梗 概
Anti Q
テーマ:「何をすべきか」は「何者であるか」から生まれる
概要:AI技術により超人的な知能を持つAを記憶喪失のBが助手として見守るバディもの。しかし根幹の謎はBの失われた記憶にあり敵組織との戦いを通じて真相が明らかになっていく。
〇世界設定
舞台は2055年の日本。犯罪者の動機となった記憶を消し(=シナプス長期増強(LTP)の破壊)無理やり社会復帰させる「輪廻更生計画」が存在する。格差が拡大した結果社会を揺るがすような犯罪が頻発し、2046年に発生したS駅前自動車暴走事件はその犯人が死刑を望んだために死刑廃止及び「輪廻更生計画」のきっかけとなった。2050年にはAIを用いたテロが起き、その首謀者であるAI学者が政府に捕らえられている。紛争が続く世界では自律型致死兵器システム(LAWS)の是非が論じられている。
〇主な組織、キャラクター
【秘密警察「Q」】
接脳型(ハードウェアを脳に埋め込み直接信号をやりとりする)AIを用いて感覚を拡張した改造人間が所属する警察組織。テロ犯の逮捕が主な任務。
・イオリ
記憶喪失の男。何故か「Q」に配属された。臆病な性格。
実はS駅前自動車暴走事件の犯人。家族仲が悪く生きてきた時間全てが動機に繋がっていたため、「輪廻更生計画」によって記憶を全て失い「Q」に配属された。
・イヅル
「Q」の捜査官。接脳型AIの使用者でありデータベースの記録と現場の証拠を突き合わせる能力に長けている。無能に厳しく人付き合いが悪い。
実は「アンティーク」に所属するスパイ。イオリの正体を知っており、その監視をしながら政府の内情を探る。
【反政府組織「アンティーク」】
反政府を掲げるテロ組織。AIやロボティクス等を用いて武装する。真の目的は政府に捕らえられた学者の解放。
・センリ
「アンティーク」のボス。接脳型AIにより思考の処理速度を加速させているが外部のデータベースとは接続していない。実はイオリの弟でありイオリの凶行は自分のせいだと思っている。
【養護施設「骨董」】
テロ被害などの理由で保護者のいない児童を養護する施設。「アンティーク」の支援を受けており教師は武装している。
・カナギ
「骨董」の創設者であり教師。右目を失っているが身体能力は高く、子供に剣道を教えている。
実はイオリの事件により眼球を欠損した。イオリの活躍を複雑な思いで見守る。
〇ストーリー
イオリが夢から目覚める。何も分からぬままイヅルと対面し「Q」へ所属することに。
「Q」としてテロを鎮圧する中「輪廻更生計画」を知ったイオリは自分の正体を疑い始める。
記憶を思い出したいというイオリの意志を汲みイヅルはイオリを「骨董」へ連れていく。カナギがイオリと会話をし覚悟を問う。
その後「アンティーク」幹部との戦闘。実はイオリの能力を試す試験で、切り抜けたイオリをイヅルが「アンティーク」に誘う。
「アンティーク」に加入したイオリはセンリと対面し自分の過去を知る。そしてセンリは動揺するイオリに学者の救出作戦を伝える。彼らの研究内容は「人の記憶によるAIの学習」であり、その研究にイオリの記憶が利用された可能性が高く、イオリが目覚める前に見ていた夢にヒントがあると言う。
その夢から導き出された場所へ向かうと「Q」が待ち構えていた。センリはイヅルの接脳型AIが外部回線を通じて政府に情報を流していると気付く。
「骨董」の助力で撤退に成功。イヅルは自分を置き去りにするように言うがイオリは拒否し、接脳型AIを逆手に取って政府の裏をかく作戦を提案する。
イオリの作戦は成功し学者を救出。そして政府が企図する「無我計画」という「犯罪者の記憶を使い暴力行為を好むよう学習したLAWSを量産する計画」が明らかに。「輪廻更生計画」はデータを集めるための隠れ蓑だった。
準備期間を経てイオリたちは「無我計画」のための工場を襲撃し「無我計画」を阻止。世間にも「無我計画」が露呈し「アンティーク」は非人道的計画を止めた正義の組織として受け止められる。イオリは安堵しながらも本当に許しを請うべき相手は既にこの世にいないと気付き罪悪感を抱く。
政権が乱れる中「輪廻更生計画」は記憶を消すことなく更生させる制度へと変わり、イオリは「輪廻更生官」として犯罪者たちの自立を支援する生活を送る。そして自身が起こした事件の慰霊碑を訪れ、「自分は何者であるか」から逃げてはならないと己を戒める。
文字数:1798
内容に関するアピール
売れそうだと思った根拠は、最先端技術との付き合い方にキャラの個性が表れる点です。例えばイヅルは「頭は良いが人付き合いが悪い」というキャラなのですが「AIなどの技術に頼りがちで対人コミュニケーションが上達しない」という背景があり、同様に接脳型AIを使うセンリは課題に応じて技術にも人にも頼る性格です。また片目を欠損しているカナギは神経接続型義眼の使用を拒否しています。技術との付き合い方が多様化してきた今だからこそ、こうした差異を描くことはキャラの性格や背景を演出する上で非常に重要だと考えます。ちなみに主人公格のイオリはあらゆる技術に疎い立場なのですが、これは何も知らないところからスタートする読者がこの世界観に馴染みやすいように設定しました。
テーマにつきましても、技術によって「できること」が広がった今だからこそ「何者か」と問うことが大切なのではないかと思い、こう設定しました。
「Anti Q」というタイトルは「Qと敵対するアンティーク」を指しているのですが、機械学習の一種である「Q学習」とも絡めています。Qは行動の価値を導く関数で無限回の試行の末に最適化されるものなのですが、裏を返せば一回きりの試行である人生において決して最適化できないものであり、その最適化に失敗した例として犯罪者、つまり暴力的行為を高く評価してしまう人々を描いています。故に被害者の声も読者に届けなくてはならないと思い、被害者が活躍する「骨董」という組織を登場させました。その名はantiqueの和訳である骨董品が由来ですが、それはantiqueと違ってがらくたを指すこともあり、「有用性で人を判断しない」というカナギの思想を表現しています。キャラごとの犯罪観、及び人生観が表れるのもこの作品の魅力だと思います。
そして各方面に大変申し訳ないことなのですが、これは私が現在カクヨムで連載中の「ソリストの協奏」という小説の続編として構想していたものであり、2050年に発生したAIを用いたテロというのが「ソリストの協奏」で描かれるVRMMOゲームへのプレイヤー監禁事件になります。ライトノベルの人気ジャンルであるVRMMOから異能力バトル風味の今作へと繋げるのはいささか挑戦的とは思いますが、「技術の躍進を前に人はどうすべきか」という疑問を共有しておりとても気に入っている世界観ですので、いずれどちらも完成させるつもりです。これ以上の「売れる長編」の構想を思いつかなかったため、とても悩みましたがこれを提出させていただきました。ちなみに想定字数は20~30万字で、「ソリストの協奏」も同様の規模になる予定です。実作として提出することになる第1章の内容は「イオリが目覚める」ところから「1件目の犯人確保時に『輪廻更生計画』について知ったイオリが、自分の記憶喪失とそれに何か関係があるのではと思い始める」までになります。
文字数:1194
Anti Q
人並みの生を夢に見た。無駄に長い人生に比べれば、たった一炊の夢だった。
うとうとしていたイオリは、何かが割れたらしい大きな音ではっと目を覚ました。ぼやけた視界の中に浮かび上がってくるのは“Sonate no.14”の文字。視線を落とすと、自分の指が白い鍵盤に乗せられているのが見えた。
そうだ。自分はピアノソナタ第十四番を何度やっても弾けなかった。それが悔しくて暇を見つけては練習していたのだ。指がひしゃげてしまうかと思うほど強く、音が何度もつれてもずっと、鍵盤に悔しさをぶつけていた。
イオリは息を長く吐いた。ピアノを弾いているうちに寝てしまうとは、相当疲れているに違いない。天窓から月光が差し込んでいた。その光すらも憎らしい。
そのときちょうど、この広間に子供が飛び込んできた。
「どうしよう! あいつが花瓶割っちゃった!」
続けて駆けこんだ子が言った。そのズボンの裾には水が染みている。
「イオリにぃ! 俺は何もしてない! 勝手に壊れたんだ!」
ぼんやりした頭に記憶がだんだん戻ってくる。自分はこの児童養護施設の長で、四人の孤児の世話を担っているのだ。今日はもう入浴の準備をするだけ。そしてたった今、割れた花瓶の掃除という仕事が加わった……。
最初にやってきた聡明な子が続ける。
「イオリさん! こいつが悪いんです。こいつが廊下でふざけてたから!」
元気な子が言い返す。
「ふざけてなんかない!」
イオリは鍵盤のふたを閉め、言い合う子供たちに微笑んだ。
「原因は何でもいいよ。二人に怪我が無くて良かった」
すると子供たちはバツが悪そうな顔をして口を閉じた。
イオリが広間から廊下に出ると、そこにはずっと様子を窺っていたらしい子供たちがいた。
「イオリ。割れたのはあっちの花瓶。早く片付けないと危ないよ」
冷静な子がそう言うと、その隣にいた素直な子が続けた。
「イオリ兄さん。片付け手伝います。……あと、ピアノ上手でした」
イオリは笑みを深めた。
「ありがとう、二人とも」
感謝の言葉を返すと二人は得意気に笑った。そして歩き始める二人の後にイオリは続いた。
窓の外は暗かった。もうすっかり夜だった。電球の光が白い壁をますます白くし、掃除が行き届いた床板をつやつやと輝かせた。
案内された先で割れた花瓶を目にしたイオリは、そのひびが心に転写されたかのような、胸に隙間風が入ってきたかのような悪寒に襲われた。その混乱のせいだろうか、このばらばらになった花瓶と水に塗れた花をどこへ捨てるべきなのか、イオリは突然分からなくなった。
そうしてただ花瓶の残骸を見つめていると、不意に遠くから呼び鈴の音が響く。
「イオリ兄さん。片付けなら僕らでもできますから」
素直な子がそう言い、冷静な子が頷いた。イオリが振り返ると、付いてきていた子供たちもイオリに行くよう促した。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
イオリは来た道を引き返した。すっかり見慣れた、でもまだどこかよそよそしい廊下を歩いた。子供たちの手あかがうっすらと残る壁が延々と続いた。その先に外へ通じる扉はあった。
また呼び鈴が鳴った。今度は真横で鳴っているかのようだった。なんだか急かされているような気分になりながら、イオリは重たい玄関の扉を開いた。
「お待たせしました……」
イオリは思わず息を呑んだ。そこには目を瞠ってしまうほどに美しく、それでいて他人を寄せ付けまいとするかのような、冷気と言うしかないオーラをまとった人がいた。その表情はもはや死人のようであり、少し乱れた長髪は見目を彩るためというよりも、操を忘れぬためのものといった風体だった。
「会いに来ました」
来客者は単調な声でそう言った。その低い声と上下する喉仏に気を取られたイオリはすぐに返事をすることができなかった。
こんなに美しい青年が存在するのか。幽霊や妖怪の類と言われた方がまだ納得できるほど、彼の容姿は人並みを外れていた。
「会いに来たというのは、子供たちにですか……?」
かろうじてそう聞き返すと、彼はじっとイオリを見つめたまま返した。
「ある意味では、そうです」
それはどういう意味なのだろうか。兎にも角にもイエスが返ってきたのなら、彼を中に入れないわけにはいかない。きっと里親になることを考えている人なのだろう。イオリはこんな山奥の孤児院から早く子供たちを解き放ってあげたかった。
「では中へどうぞ」
「ありがとうございます」
イオリが扉を大きく開けると、彼は冷たい声で感謝の言葉を述べながらさっと中へ入った。まるで勝手知ったる家のように歩いていく背中に、イオリは慌てて声を投げかける。
「あの、あなたのお名前は?」
すると彼は足を止めて振り返り、イオリはその鋭い視線に射抜かれた。
「イヅルです。それで十分でしょう」
これ以上何も聞くなと言わんばかりの態度だった。イオリは返事をするのも恐ろしく思い、客間とは違う場所へすたすた歩いていく彼を止めることもできなかった。
イヅルと名乗る青年がやがて開け放ったのは、食堂の扉だった。
たった四人の子供たちには広すぎる食卓。ステンドグラスから陽光が差し、その下に歩み出るイヅルの黒髪が鮮やかに彩られる。
美しい眩さに目を細めたイオリはふと思った。
あれ、今は夜だったような……。
「ここの子供は優秀で良い子たちですね。イオリ」
イオリは彼に伝えていないはずの自分の名前を呼ばれたことよりも、知りようの無い子供たちの性格を語られたことに驚き、硬直した。そんなイオリの横からイヅルの方へ、いつの間にか来ていた子供たちが歩いていく。
聡明な子、元気な子、冷静な子、素直な子……。
行ってはだめだ。何故かそう叫びたくなった。
ステンドグラス越しの逆光を一身に浴びるイヅルは、もはや死神だった。
「イオリ。あなたが招き入れたんです。この僕を」
イヅルは言った。その懐から取り出したのは、鈍色に輝く拳銃だった。
銃声。そしてまた銃声。子供が二人倒れ伏す。その頭部からは、割れた花瓶のように液が漏れ出ている。
「あなたは気づいている。だから待っている」
その言葉と共に銃が火を吹いた。また一人、子供が床へ倒れ伏した。
イオリは駆け出して、立ちすくむ最後の子供を背に庇った。そして恐る恐る顔を上げると、冷たい銃口越しにこちらをじっと見つめる、暗い瞳と視線がかち合った。
気づいている? 待っている? 俺が? 一体何を。
しばらくの静けさ。それでようやくイオリは、己の心臓が激しく脈打っているのを感じた。
「イオリ兄さん」
静寂を打ち破ったのは子供の声だった。
「忘れないで。僕たちのこと」
「な、何を言ってるの」
イオリは思わず振り向いた。素直な子がいつもと変わらない笑みを浮かべてそこに立っている。
「約束だよ。兄さん」
イオリがその真意を尋ねようとした瞬間、子供の頭が花のように爆ぜた。その小さな身体が、ゆっくりと後ろに倒れていった。
「本当に良い子でしたね」
イヅルが真後ろにいた。その右手の銃はまだ煙を吹いていた。イオリの心臓は、また一つ脈を打った。
お前のせいか。この惨状は。
気付くとイオリは客を床に叩きつけていた。その上に馬乗りになり、銃を持つその手をぐっと締め上げる。
思っていたより軽い身体だった。
「僕を殺しますか」
イヅルは動揺を見せなかった。ただ暗い目をイオリに向けていた。彼の黒髪が床に広がって、子供たちの血と混じっていた。
イオリは己の中の火が急速に萎えていくのを感じた。まるで冷や水をぶっかけられたかのようだった。復讐を遂げても子供たちは帰ってこない。ただ自分の脳裏に死に顔が増えるだけ。
いや、それは言い訳だった。
ただ、勇気が出なかった。
「……完璧です」
イヅルは目を細めた。見たくないものを無理して見るような表情だった。思わずイオリは力を緩めてしまう。するとイヅルはさっと腕を引き抜いて言った。
「続きは夢の外で」
イオリが何か尋ねる間もなく、イヅルの腕が振り下ろされた。頭に強い衝撃を受けた気がした。
気づくとイオリは無機質な天井を眺めていた。少しすすけた蛍光灯に掃除をしなきゃと思ったのも束の間、今まで見ていた景色じゃないことに気が付き、勢いよく起き上がる。
「寝起きでも結構動けるタイプなんですね。予想よりも良好な動作です」
目の前にいたのは椅子に堂々と腰掛けているイヅルだった。その身綺麗な格好には返り血の一つも見当たらないが、表情は相変わらずぶっきらぼうな感じだ。
「あの、ここはどこなんですか」
「それは説明できません」
イオリは意を決して尋ねたが、イヅルは淡々とはねつけた。しかし今はあの幽鬼のような威圧感は無く、ただくたびれた仕事人といった感じで恐ろしくはなかった。
「じゃあ、あの子たちはどこへ……」
イオリはそう言いながらも、もうあの子供たちはどこにもいないと悟っていた。イヅルが彼らに負わせた傷は素人目にも致死的だった。
「僕が人を殺したと思っているんですか」
しかしイヅルから返ってきたのはため息だった。
「あの子たちは実在しませんよ。あなたが見た夢です。都合の良い幻想です。もはや妄想と言ってもいい」
夢? 幻想? 妄想?
あの子たちと過ごした日々が、嘘?
「あれは夢なんかじゃない! 俺はずっとあそこで、あの子たちと暮らしていたんだぞ!」
「では子供たちの名前を思い出してみてください」
イオリの冷たい声は、熱を帯びた頭に沁みるようだった。
どの子の名前も思い出せなかった。聡明な、元気な、冷静な、素直な、名前の無い子供たち……。
イオリは愕然とした。どうしても認めざるを得なかった。あれは夢だ。目が覚めてから気づくような、現実と入れ替えてしまいたいほど居心地の良い夢だった。
「だとしたら俺は一体誰なんだ……!」
イオリは頭を抱えた。脳にぽっかりと空洞ができたようだった。そこにはあるべきものが何もなかった。
イオリはあの夢の記憶以外、何も覚えていなかった。
「イオリという名前がある。それで十分でしょう」
イヅルは夢と変わらぬ口調でそう言った。記憶を喪失することに対して何ら感情を抱いていないようだった。まるでそれくらいありふれていると言わんばかりの態度だった。
よくよく考えてみれば、記憶を失ったとて何を損なうと言うのだろう。そもそも自分が何を持っていたかすら分からないのだ。残念に思う理由などないだろう。強いて言うなら寝覚めの悪い夢を見たことぐらいだろうか。
イオリはふと気になったことを尋ねた。
「そういえば、どうやってあなたは俺の夢の中に出てきたんです?」
するとイヅルはまじまじとイオリを見返した。
「ああ。あなたは知らなくて当然ですよね。すっかり説明を忘れていました」
「説明って……何の説明ですか」
なんだか余命宣告を受けるような気分になってきた。そういえばこの部屋は病室に似ている。イオリはそんなことを考えてどぎまぎとしながら、イヅルが続けるのを待った。
「落ち着いて聞いてください。イオリ。僕は他人を慰めるのが苦手なので」
「は、はい。……できる限りは」
イオリの頼りない返事がイヅルの無表情に軽く当たって落ちたような気がした。
「まあ、勿体ぶっても仕方ありませんね。どうせ覚えていないんですから」
イヅルは心なしか呆れ顔になって足を組み替えた。
「イオリ。あなたが起きたのは実に十年振りなんです。今の技術はあなたの中の常識を遥かに凌駕している」
「じゅ、十年!? 十年もの間、俺はずっと眠っていたってこと、ですか……?」
「勘違いしないでください。どうせ十年起きていたってあなたがなし得る業績はたかが知れています。それに、何のために生きているのか分からないような人たちは、あなた以外にもたくさんいます」
イヅルは同情すらもしてくれなかった。その言葉の手厳しさは、当人であるイオリも言い過ぎではないか心配になるほどだった。
「そういうわけで、深層意識が形成するイメージ世界への介入経路が、あなたが寝ているうちに見つかったというわけです。元々は意識不明の患者との疎通を図るための医療技術なので、一部の医療施設でないと使用が許可されないものですが」
ということはやはりここは病院らしい。もしかすると自分は交通事故にでも遭ったのかもしれない。
「いいですか、イオリ。あなたはこれから僕たちと共に働くことになるんです。いつまでも過ぎたことでくよくよしないでください」
次にイヅルが放った言葉はあまりにも唐突で、イオリの耳を素通りして身体をぐるりと回ってからようやく、その意味がイオリの脳に伝わったような感じだった。
「共に働くって……」
「説明は面倒なので後にしましょう。とりあえずその靴を履いて僕についてきてください」
イヅルはイオリの質問をまたはねつけて立ち上がった。その手が示す先、イオリが寝ていたベッドの下には、確かに履きやすそうな靴があった。しかし状況をあまり理解できなかったイオリが呆然とイヅルを見上げると、また冷たい視線がイオリに突き刺さった。
「耳に入りませんでしたか? 僕はついてこいと言ったんです」
「え? こういうのは医者からの説明とかがあるのでは」
「はあ……。これだから十年前の人は。生身の医者が患者の前に出てくるのがどれほど危ないか分かっていないんですね。感染症は言わずもがな、患者の中には医者のようなエリートを傷つけようとする人もいます。今ではそういったリスクを回避するため、診療も手術も全て遠隔で行われているんですよ」
イヅルはため息を吐いて呆れ顔になった。こういうときはなんだか感情豊かに見える。イオリは慌てて靴を履きながら続けた。
「でも十年も寝てたわけだし、リハビリとか点滴とか……」
「そういう諸々も加味してあなたを今起こしたに決まっているでしょう」
「あ、そういうものなんですね……」
イオリは記憶を失ったことよりも、とてつもなく発展したらしい技術についていけるかどうかのほうが心配になった。直接対面しない医療というのも驚きだが、夢に侵入する技術については、もはやその仕組みの想像すらできない。
そう思ったイオリはふと十年前の常識なら自分の中にあることに気づいた。それはつまり十年前の世界にイオリがいた証だった。記憶が無くても、その実感さえあればいいとイオリは思った。それさえあれば、あの夢が幻想だったと信じることができる。
せっかちなのか、ただ早歩きが習慣になっているのか、すたすたと歩いていくイヅルをイオリは慌てて追いかけた。確かに彼の言う通り、イオリの身体は十年の空白期間を感じさせなかった。身にまとう服は恐らく患者服というものだろう。最低限の機能しか持たないその服をイオリは少し心細く思った。
部屋の外は白い廊下が続いていた。やはり病院のようだった。しかし他の部屋の扉は厳重に封鎖されており、異様な空気が漂っていた。その空間を息苦しく思ったイオリは、その壁に窓がないことに遅れて気が付いた。
やがて廊下の果てにひと際大きな扉があった。イヅルがその前に立つと小さな電子音が響き、扉が自動で開く。イオリは何も分からないままイヅルの後に続き、冷や冷やしながらそこを通り抜けた。
その先にあったのは先ほどよりもずっと細長い廊下だった。左右の壁に扉は無く、よく分からないカメラらしきものが並んでいて気持ちが悪かった。その間をイヅルは通り抜けていき、イオリもしぶしぶその後ろをついて歩いた。
やがて終端に着くとイヅルが扉の横のインターフォンらしきものを操作し、顔を寄せる。
「事前にご説明した通り、イオリの身柄はこちらで預からせていただきます」
すると何か小さな雑音が聞こえた。それが止むとイヅルがまた口を開いた。
「ところで忍田教授は今日もおられないんですか」
短い間の後、イヅルの瞼がそっと閉じる。
「そうですか。これからは僕がここに頻繁に来ることも無いでしょうから、ぜひご挨拶をと思ったんですが。……いえ、結構です。それでは、また何かありましたらよろしくお願いします」
雑音がまた鳴り、すぐにぶつりと途絶えた。直後、その横の扉が重々しく開く。まだ室内だったが、そこに満ちていたのは明らかに太陽の光だった。
もうすぐ外に出るのか。イオリがそう思ってぼんやりしていると、不意にその視界が暗くなる。
「目隠しです。規則なので我慢してください」
イヅルの声は真後ろにあった。頭の後ろで目隠しの布を結ばれると腕を取られて無理やり歩かされる。その手早さにまた嫌な予感が蘇ってきた。
このイヅルという青年は何者だろうか。自分はこれから何をされるのだろうか。
何回かドアの開閉の音がして、目隠し越しに差し込んでくる太陽の光が増していく。やがて肌に風がそよぐのを感じて、イオリはついに外に出たことを察した。
「これから車で移動します。目的地に着きましたらその目隠しは外します」
「はい……」
イオリは頷くしかできなかった。あの夢の中のイヅルがこのイヅルと同一の存在ならば、彼は拳銃の扱いに長けているはずだ。ここで逆らえば命すら危ういかもしれない。
やがて彼の言う通りイオリは車に乗せられたようだった。手に触れる革らしい質感にこの車はかなり上質なのだろうとイオリは思った。そんな勘ぐりをするくらいしかやることがなかった。
恐らくイヅルが運転席に乗り込んだのであろう開閉音が響いた。そして車の起動を知らせるアラートと、何かを入力しているらしい小さな電子音が聞こえてくる。最後にシートベルトを装着する音が聞こえ、車は振動を始めた。
「それではまず現状の説明をします。質問があればその都度聞いてください」
前方からイヅルの声が聞こえた。
「あ、はい……」
イオリは弱々しく返事をした。我ながら何故こんな喋り方しかできないのだろうと嘆きたくなる声だった。イヅルがきびきびとしているせいか、余計惨めに聞こえた。
「あなたは十年近く寝ていました。その間に日本は急速に治安が悪化……というより、格差がひどく拡大したんです。そして富裕層を狙った犯罪が多発するようになり、富裕層側は自衛のためにより優れた技術を求めました。そして資本家と研究者が癒着し始め、技術は目覚ましく進歩しました。それと同時に、人同士の分断も取り返しがつかないほど進みました」
もう色々と尋ねたくなって訳が分からなくなり、イオリはただ口をもごもごとさせた。治安の悪化も格差の拡大も全く想像がつかなかった。
「結局、防犯のための技術改革を経て、犯罪件数は減るどころか増加の一方を辿ったんです。社会に対する不満を表明する手段として犯罪行為は持ち上げられ、犯罪者は逆に英雄視されるようになりました。反社会的思想を掲げた組織が生まれてしまうほどに。そして彼らは貪欲に技術を吸収し、セキュリティを欺く術すらも身に着けた……」
イオリは考えた。もし自分が社会に虐げられていると感じたら、他人を傷つけてまでも声を上げるだろうかと。しかし臆病な自分にはできそうもないと思い、首を振ってその妄想を払った。
「政府は当然対応策を練りました。人道が通用しない相手を前にこちらも人道を捨てざるを得ないと。……そして生まれたのが“Q”と呼ばれる、世間には秘匿された対テロ秘密組織です」
イオリはなんとなく、その先に続く言葉が分かった気がした。
「それこそ僕が所属し、そしてあなたがこれから加入する組織なんですよ。イオリ」
イヅルの声には自嘲の響きがあった。
名前も業績も隠されたまま、社会を守るためにテロ組織と戦う孤独な存在。それが“Q”と呼称される者たちなのだろう。
イオリは別にそれでもいいと思えた。なにせ自分の中には何も残っていないのだ。何かを残したいという欲求など皆無だった。
だがイヅルは違うらしい。彼の言葉の節々には自負心が表れている。匿名の存在など性に合わないように思えた。
「今から案内するのはQの面々が暮らす住宅です。社会から秘匿された存在である僕たちは、互いを家族として生きていくしかないんです」
「家族、ですか?」
「言葉の綾ですよ。戸籍制度上のあれこれをするわけではありません。社会的動物である僕たちには社会が必要ですから、互いにその役割を果たしましょう、ということです。あんな夢を見ておいて、まさか拒みませんよね」
あんな夢呼ばわりは少し気に食わなかったが、確かに孤児院と疑似家族はよく似ているように思えた。
「それは……同居人によるんじゃないですか」
しかしすぐに頷く気にもなれずイオリは揚げ足を取るように返す。すると図星だったのか、イヅルは押し黙って何も言わなくなってしまった。
まさかそこまで深刻なダメージを与えてしまうとは。少し気の毒になってきたイオリは恐る恐る口を開いた。
「あの、イヅルさん……?」
「しっ。静かに」
しかし返ってきたのは制止の言葉だった。そしてまた何かを操作する音が聞こえる。
「状況は聞こえました。五分後には現着します。接近は控えてください。我々Qが何とかします」
彼の声はさらに鋭さを帯びていた。車内の空気がさっと変わったのを感じ、イオリの身体が強張る。
やがて聞こえてきたのは銃声だった。車が停止したらしく、小さなアラートが鳴る。
「イオリ。目隠しを取ってください」
「え、いいんですか?」
「非常事態ですから。やはり手錠までかけなくて正解でした」
言われるがままにイオリが目隠しを外すと、ちょうどイヅルが車を飛び出していくところだった。自分も外に出るべきか分からなかったイオリはとりあえず窓から外を窺おうとしたが、スモークガラスのせいで何も見えなかった。
意を決してイオリは車のドアを開け、眩い外へ一歩踏み出した。太陽はほとんど真上、何もかもを突き抜けるような晴天だった。どこを見てもガラス張りのビルが空と日差しを反射していた。そのせいで青空に浮かんでいるような気分になった。
柔らかい靴の底が堅いアスファルトに触れる。どうやらイヅルは車を道路に放置していったらしい。端に寄せているとはいえ明らかに通行の邪魔になる位置だ。しかし辺りはしんと静まりかえり、高層ビルに囲まれている道路だというのに一台の車も通らなかった。道路の縁から見下ろすとパトカーが数台止まっているのが見えた。どうやら今イオリがいるのは高架道路らしい。
まさかイヅルはここから飛び降りたのか? そんな芸当、常人にできるものか。そう思ってイオリが気をもんでいると、ふいに後ろから声をかけられた。
「Qか。それともアンティークか」
イオリはびくりとして後ろを向いた。そこには黒いフードですっぽりと身体を覆った、もはや男か女かすら分からない人物がいた。
「答えろ。Qか、アンティークか!」
「何の話……」
イオリが最後まで言い終わらぬうちに破裂音が空気を引き裂いた。直後、フードの身体が大きく仰け反り、ゆっくりと道路へ倒れていく。
「僕たちはQです。全く……どこから情報が流れているのやら」
イオリの横に並び立ったのはイヅルだった。その手には拳銃に似た何かが握られている。雑に結ばれた長髪の隙間から、妖精のような耳飾りが見えた。
「イヅルさん! その耳は……」
「説明は後です。気を抜かないでください」
引き金に指をかけたイヅルは冷静だった。そんな彼はまだ倒れ伏した黒フードを注視している。イオリはいろいろと聞きたい気持ちを抑えて彼の警戒心にならった。
「Qか。それは残念だ」
フードからくぐもった声が聞こえた。その下から現れたものを見て、イオリは思わず声を漏らす。
それは巨大な義手だった。明らかに身体とのバランスを欠いていた。
イヅルがまた銃を撃った。射出された弾丸の後を追うように、稲妻のような火花が散っているのが見えた。しかしその弾は義手に弾かれてしまう。
「イオリ。あなたは少し離れていてください」
「え……逃げないんですか」
「黙って僕の言うことに従って」
思わずイオリが尋ねるとイヅルから鋭い声が放たれた。イオリは気圧され、言われるがままに数歩後ろへと下がる。
「いずれあなたもこういう手合いと戦わなければならないんです。決して目を逸らさないで。たとえ僕が死んだとしても」
イヅルは拳銃を構えながら淡々と言った。そして一つ一つ、確かめるように弾丸を撃ち出していく。その度にイオリは自分の身が切られるような気持ちになった。
見ているしかできない自分が、杭を打たれて磔になっていくような気がした。
義手の怪物は銃撃を物ともせず、着実にイヅルとの距離を詰めていく。義手が空を切ると、銃声に劣らない轟音が聞こえた。
駄目だ。あの銃ではあいつを止めることはできない。
ついに巨腕がイヅルを捉えた。寸法だけでなく力も規格外らしいその手が、イヅルの腕をひねり上げ、そのまま身体を持ち上げる。
「まあいい。Qを殺したとなれば、きっとアンティークの側から迎えに来てくれる」
フードが言った。隙間から覗くもう片方の手には研ぎ澄まされた包丁がある。その刃が日の光を反射して輝いた。
アスファルトに広がっていく鮮血。それをぎらぎらと照らす太陽。
花瓶のように割れた子供たち。
聞こえるのは、何度も焦がれた月光の楽章。
身体が熱を帯びていく感覚と共に、まるで別人の視点で自分を見ているような、不思議な感覚に襲われた
体内を血が力強く巡る。足がばねのように伸びる。
好調だ。身体も、気分も、何もかも。
振りかぶった腕がフードの下の肉を勢いよく打った。青天を舞う義手を犬のように追った。地に落ちたところを捕まえて、また空にぶっ飛ばした。拳に伝わる感触が、白黒の鍵盤を叩く感覚と重なった。
ずっとこちら側になりたかった。
他人を支配する側に回りたかった。
自分を慕う人たちだけに囲まれていたかった。
そのときがついに来た。この身体は明らかに向上している。そしてこの高揚も。
義手が迫る。躱す。殴りつける。何度も何度もアクセントを奏でた。
拳が、手足が、喝采する。
かつんと音がした。アスファルトの上に包丁が転がっていた。イオリの腕から力が抜けた。義手が道路に叩きつけられた。
フードから見える顔はあざだらけだった。腫れあがった唇から苦しそうな息が漏れていた。義手のサイズのせいで見誤っていた。こいつはまだ子供だ。
こんなつもりじゃなかった。
自分は他人に暴力を振るうほど落ちぶれてなんかない。
自分は臆病で、どちらかといえば世話好きで、誰かを殴るなんて考えたこともなくて……。
イオリの手が震え始めた。指がじんじんと煮えていた。何度も殴り飛ばしたのは、間違いなくこのイオリの手だった。
「完璧です」
振り向くと、イヅルがこちらを見つめていた。あの悲し気な表情だった。
「何が完璧だって言うんだ! こんな俺の何が完璧だって言うんだ……」
イヅルの腕からは血が滴っていた。急所を庇って付いた切り傷だった。それを見ていると、嫌でも頭が冷えていった。
「暴力を好みながら殺人は厭う。制御不能なほどの攻撃性を持ちながら、それを制御しきるブレーキも併せ持つ。通常の人間なら躊躇するはずの間合いに躊躇なく踏み込む。それでいて、死に至るほどの傷は決して負わせない……。それこそまさに僕たちが欲していたもの。どんなアルゴリズムでも到達できない、最適化された機構です」
イヅルはつらつらと述べながらもフードを被った子供に近づき、そのアンバランスな両腕に手錠をかけた。
「なるほど。子供の義手は成長期を見越して大きめに作るのが定石だそうですし、金銭的余裕のない家庭ならこれほど歪でも無いよりはマシなのでしょうね。アンティークを探していた辺り、家族のことも頼れない境遇になったのでしょうが」
そして彼はくるっと振り返った。いつもの無表情に戻っていた。
「この子は警察に任せます。僕たちは元の道に戻りましょう」
よく分からないままイオリはただ頷いた。もう何かを疑問に思う気力も尽きていた。どうやらイヅルにとって自分は有用な存在であること。この義手の子供と違い、自分には帰る場所があるらしいこと。それ以上のことは知りたくもなかった。
犯人を連れていこうとするイヅルを置いて、イオリは一足先に車へ戻ろうとした。しかしどうしても子供のことが気になってまごついていると、すすり泣きが聞こえてくる。
「やめて……忘れたくないんだ……」
義手の子供の声だった。涙が混じると一段と幼い響きだ。巨大な義手に引きずられたその姿は、子供が背負うには重すぎる悲痛を感じさせた。
忘れたくない。その言葉が胸に差し迫って聞こえる。
自分の失われた記憶は、忘れたくないものだったのだろうか。
「忘れませんよ。大切なことは」
イヅルの返事が聞こえた。イオリは彼の言いつけ通り、大人しく車に戻ることにした。
スモークガラスの後部座席に乗り込んで一息ついていると、しばらくしてやっと乗り込んできたイヅルがずいと缶コーヒーを差し出してきた。
「あなたの好みを知らないので僕の好みで選んできました。気に入らなければそこのホルダーに置いてください」
「買ってきてくれたの?」
気を緩めていたせいか、うっかりタメ口になったイオリは、はっとして口を押える。
「犯人の身柄引き渡しのついでです。それと、敬語を外すことはまだ許可していません」
もっと責められるかと思っていたがイヅルはただそう付け加えるだけだった。イオリは彼からありがたくコーヒーを受け取り、見慣れたプルタブを開ける。
「これは変わってないんですね」
「仕組みが同じというだけですよ。素材の方はより頑丈になりましたし、自販機も防犯性能が上がっています」
滑らかに車が動き出してから、イオリはイヅルがハンドルを操作していないことに気が付いた。その光景でようやく進展した技術の実感が湧いてきて、イオリはなんだか感動する。見るとフロントガラスに大きく被さって地図が表示されていた。自分で運転しないとはいえ流石にこれは危ないのではないかと思ったが、イヅルの表情を見る限りこれも普通のことらしかった。
「これって映画とか見られるんですか?」
なんだか映画館にいるような気分になってうきうきと尋ねると、イヅルは全く浮かれた様子もなく答えた。
「機能上は。ですが僕たちはインターネットに接続することを禁じられているので、記録媒体を利用しなければ見られませんね」
「え……」
インターネットの利用が禁止されているなんて、イオリは言葉も出なかった。十年前ですらインターネットは必需品だったのに、さらに技術が発展した今となっては言うまでもないだろう。
「僕たちQのメンバーには“AND”と呼ばれるAIと繋がるコンピュータが内蔵されているんです。彼女の流出を防ぐため、僕たちはインターネットに触れることすらできないんですよ」
イヅルはイオリの狼狽を読み取ったらしくすらすら説明してくれた。
「内蔵って……」
「脳に直接入れているということです。焼骨されれば手術の跡が見えるでしょうね」
正気じゃないと思ったが口に出すのは控えた。もしかすると技術の進歩に合わせて人々の意識も変わっている可能性がある。いくら便利だからと言って頭蓋骨を開けるのはおかしいと思うのは、十年前で止まっている自分だけかもしれない。
「正気じゃないと言いたげな顔をしてますが……まあいいでしょう。ちなみに言っておくと、開頭手術を自ら進んで受けるのはまだ少数派ですよ」
バックミラー越しにイヅルの冷たい視線が飛んできた。心の底まで見透かされた気になってイオリは落ち着かない気持ちになる。
「それならさっきの子みたいな義手も珍しいんですか?」
「いえ。昔よりはありふれたものになりました。技術に法整備がなかなか追い付かないので、事件に巻き込まれて取り返しのつかない怪我を負う人が多いんです」
思っていたよりも治安の悪化は深刻らしい。先ほど見た外の景色はそれほど荒れているように見えなかったが、それこそ拡大した格差の結果なのだろう。
「なんでそんなに対応が後手に回るんです? 流石に政府が動けば技術開発を止めることくらいできるのでは?」
イオリがそう聞くとイヅルはこめかみを抑えて口を開いた。
「そう事が進めば良かったんですけどね。政府は国際的地位が落ちていくことに対する焦りもあって、技術開発に振り切る選択を取りました。国内で親政府と反政府をわざと競わせて開発のモチベーションを高めるんです。人の命を賭けてギャンブルしているようなものですよ」
彼の言い回しは気を利かせた冗談なのか、それともねちっこい皮肉なのか、判然としなかった。
「それで親政府側の核となったのが僕たちQ。反政府側の中心にいるのがアンティークというグループです」
その説明にイオリははっと思い出した。あの子供が最初に投げかけてきた問いの意味が、なんとなく分かったような気がした。
「Qの特徴はANDで繋がっていることですが、アンティークにも同様の技術があると噂に聞きます。外からはきっと同類に見えるでしょうね」
「そのANDって、まさか俺の頭にも入っているんですか?」
「いいえ。今のところは。実のところANDは秘密通信網という以上に、脳機能のサポートという役割が強いんです。つまりANDを入れている連中は脳機能を向上させる理由がある人間なんです」
イオリが首を傾げていると、イヅルが運転席から少し顔を覗かせて、髪を耳にかけてみせた。
「僕の場合はこの耳飾り……厳密に言えば半侵襲式BMIデバイスなんですが……」
「BMI?」
「ブレインマシンインターフェース。脳と機械を直接繋ぐ技術のことです。この耳飾りは僕の脳から伸びる聴覚伝導路と繋がっているんですよ」
イヅルは言いながら髪を垂らした。すると綺麗な黒髪に覆われて耳飾りが見えなくなる。
「要するに僕はものすごく耳が良いんです。その分聞こえる情報量が多いので、それらを処理する脳のほうも増強する必要があるわけです」
「耳が良いって……さっきみたいに銃を撃つのも大変なんじゃないですか?」
「音量調節機能もあるので平気です。耳栓代わりにもなりますし、寝るときは非常に便利ですよ」
そしてイヅルは前を向き直した。
「もうすぐ着きます」
イオリは思わず外の景色を見ようとしたが、スモークガラスからはやはり何も見えなかった。フロントガラスもマップでほとんど何も見えず、結局のところ目隠しがあってもなくても変わらないような気がした。
車体が傾いた。どうやら地下に入っていくらしかった。やがて停止し、イヅルが外に出るのに倣ってイオリも降車する。
そこは綺麗に整備された地下ガレージだった。その隅の扉からイヅルは中へ入っていく。イオリはその後に続き、階段を上った。
「ただいま戻りました」
イヅルが言いながら靴を脱ぐ。その横にはサイズの違う靴が二足置かれていた。イオリは慣れない空間に居心地悪く思いながら、隅の方に履いてきた靴を置いた。
すると奥の方から勢いのある足音が聞こえてくる。
「おかえぃー! イーるん、イーオリん!」
やってきたのは、へその位置にまで届きそうなほど長い舌を持つ少女だった。ぎょっとするイオリの横で、イヅルが小さく肩をすくめる。
「彼女はエン。見ての通り舌に改造を施されています。発声しづらいくせにお喋りなので……まあ、慣れてください」
「は、はあ……」
イオリは改めてエンと呼ばれる少女を見た。その化け物じみた舌は、幼さの残る無邪気な顔を引き立てているように見えた。
「あの、イオリんってもしかして俺のことですか?」
「もてぃー!」
「も、もてぃ?」
エンとの会話に四苦八苦していると、また足音が聞こえた。
「それは“もちろん”という意味だ。覚えておいた方が良い。夢に出るほど聞くことになるからな」
エンの後ろから顔を覗かせていたのは体格の良い男だった。室内だというのにサングラスをかけていて、ますます威圧的に見える。
「彼はアイです。視力を増強しているので、普段はサングラスで目を休めているんです」
イヅルがそう説明するとアイは恭しく頭を下げた。
「アイだ。よろしく。食事の用意はできている。しっかり身を休めてくれ」
「あ、ああ……ありがとうございます」
イオリは目を白黒させてもごもごと返した。彼とアイという名前の印象がなかなか結び付かなかったし、世話をされる側になるのは慣れていなかった。
「あとはもう一人、僕たちの上司がいるんですが……今日は帰ってこないでしょうね。それはともかく、Qへようこそ。イオリ」
イヅルがじっとイオリを見上げて言った。
この怪物たちが新しい家族なのだ。目を閉じれば、かつて共に暮らしていた子供たちの姿がぼんやりと浮かび上がった。彼らを夢の世界に置いていくのはなんだか忍びなかった。それでも、前へ進まなければならないと思った。
「……イオリです。何も覚えていませんが、これからよろしくお願いします」
頭を下げると、エンとアイはにっと笑ってみせた。二人はイヅルと違い、素直に感情を表してくれるタイプのようだった。
「何か失礼なことを考えているようですが……基本的には僕の指示に従ってもらいますからね」
イヅルに少し睨まれたような気がした。全く根拠はないが、彼とも仲良くやっていけるような予感がした。
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