千の手は切り取られても
少年の仕事はある実験体の腕を切断することだ。誰もが嫌うこの仕事を少年だけが淡々とこなした。
家族も財産も無い少年にとって、それだけが生きるよすがだった。
その実験体は施設の端の一室に収容されている。部屋の名前はK28。実験体も同様に呼ばれる。少年が暮らす部屋からは遠く、少年はK28に通う度に、すれ違う研究員から汚物を見るような視線を浴びるのが嫌だった。
K28に入ると少年はまず服を脱ぎ、機械に身体を除菌される。そして用意されている服を着て、同じく備品の刃物を手に取る。
清潔な通路を行くとがらんどうの空間へ出る。壁を這うように伸びているのは実験体K28の無数の腕だ。その中心にK28は膝を抱えて座っている。その髪は少年の知らない間に切り揃えられ、K28の顔を隠して余りある長さに整えられる。少年はその顔を見たことも、声を聞いたことすらもない。
少年はK28に近づき、その肩に手を添えて背中を覗き込んだ。無数の腕がK28の骨ばった背から生えていた。触れると生温かく、少年の冷えた手に熱が伝わっていく。
刃物をあてがうとそれは小さく震え、滑らかに腕を背から分離する。溢れ出る血はやせた背を伝って床に広がった。
全ての腕を落とし終えると、少年は一つ一つ腕を拾っていく。集めて部屋の隅の穴に投げ入れるのだ。
流水の音が聞こえた。振り返るとK28の背後の壁から水が噴き出ていた。それは壁の血を洗い流し、床に溢れてどこかへ引いていった。髪の毛が濡れそぼってもK28は無言のままだった。
K28の腕を切るのは6日に1回だ。それ以外の日の少年は先輩の手伝いをして過ごしている。少年がK28の噂を聞いたのも、先輩を手伝う中でのことだった。
「K28はイモリと人間のキメラらしいな」
少年と仲の良い先輩がそう言った。彼の仕事は無数のイモリの世話で、いつも生臭い匂いをまとっている。
少年は押し付けられた水槽のしつこい汚れをこすりながら耳を傾けた。
「研究員が話していたのを聞いた。昔、イモリから遺伝子を抜き取って人間に移植する実験があったらしい。こいつらって身体のどこが欠けても再生できるだろ? それを人間に応用できれば再生医療の革命だってことで、攫ってきた人間を使って試してたんだとよ」
少年はとりあえず頷き、なかなか取れない汚れを何度も何度も洗い流した。その度に冷たい水が少年の手を打った。
「何人も死んだがK28は適合した。それで再生実験をしてみたら、傷が塞がる代わりに余計な腕が生えてきた……ってことらしい」
先輩は手際よく水槽を洗っていった。次々戻されるイモリは、身体を触られてもぐったりとしている。
「K28の気持ちを考えるとぞっとするよ。だって俺たちもいつ実験体にされるか分からないんだぜ」
少年は像のように動かないK28の姿を、まるで出口を探すように這う腕たちのことを思い出した。
ようやく水槽の汚れは薄くなっていった。少年は指先の痒さが我慢ならなくなってきた。
「もし俺がK28の立場だったら傷が塞がらないことを喜ぶだろうさ。怪我が治らないってことは、死ぬ希望があるってことだからな」
少年はまた一つ頷いた。水槽がやっと綺麗に仕上がった。
研究員から注がれる視線を少年は思い返した。そして洗い終わった水槽を置き、指を思いきり掻いた。それでも痒みは収まらず、より一層ひどくなった。
次に巡ってきた仕事の日、少年は刃物を持ってK28の元へ向かった。除菌のための部屋も清潔な廊下も代わり映えは無く、巡回する冷えた空気が少年にしつこくまとわりついた。
K28は変わらず不動だった。壁を伝う腕だけがいつもその位置を変化させていた。
こいつが死ねば、研究員は表情を変えるだろうか。
少年はK28の肩に触れた。髪をかき分け、その首に刃物を当てた。
そして初めて気づく。
背中と同じように、首にも不自然な筋肉が付いていた。
髪を除けると顔があった。それらは首からびっしり生えていた。
K28が首を掻きむしった跡だ。少年はそう直感した。顔と呼ぶべき首に刃を添わせる手が震えた。
呆然とする少年の前で、K28は膝を抱く腕から顔を上げた。
「よしなさい」
重なる声はがらんどうに響いた。それを発する中央の顔が、ゆっくりと少年へ向けられる。
「私の腕を切り続けるのです。そうすれば、彼らもあなたを手放そうとはしますまい」
K28は微笑んでいた。今にも消えそうな灯のようだった。
「さあ、私の腕を切って。救われるときを信じて」
少年はその温もりに縋りついた。なぜそうしたのか分からなかった。それでも溢れ出る涙が、やせた背を伝って床に滑り落ちていった。
少年の仕事はある実験体の腕を切断することだ。誰もが嫌うこの仕事を少年だけが淡々とこなした。
再生のために傷を付けるのか、傷を付けるための再生なのか。
そこに答えなど無いのかもしれない。
文字数:1998