アンプルリセット

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梗 概

アンプルリセット

アンプル型人間のカーシュラは、父親と共に脳内から感情のみをリセットするアンプルリセットをしていた。左耳の裏側に組み込まれたアンプルは、感情髄液マインドウォーターを充填させる。アンプルを遠心分離機にセットすると、感情の成分のみが分解され、データは政府に転送される。アンプルは交換式であり、ほぼ全ての国民はアンプルリセットをしながら生活していた。人間は感情を見せず、無表情や無関心で過ごしていた。
 カーシュラはアカデミーで任された飼育当番でウサギ小屋に行く。飼育小屋には循環式電冷水装置でつくられたウサギがいて、電冷水の水質点検が当番の仕事だった。しかし、4匹いるうちの1匹、茶かっ色のウサギだけが死亡しているのを発見する。電冷水を調べると、色が赤く変色していることに気づく。さらに小屋の外で泣いているケントと出会う。彼を通じてウサギの死が『かわいそう』な感情であると認識する。ケントは遺伝によりアンプルを組み込むことのできないセチメント型だった。ケントの父親はアンプル型で、母親はセチメント型と知る。ケントはアンプルリセットをしないので、感情を常に抱えていた。

カーシュラは、教官からウサギの死因が、電冷水内の感情髄液マインドウォーターの混合におけるショック死と聞かされる。しかし、ウサギは機械なので、感情は存在しないはずだった。
 ケントの影響で、カーシュラはアンプルリセットをしても感情が完全にリセットされていないことを実感していく。感情が蓄積したカーシュラは無表情や無関心を保てなくなる。不安を感じるまでに至ったカーシュラは、両親にセチメント型と交流している事実を話す。両親は、ケントとの交流を控えるように言う。ケントと交流を避け、アンプルリセットをするカーシュラ。徐々に無関心や無表情を取り戻す。ケントに対する感情も薄れていく。

数日後、カーシュラは飼育小屋でケントと遭遇する。そこで、ケントはカーシュラに秘密を打ち明ける。死んだウサギに感情髄液マインドウォーターを混入させたのはケントだった。ケントは自分の父親が亡くなった際に、リセット前のアンプルを持ち出していた。感情をリセット出来ないケントは、父の死という喪失感で苦しんでいた。父の感情を再現するために電冷水ウサギに混入したと告白する。ウサギは感情を持つようになり、しかし、それが原因で孤独を感じて死んだ、とケントは伝える。
 そこで「感情をリセットしたら、誰かを忘れることはない?」とカーシュラに聞く。
 カーシュラは「思い出すだけの理由があるかによる」と答える。
セチメント型の多い地区に移住することになったケントは、会えなくなる前に『ウサギの死の秘密』と『僕を覚えていて欲しい』と言い残して別れを告げて去る。飼育小屋に1人残るカーシュラ。小屋にいるウサギを抱き抱えて顔の表情を確かめる。その顔を見ても、ウサギの表情は何も分からない。

文字数:1200

内容に関するアピール

時々、何かを見て何かを思い出す時があります。映画とか、街の風景とか、誰かの姿とか。それらと関係があったり、まるで全然関係がない記憶だったりする時もあります。(後者の場合、あまり居心地の良くない記憶ばかりが多いですが)唐突に思い出す記憶と、同時に絡みついてくる感情を、一緒くたんに実感するのは不思議ですが、自分の影に追われているような気もして、なんだか危険な雰囲気もあります。そんな時「もしも感情の一部あるいは全体が、自分の中から消去されていたらどう思うのだろう?」と夢想したのが、着想のきっかけでした。
 あとウサギについては、通っていた小学校で飼われていて、いつも「誰が管理しているのだろう?」と当時思っていました。少し前の事ですが、10年以上ぶりに、かつての小学校に訪れた際にウサギ小屋を覗いてみたことがありました。すると、ウサギが1匹もおらず、ただ小屋だけが残っていたのが印象的でした。

文字数:395

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アンプルリセット

アンプルはスポイトに似た形状にも見える。材質はステンレスよりも硬く、透過性はガラスよりもクリアである。全長20ミリ、胴長13ミリ、先端部7ミリからなる。交換式埋め込み型であり、大抵の場合、各人は2つずつ交互に入れ替え、使用する。それの主な機能は、末梢神経と脳内に働く電気信号を接続させる目的にあり、例えば、電池のプラスとマイナスがあるのと同じく、直流式コイルと近似した作用を持つ。
 左耳裏側の内耳付近の神経細胞との共振度に優れており、脳内の感情細胞を誘発し、髄液と溶解しながら、溶液になり、流れ込んだ液体が、感情髄液マインドウォーターと呼ばれ、アンプル内に充填される。感情髄液が一点に集積されることで、脳内に派生する各器官のドーパミンが抑制され、感情の発露が緩く散漫になり、顕著な影響として人間に表情や関心などの、情動を抑える働きがある。それにより、怒りや憎しみなど、争いへと繋がる感覚が遮断されることにより、犯罪や紛争の発生率が下がったことも実証されている。

                             

                 著カーシュラ・L・ランドル【機械ウサギの眼はその脳に感情を伝えるのか】2138年刊
                                                                                            〈第1章 アンプルの機能・構造について〉(より一部抜粋)

 

 

.1

その手が、カーシュラの左耳の裏側にある蓋をつまんで開けると、そこに感情髄液マインドウォーターの充填されたアンプルが現れた。その両端を人差し指、親指で取り外すと、父親は部屋の照明に透かして色味を確かめた。
「今日は、なにかアカデミーで、特別なことでもあったのか?」と父親は聞いた。
「はい。今日は音楽の授業がありました」カーシュラは平板な口調で答えた。アンプルを取り外している間の感情は無に等しく、肉体は精神を損なったからの容器のように見えた。
「なるほど」と父親は無表情で言い放つと、自らも左耳の裏側に手を伸ばして、アンプルを取り出した。
「お父さんのも、いつもより、少し色濃いですか?」とカーシュラは父親を見つめて言った。
「いや、いつもと変わらない。最近は仕事で忙しい日が続いているから、この程度だ」と父親は言いながら、両手にそれぞれ持ったアンプルを遠心分離機にセットする。感情髄液は、通常時は無色透明である。しかし、ストレスの成分が過多に含まれると、白濁した色へと変わった。
 遠心分離機の外観は円筒型であり、小型のロケットのような形をしている。表面は黒光りした鉄の塊のようだった。正面にはセンサーパネルがあり、指を近づけることで反応した。右側にはL字のレバーが取り付けられている。このレバーだけは素材が異なり、銅で出来ていた。遠心分離機には切れ目や継ぎ目がなく、その中の構造も伺い知る事は出来なかったが、唯一センサーパネルを起動させる時のみ、中心部の扉が透明な窓に変わり、内側を観察できる仕組みだった。その窓内には、アンプルをセットする為の円盤が見える。
 父親は[OPEN]を押し、扉を開けた。そしてアンプルをセットし[CLOSE]で扉をロックした。
コマンドを入力し、起動ボタンを押す。

 [code:ppm/ksr92331.amp/2ka    date:2123/05/17 22:35;14]

  [code:ppm/sya76310.amp/4cd    date:2123/05/17 22:36;26] 

 [start]

透明な窓を通して、円盤に固定されたアンプルが見える。低速から徐々に高速回転される2本のアンプルは、やがて重なり合うかのように一対の影のごとく超速になった。
 ピッ、ピッ、ピッ、とリズムよく電子音が合わさり鳴っている。解析には通常60分以上の時間を要するため、このタイミングで交換用のリセット済みアンプルを左耳の裏側に差し込む。
「うん。交換もずいぶん慣れたようだな。今度からアンプルリセットも、一人でやってみてはどうだろう?」と父親が尋ねた。
「はい。トライしてもよいかもしれません」とカーシュラは反応した。
「やってみろ。ただ壊したり、髄液を漏らしたりしたら大変だ。慎重に扱うように」
「アンプルが破損する可能性はありますか?」
「いいや、アンプルは心配いらない。大切なのは遠心分離機へのセット時だ。コマンド入力を誤ったり、固定具合が適切でなければ、データ解析に失敗する場合がある。そうなれば大問題だ。けれど、だからと言って、毎晩、俺と同じタイミングでリセットしていたら、遅くなる。それに早く、1人でリセットをこなせるようになっておくのも重要だろう。俺が帰宅する頃には終了してるだろうから、お前のリセット後のアンプルは、遠心分離機の横に置いておく」
 父親が視線を向けたその先には、すでにリセットを終えた母親のアンプルが置かれていた。母親は2人よりも、もっと早く、カーシュラがアカデミーから帰宅する頃にはアンプルリセットを始めていた。そして父親が帰ってくる時間には、すでに就寝していることが多い。
「なぜ、僕たちはアンプルリセットをして、データを送信しなくてはならないのでしょう?」とカーシュラは父親に尋ねた。
「いままで聞いてこなかったのに、どうしたのだ?」と父親は聞き返した。
「意味を理解できなくては、メリットやデメリットを把握できないのでは考えました」
「そうか。説明するには少し難しい。それに時間も必要だ。今日はもう遅い。また時間のある時に話すから、お前は、もう寝たほうがいいだろう」
父親のその言葉に、カーシュラは納得を示さなかったが、アンプルを交換したばかりなのも作用し、興味は途端に薄れていった。
「アンプルリセットは必ずだ。国民みんながやってる。もしリセットし忘れでもしたら、恥ずかしいことが起きるのだ」と父親は言った。
「恥ずかしい、とはなんですか?」
父親はカーシュラの疑問には答えず、代わりに息子の頭にそっと手のひらを添えた。

 

機械ウサギの飼育当番は1週間ごとに割り振られていた。飼育小屋はアカデミーの敷地内でも、とりわけ目立ちにくい場所に建てられていた。ウサギの数は全部で4匹。体毛が白色、眼が青色の《ノウサギ》バージョンが3匹。体毛が茶かっ色、眼が黒色の《アナウサギ》バージョンが1匹である。
 飼育小屋は金網の四面壁に、コンクリート床と天井がトタン屋根で出来ていた。前時代を再現した建築物だった。いまみたいな22世紀前半には、ほぼ存在しない建物だった。
 現代建築のように、連結ジョイントと軽量超合金パイプの組み合わせから成る、多面体円球型の建物と比べると、前時代的な建築は乱暴で、醜悪に感じられた。なにより直線が多く、なぜこんなにも前時代人は直線を多用していたのか、カーシュラは不思議でならなかった。
 多面体円球型は増築も形態変化も速やかにおこなえる。多角形にはめ込まれるシールド壁は、気温や湿度の自動調整、耐朽性と太陽光蓄電などの機能性に優れ、どの環境にも適応可能だった。アカデミーの校舎も同じタイプの建築であることはもちろん、国中の建物はどれも同じだった。

カーシュラはいつの頃だったか、アカデミーで訪れた建築博物館での見学のことを思い出した。そこには縦に長く伸び、まるで天に向かって挑んでいる直方体建築が展示されていた。それは光学スキャニングで300分の1に再現された21世紀型タワー住居であった。
《この巨大なタワー住居に、複数の個別家族形態が入居し、生存していました》と説明する自動音声に、反応したクラスメイトの1人が『前時代人は、感情過多なので、このような奇妙な建物を創造するのでしょうか?』と引率していた教官に質問していた。教官は『それも大いに関係しているでしょう。ある種の欲望という感情が、その時代の人間達に影響を与え、このような建築を残したのだと言われています』と言った。

これらの記憶は、飼育当番で小屋を目にする度に、いつも記憶に蘇った。
(アカデミーがこの飼育小屋を保存しているのは、なにか意図があるのだろうか?)
 そんな想いが頭を過ぎったが、カーシュラは深く思考することをやめた。関心を深めたところで、これより先は無意味なことにしか感じられなかった。
 小屋の裏側にある通路を開けて屋内に入った。
飼育当番の仕事は大まかに2つだった。1つはウサギの電冷水の水質検査である。電冷水とは、機械ウサギの動力源ともなっているエネルギー資源で、1匹ずつ捕らえて、腹部の中央にある循環式電冷水装置を点検する。50ミリ角の切り込みの体毛のシールを剥がすと、そこに電冷水装置が目視できる。検査用の◯型の弁が備えられてるので、その弁に電極針を貫通させて、電冷水に直接触れる。基準値内である場合は電極針が青くなり、異常の場合は赤くなる。異常時は、そのウサギのシリアルナンバーをチェックして、アカデミーの教官に報告しなくてはいけない。しかし、カーシュラが知る限り電冷水異常が起きたケースは聞いたことがなかった。
 もう1つがウサギの触診である。これは文字通り、体の各部位を確認し、故障や異変がないかを調べる。機械ウサギは体毛や筋肉、関節も含めて、あらゆる部位が全て機械もしくは人工物だった。唯一自然的な箇所があるとすれば脳くらいで、その脳も遺伝子組み換えされてほとんど人工物に近い代物ではあった。つまり触診というよりも、保守点検に拠った作業である。触診の際に、特に注意しなくてはならないのは、ウサギの顔に何かしらの反応がないか、確認しなければならないことだった。機械ウサギは構造として鳴き声や感情を示さない。それが正しい状態であるとされていた。なので表情などに感情的情緒が発見された場合は、即時回収しなくてはならなかった。カーシュラは、そもそもウサギに表情があるなんて信じられなかったが、ルールで定められている以上はそれにしたがった。ウサギの顔をこちら側に向けると、口と鼻をひくひくさせて、時折前歯を剥き出したりするくらいで、これがつまり無表情と判断される。
 機械ウサギの存在理由にはセチメント型と呼ばれる、アンプルを持たない人間たちの為だと教えられていた。カーシュラは目にしたことのないそのセチメント型の人間たちとは、感情をリセットできない危険な人種だとされていた。彼らの感情抑制のための研究として、この機械ウサギが必要だとされていた。具体的に何が、どのように利用されているのか、カーシュラは知らなかった。
 飼育当番の仕事するため小屋に入った時、カーシュラはいつもと違う状況が起きているのを理解した。
 1匹のウサギが死んでいたのだ。死んでいたのは茶かっ色のウサギだった。ウサギは金網の穴を、リンゴ大ほどに拡げ、自らの頭を突っ込んで死んでいた。地面から、やや高い位置でぶら下がっている。カーシュラは、どうすれば、そんな高位置にある金網の穴に、頭を突っ込めるのか謎に思った。垂れ下がった機械ウサギは、首巻き毛皮のようにも見えた。
 残りの白色の三匹は、それぞれ小屋のあちこちに散らばっていた。仲間が死んだことに関心はないようだ。これらは正しい反応なのだろう、とカーシュラは判断し、生きているウサギの点検から始めた。1匹ずつ電冷水の水質検査をして、触診しながらウサギの顔の表情を確かめる。白色ウサギ達には、いつもと同じで何も異変はなかった。
 カーシュラは茶かっ色ウサギの頭を金網から引っ張り出した。首部を触診すると、人工骨格が90度折れ曲がり、破れた人工毛皮の一部から光ファイバーが突き出し、断線していた。金網の穴を見ると、周囲よりも2倍ほど拡がっている。よほどの勢いで突っ込まなければ、金網は押し拡げれないはずのその穴に、機械ウサギの異常な痕跡が留まっていた。
 死んだ機械ウサギの身体をひっくり返して電冷水装置の点検をしようと開けた。
カーシュラは電極針を貫通させるまでもなく、その異変に気がついた。電冷水の色が変色していたのだ。通常は無色透明である電冷水がわずかに赤みのある色になっていたのだ。さらに眼の色も赤くなっていた。黒い瞳は色素沈着したかのように全体が赤く変化していた。機械ウサギに血液はない。これら眼の形態変化が、カーシュラには理解できなかった。そもそも機械ウサギの眼は人工レンズで作られていたからだ。
 その時、金網越しの向こう側から、いきなり誰かがカーシュラに声を掛けてきた。
「チャトラは死んじゃったんですか?」
カーシュラが視線を上げると、小屋の外に知らない男子生徒が立っていた。その生徒の顔には歪んだ表情が浮かんでいて、眼には水溜まりのような水分が溢れこぼれ落ちていた。
「チャトラ?」とカーシュラは男子生徒に聞き返した。男子生徒はカーシュラの問いかけに何も言わずに、死んだ茶色いウサギを見つめて、声を挙げて呻いている。
「《AU–0187C》のことかい?」と死んだウサギのシリアルナンバーをカーシュラが言うと、
「チャトラだよ!」と男子生徒は少し尖ったものの言い方をした。
カーシュラは男子生徒が無表情でないのと、その眼からあふれだす水分の有り様を見て、真新しさを感じた。

結局、機械ウサギの死因はカーシュラには謎のまま、死体を教官室に運び、出来事を克明に教官へ報告した。電冷水が赤みを帯びていたのをを伝えると、常日頃から無表情を絶やさない教官の目元が、わずかに微動した様子にカーシュラは気が付いた。教官はカーシュラの報告を受け取ると、あとはこちらで対応する、と述べるに留まった。

 

 

.2

放課後、カーシュラはレクリエーション室に向かっていた。ケントと会うためだった。ウサギの死をきっかけに、カーシュラとケントの交流が始まった。ケントとは、男子生徒の名前だ。しかし交流とは言うものの、20分かそこら会話をするだけ、だった。
 レクリエーション室に、他の生徒が残っていることはまずなかった。たいていの生徒はすぐに帰宅するからだ。カーシュラも、これまでは皆と同じだった、レクリエーション室に行くこともなく真っ直ぐ帰宅する。誰もがそうしていたし、生徒同士で話し合うメリットがなかった。お互いへの関心が薄いのも起因しているのだろう。議論や意思疎通のコミニュケーションは、争いを招く要因と危惧されていた。
 けれでもカーシュラは、この放課後の交流に、どこか惹きつけられる感覚を抱いていた。それが興味であるのかどうかは、カーシュラにはいまいち判断できずにいた。
 レクリエーション室のドアを開けると、ケントはいつもの小高い鉄塔の上に座っていた。
会話をするようになり、カーシュラはケントについて、いくつかのことを理解していた。まずケントはカーシュラと同じ学年の生徒だった。そして彼がまだアカデミーに転校してきて1ヶ月しか経っていないこと。しかし一番の驚きは、ケントがアンプルリセットをしていない、というよりもアンプルを持たない、あのセチメント型の人間だという事実だった。カーシュラは生まれて初めてセチメント型の人間に出会った。
 実際にカーシュラがケントの左耳の裏側を調べると、蓋は取り付けられていなかった。
「きみは普段、どこで授業を受けているんだ?」とカーシュラは尋ねた。
 二人は同じ学年と言ったが、カーシュラはケントをアカデミーで見かけたことがなかったからだった。学年には1クラスしかないのだから、同じ教室にいないに時点で、その疑問はすぐに浮かんだ。
「飼育小屋とB棟の裏側に、僕らの校舎があるんだ」とケントは言った。
 ケントの言っている場所は、レクリエーション室とはちょうど真反対の方角に位置していて、かなり遠い。カーシュラの教室は、レクリエーション室の窓からでも見えるA棟だった。A棟は多面体円形型の建物で、低層部に4本の支柱があり、地面に打ちつけられて固定されていた。その左手には、教官の執務室がある本棟があって、B棟はそこからもう少し左奥に建てられている。
 本棟はねじ巻き型の回流建物で、B棟は低頭な横長のシリンダーの建物だった。B棟は高学年が実験、研究で使用する棟なので足を踏み入れる事はなかった。カーシュラは本棟よりも西側には行く機会があまりなく、飼育当番の時くらいだった。
「その校舎は知らないな。キミ以外にも生徒はいるのかい?」とカーシュラは聞いた。
「ひっそりとしてるからね。うん。少しだけいるよ。僕も含めて4人」とケント。
「生まれてから一度も感情をリセットしたことがない?」
「うん。だってやりようがないもの」とケント上ずった声で答えた。
 カーシュラは父親が以前、アンプルリセットは国民全員がやっていて、リセットし忘れると恥ずかしいことが起きる、と言っていた言葉を思い返した。アンプルリセットの出来ないケントたちは、いま恥ずかしい状態なのだろうか、と疑問に思った。
「家族もみんなそうなのか?」とカーシュラ。
「お母さんと僕は、そう。けどお父さんはアンプル型だった」
「だった?」
 ケントはそれまで顔全体の表情を柔らかく歪めていたのだが、急に顔全体の向きが逆さまに逆行するように、下向きに沈んでいった。カーシュラはその短い間隔で様々に変化する表情に驚いた。
「だから、遠心分離機はまだ家にあるよ。もう誰も使っていないけどね」とケントは言った。
「感情が残り続けているとは、どういう具合なのだろう?」
「それは………どうなんだろう。僕もあまり意識したことないや。僕のお父さんも毎日リセットしてたから、なんとなくアンプル型の人たちのことは分かるよ。でも、うちは結構珍しいパターンの家だけどね。二つの型が、入り混じった家庭というのは」
ケントがいつの間にか、下向きの顔をやめて、再び柔らかい歪んだ表情に戻っていたことに、カーシュラは遅れて気がついた。しかし、カーシュラがもっとも不思議に思ったのは、ケントが無表情を一度も見せないことだった。その顔は、始終なにかしらの表情を示していたのだ。

「お母さんはセチメント型の人間と、お話ししたことありますか?」というカーシュラの問いかけに、ダイニングチェアに座っていた母親は、手にしたコップを一時、空中で動かすのをやめた。
「なぜ?」そう聞き返した母親の顔には、どんな表情も浮かんでいない。
「セチメント型の人間はアンプルを持っていませんから、リセット出来ないですよね?」
「そうね」と母親はコップを口元にゆっくりと動かし、そのコーヒーの匂いを確認し、音も立てずに飲んだ。
「アンプルリセットが叶わなければ、感情髄液マインドウォーターを国にデータ転送出来ません。彼らは、どうしているんでしょうか?」
「あなたはデータを転送出来ている」と母親は無表情でカーシュラの顔を見つめた。それからコップに入った残りのコーヒーを一口で全て飲んでしまうと、椅子から立ち上がり、コップを洗浄機にすぐに運んだ。自動でドアが締まり、スタートの起動音が鳴った。コップしか入っていない洗浄機は、ほんの一瞬で洗浄されて、再び開いたドアには、まっさらなコップが置かれていた。
「あなたも早く、今日の分をリセットしてしまいなさい。お父さんは残り67分ほどで帰ってくるわ。いま始めれば、全てタイミング良く、済ませられる。私はもう寝る時間だから」
 母親はそういうと、共有スペースから出て行った。カーシュラはすぐ近くにある、遠心分離機に目を向けた。遠心分離機の横には、すでにリセットが終えられたアンプルが一つ置かれてあった。母親のアンプルだ。父親と同じで大人サイズのアンプルである。カーシュラの問いかけに母親は答えてくれなかったが、母親の言う通り、アンプルリセットを始めることにした。ここ数日、カーシュラはいまだに理解出来ずにいるアンプルリセットの意味が、不安な感情へと変化し、頭の中を巡っているのを実感していた。その不安はリセットする事でそれなりに薄らいだが、どことなく気持ち悪さがつねに残った。
 遠心分離機のスイッチを作動させる。
コード入力をマニュアルに沿って、子供用の基準値へと設定する。モニターに映し出された基本情報を確認し、カーシュラのコード、そして送信日時に誤りがないかを確かめる。

  [code:ppm/ksr92331.amp/2ka   date:2123/05/24 20:16;48]

カーシュラは分離機側面にあるレバーの切り替えをした。すると正面の開閉部がスライドして、機械内部から漏れ出る窒素の蒸気が皮膚に伝った。自らの左耳の裏側に指を伸ばした。そこにある骨伝部と内耳の少し外側のあたりを意識して、切り込み部分を手さぐりした。カチッ、と擦れる感触を確かめると、蓋を開き、そこから人差し指と親指でアンプルの両端を引っ掛けるように取り出す。つまみ出したアンプルをカーシュラは天井の照明にかざしてみた。
(やはり、少しずつ感情髄液マインドウォーターが濃くなってる気がする)
アンプルの中で揺れる液体をカーシュラは仰ぎ見ながら、その中に含まれているものの正体が何であるか、想像してみた。けれども特に何も答えは見つからなかった。円盤にアンプルをセットした。しっかりと差し込み、位置ズレがないか確かめた。
 カーシュラは、モニターに表示されたスタートの部分に指を触れる。

[start]

遠心分離機の開閉部が閉じていき、アンプルが中で回転していく。いつものように超高速回転を始める。リセットが開始された。
 カーシュラはいつものように交換用のアンプルを手に取った。すっかり慣れた動作で、空になったままの左耳の裏側の部分にそのアンプルを差し込んだ。
ふと『もしもアンプルをセットしないままでいたらどうなるだろう?』と思った。けれど、すぐにその感情は緩く溶けるように薄れて、思考する隙間はなくなった。
 これでやるべきことは、全て終わった。明日のアカデミーの準備をする。あとは寝るだけだった。明日で一週間が終わり、休日はデジタルライブラリーに行き、長期休みに向けた自由課題の研究の資料を一通り見て回るつもりだった。カーシュラは機械動物についての器官と行動認知について取り組もうと考えていた。テーマは機械ウサギについてだ。ケントと出会った日。あの機械ウサギの死があってからというものの、これまですぐに忘れてしまえていた機械ウサギが、いつまでも頭から離れなくなっていた。それに加えて、ケントのあの目から流していた水分の仕組みにも関心があって、それが『恥ずかしいこと』の意味、ひいてはアンプルリセットの意味を知るための、きっかけになるかもしれないと考えていた。

週の始まり。アカデミーの授業が終わり、放課後。
「ケントはどうして、あの日泣いていたの?」
 カーシュラは、眼に水分が充満し、こぼれ落ちる状態が『泣く』あるいは『涙』という表現であるとライブラーで調べていて、ケントに直接尋ねてみた。いつものように放課後のレクリエーション室には誰の姿もない。
「かわいそうに思ったからだよ」とケント。
「かわいそう?」
「うん」
「それは、何に対して?」
「チャトラ」
「あぁ、死んでしまった機械ウサギか」とカーシュラは言った。
 あの茶かっ色のウサギの死因は判明していた。機械ウサギの死からしばらく経ち、カーシュラは教官に呼び出されて、死因を聞かされた。

『電冷水のなかに異なる成分が混入されていた。それによるショック死だろう』と教官はそれをカーシュラに伝えた際、無表情ではあったが、普段とは少し違う気配を纏っていた。
『原因は感情髄液マインドウォーターの成分であった。カーシュラ、あなたは第一発見者だ。これは故意的な事故である可能性も考えられるだろう。もう一度、詳しい当日の状況を聞かせて欲しい』と言われた。
 カーシュラはそこでもう一度、当日の状況を説明したが、ケントがその場にいたことだけは話さなかった。本来なら話すべきなのは自明だった。しかし、それは2人にとって、あまり良い結果を生まないと予測したのだった。これまで他人との関係性に破綻や不安を想起した事は一度もなかった。カーシュラは、すでに自らの異変をその頃には感じ取っていた。関心や興味が尽きなくなり、無表情が自然に示せなくなっていることに。

「ねぇ、僕は機械ウサギが死んでも何とも思わなかった。あの時の光景を思い返しても、何も感じない。僕たちアンプル型はリセットをするからだと思う。でも、ケントはリセットをしない。だとしたら、感情が消え去らないまま生きているということになる。それって、とても…」と言ったあたりで、カーシュラの言葉は急に途絶え、それより先は口にしてはいけないと分かった。
「恥ずかしいこと、だよ」とケントは続きの言葉を口にした。
言葉が吐き出された途端、カーシュラは喉元が苦しくなった。初めて味わうその嫌な感触は、同時に胸の奥にも痛みを与えた。加えてカーシュラの目尻付近に、小刻みな痙攣が生じた。
 ふいに、あのウサギが死んだ時、眼から沢山の涙を流していたケントの表情が記憶に浮かび上がった。
(この苦しさが『かわいそう』なのだろうか?)
カーシュラは、指を目の当たりに触れさせてみたが、水分は一滴も感じなかった。
「ケント。僕は最近、これまでの自分と変わってきてしまっている気がするんだ」
「それは……どんな風に変わってきているの?」
「アンプルリセットは欠かさずにやっている。しっかりと感情髄液マインドウォーターをデータ転送している。なのに、これまでは考えたり、関心を向けなかったことまで、気にするようになっているんだ。あの死んでしまった機械ウサギ、教官が言うには、電冷水のなかに感情髄液マインドウォーターの成分が誤って入り込んでいたらしい。どうしてそんなことが、起きてしまったのか分からないけど、どうやらそれが原因で死んでしまったようだ」
 二人の間に沈黙が生まれた。
「感情の薄い僕には分からないが、ケント、君なら理解できるだろうか?」
「なにを?」とケント。
「感情はどこに留まっている? そもそも感情とは一体なんだろう?」
「ココんところ」とケントは手を胸に当て「ココにあって、なんだろう、感情は見えないから僕にも分からないよ」とケントは、少しうつむき暗い表情を示した。
 その表情を見て「『かわいそう』なのを思い出したの?」とカーシュラは聞いた。
ケントは何も答えないままだったが、いまのカーシュラにはその無言の意図が少し理解できるようになっていた。その日はいつもより、すこしだけ長く一緒に時を過ごした。

家に帰ると、その日はめずらしく父親が早く帰宅していた。カーシュラはケントとの関わりで増幅し続けている感情が、いまも薄れずに体内を巡っていた。それを両親に気づかれないか心配に感じた。
「ただいま帰りました。お父さん、今日はいつもより早くにご帰宅ですね」
「ああ。カーシュラはどこか遊びにでも出かけていたのか?」と父親は無表情に言った。
母親がダイニングサイドから顔を覗かせた。
「そうです」とカーシュラは答えたが、なぜ遅かったのか説明はしなかった。
「そうか」と父親は一言言うと、カーシュラの顔を見つめた。
家族三人ともが共有スペースに揃うのはめずらしかった。いつもそれぞれが自分の部屋にいることが多く、お互いに関心も抱かないので、同じスペースにいる機会は少ない。それに部屋に入ってすぐに気が付いたことがあった。この時間帯にはアンプルリセットをし終えているはずの母親が、まだリセットを済ませていないことだった。遠心分離機の横にリセット済みのアンプルが無かったからだ。
「お父さん。もうアンプルリセットは済ませましたか?」とカーシュラは動揺して、聞いても仕方がない言葉が口からついて出てしまった。
「いや、まだだ」と父は答えたが、すぐに「それについてだが、少しお前に聞きたいことがある。今日、国からアンプルリセットの解析結果の通知と、注意勧告の知らせが届いた」と父親が言った。カーシュラがテーブルに視線を向けると、そこには確かに家族3人分の感情髄液のパラメーターシートが置かれてあった。そこには、ここ1ヶ月分の最新結果が記録されており、感情の濃度が数値化され、基準値と比較出来るように可視化されている。両親は『A(+)』だが、カーシュラは『C(−)』になっている。
「ここを見ろ」と父親が指し示した箇所は、日ごとの感情関数が折れ線グラフになっており、カーシュラはここ一週間で急激に感情指数が上昇していた。
「一体何があった? このままでは『D』ランクになる。もし仮にそうなれば、お前は入院施設に入り、更生教育プログラムを受けなくてはならない」
「恥ずかしいこと」とカーシュラは、消え入りそうな声でつぶやいた。
「そうだ」と父は答えた。
(ケントのことを話さないと、いけないのかな?)そう思った時、カーシュラの頭にケントの泣いている表情が浮かびあがった。

✳︎

「そうか。セチメント型の子と関わっていたのか」
 父親と母親は2人並んでテーブルに座り、対面するようにカーシュラと向き合っていた。両親は依然として無表情のままではあったが、カーシュラに向けた2人の眼差しはいつもと違い、鋭さがこもっていた。
「その子と、どんな話をしてるの?」と母親が尋ねた。
「あまり憶えていません。沢山のことを話すわけではないので」とカーシュラは答える。
「アンプルリセットは欠かさずに行なっていたんだろ?」と父親。
「はい。毎日」
「リセットをする時、なにか異変や変化はなかったのか?」
 カーシュラはアンプル内の感情髄液マインドウォーターの濃さのことを話そうと思った。しかし、なぜだか言い出せず、躊躇した。
その想いを見透かしたのか「言うんだ」と父親は声を掛けた。あいかわらずの無表情のまま、声のボリュームのみが少し大きく響いた。
感情髄液マインドウォーターが色濃い日々が続いていました」とカーシュラは小さく言った。
「確かめてみよう」イスから立ち上がってカーシュラの背後に立つと、左耳の裏からアンプルを取り出した。
「赤みを帯びている」父親はそう言うと、丁寧にアンプルをカーシュラの左耳の裏側にセットし直した。
 カーシュラは『赤みを帯びている』と聞いて、あの死んだウサギのことが頭に浮かび、不安になった。
「しっかりとアンプルリセットすれば心配はないが、感情髄液マインドウォーターが濃いのは、好ましくはない。濃度が高くなり続ければ、一度に全てをリセット出来ずに、充填しきれなくなった感情が脳内へと循環し、やがては身体にまで漏れ出してしまうことになる。そうなれば、入院どころじゃあ済まなくなる」
「どうして赤くなってしまったのでしょう?」
「どうやらセチメント型の少年が影響しているのだろう。カーシュラ、お前はその子と話している時、色々な表情を目にしたのではないか?」
「はい」
「彼らは感情を増幅させ続ける遅れた人種だ。常に感情をコントロールできないが為に、あのように表情を多く変化させずにはいられない『恥ずかしい』状態になってしまっている。まぁ、ただ表情が変化しているだけならば、それほど大きな問題もない。しかし、あまりにも大きな感情の変化を繰り返した先には、やがて負の情動が引き起こされ、人間同士を争いに生じさせるきっかけにもなる。前時代人たちがどうして滅んだか、その答えが感情だった。だから次の世代である我々はアンプルを発明し、感情を抑制することで進歩したんだ。ただ我々も人間だ。全ての感情を消去する愚かな選択はしなかった。それじゃあ、まるで人工知能と変わらんからな。それに、人類として進化し続けるには最低限の感情は必要だ。もちろん、争いや憎みにまで発展しない程度のな。それで導入されたシステムがアンプルリセット、進歩のための感情抑制だ」
 カーシュラは初めて聞かされたアンプルリセットの意味と、そして自分の中に芽生えつつあった感覚が、争いの火種に繋がりかねないという事実に、驚きを隠せなかった。
「この前、アカデミーで1匹の機械ウサギが死にました。原因は感情髄液マインドウォーターでした」
父親は席に戻りながら、母親と目を合わせた。2人は無言のまま、互いの顔を確認し合い、そこに無言の意思疎通を交わした。数秒の沈黙ののち、2人の視線は再びカーシュラに向き直された。
「アカデミーのウサギがどうして感情髄液マインドウォーターで死んでしまったんだ? あのウサギ達は電冷水で生命を保っているはずだろう?」と父親。
「死んだウサギは1匹だけでした。ぼくが飼育当番の際に発見したのです。教官が死因を調べたところ、電冷水の成分内に感情髄液マインドウォーターが混入されていたと聞きました。誰かが混入したのかしれません」
 両親はカーシュラの話している言葉に耳を傾けつつも、何も言わなかった。カーシュラにはその無言と無表情が、どのような意図であるか判断出来ず、目のやり場に困り、視線をテーブルの端へと向けた。
「これからはセチメント型の子とは、あまり会わない方がいい。人間が示す表情は、視覚情報を通じて多くの情報量を与える。1つ1つの印象は他者に音や記憶、状況、動き、となって感覚器官に呼応し、潜在的な心象を植え付けてしまう。それらが、深く強く感情と連鎖した果てには、さっきも話した争いの感情へと繋がっていくだろう。それはお前自身にもそうだが、まわりにも影響を与える。しかし、その子と関わらず、アンプルリセットをしておけば、体内の感情もいずれ薄れ、消える。だからカーシュラ、これからはアカデミーが終わったら真っ直ぐ、家に帰ってきなさい」
「はい。そうします」とカーシュラは答え、無表情を意識した。

 

 

.3

カーシュラはレクリエーション室には行かなくなった。それによって、ケントとも出会わなくなった。その状況でアンプルリセットがされたことで、カーシュラは以前のように他者に対する関心も薄れつつあった。アンプルの感情髄液マインドウォーターは赤みが消え、無色透明に戻った。
 そしてカーシュラの日常は、アカデミーでの自由課題の研究へと向けられていった。
カーシュラは【機械ウサギの眼はその脳に感情を伝えるのか】という研究テーマを決めていた。しかし、なぜ機械ウサギを選んだのか、いまになって理由が思い出せなくなっていた。かつてはあったはずの強い動機も、現在では新たな理由を見つけなければならない状況だった。自分でも気が付かぬうちに、記憶の一部分が薄れていた。そのせいで、いまひとつ研究の方向性が定まらず、成果を導くためのテキストを、まとめようがなかった。
 カーシュラはすでに書き込まれているいくつかのレポートをARモニター越しに確認した。そこには機械ウサギの『涙』についてのテキストが保存されていた。

《機械ウサギの眼は遠視で設計された人工レンズである。前時代のウサギのモデルを参考に作られた。よって近くの視界はぼやけていることになる。それらレンズの仕様を将来的に人間の角膜移植にも転用する案も検討されている。さしずめセチメント型への貢献度は高い。彼らの感情抑制にも期待できるだろう。難点となるのが、機械ウサギの眼は絶えず水分を保ち、潤いを与えなければならないことから、まるで涙を流しているような状態にならざるおえない》

機械ウサギの眼の角膜移植が、セチメント型にとってアンプルに代わる感情抑制の技術なのか、とカーシュラは自らのレポートを読み解いた。
(と、いうことは人工レンズと感情抑制についての、なにか関わりがあるに違いないはずだ。それに人工レンズが、アンプルの代替えになるメリットも書き記す必要があるかな)
 そう思案したカーシュラは、飼育小屋に向かっている途中、急に飼育小屋についての消えかかっていた記憶がぼんやりと頭の片隅によぎった。

【押し拡げられた金網の穴】【茶かっ色の機械ウサギ】

あまりにもぼんやりしている記憶だった。カーシュラはその場で足を止めた。そして、飼育小屋に行くのは次回にするべきなのかもしれない、と思い立った。そして足を引き返して教室に帰ろうとしたが、戻る理由もはっきりしていないせいか、判断に混乱が生じ、身動きが取れなくなった。
(なんだろう? この胸の奥に感じる痛みは?)
カーシュラは迷ったが、このままでは機械ウサギの研究を進展させられないので、とにかく小屋へと向かう事に決めた。
 飼育小屋に近づくと、そこに誰かの人影があった。その人影はしゃがみ込んで、金網に両手を掛けながら、ウサギ達を覗き込むように見ていた。カーシュラが近づいていくと、その人影はケントだと分かった。ケントも気がついて立ち上がり、カーシュラに近づいてくる。
 ケントの顔を見た途端、カーシュラはよぎった別の記憶のを思い出した。

【金網に首を突っ込んでいる茶かっ色の機械ウサギ】
 【ケントはそれを『チャトラ』と呼んでいた】
 【動物の死を、なぜ『かわいそう』に想うのか?】

いま前にいるケントは泣いていない。そこにある表情は『かわいそう』ではあるが、以前に見たのとは違う種類の表情だった。カーシュラは両親との約束を思い出した。そして無表情のまま、歩いていく。カーシュラの無関心さを目の当たりにしたケントは、明らかな動揺を示した。
 2人は触れられるほどの距離までに縮まった。 
カーシュラは小屋の中の機械ウサギを観察するため、ケントの横を通り過ぎた。
「君に話しておきたいことがあるんだ」
 2人がすれ違った直後、ケントが言った。
「話しておきたい?」とカーシュラは進めた足を止め、振り返り「なにを?」と答えた。
「僕は気がついてた。チャトラがどうして死んだのか。なにが原因で、あんな風になってしまったのかも」とケントは言い始めたそばから、肩を小刻みに震わせていた。カーシュラはケントが唐突に何を言い始めたのか理解不能だった。
「それなのに僕は、泣いていただけで、自分がやってしまったことを君に話せなかったんだ。隠して、そのまま知らないフリをした。レクリエーション室で本当のことを打ち明けるつもりだったのに、怖くて、そのままにした。結局、言えないまま、君にも会えなくなってしまった」
「なにが言いたいのか理解できない。キミは何か、悪いことでもしたのか?」
 カーシュラの無表情の問いかけに、ケントは口元を強ばらせた。その口元を見て、カーシュラはまたもや自分の記憶の中で何かの感情が濃くなってくる気配がして、ケントの表情から視線を外し、なるべく額のあたりに視線を向けた。
感情髄液マインドウォーターをチャトラの中に混入させたのは僕だったんだ」とケントは言った。
 二人の間には沈黙が流れた。
カーシュラはその言葉を聞き、無関心を保つのが少し困難に感じた。
「あまり、そういう事は他人に発言するべきことではないと思う。それに、その事実をボクは教官に知らせなくてはならないだろう。そうすれば、キミにとって、さらに良くない事態を引き起こす、とも考えられる」
「うん。別にそれはいいんだ」とケントの表情は安堵へと変わり、肩の震えも静まった。
(『それはいいんだ』? 感情髄液マインドウォーターを混入させた? 何故だ? セチメント型の人間が、どうして感情髄液マインドウォーターを持ち運べる?)とカーシュラはケントの言葉の一つ一つを振り返った。さらに、初めてケントと遭遇した日のことも頭に思い浮かべた。機械ウサギがショック死して『涙』を流したケント。その原因を、いま話しているケント。関連性と情景が交互に、カーシュラの頭の中で交差した。
「どうしてキミは、機械ウサギに、感情髄液マインドウォーターなんて、混入させたんだ?」
「お父さんが病気で死んでしまった時、僕はお父さんのアンプルを取り出していたんだ。リセットされる前の感情髄液マインドウォーターがリセットされる前のものを………チャトラに注入すれば、お父さんの感情にもう一度触れ合えるかもしれないと思ったんだ。感情髄液マインドウォーターを入れたチャトラは、やっぱり他のウサギとは少し違いが現れた。僕は毎日のように飼育小屋に行って、チャトラに話しかけた。するとね、僕の声に反応してくれるようになった。でも」
 ケントはそこで声のトーンを落として、また『かわいそう』な表情を見せた。
「ウサギは、孤独を感じると寂しくなって死んでしまうって、お母さんが教えてくれた。多分チャトラは、1匹だけ体の毛の色が違っていたし、それに、眼を見たら涙を流していたんだ!」
「しかし、いくらキミのお父さんの感情髄液マインドウォーターを混入したところで、あの茶かっ色の機械ウサギはキミのお父さんではない。ウサギはほとんど機械だ。喋るはずもないし、表情なんか示さないように設計されている。なぜキミの声に反応したと分かる?」
「『チャトラ』って名前を呼んだ。そしたら僕に向かって飛び跳ねた」
ケントは『かわいそう』な表情が浮かべ、やがて目に涙を溢れさせた。その涙は両方の目からこぼれ落ちて、ケントの頬からたくさん流れ落ちた。カーシュラは動揺した。どうしてケントが泣いているのか分からなかった。
「あれは涙じゃあなくて、人工レンズの水分だ」とカーシュラが答えると、ケントは息を呑んで黙り込んだ。
 しばらく2人の間に無言が続くと、ケントから口を開いた。
「僕も、お母さんも、セチメント型だからリセットできない。感情がいつまでも消えない。だから無理矢理忘れようと頑張らなきゃいけない。アンプルリセットしたら、どう? 心が苦しくないから、誰かを忘れることも簡単なの?」
「どうかな。無関心だから『誰かを忘れる』かなんて、考えてみたこともない」とカーシュラは言った。
「もし自分の親を亡くしたら、悲しいとは思わない?」
カーシュラはケントに言われたことを考えてみた。自らの親が死んだ場合について。
「存在しないと言う事は、肉体がもうないわけだから、目に見えなくなるのだと思う。だから、会話をする事もないのだろうし、顔も見えなくなる。ただ、それが悲しいことなのかは分からない。『忘れるかはどうか』は、思い出すだけの理由があるかによるのだと思う」
 二人は飼育小屋の前で向き合い、立ち止まっていた。カーシュラはさっきまで実行しようとしていたウサギの観察に取り掛かるべきだったが、どうにも体が動かずにいた。それがどうしてなのかは自分でも分からなかった。意味がなければ、そこに立ち止まり続けている必要はないはずなのに、得体の知れない何かが体の動きを抑制していた。これがケントのいう『心が苦しむ』という感情であるのならば、この感情もやがて争いへと発展するのだろうか、とカーシュラは思った。
「僕はね、移住することになったんだ。新しい眼の手術を受けるんだ。その眼はアンプルの代わりにもなるんだって。だから、これで僕も君たちアンプルの人達と同じように生活できるかもしれない。ただ……」ケントはそこで一呼吸の間を置いて「視力が見えづらくなるかもしれないって聞いたんだ。でも、それがとても重要なんだって。君の顔もちゃんと見えるのは今日で最後かもしれないなぁ」と言った
 ケントの言葉に、カーシュラはなぜだか自らの呼吸のリズムに少し乱れを感じた。
「またいつかどこかで会えたら、僕のこと覚えててくれる?」とケントは言った。
 カーシュラはここ数日間、ケントと会うことを避けて、アンプルリセットしていた日々を思い返した。その間、ケントに対する関心が薄れていた事を自覚していた。
カーシュラは『ケントのことは、忘れるだろう』と思った。しかし「分からないな」と嘘をついた。
「君が覚えててくれないと困るよ。僕は君の声しか頼りにならないんだから」と言うケントの表情は『かわいそう』な顔でなくなっていた。涙はもう流れておらず、口元と頬が上につりあがっていた。いつの日か、レクリエーション室でよく見せていたあの表情だ、とカーシュラは思った。
「じゃあ、さようなら」とケントはその表情のまま、カーシュラに手を振りながら走り去っていった。
カーシュラはひとり飼育小屋に残された。そして小屋の中に入り、3匹いる白いウサギの1匹を抱き抱えた。電冷水を点検してみると水質は正常だった。体のどの部位にも異変はない。カーシュラは機械ウサギの眼に視線を合わせた。水分で濡れているそこに、自分の顔が映り込んでいた。

                                                     (了)

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