直感した。握った手から伝わる骨の感触が頼りなく思えて怖くなった。このまま握り続けていたら、砕けてしまいそうな手だった。

「仲間ってこの公演の間だけでしょ。今後ずっと、仲間でなんていられないでしょ」

 雅の掠れ声が痛ましく聞こえて、睦希の方がなんだか泣きそうになる。

「ずっと仲間だよ。俺たち」

 それは雅のためではなく、自分のための言葉だった。それを聞いてようやく、睦希は真正面から雅を見据えることができた。誰に何を言われても、心を開いてもらえなくても、自分にとって雅は仲間だ。

「嘘」

「嘘じゃないよ。だって俺は、雅のことをずっと覚えてるから」

 どうしてその言葉を信じてもらえると思ったのか、自分にも分からなかった。それでも雅は見開いた瞳を睦希に向ける。

「雅との会話、雅の秘密……全部忘れないよ。だから、仲間」

 その目の光が揺らいでいくのに気づきながら睦希は続けた。涙が零れ落ちそうになった瞬間、雅はそっと俯いて片手で目の辺りを拭う。

「それなら、雅じゃなくて……雅己って呼んで」

 次に彼が見せた顔には、もう微笑みが浮かんでいた。ヒロインの無邪気な笑顔とは程遠い、束の間の安らぎのような笑みだった。一緒なんだ、と睦希は思った。心の底から笑えないのは、自分も彼も同じだ。

「それが僕の本当の名前だから」

 忍田雅己。その名前を口の中で何度も転がした睦希は、こっちの方が好きだなと思った。

 少し歩いたところにあるコンビニへ入ると、雅己は今までの彼からは想像できないぐらい目をきらきらとさせた。

「もしかして、コンビニ初めて?」

「うん。実は外のお店に入ったことなくて……」

 睦希の問いに、雅己は恥ずかしそうにもじもじと答えた。睦希はびっくりしたものの、確かにあの忍田が雅己をコンビニに連れてくるところって想像できないなと思った。

「折角だし肉まんとか買おうよ。外で食べて帰ろう」

「ええ! 外で食べてもいいの……?」

「邪魔にならなかったら大丈夫。それに冬の肉まんは寒い外で食べてこそだよ」

 そして睦希は二人分の肉まん代をお小遣いからなんとか出し、雅己に一個渡して外に出る。湯気もうねうねしてるけど、カゲロウとは違うのかな。睦希がそんなことを悩んで肉まんを見つめていると、早速一口食べたらしい雅己が「あつっ!」と叫んだ。

「あ、ごめん言い忘れた。中すっごい熱いから気を付けて」

「うん……確かに、火傷しちゃいそう」

 口の中の火傷は滑舌に影響しかねない。もし忍田に知られたら大変なことになりそうだ。雅己も同じことを思ったのか、少し物憂げな顔になる。

「さっき、睦希は僕のことを知りたいって言ってくれたけど……やっぱり、知らない方がいいと思う」

 ようやく一口食べた睦希は、慌てて飲み込んで言った。

「何で。性別のことならもう気づいてるよ」

「それもだけど……その、父さんのこととか……」

 その言葉に忍田がいる場での雅己の様子を思い出した睦希は、言いづらそうにする彼を制するように口を開いた。

「俺、親のこと覚えてないんだ」

 雅己の視線を感じる。それでも睦希は、肉まんから立ち上る湯気をじっと眺めていた。

「借金があったんだって。それで劇団に俺を押し付けて逃げたらしい。今俺の面倒を見てくれてるのは萬谷さんなんだ」

 睦希は少し早口になって、言い終わるとすぐに肉まんにかぶりついた。少し冷めた中の具がちょうど良かった。美味しい肉を飲み込むと、少しだけ気分が晴れた。

「……僕は、意識の無い母親から生まれた」

 睦希は雅己が秘密を語り始めたことにすぐ気づけなかった。それぐらい彼の声は淡々としていて、ニュースを読み上げているかのようだった。

「僕の母親は女優だった。だけど交通事故に遭って、それからずっと目覚めてない。それでも彼女は僕を生んだ。父さんは……忍田蓮は僕の父親のふりをするけど、それが本当かどうかは分からない。でも母の面影を僕に被せてる。だから僕に娘として役者をやらせてるんだ」

 雅己の言葉は少しずつ歯切れを悪くしていく。やがて彼が絞り出したのは、役者としてはありえない、観客席に届かないほど小さな声だった。

「本当は役者なんてやりたくない。母を治せるような医者になりたい。学校で勉強したい。……でも、母の治療費も僕の生活費も、出してるのは父さんだから」

 肉まんはもう湯気を立てなくなっている。雅己の声を聞きながら、睦希は肉まんの残りを一気に口に押し込んだ。

「仲間だって言ってくれたのに後ろ向きなことばかり言ってごめん。でも、これが本当の僕なんだ」

 雅己の手にはまだ肉まんが半分以上残っている。

「謝らなくていいよ。雅己は嫌でも手を抜かないでしょ。それより、肉まんが冷めちゃう」

 睦希は雅己に向かって笑いかけた。雅己はじっと睦希の笑顔を見た後、手中の肉まんに視線を落として「ありがとう」と呟いた。

 慌てて睦希たちが稽古場へ戻ると何やら剣呑な雰囲気だった。中央で場を見回している忍田の表情に、たった数十分の雅己の不在が彼をどれほど不愉快にしたかを読み取った睦希は、外より温かいはずの空調の中で背筋を凍えさせた。

「ごめんなさい。お腹が空いたので少し買い物に……」

 雅己がさっと忍田に駆け寄って言う。

「私の目の届かない場所に行くなと何度も言ったよね。また約束を破ったら、今度は身体にGPSを埋めるからね」

 忍田は微笑んでいるが、その言葉は雅己への束縛に満ちていた。睦希は雅己を庇おうと口を開いたが、こちらに視線を向けた雅己が小さく首を振ったのを見て、何も言えなくなる。

「気持ち悪いな、あいつ……」

 一条がそうぼやくのが聞こえた。いつもならその失礼な物言いを注意する綾部も、このときばかりは眉をひそめて何も言わなかった。

 時は過ぎ、いよいよ公演が始まる。忍田とのごたごたがあったにも関わらず、劇はスムーズに進行した。物語は佳境へと迫り、リボンを前足に巻き付けたロボットが勢いよく飛び出す。暴漢に襲われるヒロインを、主人公が怪物の姿を晒してまで助けに来る感動的な場面。しかしそこにやってきたヒロインの父は猟銃で主人公を撃ってしまう。血で汚れていくリボンにヒロインの涙が零れ落ちる。

「私、ずっと覚えてた。あなたのこと」

 綾部の声をきっかけに舞台は暗転し、やがてぱっとスポットライトが点く。その中にいるのは雅己だ。睦希は意を決して袖から歩いていく。自分を追う照明の熱で肌がちりちりとした。

 舞台の中央では綾部とロボットが寄り添い合って動かない。その背後で二人の子供が笑い合う。台詞は無く、行動だけで魅せなければならない回想シーン。振り返った雅己の笑顔に、ヒロインと重なり合う彼の確かな悲哀を感じた。

 親に手放された自分と親に縛られた雅己。二人を結ぶリボンが、本当にあったらいいのに。

 暗転。目印の蛍光テープが見当たらない。一瞬の考え事で睦希は自分が立っている場所がどこか分からなくなってしまう。

 そしてスポットライトに照らされた睦希は、表情を整える余裕すらなかった。

 主人公がヒロインに看取られるクライマックス。その大事な場面で取り返しのつかないミスをしてしまった。照明は観客を現在に連れていく。幼少期の存在である睦希が、同じ時空にいるわけにはいかない。稽古通りにリボンが付いた狼の前足を手に取る綾部が、困ったように睦希に視線を送っている。

 どうすればいい。思考を巡らせるほど八方塞がりの状況に追い詰められていく。考えれば考えるほど失敗したという事実が睦希に重くのしかかってくる。もう劇を台無しにしてでも無言で引っ込もうかと睦希が思い始めたときだった。

「一緒に行こう。一人だと怖いもの。そうでしょう?」

 舞台袖からゆっくりと歩みより、その手を差し出してきたのは雅己だった。スポットライトに入り込んだ彼は、何よりも輝いてみえた。

 睦希は考えるよりも先にその手を掴んだ。少し骨ばった綺麗な手だった。その手に導かれるように睦希が立ち上がると、雅己は微笑んで腕を引く。一瞬、綾部と雅己が目配せを交わしたのが見えた。

 雅己と睦希が舞台袖へ入ると、綾部の苦しそうな声が聞こえてくる。

「……もう、一人じゃないよ」

それでようやく睦希は、雅己の「一緒に行こう」の意味に気づいた。

「やるなあ雅」

 袖に控えていた一条が小声で話しかける。

「冒頭の台詞を踏まえて心中エンドにするなんて、一生忘れらんねえアドリブだわ」

 エンディングの曲が流れ始める。雅己はちらりと睦希を見やり、そして睦希と繋いだままの手の辺りに視線を投げかけた後、一条を見上げた。

「睦希くんだからできたんです。他の人相手だったらきっと、アドリブをやってまで助けようなんて思いませんでした」

 一条は「おお」と感嘆してみせて、今度は睦希に向かって言う。

「良かったな、睦希」

 一条の表情は暗くてよく見えない。それでもその声色から何か面白がっている様子なのは伝わってくる。睦希は照れ臭いやら何やらでムッとしたが、ここで大声を出すわけにはいかないと口を引き結んだ。

 結局、睦希は雅己に子役として全く勝てなかった。それでも、思っていたより傷つかなかった。むしろ彼と共演できてよかったとすら思っていた。悔しいのに嬉しいなんて初めての感情だった。

 最後の公演を終えると、小物類が持ち去られた舞台の上に役者たちは集まる。

「皆お疲れ―い!」

 ひと際浮かれた様子なのは一条だ。それを呆れた顔で見守る綾部も普段通りだった。その見慣れた光景をぐるりと見回した睦希は、ふと雅己の姿が無いことに気づく。

「あれ、雅は?」

 睦希がそう口にすると、綾部も不思議そうな顔をして言う。

「ほんとだ。いないね。忍田さんが劇場を出ていくのは見たけど……」

 もしかしてと思った。睦希が雅己を連れて稽古場を抜け出した日の、忍田の顔を思い出した。そして虚ろに首を横に振る雅己の顔も。

「俺、ちょっと様子を見てくる!」

「あ、睦希!」

 一条の声を振り切って睦希は駆け出した。観客席を突っ切り、廊下へ出て走る。今を逃したら、もし彼らが帰ってしまったら、もう雅己にお別れは言えない。

 外に出ると冷たい夜風が急に睦希を取り巻いた。上着も羽織らず出てきた睦希は凍えそうになりながら駐車場へ走る。すると思った通り、自動車の傍に忍田の姿が見えた。その横には彼と話し込んでいる萬谷の姿もある。

「睦希! 上着上着!」

 後ろから一条もやってきた。その声で気づいたらしく、忍田と萬谷の視線が同時にこちらを向く。

「睦希。それに一条まで……」

 萬谷の声を無視して睦希は歩み寄った。夜の寒さも、凍えるような視線も、全く気にならなかった。

「忍田さん。雅はどこ」

「おい睦希……!」

 一条の焦燥交じりの呟きが聞こえる。それでも睦希は足を止めなかった。

「たった一月で友達気取りか」

 忍田の声は冬よりも冷たい。

「雅は母を超える女優になるんだ。君みたいな失敗をする子役と仲良くする暇は無いんだよ」

 その言葉の裏には確かに愛する人への情があった。歪んではいるが一途なその思いを感じ、睦希は思わず足を止めてしまう。睦希と雅己が演じたあの物語に満ちた悲しみは、愛しい存在を失った忍田自身の心そのものなのかもしれない。

「……は? なんだよその言い方」

 噛みついたのは一条だった。睦希は彼に追い抜かされ、ついでに上着を頭から被せられて前が見えなくなる。

「喧嘩なら俺が買ってやるよこの野郎!」

「落ち着け一条。もう酔ってるのかお前は」

 萬谷の落ち着いた声を聞きながら睦希は上着を羽織り、慌てて三人に駆け寄る。一条の顔は見たことないほど険しくなっていて、萬谷もあまり愉快そうではなかった。

「折角の依頼がこんな形になって申し訳ない」

 それでも萬谷は冷静に詫びた。怒り心頭の一条も、萬谷が詫びた手前乱暴なことはできないのか、ただ忍田を睨んでいる。

「いいや。利益は十分出ているし、何よりあのトラブルのおかげで雅の顔が売れた。災い転じて福となすとはよく言ったものだね」

 忍田は余裕そうに微笑んだ。雅己と全然似ていないと睦希は思い、彼の姿を求めて車の後部座席を覗こうとしたが、スモークガラスのせいでよく見えなかった。

「では、雅が疲れているので、私たちはこの辺で」

「待って!」

 睦希はすがるような気持ちで叫んだ。

「お別れだけ言わせて! お願い!」

「駄目だ。雅はもう寝ている」

 嘘だと直感した。それでも疑ったところで忍田は睦希の頼みを聞いてくれないだろうと思った。

 睦希はスモークガラスを見つめた。その奥にいるはずの雅己が顔を出してくれることを期待した。でも、物音一つ聞こえなかった。静かな空気がますます冷たく感じられた。

「……まあ、子供はもう寝る時間だからな。また機会があればよろしく願う」

「こちらこそ。次はもっといい舞台にしましょう」

 萬谷が一歩後ろに下がると、忍田は軽く頭を下げて車に乗り込んだ。静かにタイヤが回り出し、睦希と一条も慌てて車から離れる。もう見送るしかないのか。そんな悲しみが睦希の口から滑り出る。

「どうしよう……俺まだお別れ言えてないのに」

 雅己を乗せた車はもう駐車場を出て車道に乗り込むところだった。今更何を言っても遅い。睦希がそう落ち込んでいると、横の萬谷がふと口を開いた。

「……実は、そこに頼れる相棒を用意してある」

 彼女が言い終わらないうちに、物陰から軽い足音を立てて何かが走り出てくる。驚く睦希の目の前で、その狼は伏せの姿勢になり、腹のタイヤで立ち上がった。

「自転車ぐらいのスピードは出せる。信号に引っかかっていれば追いつけるはずだ」

 睦希は信じられない思いで萬谷を見上げた。彼女がそんな危険なことにロボットを使うおうとするのは初めてだった。

「睦希! 別れの後悔は一生残るぞ!」

 一条も睦希の背を押すように言う。睦希がロボットを見ると、ロボットも睦希をじっと見つめた。その無機質な瞳すら決意に燃えているように思えた。機械の優れている点は見る人の心を純粋に反射するところ。この目の輝きこそが自分の心なんだ。狼が宿した炎を受け入れた睦希には、もう迷いなんて無かった。

「……ありがとう!」

 睦希は礼を言いながらロボットに飛び乗った。肩のパーツを掴み、身体を傾けると、狼は素直に言うことを聞く。萬谷と一条を残して睦希は駐車場を抜け、車道の縁を駆けた。

 ビル群が左右に分かれて睦希を飲み込んでいく。その窓の光が流れ星のようにきらきらと横を駆けていった。やがて赤信号で停まった忍田の車が見えてくると、睦希は冷たい夜の空気を胸いっぱいに吸い込む。

「雅己!」

 テールランプが揺らいだように見えた。その横に追い付きそうだと思った途端、信号は青に変わり、赤い光が消える。

 一瞬だった。一瞬睦希が車を追い抜かしたとき、運転席に座る忍田の嫌そうな顔と目が合った。そして速度を上げたその車に追い抜かされそうになった瞬間、後部座席の窓が開く。

「睦希!」

 見えたのは雅己の泣きそうな笑顔だった。

「また……会おう!」

 たくさんの言いたいことを含んだ一言。それを聞いただけで、睦希は胸が詰まるような気持ちになった。あんなアドリブを披露した雅己でも、こういうときは焦っちゃうんだな。

 やがて雅己を乗せた車は遠のいていく。その背に向かって睦希は声を張り上げた。

「約束だよ! 俺たち、ずっと仲間だから!」

 睦希が前傾姿勢を止めたのを感知し、ロボットは徐々にそのスピードを落とす。それでも睦希は背中をまっすぐ伸ばして、遠く離れていく車をいつまでも見つめていた。

 やがて春が来る。初めて制服というものに身を包んだ睦希は、練習着と違って動きづらいそれを不服に思いながら歩道を走っていた。四月の朝はちょうどいい寒さで頭が冴えるような気がする。どれくらい勉強すれば雅己みたいに頭が良くなるだろうか。自分も気の利いたアドリブができるようになるかな。

 淡い青空を見上げると、どこまでも飛んでいけそうな気がした。たとえ遠くても同じ空の下にいる雅己を思いながら、睦希は校門を春風と共に駆け抜けた。

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