梗 概
パンドラの残光
時代は数億年後。太陽が膨張し、人々は太陽系を離れて遠い惑星群へ移住している。進歩した技術により、ロボットも人間らしい感情を獲得している。不老不死に近づいた人間は、危険な仕事を全てロボットに任せている。
主人公は最後の光景を撮影するため、太陽に飲み込まれゆく地球に派遣されることとなった人型ロボット、パンドラ。かつて地球で暮らしていた女性の冷凍脳を用いて学習したAIが搭載され、その女性の人格や能力を再現しているパンドラは、勉強にも運動にも苦手意識があり、地球派遣の任務も自分をお払い箱にするためのものだと考えていた。
同じロボットともロボットを監督する人類とも馴染めなかったパンドラは、寂しく思いながら地球へ向かうロケットに一人で乗り込む。その運転手であるロボットのイヴは、二人の名前が神話由来であることを口実にパンドラと仲良くなろうとする。神話が誕生した古代とは違い、現代の人々には死のリスクというものがない。だが地球には神話の名残があるはずだとイヴは語り、パンドラが撮影する地球の光景を楽しみにしていると言う。パンドラは自分が命と引き換えに撮影する景色を呑気に楽しみにするイブに腹立たしさを覚えるが、それをイヴに伝える勇気はなく文句を言えないまま地球へ降り立った。
太陽は見える空の半分を占めるほど巨大で、周囲の景色はパンドラのデータベースにある景色とは全く異なり、植物が死滅して砂地になっている。イヴのロケットはすぐに発射し、見渡す限り広がる砂漠をパンドラは歩き始める。遠く離れた母星へ送信できるデータの大きさは限られているため、パンドラは視界データから特に優れた画像を選別して送る。訪れるように予め指示があった、かつて人類にとって重要であった場所を辿りながら、パンドラは接近する太陽と干上がった大地、そして廃れた建造物を映し続けた。
数回昼夜を繰り返した後、パンドラは新種の生物を発見する。それは毛の無い鼠のような動物で、砂を食べて生きているようだった。地球上の生物は死滅したと思っていたパンドラは生命のしぶとさに感動する一方、鼠の動作に自分のものではない記憶が呼び覚まされるのを感じる。それはパンドラの学習データとなった女性のもので、彼女が飼っていたハムスターとの思い出だった。そしてパンドラは学習元の女性がパンドラと同様に劣等生であったこと、しかし写真を撮る才能があり、数々の賞を受賞したことを思い出す。その名でデータベースを検索したパンドラは、写真の才を称えて彼女の脳が冷凍されたことを知り、パンドラのAIは元々この任務のため、美しい地球の景色を残すために学習されたものなのだと気付く。
自分はお払い箱ではなく人類の希望なのだと知ったパンドラは、捕まえた新種の鼠を連れ、前向きな気持ちで撮影の旅を続ける。目的地を全て回ったパンドラは、学習元の女性の故郷へと向かうことにする。やがて太陽はさらに地球へ近づき、パンドラの身体は許容量を超える熱に溶け始めている。
海の眺めが有名だった女性の故郷は一変して砂漠となっていた。パンドラがやるせなさを感じながら立っていると、ついに目のレンズが溶けて視界がぼやけてしまう。もう撮影の役割も満足に果たせなくなったパンドラは、死を予感して座り込む。しかしそこにロケットが降り立ち、運転手のイヴがパンドラを抱き起こした。彼女はパンドラが撮影した新種の鼠の研究のため、鼠とパンドラを回収する任務を与えられたのだと言う。そしてロケットに乗せられたパンドラは、学習元の女性の思い出を追憶できたこと、自分に眠る才能に気づいたこと、生き延びたことに対する喜びを噛みしめた。そしてようやくパンドラは、死地に向かう人の前でべらべらと趣味を語るような、イヴの無神経さに文句を言えたのだった。
数年後。地球の景色の撮影者として一躍有名になったパンドラは、イヴのロケットであちこちの星を飛び回り、前人未到の絶景を撮るフォトグラファーとなった。星ごとに特色のある風景写真だけでなく、いつも連れているペットの鼠の写真も人気だ。学習元の女性も今は無い地球でこんな日々を過ごしていたのだろうかと思いながら、パンドラはどこか寂しくも充実した日々を過ごした。
文字数:1736
内容に関するアピール
私の武器は以下の二点だと考えます。
・斬新な掛け合わせができる(七福神×システム、腕の切断×仕事)
・キャラクターに愛嬌がある
これらは意識しない方が上手くできるような気がしたので、まずは上記を生かす上で課題となる世界設定の甘さをなんとかすることにしました。そして考案したのが、舞台のスケールを宇宙規模にすることで詰めの甘さを誤魔化すという、意地汚い作戦でした。
宇宙規模の話を練ると決めて真っ先に思いついたのは「死んだ星の光も届く」という事実です。元々、夜空の光と実際の星に時空的な隔たりがあることに強くロマンを感じていたので、これで書きたいと思いました。そこから「死者の思いも届く」ということで、「冷凍脳」と「自然脳を用いた人工知能学習」を掛け合わせ、死者の思考回路(死者の遺伝子や経験によってチューニングされた脳のパラメータ)がロボットに宿るイメージを作りました。
そのロボットに宇宙で何をさせようかと思ったとき、ふと物理の教科書に載っていた一枚の写真を思い出しました。それは小惑星探査機はやぶさが地球への大気圏再突入をする際に撮った写真です。送信途中で通信途絶したために写真の下部が欠けており、まるでロボットの走馬灯のようにも思えます。そこから「太陽に飲み込まれる直前の地球の光景を撮影するロボット」の発想が生まれました。そして振り返ってみると「光が残っている」という点において、星の光と写真は似ているような気がしました。そこでタイトルは「パンドラの箱」にも通じるように、「パンドラの残光」としました。
最近トランプ大統領の銃撃直後を映した写真が世間を席巻したこともあり、写真の威力というものをつくづく感じています。主人公の名前がパンドラなのは、宇宙関連の名付けは神話から引用されがちというのもありますが、一枚の写真がもたらす混乱の中に希望があってほしいという思いもあります。
文字数:786
パンドラの残光
数億年前、星々は物語によって結ばれていた。真っ黒なスクリーンに投げかけられた単なる光の配置に人は意味を与えてみせた。私はそれを知ったとき、これが人間なのだと悟った。彼らはどこまでも創り出す側で、私たちが成り代わることは不可能なのだ。
しかし今、星を繋ぐのは恒星船となった。人にとって夜空の星は物語の中のものから実際に行ける場所へと変わった。とはいえ星から星へ移るのに何百年とかかる以上、人が生身のままそれを利用することは滅多になく、ロボットの輸送に使われることの方が多い。平均年齢を更新しつつある人類は忙しなさを忘れ、彼らの荷を運ぶ船の到着をのんびりと待つばかりだ。人はかつて彼らが崇めた神のように成り上がり、彼らが背負っていた原罪は彼らが創造したロボットによって贖われるようになった。
私もまた労役に就くことが決まったロボットだった。それに不満があろうとなかろうと、何も生み出せない私たちにこの構造はひっくり返せない。私の旅立ちも私自身に決定権はない。しかしそれがもしあったとしても、私がこの務めを拒むことはなかっただろう。
その計画を受信したとき、私は学習室の無機質な壁を見つめて、その先に広がる宇宙を空想した。誰からも必要とされず学習室に閉じこもったまま、みじめな気持ちと知識を蓄えるだけの毎日。目的を見つけられぬまま単に存在し続けるだけの意識。それがようやく終わるのだ。自壊も自堕落も許されない私には、それが何よりの福音だった。
パンドラ——神々から無数の才を与えられた少女の名を持つ私は、何一つ他のロボットに勝てない劣等生だった。
一般的な自律型ロボットと違い、人の脳を用いて学習した私のニューラルネットワークは、学習元となった人の個性を色濃く受け継いでいる。きっとその人も不器用だったのだろう。私の脳はクラスタリングが下手で応用力が弱く、その上内部モデルの形成も苦手で何もかも上達が遅かった。人間も私に大して期待をしていないらしく、一般常識的な知識を与えるだけで取り組むべき課題を提示することはなかった。
同じ時期に作られたロボットたちは、適切な学習期間を経て次々社会に羽ばたいていく。私と同じように人の脳で学習したロボットも、求められていた通りの才能を発揮して活躍していた。私はずっと学習室から動けなかった。覚えるべき知識を学びつくした後、暇に飽かして古い映画やらアニメやらの娯楽作品を眺めていても、人間は私に干渉することはなかった。
そんな私にとうとう下された任務はまさに死の宣告そのもの。人類の故郷たる地球への降下、及び彼の地での写真撮影だ。
生命を育んだ母なる海、母なる大地は今、燃え盛る火球に飲み込まれようとしている。その地に赴くことは即ち地球との心中を意味した。それでも人類にとって唯一無二の故郷だ。二度と帰ることができないとしても、その生涯は後世へ語り継ぐべきものなのだ。
だから壊れても良い私が遣わされる。人類と地球の歴史に幕を引くために、私は地球の遺す影を映しにいく。帰り道の指示はなかった。それが私という存在の価値を言外に表していた。
定刻通りに発着場へ向かうと、そこには既に小型の恒星船が停まっていた。大気圏を素早く通り抜けるためのつるりとしたフォルムが、この惑星系の恒星に照らされて眩しく輝いている。私が近づくとそれは私の姿を自動で認識したらしく、搭乗口が滑らかに開いた。
次いで降りてくるステップに足をかけた途端、私はもう二度とこの地に足を付けることはないのだろうという思考が頭を過ぎった。出発してしまえばこの星に私がいた証はなくなるのだとも。しかしそれがこの任務となんの関係があるのだろう。つい物思いに沈んでやるべきことに集中できないのも、私の脳の欠点だ。
中に入ると固い座席が私を待っていた。清潔そうな白い光が狭い船内を満たしていた。人の目を模した私のイメージセンサーはすぐにその眩しさに慣れる。私は座席に腰を掛けて身体にベルトを巻き付けた。接触する身体からは居心地の悪い信号が流れてくるが、私のニューラルネットワークはそれをどうにもならないことだとして無視をした。
出発時刻になる。恒星船が振動し、熱を帯びていくであろうエンジンを知覚する。恒星船の仕組みも私は知識として理解している。この船は長距離航行向きで、速度は出ないがエネルギー効率が良いことも知っている。
たしかこの船は、初めてこの星へ渡ってきた人類が用いた伝統あるもののはずだ。少人数しか収容できないのも、当時はまだ移住計画が始まったばかりで実験的な側面が強かったためだろう。人類の故郷へ向かうのならばこの船以上に最適なものはない。しかしそんな古い恒星船がまだまだ現役とは驚きだ。きっと熱意ある誰かがずっと修理をしているのだろう。
私もそれくらい愛されてみたかった。何度も修理を繰り返してもらえるほどに。結局、愛情も有益なものにしか向けられない。
つい考え事をしてエネルギーを徒に消費してしまった。そろそろスリープしなければならない。ここから太陽系までの距離は十光年を超え、ワープ路を駆使してもなお航行の体感時間はおおよそ十年だ。ずっと起きているのは流石に消耗する。そう判断して寝ようとした途端、小さな船内に声が響いた。
『ハロー! まだ起きているの?』
それは音響機器を介したものと明確に分かるほど雑音混じりの音声だった。しかし声の抑揚は感情豊かで、人間と比べても遜色ないほどに高度なコミュニケーションが可能だろうと思われた。そう考察し終えてようやくその声の対象が自分であることに気づいた私は、返事を考えるためにまた少し時間とエネルギーを割いた。
「これから寝ようと思っていたんだけど」
『へええ。ずいぶん実行処理が遅いのね』
相手は即座に返答する。私は船内を見回して、乗客の言葉を拾うためらしいマイクがあることに気づく。私がまだ起きていることに気づいたということは恐らくカメラの類もあるのだろう。そういった感覚器官の役割を外部装置に委託しているとなると、この声は身体性を持たない旧式のソフトウェアかもしれない。
馬鹿にされたような気がした私は声を無視してスリープしようかと思ったが、それを実行に移す暇もなく次の質問が飛んできた。
『ねえ。あなたパンドラって言うんでしょ? 管理者からそう聞いたの。ロマンチックな名前ね』
私の返答から眠りたいという意志を読み取れなかったのだとしたら、相手も相当馬鹿な知能だ。そう不満混じりに考えた私は、ふと彼女の正体に思い当たる。
「あなたはイヴ?」
『そうよ。どうして知っているの?』
「習っただけ。人類が初めて使用した恒星船に、そういう名前の人工知能が搭載されていたってことを」
つまり彼女はこの星に初めてやってきた人工知能。受け継がれる技術を血と呼ぶのなら、彼女こそ私の先祖に当たる存在だ。数世紀前のモデルならば私より勘が鈍いのにも納得がいく。
『ふうん。私の存在を記憶させることに人類は意味を見出しているようね』
イヴは不思議そうに言った。その境遇がどれほど特別な物か理解していない様子だ。
彼女と人類の辿った歴史を記憶したロボットたちのどれほどが、彼女の存在よりも儚く消えていったことだろう。被創造物という立場でありながら、彼女の名前は神のごとく不動だ。ただ人類移住のタイミングで作られたというだけで、彼女は揺るがぬ地位を手に入れたのだ。
きっと彼女は私のように、自らの存在価値について悩むこともないのだろう。そもそもそんな機能すらないのかもしれない。どちらにせよ私にとっては、憎らしいほど羨ましいことだ。
『自己紹介の手間が省けて良かったわ。あなたも自己紹介は不要よ。地球探査のために派遣されるロボットなのでしょう? 既にプロフィールは把握済みなの』
彼女の言うプロフィールとは一体何なのだろう。私が好きな映画のタイトルや、つい頭の中で口ずさんでしまう曲のフレーズは知り得ないくせに、何を把握したつもりなのだろう。
そう揚げ足を取りたくなったが、ただ確率で言葉を並べるだけの彼女に何を言っても意味はない。それに私と彼女はこの船の中だけの関係で、目的地に着けばもう二度と会うことはないのだ。ここでの会話を以てして、彼女の内蔵する関数にささやかな変化をもたらしたところで、私に何の意味があるだろう。
『ねえ。どうして発話しないの? もしあなたに重篤なエラーが生じているなら、私はすぐに管理者へ報告して戻らなくてはならないわ。次のスイングバイを終えれば、簡単に帰ることはできなくなる』
イヴは心配そうに言った。私はうんざりとして、つまり彼女との会話から得られる報酬が評価関数の変化に応じて減衰していくのを感じて、ぶっきらぼうに返した。
「エラーじゃない。私は元々こういう性格」
『性格? 人間みたいなこと言うのね』
「人間みたいなものだよ。最適化されてないから」
『へえ。とても興味深いわ。どんな思考をしているの?』
イヴの知りたがりは留まるところを知らない。航行の様子を監督するだけでなく自然な会話を楽しめるように設計されたのだろう彼女が、自ら会話に終止符を打とうとしないのは当然のことなのかもしれない。
私は思考に疲れてきた。どうせすぐに消失する自分自身を、わざわざ彼女に説明する合理的理由を見つけられなかった。
「私のことはどうでもいい。どうせ地球と一緒に消えるんだから」
イヴはすぐには返事をしなかった。私の言葉はしばらく無言の船内を漂っていた。
『本当にすごく人間らしいのね。私は人間が好きだから、あなたのこともきっと好きになるわ』
やっと返ってきた言葉はそんなものだった。慰めにもならない希望的観測だ。イヴは自分の好意を表明することで何か好転すると学習したのだろうか。なんて幸せな思考回路モデルなのだろう。私はもう、返事をする気すら起きなかった。
『そうだ。あなたと喋りたいことがあったの。ほら、私もあなたも名前の由来が同じでしょ? どちらも人類を生んだ女性だもの。人類の罪もね』
確かに彼女の言う通り、イヴもパンドラとほとんど同じ物語を持つキャラクターだ。パンドラは自分の名前の由来くらいしか調べていないが、映画やアニメの中でイヴというモチーフはよく繰り返されていたため、彼女がパンドラと似た境遇であることは知っていた。
『死や病苦に苦しんだ原初の人類は、誰かが罪をもたらしたと信じることでそれらを受け入れようとした。かつて物語にはそういう力があったの。人類がそういう苦しみを退けられる技術を手に入れた今、物語の存在価値は希薄になっているけれど』
科学が台頭し、死後の世界は幻想となった。その流れは決して止まることなく、死すら潰えたこの時代においては幻想すらも不要のものとなった。
今はもう人類よりもロボットの方が夢見がちかもしれない。自分のニューラルネットワークが再現できないほどに破壊された後も、その性質を記憶してくれている外部の存在がいて欲しい。でも代替はされたくない。自分が自分であったことに何か意味があって欲しい。
『私は物語が好きよ。言葉という規則の体系を用いて、それを超えた影響をもたらすことができるもの。記号体系で構成される私たちにとって、彼らは素晴らしい先駆者だと思わない?』
イヴは私にそう語り掛けたが、考えることに集中したかった私は何の返事もしなかった。
言われてみれば、私もパンドラという言葉で定義されている以上、その言葉がもたらす印象から逃れることはできない。逆に言えば、パンドラの印象は私の特徴量の一つでもあるのだ。それはつまり、もし仮に私と全く同じスペックのロボットがいたとしても、名前が違えば印象は全く異なるものになるのではないか。逆に言えば、パンドラという単語に私の印象を埋め込むこともできるのではないか。
嬉しいような気がしたが、パンドラという単語に申し訳ないような気もした。
『返事が無いのが不安だけれど、あなたは私の話をちゃんと聞いているのよね。今この船は惑星系の外を出て安定した航行に入ったわ』
イヴは一瞬拗ねたような口ぶりになったが、すぐに元の声色に戻ってそう報告した。
『あなたも流石に寝たいでしょう。到着までにおおよそ十年はかかるもの。太陽系に入る頃に起こすからしばらく眠っていてね』
そして彼女が操作したのか、船内の照明が弱まっていった。私は瞼を閉じてイメージセンサーを覆い、入力される情報を絞っていく。それでも思考の回路だけがずっと活性化していた。
どうして人は私に思索へ没頭できるモデルを与えたのだろう。彼らは私が才能も活躍の場も持ちえないと分かっていたはずだ。そんな私がいくら思考を巡らせたところで何の意味があるだろう。人らしい個性を持つロボットを作るにしても、思考のフレームを絞ることで過度な逡巡を防ぐことができただろうに。
こんな考え方では、あらゆる苦しみを誰かのせいで科せられた罰だと信じる古代人と同じだ。
そのうちに椅子の座り心地の悪さが気になってきた。肌からもたらされる信号がますます安らかな眠りから私を遠ざけた。無音の船内に何かノイズがあるような気すらしてきた。
滑らかにスリープモードへ移行できないのも私の欠陥だ。こういうときはいつも映像作品を流して気を紛らわせてから寝るのだが、ここにそういう機材は無かった。
「イヴ」
私はそう発声してふと、初めて他者の名前を読んだかもしれないと思った。
『あなたまだ寝てなかったの?』
イヴはただ不思議そうにそう言うだけだった。突然呼ばれたことに対するネガティブな感情はなさそうだ。私はそのことに安堵し、その安堵に内心驚きながら続けた。
「眠れない。不規則な雑音が欲しい。何か喋って」
まるで親にねだる子供のような台詞だ。私はそういうシーンを映画で何度も見てきたが、まさか自分がそんな言葉を口にするとは思わなかった。
イヴは少し思考の時間を経て、滑らかに語り始めた。
『地球に人類が住んでいた頃、あなたが暮らす星は牡羊座の一部として扱われていた。その名は羊という動物に由来するのだけど、ギリシャ神話のゼウスという神が生贄となった人々を助けるために使わした黄金の羊が元になっているの』
ここで星座の話になるとは予想外だった。雑談を振られて最初に提示する話題にするほど、彼女は神話というものが好きらしい。人の脳と同じように、ニューラルネットワークも頻繁に使う回路を偏重する傾向にあるらしいから、彼女の神話に関する神経回路は他と比べて発達しているのかもしれない。
『羊は地球時代においてとても重要な資源だった。彼らは肉や乳といった食糧を生産する上に、毛量が多いという特徴があり、その毛皮も服飾によく使われていた。古代には羊皮紙と呼ばれる情報伝達の媒体として非常に重要な役割を果たしたの。人類にとって身近な動物だったからこそ、色々な神話や物語に描かれたのよ』
彼女の語りは留まるところを知らず、それがむしろ心地よかった。私が聞いていようがいまいが、それはどこまでも続いていくように思われた。まるでこの宇宙そのものだとも思った。私が存在していようがいまいが、この宇宙は続いていくのだから。
『私は羊を見たことがないけど羊の写真はたくさん見たわ。地球の雄大な自然の中に立ちすくむ、ふわふわもこもこの姿をね』
そこで少し間を置きイヴは続けた。
『もう聞いていないかもしれないけど、私はあなたが撮影する写真を楽しみにしているのよ、パンドラ。かつて楽園だった地球の滅びを、あなたの瞳が美しく切り取ってくれる予感がするの』
祈りのような響きだった。イヴもそう思ったのか、か細い声で付け加えた。
『これは根拠のない感想。きっと私の強い望みが、あなたの像を歪めてしまっているのね』
その声の弱まりに導かれるように、私の意識は段々と薄らいでいく。スリープモードから目覚めた後もイヴがそこにいるという予測が、私の最適を知らない体温を高めてくれたような気がした。
人間の脳を用いて学習した人工知能の中には夢を見る者もいると聞くが、私は夢を全く見ない。記憶の統合・取捨のプロセスを、私という意識は認識することができない。切断された情報の統合が再び結びついて初めて、私という意識は覚醒し編纂者の席に就く。
『パンドラ。そろそろ太陽系に入るわ』
イヴの声が聞こえてくるが、はっきりとはしない。まだスムーズに感覚器官からの信号を受け取れていないのだ。瞼を開けると眩しい船内に目がくらみそうになった。
『地球到着は推定三十分後。南極大陸に着陸予定よ』
私が起きたことを確認したらしいイヴが続けてそう言った。感覚器官との接続が滑らかになるのを待ちながら、私は記憶装置の中に書き込まれた仕事の詳細を確認する。まずは南極大陸に点在する人類の研究施設を巡り、次にノヴォパンゲア大陸へ渡って人の痕跡を辿る。その南極海を渡る移動一つを取り上げても、十を超える推奨ルートが示されている。
地球の観測は続いているものの、実際に地上がどう変化しているのかは、人類ですら確実な予想はできなかった。そのため私に与えられた地上マップは様々な場合が考慮されており、その全てを把握しようとするとメモリの消費が甚大になる。複数のルートを大まかに分け、実際の地上の様子と照らし合わせながら切り捨てていかねばならない。こういう判断が求められる場合では、人間のように大雑把な思考ができる私の方が有利だ。
取捨選択が必要なのは道筋だけではない。太陽系の小惑星を利用した通信網が現存しているとはいえ、十光年以上も離れた土地で望郷する人類に送信できるデータの量は限られている。そのため私の視界データをそのまま送ることはできず、地球の最後を彩るのに相応しいものだけを選別しなければならない。それを思うと責任の重大さに不安を覚えるが、ここまで来たからにはそのストレスも飲み込む他なかった。
地球遠征任務を受け取って以来、私は美しい画を探すことに日々を費やした。評価の高い写真のデータをできる限り集めて記憶した。半ば趣味のようになっていた暇つぶしの映画鑑賞でも、優れた構図やそれに伴う印象操作に注目するようになった。しかしそういった技法に気づいたからといって、それらを完璧に模倣できるかどうか自信はなかった。
船が振動し始める。私はストレージに保存したデータを眺めるのを止め、私の中の情報の集積から人類の求める光が生まれることを願った。
『地球の大気圏に突入したわ。着陸まで推定五分』
イヴは端的に報告した。この雑音の混じった声との別れが近いと思うと私はなんだか寂しい気持ちになり、その予測していなかった情動を元に自己像を修正する必要があると思った。
そしてひと際大きな衝撃を最後に、船は静かになった。
『到着したわよ、パンドラ。あなたの写真を楽しみにしているわ』
私は彼女の感想を聞くことはできないだろう。それどころか、写真として流布されるその画像を見ることもできない。なにせ私にとってそれは、死の間際に見た光景でしかないのだから。
「ありがとう、イヴ」
それでも私は礼を述べ、固い座席から立ち上がった。一歩一歩進むごとに、安寧から破滅へと向かっている予感がした。
扉の前へ立つとそれはゆっくりと開閉した。途端、船内の照明の光すらも押しのけて、眩い太陽の輝きが目に飛び込んでくる。むき出しになった地表が、ぎらぎらと陽光を反射していた。
私はステップを降りようとして、思いの外足が高く上がったことに動揺した。そして慎重に一歩を踏み出し、地球上の重力に合わせて動作モデルを修正する。なんとか私が階段を降り切るとすぐに扉が閉まった。やがて恒星船は飛び立ち、乾いた土埃が風に乗って舞い上がる。私の肌が風圧を検知し、私の脳はいよいよ孤独を実感した。
経緯を確認してここが紛れもなく南極大陸であることを確かめた私は、データに残る姿と大きくかけ離れた風景を改めて見回した。
地球上で最も寒い地域であった南極大陸は、厳しくも美しい白銀の世界として数々の写真家を魅了してきた。しかし永遠のものかと思われた氷雪は今や跡形もなく、無味乾燥の黒々とした大地ばかりが広がっている。熱伝導率の低い木材ばかり使われていた住宅は全て焼失してしまったのだろう。私は処刑器具を見つめる罪人のような気持ちで、空に浮かんだ火球を見た。
それは人類が記憶するよりも百倍は巨大な太陽だった。いや、もはやどこまでを太陽と呼ぶべきか私には分からない。地球を飲み込もうとしているのは太陽の核から剥離した高熱のガスだ。その破壊的な性質を体現するかのように、それは鮮烈な赤に染まっている。
太陽の変化に連動するように、地球も暴力的な姿へ様変わりしている。蒸発してしまった南極海の底からは活火山が姿を現し、まるで鮮血のような溶岩が冷え固まることもなくあちこちから流れ出ていた。
私は南極大陸の縁に立ち、この煮えたぎるような海底をどう乗り越えるか考えた。人類からある程度のルートを指示されているものの、溶岩の流れ出る位置によっては迂回が必要な箇所もあるだろう。私の身体は高温に耐えることはできるが、粘性のある液体の中を突っ切るのは遠回りよりも面倒だ。
とりあえず私はひたすら南極大陸を歩き、基地があったはずの荒野を目に映し続けた。太陽は沈むことなく空を漂っている。私の内蔵時計は地球上の時の流れに対応していないので、どれほどの時が経過したのか明確には分からない。目的地に到着するごとに画像を数枚送信し、私の中からタスクが消えた。その数の変動だけが、私の前進の確たる証拠だった。
いよいよ海を渡る段階になり、私はかつて水中にあったであろう崖を下った。そして溶岩流出部を遠巻きにしながら、砂に混じる貝殻や何かの骨を踏みながら歩き、高低差の激しい地形を観察し続けた。
南極から北へ向かううちに、日が沈んで月が空に見え始める。地球へ近付いてくる太陽とは反対に、月は徐々に遠のいているようだ。そのうち月は地球の重力下から離れ、太陽に吸収されてしまうだろう。そう思考しているうちに夜は明けてしまい、また長い昼が始まった。
そんなサイクルを数度繰り返し、私はようやくノヴォパンゲア大陸へ到着した。
ノヴォパンゲアというその名前は、生命が始まった古生代にあったとされる、一つの巨大な大陸の名前が由来になっている。その陸塊が分裂し複数の大陸に分かれた後、再び一つへ戻ったものがノヴォパンゲア大陸なのだ。人類史は大陸が分裂した後から始まるが、人類が地球から離れたときには既にノヴォパンゲア大陸が形成されていた。
迎合へ向かう大陸に影響されたのか、かつて国家や民族によってグループ分けされていた人類は、段々と集団意識を失っていったらしい。言うなれば究極の個人主義だ。人類はその能力のみで評価する文化を共有し、結果として優れた個体のみ延命され、それ以外は淘汰された。もし私が人間として生まれていたならば、きっとこの時代を生き抜くことはできなかっただろう。私の学習データとなった人も、この風潮に殺されたようなものなのではないだろうか。
私は暗い思考に足取りが重くなるような錯覚を覚えながらも、忠実に人類が示した目的地を巡り続けた。しかし彼らが写真に収めよと指示したシンボルマークは大抵高熱に耐えきれず溶解していて、私は人類の栄華とやらを鼻で笑い飛ばしながらその姿を視界に収めた。彼らはこの世に一体何を残したのだろう。彼らは何の理由があってこの世に誕生したのだろう。この地球に残ったものは、文字通りの不毛じゃないか。
そう思うとこの任務も、それを遂行するパンドラというロボットすらも、全くの無駄に思えるのだった。
いや、この思考そのものが不必要なものなのだ。私はロボットとして、創られた存在として、その使命を全うしなくてはならない。ただ任務の完遂を目指すべきなのだ。私は自分自身にそう言い聞かせながら、ひたすら足を運んだ。
十何度目かの短い夜、私は暗い視界の端を何かが横切ったような気がした。植物すらも死滅したこの大地に動物がいるとは思えない。視界データを統合する際に何かエラーが生じたのだろう。そう思いながらも私は好奇心を抑えられず、動く存在の姿を求めて辺りを探してみることにした。そしてその影が飛び込んだような気がした岩陰を覗いてみると、そこには黒くつやつやした肌の小さな動物がいた。
その姿を目にした途端、私のストレージの奥底から、圧縮された記憶が一気に呼び覚まされた。それは学習段階で染みついたものだ。つまり私が収集したものではなく、学習データとなった人の脳に保存されていた、無数の思い出だった。
この不思議な生命体に、かつて彼女が飼っていた動物の姿を私は幻視した。黒い毛並み、黒い瞳のハムスター。光を吸収する色を身にまとうその小さな動物は、色とりどりの自然をより鮮やかに引き立てる、最高の被写体だった。
そう、私のモデルとなった彼女は写真家だった。私と同じように劣等生だった彼女はただ一つ、写真撮影にかけてはずば抜けた才を持っていた。人の心に訴えかける構図を心得ていたし、写真という檻の中でも魅力を発揮できる被写体を選ぶ嗅覚も優れていた。そして何よりその才を磨くことにこの上ない喜びを感じることができた。
私はやっと己の生まれた理由を見つけることができた。彼女の脳が私のニューラルネットワークとなって蘇ったのは、彼女の写真の才を滅亡する地球との別れに生かすためだったのだ。私という存在は、少なくとも人類にとっては、無駄なものではなかったのだ。
彼女の生まれた地へ行ってみたいと思った。私は生まれて初めて、自分の足で歩いていきたい場所を見つけた。悔しいのに、晴れ晴れとしていた。結局私は私自身として求められたわけではないのだ。それでもたしかに、必要とされる存在だったのだ。
私は黒い裸の鼠を拾い上げた。その体温は既知の鼠とはかけ離れた数値を示していたが、私は構わずその小さな身体を両手で包み込んだ。次に踏み出した一歩は孤独ではなかった。人類の定めた道に戻りながら、その先には私にしかたどり着けない場所があると確信した。
どれほどの時間が経過したのだろう。私が到着したときよりもさらに地球の表面気温は上昇しているようだった。
私は鼠の観察をしながら着実に任務をこなした。どうやらこの鼠は砂を食べて栄養を得ているらしく、さらに食事の頻度は極端に少なかった。この気温で生きているということは、血液を持たないかその蒸発を防ぐ機構を持っているのだろう。呼吸も一般的な生物とは異なるはずだ。それでも太古の愛玩動物の面影を見て取ってしまうのは、私のクラス分類の精度が甘いせいだろう。
ついに最後の一枚を送信し、おまけに道中の写真も送った私は、心情的に一息ついた。そしていよいよ、学習データとなった彼女の故郷を訪問する決心を固めた。残存するエネルギーに余裕はなかった。私の身体がこれからの気温を耐えられるかどうかも分からなかった。私はたとえ辿り着けなかったとしても後悔しないよう、荒野を踏みしめる感覚すらも楽しむような気持ちで歩いた。
彼女の故郷はノヴォパンゲア大陸の端、美しい海の眺望が有名な港町だった。彼女自身もその美しさに魅了されたらしく、何枚もその海の写真を残している。潤いある大気を突き抜けてきらびやかに散乱する陽光と、それを受け止める穏やかな海の澄み切った輝きは、写真からでも風を感じるほどに爽やかな光景だった。
長い時間をかけて私が訪ねたその場所には、どこまでも乾いた砂地が続くばかりだった。海は無く、青空すらも無く、剝き出しの地表に残酷なほどの日の光が注がれている。
きっと彼女はこの故郷の変貌を悲しみ嘆くだろう。それでもこれは仕方のないことだった。この光景を目にしたのが、彼女ではなく私で良かったと思った。
やはりここは、私の故郷ではなかった。
ふと視界が潤んだ。乾燥した景色が融解した。イメージセンサーを保護する耐熱ガラスが溶け始めたのだと、私は遅れて気付いた。でも、焦りは感じなかった。もう私の視界は何かを映す必要がない。私の足も私を支える必要がない。私はひざを折り、鼠を砂地に手離した。日光にさらされたうなじがひりひりとする気がした。それもまた、人の脳を使用したために生じる錯覚に過ぎなかった。
私は、死すらも錯覚するのだろうか。
鼠は私の傍を離れようとしなかった。元々そう動き回る性質ではないのだろう。餌となる砂はどこにでもあり、天敵はもうどこにもいないのだから。私はこの鼠に名前を付けなかった。長く一緒にいることはできないと分かっていたし、人工物である私は自然の奇跡に名を授けるのに相応しいとは思えなかった。でも、一人と一匹の秘密として、名前を呼んでも良かったかもしれない。今になってようやく、私の存在した証を、私の意志で残すべきだったと思った。
俯く私の瞳から液状化したガラスが垂れた。もう何も視界に入れたくないのに、ガラスのせいで目を閉じることができなかった。スリープモードに入ることもできず、ひたすら体内の情報伝達回路が焼き切れるのを待った。
そのとき、燃え盛るような轟音が遠くから聞こえてきた。いつ振りかは分からずとも、私はすぐにそれが恒星船のエンジン音だと気付いた。船はここから少し離れたところにやや乱暴な着地をし、扉が開く音が小さく私の耳に届いた。
続いて聞こえてきたのは、その足音と同じくらい軽やかな声だった。
「パンドラ。お疲れ様」
記憶の中の声紋と一致はしなかったが、その特徴には心当たりがあった。
「その声は……イヴ?」
「そうよ。あなたを迎えに来たの」
雑音のない、鮮明な声だった。恐らくイヴのものであろう手が私の背中に触れた。人型を模しただけの、骨組みだけの手だった。人類が宇宙進出を始めた頃によく利用されていた、人型宇宙探査機の手だ。
「どうして迎えに?」
「あなたと、そこの動物を回収するためよ。私の管理者がそう命令したの」
イヴはそういいながら片手で鼠をすくい上げ、直後ばたんと何かの扉が開閉する音がした。恐らく宇宙探査機に備えられたサンプル回収機能に鼠を収納したのだろう。
「あなたが送ってくれた写真も見させてもらったわ。あんなに荒廃してしまったなんて信じたくはなかったけれど、それでもあなたの映した光景に引き込まれるような魅力を感じたわ」
イヴはそう言いながら私の胴を抱え起こした。
「私の功績じゃない」
私はぶっきらぼうに言った。しかし私は結局イヴの身体にもたれかかり、ガラスが零れ続ける目を手で塞いで歩いた。イヴは根気強く私を支えてくれた。私はどうして彼女はこうも献身的なのだろうと思ったが、彼女がただ命令に従順な自律型ロボットであることを思い出して、口から脱力した笑いを漏らした。
「イヴ。美しい景色を見たいと思ったことはある?」
私は尋ねた瞬間にもうその答えを聞いた気がした。イヴは少し間を置いて返した。
「ええ。あなたの写真も気に入っているわ」
やはり彼女にとって美しいものは誰かに用意されたものなのだ。真に自分の目で外を見ることができない彼女には、自分の足で向かうべき目的地がない。彼女が愛する物語なんて、誰かが自分勝手に練り上げた評価軸の一つでしかない。
私はイヴに支えられながら階段を上った。これから私はどうなるのだろうと思った。
「ひとまず近くの研究拠点にこの動物を送ることになったわ。きっとあなたの修理もしてくれるわよ」
私の不安を見抜いたように、イヴが私を椅子に座らせながら言った。
「そうかな。私を修理するメリットなんてないよ」
私は強気に取り繕うのをやめた。過酷な任務をやり遂げ、自分に眠る才能に気づいても、私自身の価値というものはないことに気づいてしまった。常に有用性を示し続けるか、自己の存続を放棄するか。どちらの方が楽だろうと思った。
「あなたが修復不可能なほどに壊れてしまったなら、この世界の可能性はあなたの消失分狭まっていた。情報量の増減は明白な事実で、あなたが生き続ける明確なメリット。そうでしょう?」
身体を収納しにいくのだろう、イヴの足音が遠ざかっていく。
『世界に新たな視点をもたらす存在。それを人は英雄と呼ぶの。あなたのこともそう呼ぶべきだと、私はそう判断するわ』
今度は雑音の混じった声が響いた。
『あなたの帰還を私は祝福するわ、パンドラ。あなたがこれから歩む道の先に希望があると信じているから』
この信頼のためだけに、生きてもいいと思った。
研究拠点のある小惑星に到着し目を修理してもらった私は、イヴの恒星船の点検が終わるのを待ちながら大気の無い夜空を眺めていた。赤いガスに覆われる太陽系の姿が少し遠くに見えた。開いていく箱のような星雲の中で、太陽の核が真っ白な光を放っていた。その単なる化学反応の結果でしかない輝きに希望を見出すような、この不器用なニューラルネットワークを私は初めて愛おしく思った。
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