熒惑けいこくの信仰者たち

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梗 概

熒惑けいこくの信仰者たち

2032年、火星で、五体の人型ロボットたちが突如始めた宗教儀式プロトコル、かれらが赤い大地の上に描いたその巨大な幾何学模様は、死んだサリの身体に刻まれていた密かなタトゥーと、まったく同じ形だった。

民間の宇宙開発企業、ダヴィドに所属しているミナは、火星探査ロボット――イルミヤの開発者であり、一週間前に自殺したサリが、ロボット達のそのエラーに関与していることに気づく。サリはなぜ、死ぬ前に宗教を植え付けたのか?果たして、宗教は本当にエラーなのか?
幼い頃、母親が新興宗教にのめり込んだのが原因で、家族が崩壊したミナは、サリの真意を探るべく、仲間とは別に調査を始める。
調べていくと サリの開発したモジュールに原因を見つける。イルミヤは、このウイルスを介して宗教に感染infectedしたのだ。
そして、コミットログの中に、サリの手記を発見した。

手記曰く、トッラと呼ばれる洋上に生きる宗教集団に、サリは幼い頃に保護された。その場所には地上に行き場のなくなったさまざまな人種が集い、何十年も経つうちに、自然発生的に独自の宗教体系を構築し始めたという。
そこでサリは家族を得て、幸せに育ったが、成長するにつれ、外の世界を探求してみたいと考えるようになっていた。
だが、サリが陸地に旅立ってから、数年のうちに、近郊の共産主義国家が領海を拡大し、トッラがいる海の一帯にも権力が及び始める。トッラの者達は陸の施設に送られ、今では消息が途絶えていた。

ミナはログを読み込んでいくうちに、教義では死んだとき、かれらの魂の一部として復活すると書かれていることに気づく。だが、既にトッラは無くなった。だから、サリが帰れる場所は永遠に失われてしまった。
ミナは理解する。だからトッラの教義をコード化し、イルミヤに詰めて射出して、火星に信仰システムを復活させたのだ。宗教の発生の再現実験を行うと同時に、イルミヤの中に、自分の帰れる居場所を作りたかった。誰もいない、かつては海が広がった惑星の上に。

ミナはコードを解読するうち、ある特定の短い時間のみ、イルミヤと通信が可能な条件を見つける。サリはイルミヤ達を正常化させるためのヒントをあえて残していた。サリは試しているのだ。『すべてを知った上で、それでも私達を止めるのか』と。
ミナは怒りの中で苦悩する。サリの行為は許せない。人類のための科学を個人の信仰によって邪魔されるなど、あってはならないことだ。
だが同時に、サリと同じように、家族を失い孤独の中で生きていたミナは、帰れる場所を取り戻したいという気持ちが、痛いほど理解できた。
葛藤の末、ミナはイルミヤに接触せず、あえて沈黙を選び、モジュールのログをすべて消去する。合理的ではない行動にミナは、サリに自分が感化されたinfectedのだと気づく。宗教に感染したイルミヤ達と違い、サリ個人の思いに。
そして、ミナは在りし日の家族の写真が入ったペンダントに、サリのタトゥーと同じ形を刻み込み、サリのいた海を探す旅に出る。
火星の上のイルミヤ達は、今でも教えを更新し続けているのだろう。

文字数:1278

内容に関するアピール

『エラーが/から発生するストーリーを創作せよ』を選びました。(2017年第五回)
理由としてはエラーは、エンジニアをやってる自分としてはきわめて身近なものであると同時に、ある人には不利益しか無くとも、別の誰かにとっては恩恵があるかもしれない、という二面性が面白いと感じたからです。
実作では、イルミヤのアーキテクチャは現在の機械学習の潮流を踏まえた上で、身体性をもった上でどのように進化するか、火星という環境にどのように適合する形になるか、そして宗教を持ち得る柔軟性をどのように手に入れるかまで深めていきたいと思います。
また、ミナとサリを物語の基軸として、火星の赤い大地と地球の青い海、科学と宗教、今と過去、ロボットと人間など、それぞれの対立する要素を繋げて構築していく予定です。
(タイトルの熒惑は、火星の異称であるとともに、災いエラーの前兆、人を惑わすもの、という意味で付けました)

文字数:393

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# 1
DECODE  2030年5月30日 アメリカ カリフォルニア州 ダヴィド本社23階 エンジニアオフィス

 プログラムアラート、ステイタス1202。
 そのたった四桁のその数字によって、私達宇宙開発陣全員が午前3時の真夜中に、冗談みたいな混沌の嵐に巻き込まれている。
 いや、私達どころじゃない、開発、インフラ、広報、役員陣、関連企業にNASAに代表される公的機関……あらゆる関係者全員が深夜にも関わらず、必死の対処に追われていた。
 一週間前、火星に着陸タッチダウンしたときの祝祭も、さらにその三日後にオフィスで起きた、あの悲惨な事件の空気すらもすべて引き剥がすほどの混沌の渦に、数千人の関係者が放り込まれている。
 五時間前の22時23分――いや正確には、その約15分前。地球ここから遥か離れた地、二億九千キロも先の火星の上で生じた事象。火星移住プロジェクトの先鋒として送り込まれた、火星探査人型ロボット――イルミヤに起きた奇妙なエラーの一報は、おそらく、すぐに世界中の人々の好奇心を掻き立てることになるだろう。

「通信状況はまだ回復しないのか」
 エンジニアフロアの一角に、プロジェクトマネージャーであるロイの低い声が響き渡る。
 彼が参加しているのは、オンラインで行われている緊急会議。チームの皆に現状を共有するためか、インカムでなく、あえてスピーカーで会話をしているおかげで、私達にも議論の内容が伝わってくる。
 その声に釣られて自席から目を向けると、彼は愛用の手帳を開き、ときどきメモを残しながら、同じところをぐるぐると歩き回っている、熟考するときのいつもの癖だ。
 すぐに画面の向こうから声が響く。「通信は依然として確立せず、何のコマンドも受け付けません」街の雑音が混じっているのは、おそらく車内から通話しているせいだろう。「何度もリトライを試みてますが、未だ失敗し続けています」
 地球と火星の間のラグランジュ点に設置されたいくつかの衛星を介し、火星探索人型ロボット”イルミヤ”と通信を可能にしていた。
 だが五時間前から、かれらと私達の通信は、すべて切断されていた。中継地点に置かれた衛星のヘルスチェックは問題ないことから、原因は明らかに火星側にあるはずだった。
「粉塵の影響は?」また別の誰かが苛立たしげに問う。まれに起こる砂嵐によって巻き上げられた粉塵がソーラーパネルを覆い、電力不足で通信不全に陥ったことは過去に確かにあった。
 その疑問に、基地開発班のメンバーが応える。「順調。数日前から一ソルあたり10万ワットを発電し続けているよ。こちらでは、エッジ側で通信を拒絶している可能性がもっとも高いと考えている」
 そこでロイが一瞬立ち止まり、表情がより一層険しくなる。つまりインフラ側でなく私達の領域――イルミヤ側に原因があると言いたいのだ。
 決して、責任転換の方便ではないだろう。言われなくても、皆が薄々勘づいたことでもあったからだ。なぜなら――
 私は、十六枚のディスプレイを組み合わせて作られた、オフィスのコンソールに目を向ける。普段なら、そこには気圧や湿度などのメトリクスや、火星を周回する八つの衛星それぞれが捉えた、地表の姿を映し出している。
 だが、今はその十六枚のすべてが、同じ座標を表示している。
 イルミヤが活動拠点にしている火星の赤道に近いエルシウム平原の様子、千キロメートルオーダーの画像には、エリシウム山やケルベロス地溝、峡谷や割れ目など、火星の表面が粗く写っている。さらにその中心、数百メートルオーダーの画像には、痘痕のように隆起したコーン、かつて地下に水が存在した証拠の円錐状の堆積物。
 そして、その合間を縫うように、イルミヤ達が、火星の地表を削って描いた、巨大な幾何学模様が映されていた。
 10本の直線を交差させ作られたその方陣、中心から対極にある先端をぐるりと円で囲っている。
 誰に命令するでもなく、かれらが自発的に生み出したその模様。
 私は数十秒間、加速し続ける心臓の動きに必死に耐えながら見つめたが、ついに堪えきれなくなって目を逸らしてしまう。
 やはり、見間違いではない。恐ろしいほど似通っている。

 私が勤める、ダヴィド・スペース・ワークスは、設立当初から火星移住を会社のミッションに掲げ、十年代には既に、民間初の再利用可能なロケットの打ち上げに成功し、二十年代に入ると衛星通信による地球規模のインターネット提供サービスを確立した。更に二十年代の後半ともなる、築いた資本を元手に、民間企業としては初となる月面の有人探査を成功させ、人類史に残る偉業を着実に成し遂げてきた。三十年代の今においては、NASAとの提携が無くとも、資金も技術も調達できるほどに、宇宙開発企業のトップランナーとしての地位を確立していた。
 そして、二十年代後半に入ってから立ち上がった長期計画が、イルミヤプロジェクトだった。
 会社の設立時から掲げていた、人類の火星移住を本格的に推し進めるため、昨年、高度な問題処理能力をもつ、”イルミヤシリーズ”を火星に向け、発射ローンチさせた。
 イルミヤ――流線型の身体をもつ、全長二メートルほどの二足歩行形式のロボット。惑星探査プロジェクトでキャタピラやタイヤでない移動方式が採用されるのは前例はなかったが、あえてその設計が選ばれたのは、火星の重力だとバランスの維持が比較的容易なのと、大気が存在するためレゴリスの舞う火星で、問題発生時により高度な対処が可能なことにある。
 だけども一番の理由は、人々の移住を想定して、火星で人が暮らす場合の問題点をより正確に洗い出すためだ。人でなくロボットならば、最低限のスペースしか無い乗組員用のセグメントに十ヶ月近くいてもなんの文句を言わないし、仮に不慮の事故が起きても、遺族に賠償する必要はない。今後の有人火星探査の前哨戦としては最適な計画だった。
 更に言えば、宇宙条約第九条に定められている、”宇宙空間における有害な汚染”問題も容易にクリアできるし、国際宇宙空間研究委員会COSPARの”惑星防護ポリシー”における、”生物汚染の確率を0.01%以下に”という要項も容易にクリアが可能だ。なにせ、かれらは無機質の身体なのだ。人体と違い、二百度を超える熱処理にも容易に耐えることができる。火星の乾いた海の上、生命の痕跡が残るかもしれない大地の上を自由気まま動いても、なんら悪影響も与えない保証があるわけだ。
 物理的には完全にクリーンなはずのイルミヤ達、だが、かれらの自身に感染がおきるとは、誰も予想だにしなかった。

 まず最初、イルミヤうちの一基―”グリソム”が予定と異なる動きを見せる。イルミヤをノードとして構築されたエッジネットワークではなく、近くにいた”チャフィー”に有線での接続を試みた。最初は、軽度の砂嵐によって自発的にイルミヤが通信方式を判断したと思われた。
 だが、グリソムは、近づく瞬間、両手の十本の指を交錯させて、まるでイルミヤ式の挨拶と言わんばかりに、祈るように半身を折る。無論、そんな行動はプログラムには組み込まれていない。
 着陸時に破損した一基を除く、他の五基と接続した。途端、全機がサンプルリターンに利用する予定だった火星上昇機MAVに近づき、物理的に破壊し始めた。
 そこに至って、やっと強制停止信号を送ろうとしたが、こちらからのリクエストを送ったところで、実行されるのは最短でも十五分後、イルミヤ内のコンピューター時間で、十五分は永遠に等しい。
 三十分後、エラーステータス1202を返した後、こちらからのリクエストには応じることは一切なくなり、その代わりに、何やらノイズまみれの画像とログを地球に向かって、ひたすら吐き出していた。
 その後、火星を周回する衛星の割当てウィンドウのスケジュールを急遽変更し、地表の様子を観察した。
 そのMAVと対極にある直径数メートルほどの小さめのクレーターに、仲間の死体を埋葬した――表現がいくらなんでも擬人的すぎるかもしれないが、そうとしか思えない挙動を見せたのだ。
 衛星に映る景色には、到着時に破壊し活動不可能と診断されたイルミヤのうちの一体を沈め、皆で孔の周りを囲んで、同じように手を重ねて、半身を傾け皆で弔う姿が映し出されていた。

「とりあえず、俺たちのやれることを片付けていこう。まず通信プロトコル部分とのAPIにバグが無いかの再チェック、次にシミュレーションのうち、カテゴリEの特殊シナリオを可能性が高い順に実行して、類似した事象が起きないかの確認から始めてくれ」
 会議を終えたロイは、冷静に、メンバーひとりひとりに指示を与えていく。異常事態においても、焦燥や怒りをを顕にしないことは、優秀なリーダーの条件の一つだと思う。リーダーとは、常に例外エラーに対応するものなのだから。
 インフラチームが100人いて、30人のイルミヤチーム、更にソフトウェアを構築するチームのうち、中枢領域を管理するモジュールを私はメインで開発していた。人の脳で言うのなら、意思決定を司る部位だ。
 イルミヤのその設計と実装のほとんどは、ひとりの人間、メイによって行われた。
 メイ――彼女は、異質な才能が集うダヴィドでも、更に特異的な存在だった。
 ダヴィドの他のエンジニアは、誰しもが理学や工学の博士号持ちだったが、メイだけは学歴どころか、どこで生まれたのかすらはっきりしなかった。勿論、雇用されている以上、米国籍はなくとも、米国の永住権や長期滞在ビザは取得しているはずだけども。
 彼女は在野の天才だった。データサイエンスコンペティションではグランドマスターの称号を持ち、Arxivなどのオープンな論文プラットフォームで無名のまま、異常とも言える数の被引用件数を記録した。幾多の業績を残した後に、ダヴィドのリクルーティングチームによって、スカウトされた。完全実力主義の、ダヴィドだからこその採用だ。
 彼女は入社してからも、政治的な駆け引きやわかりやすいプレゼンなどを一切行わず、ただ結果で圧倒した。書かれた論文や、実装されたコードには、精緻なロジックと芸術的な発想とが同居し、理知的な美しさすら内蔵していた。
 だが、多くを語らず、証明はしない。彼女は、秀才が集うダヴィドの中でも、異質な存在だった。ある数式の意味するところについて尋ねた同僚に、「討議のための問いでなく、ただの無知からくる質問には一切答えません」と返したことは、社内でも有名な話だ。
 メイの才能のおかげでイルミヤのOSは作られたと言っても、なんの過大評価ではないだろう。その他のメンバーは細かい実装を行う。だから、私達はメイのお片付け係clean-up crew for Mayと裏では呼ばれ、わざわざロゴをデザインし、シールまで作る輩まで現れていた。くだらないジョークに本気になるのはエンジニアの悪癖なのだろう。
 そのメイは死んだ。五日前、イルミヤたちを載せた機体が火星の表面に降り立った次の日に。
 現場となった部屋の入り口の認証には、彼女の顔がはっきりと写っていた。部屋の内部では、偉大な頭脳が詰められた頭頂部から、可燃性の液体をたっぷりと被り、自ら火を付けてから、三十階の窓から飛び降りていた。
 つまりは、焼身自殺。墜落した遺体のあらゆる特徴も、彼女が死んだことを肯定していた。

「やつら、火星に悪魔でも降臨させるつもりなんですかね?」
 物思いに耽る私に、突然、隣の席のソフトウェアエンジニアのリーが、軽薄な調子で言ってくる。左手には、夜食代わりのプロテインバー。
 私は煩わしげに、そうかもね、と応じる。
「とすると、僕ら、火星にヤバいなにかを降臨させるプログラムをプログラムした、人類初のチームってことになりますよね」彼は事態に見合わない陽気な口調で返してくる。
「何バカなこと言ってるの。これがもし偶然起きた事故でなければ、私達の中に、犯人がいるってことになるでしょ」
「でも、もし故意ならば……」食べ終えたバーの包み紙を両手でくしゃりと丸め、足元のゴミ箱に放り込む。「相手は、かなりの宇宙マニアですね」
「どうして?」そう私が尋ねると、彼はディスプレイから目を話し、待ってましたと言わんばかりに、ニンマリと笑う。「だって42とか、1729とかでもなく、1202なんですよ」
 彼曰く、アラート1202はアポロ11号に実装されていた強制再起動プログラムと同じ定数マジックナンバーなのだという。甚大な障害になりうる人為的なミスを防止するために実装されたアラートで、宇宙において初めて機械によって発せられたエラーなのだと、彼は得意げに解説する。
 私は軽い気持ちで尋ねたことをひどく後悔した。そう、彼もまた重度の宇宙オタクなんだった。
『人というのは、誰かに仕込こまれた暗号を自慢の知識で解きほぐすのが、何よりもの享楽に感じるんだよ』
 不意に記憶が蘇る。二人だけでいる時、たしか、メイもいつの日かそんなことを言っていたっけ。
 無限に噴出してくる彼の宇宙トリビアに、いつまでもは付き合い切れない。話の腰を無理やり折るため、私は質問を変える。
「もしもこれが誰かの悪戯なら、犯人はどういった処罰に該当するのかな?」
 私の疑問に彼は上を向いて、考える仕草を見せてから応える。
「火星では、たしか慣例法で、国際水域と同じ海洋法が適用されてたはずですよ」言ってから、再び私に視線を戻して笑みを浮かべる。「けど、ちょっとおかしいですよね。もう海なんて存在しない、乾いた火星の大地での行為が、地球の海洋の法律で裁かれるなんて」
 その答えに私が口を開きかける。と、彼は途端に真剣な表情に豹変した。
 何かと思えば、遠くからロイがこちらを睨んできている。彼は目線を合わせたまま、ゆっくりと私達に近づいて、声をかけてくる。
「レイカ、ちょっといいか」
 意外にも声をかけてきたのは私。雰囲気を察したリーは、そっと別テーブルに移動する。彼が十分離れたのを見て、ロイは少し黙ってから、そっと耳打ちするように尋ねてきた。
「この事態、彼女から、なにか訊いてはないか?」
 凍えるような緊張感が、到来する。”彼女”とは勿論、メイのこと。
「いえ、私は、別に特に、親しくはなかったので」
 気持ちとは正反対に、私は自分でも驚くぐらい淡泊な声でそう返事をし、すぐさま手元の画面に向き直る。
 私の答えにロイは「そうか」とだけ呟いて、去っていった。
 勢いよく顔を伏せたせいで、前髪が垂れ視界が覆われてしまう。払うようにかき分け後ろに梳くと、油脂でいやに髪がベタついていることに気づく。不愉快極まりない。本来なら今頃、ちゃんとシャワーを浴びて、久しぶりにベットで寝れるはずだったのに。
 尊敬しているロイに冷淡な態度をとった理由には、事態への焦燥とは別に、もう一つ。
 私は彼が去ったのを確認してから、もう一度目の前の火星の表面のライブ画像を見る。社内チャットには、画像検索アーカイブも走査しているが、有力なヒット件数は未だゼロ件と報告がされていた。曼荼羅やキリストのイコンに似たような構図が見られるものの、決定打とは言えないらしい。
 だけど、私には、私だけには、その印に見覚えがあった。火星の刻んだその模様は、メイとふたりだけの時に見た、彼女の身体に彫られていたタトゥーと、まったく同じだった。
 この奇妙な符号は、おそらく社内でも私しか知らないはずだ。
 ロイはひょっとしたら、優れた観察眼で私達の関係を見抜いてたのかもしれないが、私から明示的にプライベートでの関係を言ったことはなかった。比較的ドライな実力主義の文化を尊しとしている社内文化において、社員同士の指摘な馴れ合いには、触れないほうがよいと考えたからだ。
 私は彼女の慎ましやかな葬式でも、決してそのスタンスを崩すことはなかった。彼女が死んだ時、私は事実を淡々と受け止め、少なくとも外見上は、必要以上に取り乱すようなことはしなかった。こう言ってはなんだけど、彼女にはどこか、浮世離れした、超絶的な雰囲気が常に漂っていた。
 どんなに心を開いてくれても、いつか急にどこかに消えてしまうような危うさ。だから、私はずっと前から少しずつ、彼女がいなくなってしまう現実を受け入れていたのかもしれない。
 私はタスクに戻る前に、メイの姿をディスプレイに表示する。私とふたりだけで旅行に行ったときに撮った写真。
 私と同じ、アジアに出自があると思わせるエキゾチックな瞳、強い日差し浴び続けたような荒々しい肌……そして、写真には映らない、いつも吸っていた煙草の独特な匂い、ざらついた肌の感触、そして、その皮膚に秘されたタトゥー。
 ダヴィドで活躍する、孤高のエンジニア。その姿は、彼女のたった一側面しかなかったことを私だけは知っている。 
 だけど、私だけが知っていたことですら、実は彼女のほんの一部の断片でしかなかったのだろうか。
 私は画面の中のメイをそっとなぞってみる。指を離しても、無機質な冷たさが少し肌に残る。
 誰にも聴こえないことを確認し、目の前のディスプレイに向かってひとり小さく呟く。
「ねえ。あなた、いったい誰なの?」

ENCODE 2015年8月10日 ミャンマー ヤンゴン

 メイの記憶の中で、もっとも古いものは、おそらく5歳ぐらいの頃のもの。最初に頭から湧き出るイメージは、自分はアジアのどこかのカラオケバーの一室にいる、という漠然とした認識だった。
 その認識を起点に、ひとつひとつゆっくりと思い出していくと、少しずつ当時の感覚が蘇る。じっとりと汗がで湿った感触が気持ち悪い。あたりには魚を腐らせたような匂いが漂っている。目の前には、黄ばみきったポスター。だんだんと記憶が鮮明になっていく……壁に貼られている破れかけの紙には。変色した海。黄ばんだ波を背景に、薄布をまとった褐色の女性が描かれている。彼女は振り向きざまに、満面の笑みを向けていた。
 本当に場違いな笑顔、この空間の中で笑っている人など、写真の中の彼女ぐらいだろう。

 メイがいたバーには、ふたつの顔があった。監獄と売春宿だ。
 店の入口こそネオンで明るく彩られているが、タイ語やビルマ語のポップソングが流れる店内に少し入れば、その本当の肚の底が顕になって見えてくる。
 鮮やかな糸で織られた暖簾の先にあるのは、カラオケボックスと称した、さまざまな性サービスを提供する売春窟だった。年端のいかない子供が映ったポラロイド写真が飾られ、暗闇の中で茶色い血の跡がてらてとら光っていた。空気中には化粧パウダーと汚物との匂いが混ざり合っていて、最初に訪れた人は誰しも吐き気を催した。
 他の子と同じように、幼い頃に親に売られたメイだったが、年齢と儚い偶然とが重なり、未だに客の前に出されることは無かった。
 しかし、彼女はこの店で一番立場が弱く、あらゆる雑用を押し付けられた。少しでも不備があれば暴力を振るわれ、完璧にふるまっても、時と場合によってはやはり殴られた。
 彼女はある時から、沈黙は今日を生き残るための延命剤だと理解した。拙い言葉で弁明しても、より多く殴られるだけだ。彼女は何を訊かれても、ただ沈黙を守り続けた。黙っていたところで、「何を黙っているんだ」と難癖をつけられたが、それでも統計的には、まだ殴られる可能性は低くなることを直感的に理解していた。

「名前は?」
 だから、ある日店を訪れた男から名を尋ねられた時、彼女はひどく困惑した。
 少し逡巡し、久々に口を開く。最初の数呼吸で、喋り方をなんとか取り戻すことができたが、再び答えに窮する。彼女には自分を表す固有名詞がなかったからだ。
 しかたなく、彼女はに「メイ」と応える。それは、彼女がよく店主から呼びかけられた言葉だった。もっともその言葉は、現地の女性を意味する単語、”メイワン”の一部に過ぎなかったが。
 反射的に男の無骨な拳に目を向ける。微動だにしない右手に安堵を覚えると、そのまま上向きに、男のタンクトップから伸びるタトゥーに視線を伸ばす。
 日焼けしたその太い腕には、十本の線を交差させ、その縁をぐるりと円で囲んだ模様が施されていた。白色で彫られたその模様は、日焼けした黒い皮膚と相まって、日射の中で下から覗くとまるで浮かんでいるように見える。
 彼女はそれを見て、珍しい模様だと思った。ここに来る客は、何かの文字だったり、あるいは、なにかの神様や天使を象っているものがほとんどだったからだ。
 名を尋ねた男はその後、店主と一言二言話すと、メイの左手を力強く握り、そのまま何の前触れもなく店を出て、雑踏ひしめく大通りに進んでいった。
 数歩歩いてから、隣を歩く男の姿を彼女は盗み見る。自分の三倍はありそうな巨漢。髭で覆われた顔、日焼けしきった肌、目は鋭く、どこか遠くに焦点を定めているようだった。
 事態が掴めないまま、店から十数メートル進んだところで、メイは恐る恐る振り返る。店主が店の中に戻っていく様子と、その更に奥の暗闇から感じる、いくつもの虚ろなまなこ
 彼女は自問する。そこに囚われ続けている人々より私は幸せになれるのだろうか?私は自由を得たのか、それとも、さらなる監獄に閉じ込められるのか?
 メイが心のなかで無限に反駁を続しけているのをよそに、傍らの男は何も語らなかった。人でひしめくバスと鉄くずのようなタクシーとを介して何時間もかけて移動し続けるうちに、彼女はこの男もまた、喋らない側の人間なのだと、頭の中でそっと分別する。当時のメイが知っている人間は、肌の色や性別、喋る言葉とは関係はなく、世界にたった二種類だけ。罵声をぶつけてくる人間と、何も言わずに、その痛みに耐える人間のどちらか。
 もちろん自分は後者の人種として生まれたのだと、自分で自分をカテゴライズしていた。
 こんなに喋らないということは、男もまた、やはり、自分と同じ側の人間なのだろうか?
 無言の時間が続くまま、街を移動し続けると、次第に嗅いだことない変な匂いが、車窓から排気ガスと混じって漂ってくる。
 丘に上がったあたりで外に目を向けると、雑多な町の景色が途中から途切れ、地平の先まで平坦な青色で染められているのがわかる。メイにとっては人生で初めての海。あのポスターの絵ぐらいしか知らない彼女にとって、本物は灰色でも褪せた黄色でもなく、黒々とした青さで満ちているのだと知った。
 陸の縁に来たということは、私の輸送も、ここで終わるのだろうか。そう思ったが、まだ旅には続きがあった。
 ふたりは港に設置された、腐った木でできた今にも崩壊しそうな桟橋を渡り、停泊中の小さな漁船に向かう。
 そのまま、船の内部に足を踏み入れた瞬間、少し前までいたあのカラオケバーと同じような悪辣さを肌で感じた。血生臭さと代謝物が混在した据えた匂いと、船員達が醸し出す痛々しい沈黙とで船内の空気は飽和している。
 相変わらず何の説明もないまま船が出港すると、彼女は狭いデッドスペースに連れの男とともに放り込まれた。たぶん、ゴミ溜めのようなこの船でも、もっとも等級が低い部屋だろう。
 狭さと緊張とで、四肢の血の流れがあちこちで滞留する。痛みを少しでも和らげようと、一晩中、存在の許された小さい空間の中で必死に身体をくねらせ耐える。痛みと空腹、そして何が起こるのかわからない恐怖に包まれる中、ひたすらに揺れる船の中で身を埋める。
 男も自分よりは大きいスペースだったが、身体が大きい分だけ彼女以上に窮屈そうだった。ただ、男はそのような状況に慣れているようで、器用に身体を畳んで眠りについている。
 その様子を見たメイは、やはり男は私と同じで痛みに耐える側の人間なのだと結論づけた。

 早朝、突然船員のよくわからない言葉に急かされ叩き起こされる。身を起こそうとしても、四肢がひどく痺れていてうまく動かせない。半身は鉄板の網目の痕が残り、身体はまるで船の隙間の形を完全に覚えてしまったかのように硬直していて、どんなに急かされても、思うように直立できなかった。
 そのまますぐ男とともに、甲板の上に立たされる。魚の内臓で至るところにへばりついている船の上から見える景色にはただ一様に青が広がっている。何の目印もない海のど真ん中。
 メイは、ああ、自分はここ死ぬのか、と静かに思う。自分は魚の餌にされるために輸送されてきたのだ。そうでなければ、こんな途方も無い海の上に、わざわざつれて連れてこられるわけがない。
 だけど、彼女の予感とは裏腹に、どれだ時間が経っても、彼女の身に何かがなされる気配はない。まわりでは痩せた浅黒い肌の若者たちが網を投げ、引き上げられた成果物をただ無言で捌いている光景が繰り広げられる。
 彼女と男は、まるで船にくくりつけられた、黴びてなんの役にも立たない救命道具のように、その場の誰も見向きもしていなかった。

 暫くすると遠くの洋上から、黒光りする小型ボートが波を掻き分けて船に接近してくる。数メートルのところまで近づくと船体と水平になるよう、なめらかに回転させて横付けした。
 向こう側の船に乗る何人かが、手招きすると、突然彼女の身体を男が担ぎ、なんの予備動作もなく飛び降りた。
 飛び移ったボートの真ん中に固定されると、ボートは再び来た海路に戻るように発信した。先程乗ってきた船よりも遥かに小さいからか、転覆すんじゃないかと勘ぐるほどに、ボートはよく揺れた。そのまま海を切り裂くように進むと、水平線の向こうに、なにやら巨大な構造物が現れる。まるで巨大な骸骨の船に、足が生えた不気味な生き物のようだと彼女は思う。
 ボートは巨大な構造物に隣接すると、メイは、上にいる者に協力してもらいつつ、縄梯子を伝って引き上げられた。錆びた薄い鉄板の上を歩くたび、無骨な金属音があたりに響く。上の階に上がるための梯子の近くには、数メートルの綺麗な円形にくり抜かれた孔が空いている。
 少しだけ見えるそのくらい孔の下には、黒い海水で満ちている。ゴミを捨てるための孔かもしれないが、簡素な骨組みだけの周辺と異なり、その孔の周りだけ、さまざま色彩で彩られているのが気になった。
 その意匠に目を奪われつつも上に上がると、途端に生活感のあふれる景色が見えてくる。破損したコンクリートの一部から、垂れ下がったハンモックに吊り下げられた洗濯物。ここには人が住んでいる。それも、何人も。
 よくよく衣服を観察すれば、干されている布のどれもに、ここまで同行した男のタトゥーと同じような模様が、刺繍で施されていた。円と何本かの線で作られた、単純で、神秘的な模様。
 鉄骨とセメントで補強された通路を進めば、ときどき鼻腔を擽るような、なにか刺激臭が漂ってくる。どこかで嗅いだことあるような……カラオケバーの店主が、たまに発していた匂い。この匂いがするときはあいつ普段よりもずっと気が立ってて、手にはいつも黒い鉄の……そう、火薬の匂い。
 更に奥の白く無機質な部屋にはいると、目の前の女性――ここまでの道のりで初めての同性――が、メイの身体を調べる。簡易パッチによる抗原検査による健康診断。寡黙ながらも、あの店にいた者達と違うことにふと気づく。
 あそこにいた人々は喋ることで、なにか悪いことが起きることにいつも怯えていた。
 だけど、ここにいる人達はそうではない。喋る必要がないから、喋らなくとも伝わっているのだとわかっているがゆえの沈黙だ。
 ひょっとして、と彼女は思う。この者達は、私が知らない三種類目の人間かもしれないと。
 軽い脱水症状や打撲痕や創傷のは認められたものの、極端な問題は無いと判断され、受け入れの準備が整う。検査の結果がわかると、今まで道中を一緒に過ごした男の顔が、急に朗らかな笑顔に変わった。
「これで、君も私達の一部だ」店を出て以来、ほとんど初めて訊く男の声。低い、嗄れたその声で、男は続ける。
「私達はね、新たな国を作ることを、公に認められているんだ」
男の言うことは、解釈の一つとしては事実だった。登録上、彼らは確かに、この建物の所有者で、この海域を管理している国家から、自治を認められていたからだ。
 ただし、それはあくまで一つの好意的な解釈にすぎなかった。境界のあやふやな海上には、さまざまな矛盾する真実が同時に存在しうる。
 しかし、メイにとっては裏にある事実などどうでもよかった。
 彼の言うところの”国”が、あの狭いカラオケ店やここまで乗ってきた船のような変な匂いのする場所でなく、眼前に広がるこの海のように広いというのならば、ここが楽園であることは疑いようもなかった。

 

# 2
DECODE 2030年5月31日 アメリカ カリフォルニア州 ダヴィド本社35階 ルーム・ヘラス

 翌朝、なんとかシャワーを浴びるためだけに帰宅し、仮眠もままならぬまま、再び出社する。
 チーム専用の部屋に入ると、仕事場は宇宙working in spaceと青色のペンキで書かれた壁の下で、リーが寝袋で蹲って寝ていた。
「ちゃんとしたところで寝なよ。仮眠室もあるんだからさ」
 PCを立ち上げる合間で、屈んでリーに話しかけると、彼は身体を震わせ半身を起こし、「僕は寝床にこだわらない主義なので」などとうつろな調子で呟く。
「ああ、そういえば、ロイからの伝言が。状況把握のミーティングは”ヘラス”で、少し遅れての8時20分からだそうですよ」
 自席に戻りかけた私の背中に、リーはそれだけ伝えてきたので、私が、了解と応え振り向けば、既に彼は再びスリープモードに入っていた。

 長方形の大会議室。一番奥には、火星の赤い大地の写真が飾られている。ヘラス平原の光景だ。ダヴィド社内のミーティングルームにはそれぞれの部屋に火星の地形の名前が付けられている。
 そして、その写真の下に、ダヴィドのCEOである、スタークが座っていた。彼のまわりを上級役員が取り囲んでいる。まるで、公会議のような荘厳さだ。
 本来ならば、私のような若手が入り込める会議ではないものの、もし詳細な意見を求められた時に補佐してほしいと、ロイから出席を頼まれていた。
 壁に面したオブザーバー用の簡素な椅子に慌てて座った瞬間、会議の進行役が「時刻になりました」と、開始を告げる。
 まず事実確認から行われ、進行が時系列で事象がつらつらと読み上げられれたあと、「なにか、この現象について、仮説のある方は?」と意見を求める。
 すると一気に場は活発になり、さまざまな意見が噴出した。円形の模様については、似た模様をもつ昆虫を取り出し、砂と微小の水による自己組織化現象であるとか、そもそも最初から火星に描かれていたとかの”自然発生説”を持ち出す者も多くいたが、もっとも多数派だったのは、やはり当然ながら”人為説”だった。
「明らかに誰かが、故意に仕組んだものです」太ったチェックシャツの男性が、大声で言い切る。理由は至極シンプルだ。ステータスコードの値を記したコードが人の手によって、書き加えられた定数であるということだ。とはいえ、改変履歴コミットログを見ても、いつ仕込まれたものなのかは判別できなかったが。
「このOEEは、イルミヤのシステムにアクセスできる誰かによって、引き起こされたことは自明のことですよ」
 OEE――オーバービュー・エフェクト・エラー、命名はせめて名前だけは付けてわかって気になる、ささやかな組織の抵抗だ。
 初期の宇宙飛行士達の中には、一流の科学者で特別な信仰を持たない者たちが、宇宙からの帰還後、なにかしらの”信仰”に目覚めてしまう現象は、当時概覧効果オーバービュー・エフェクトと呼称されていた。暗闇に浮かぶ地球を見て、まるですべてが一体となっているような感覚に陥るという。
 だけど、イルミヤたちも、アポロ時代の宇宙飛行士と同じように、自己と宇宙とが溶け合う感覚をもつことなど、果たして、本当にあり得るのだろうか。
 ある程度意見が出終わり、一瞬静まった空気の中で、ひとりの白鬚を蓄えた小柄な男性が、おずおずと手を上げる。
「この意味を解釈するのであれば……」
 私は彼の胸元に目をやる。記名してあるプレートを見ると、身分の欄には”社会人類学者”とだけある。火星移住を標榜するダヴィドでは、数十年後に実現するであろう火星移住を見越し、社会文化学の専門家も何人か外部顧問として採用しているらしい。
 男はメモ用紙をじっと見つめながら、か細い声で自説を語った。
「クレーターと破壊されたMAVはそれぞれ聖域Asylum監獄Agileと解釈できます。これらの施設を両側に作り出すことは、社会構造の最初の創出とも言えるんじゃないでしょうか……えっとつまり、このふたつの”A”は社会の必要最低限の構成要素なのです。対立する要素を配置することで、社会構造の中に勾配が生じ、構造がより複雑に、組織化していくのです」
 彼が説明を終えた途端、沈鬱な部屋の中で誰かが失笑を漏らした音が一瞬だけ響いたが、またすぐに何事もなかったかのように、あるべき静けさを取り戻した。技術エリート集団のダヴィドのメンバーにとっては、彼の話など戯言に過ぎない、と、思う人間がいても不思議ではない。
 当の人文学者も、発言中ずっと何かを恐れているようだった。無理からぬ事ではある。自分の出番は早くてもだいぶ先、火星移住計画が本格化してからになるはずと、のんびり構えていたはず。なのに、突然呼び出され、一流の技術者集団に囲まれて、イルミヤの挙動について解説しろと言われたわけだから。何も言わないと、次から顧問料が払われなくなるかもと、初老の男は無理やり自分の知識と現象を結びつけたのだろう。
 遠くの席から眺めていた私には、その構図は、まるで異教の教会の中で、信仰の告白をする信徒のように映った。
 そのあと少しの間、微妙に締まりのない空気が流れたが、別の技術顧問、財政部門のトップ、広報担当部長などが、流れるように簡素な報告をしていくと、本来あるべき静謐さを次第に取り戻していった。
 各部門ごとに報告が一段落すると、ずっと肩肘をついて黙って訊いていたスタークが、ゆっくりと椅子を半回転させ、皆の方に身体を向ける。その小さく緩慢な動きだけで、音すら聞こえそうな程の緊張が伝搬する。
「とにかく正常化。早急に対処にあたるように」
 静かに、しかし、身体中に怒りを溜め込んだような声でスタークが短いめいを発すると、脇を抱える副社長が、各部門を束ねる部長陣ひとりづつ何かを通達していく。
 私は笑いがこみ上げるのを必死に我慢する。ここではスタークが神で、副社長は預言者的存在なのだ。彼の短い提言オラクルを解釈し、具体的な指示に読み替えて、下々の者に伝達する必要がある。これでは本当に中世の教会となんら変わらない。まるで宗教画のようなワンシーン。
 スタークはそんな副社長の姿には目もくれず、トレードマークの赤いジャケットを羽織り、すぐさま秘書と共に部屋から退出していった。おそらくこの後すぐに、報道陣に向けての報告を行うのだろう。

「なにこれ?」
 まるで不条理喜劇のような会議を終え、疲弊したまま自分のデスクに戻ると、自席がカラフルなプラスチックの塊で溢れかえっていた。太陽系を模したジオラマに、火星探査機キュリオシティのモデル、あとはよくわからないプラモデルたち。明らかにリーの玩具の集合体だ。
 横に座っている彼に咎めるように問うと、彼はむしろ意外そうな声で言ってくる。
「あれ?訊いてないんですか、レイカさん、原因究明のためのタスクフォームチームに移動だそうですよ」
 訊くと先程、部門長からロイにひとり送り込んでほしいと言われ、私がご指名にあずかったらしい。
 なるべく他人に聴こえるように、大きくため息を吐く。正直これ以上、この騒ぎに巻き込まれることには勘弁してほしい。本来やるべき仕事が片付かないじゃないか。
 その反面、このチャンスを決して逃してはならぬと考えている自分もいる。
 先程の会議で、有用な情報があるとするならば、事件が起きる半日前にあるプロセスが実行されていたということ。
 つまり最後にイルミヤに改変を加えた日時タイムスタンプは、メイが死んだ後の日付だったということだ。
 火星の模様とタトゥーが似通っていたのは、ただの偶然か、あるいは逆に、メイの死にこの事件が大きく関わっているかのいずれか。
 後者の可能性があるならば、私はなんとしてでも、犯人を明らかにしなければならない。

ENCODE 2025年7月10日 インド洋 洋上

「では、今日の授業を始めますね」
 15歳になったメイはこの海の上の集落で、教師という役割を担った。この土地において、彼女唯一の先生だった。この地に住まう者のほとんどは彼女より年上だったが、誰しも彼女の話に耳を傾けた。
 メイは、人に教えるのには、ひとつのコツさえ掴めば良いことがわかっていた。人間は誰しも、仕込こまれた暗号を自身の知識で解くことに喜びを感じるものだと。

 油田を訪れた最初の頃は、メイは、この場所には余分なモノが多すぎると感じていた。
 飲料水に食物、ビタミン剤や抗生物質、簡易的な医療器具といった人として生きるのに最低限の物資だけでなく、複雑な模様が編み込まれた衣服に、寒さも熱射もしのげないような薄布、実用には向かないほどに飾り付けられた、綺羅びやかな鉾など、直感的には生活には不要と思えるような品も多く見受けれたからだ。
「こんなの、何に使うの?」赤く染められた祭事用の布切れをつまみながら、幼い彼女は尋ねる。物資が限られているはずのこの洋上で、無意味な飾りつけや儀礼を行う理由が、賢いメイには最初は理解できなかった。
 幼子の無垢な疑問に、ヴェールを身に着けた、ひとりの中年の女性が応えてくれる。
「生きるために必要なのは、なにも食べ物や飲み物だけでないのよ。個人でなく、集団として生きる人の身体には、無用に見える決まりごとも不可欠な栄養素なの」

 メイが住むことになった場所は、いわば海上に浮かぶ人工島だ。骨組みだけになった船に足が生えた怪物のようなその洋上構造物には、総面積にしてはサッカーコートほどがあり、外見よりも遥かに広いスペースがあった。
 半世紀以上前に米国の資本によって作り出された油田採掘のための海上プラットフォーム。だが今となっては採掘可能な資源の価値が採掘コストを遥かに上回り、解体されることもなく放置されていた。
 だが、そこに、目をつけた人々がいた。国の管轄となっていた油田を安値で買取り、共同体を作った。
 現在、この地にはあらゆる人種が集っていた。漁船に売られてから脱出してきた若者から、洋上の戦闘兵として駆り出されて逃げ出してきた人々、差別的扱いを受ける国家から脱出してきた女性や、船の乗っ取り屋レイダーズによって海に放り出された乗組員など。メイを迎えに来た男も昔、海のどこかで囚われていた人間のひとりだった。
 総勢百名ほどの雑多な人々の集う世界にもかかわらず、かれらは皆、争うこと無く暮らしている。これは奇跡的な事象だ。
 海は人間を破壊的な衝動に誘惑する。何年も沖にでる漁船や、豪華客船のボイラー室のような閉ざされた空間で、集団による暴力行為が行われることは、まったく珍しいことではない。閉鎖的な空間はヒエラルキーを生じさせ、自然と暴力を生む。時として、海はどこまでも広がる監獄となる。
 だからこそ、海には暴力的な魔力があることを皆は十二分に理解していた。巧みに多民族集団を運営するには、こうした暗黙的なルールの”枠組み”が必要不可欠だと知っていたのだ。
 かれらはその枠組みを”トッラ”と呼んだ。その音にどれほどの意味があるのかはわからない。おそらく、どの言語でも発音しやすいものが選ばれたのだろう。このトッラと呼ばれる文化的な枠組みは、ルールを決めたり、生活に変化を付けさせる機能を有した。
 例えば娯楽物として酒や煙草、マリファナなどは内部で禁止こそされなかったが、どれも呪術的な一定の意味を付与し、過剰な摂取を控えさせ、節度を持って利用をするよう促した。また、一年を通して変化が曖昧な海の上で、暦を実感させるために一定の間隔で、祭りや断食など特別な儀式を行う日を定義し、時間の変化を住んでいる者に実感させた。
 それと、そうした実質的な役割よりも、遥かに重要な役割がトッラにはあった。民衆を束ねる力だ。トッラは、彼の地に住まう者同士を結びつける、仮初の紐帯だった。
 皆を結びつけるこの紐は、驚くほどの柔軟性をもたせていた。既に他の宗教を信仰する者もこの地には多く訪れる。だから、偶像崇拝など、多くの宗教でタブーとされている概念は導入せず、もしも他の宗教で多く見られるパターンがあれば、積極的に取り入れた。
 それ故に、自ずと抽象化する教義だったが、差別化するための特徴がふたつあった。儀礼と、シンボルだ。
 日々の暮らしの中の挨拶の所作のような日々の暮らしに関わるものから、大掛かりな祝祭や弔事に関わるものまで。その基本となる所作は、十指の指を互いに組み合わせ、半身を屈ませ祈るような仕草だった。
 加えて、一つのシンボル――十本の線と円でできた単純な構造。キリスト教ではニンブスやマンドリル、仏教でも釈迦像でも同じようなパターンが単純な幾何で表されている、霊性の光輝を表すモチーフ。男女関係なく、一定以上の年齢の構成員は皆、その模様を身体のどこかに刻んだ。
 言語が違う人々が集うなかで、言葉を用いずとも伝わる身体的な動きとシンボルはなにより重要だった。仲間同士を特別な意匠や儀礼によって接続することで、特に言葉や人種すら違う人間達に共通項を与え、無駄な軋轢を生まないように作用させた。ひとつのコンテキストを通して、境界の内部にいる”同じわたしたち”という虚構を作りだす。その幻想が、洋上に生きるかれらとっては、極めて重要なものだった。
 身体性とその視覚的なイメージによって、言語が通じない人々にもそのふたつが皆の身体の中に溶け込み繋がり合って自己組織化することで、トッラの法典コードとなった。

「じゃ、今日で英語はいったん終わり、明日は算数にしましょう」
 秩序を維持するための仕組みは、別に宗教だけではなかった。文化的な素地や教養をなるべく身に着けさせるために、なにか特殊技能を持つものは、仕事を割り当てられることもあった。
 彼女が買い取られ、この地に連れられてきたのは、まさにその特殊な役割のためだった。例えば、第二次大戦下、ある国の捕虜達は、架空の貴婦人を想定することで、隊の規律を守っていたのだと眉唾ながらに伝わる。メイもまた同じように、秩序のための備品として、この島に連れてこられていた。
 最初こそ、存在すること自体が彼女の仕事であったものの、彼女は自らの才能によって、別の役割を見つけた。
 メイは、極めて高度なパターン認識能力をもっていた。持ち込まれた教材の文字はまったく読めないはずなのに、彼女はほんの一部の数式だけから、奥に流れる本質を見て取った。
 初等的な級数の問題から、整数についての魅惑的なパターンを読み取る。微分問題からは解析学の広がりと、そこから読み取れる波の運動や星の運動パターンが本質的に同じであることを理解する。更に、まったくして独立したように思っていたそれぞれの問題が、彼女の頭のなかでは互いに手を差し伸べながら、そっと握手し繋がりあう。
 彼女の数理的な能力は、極めて優れていた。彼女が幼い頃に発見した定理や予想は、のちに調べたところ歴史的に既に発見されていたもので大部分が占められていたが、そんなのは些細な問題だ。メイは思考を進めれば進めるほどに、概念的な、なにか大きな者と接続している全能感に満たされた。
 だがときどき、メイは非常に窮屈な思いをすることがあった。あの売られたカラオケバーや、この地に来るまでの船内での経験を思い起こさせるような、いや、それよりも数十倍の不快感。全身を見えない細い糸で締め上げられ、脳髄がきしりきしりと痛む感覚。
 まるで、身体によって、自分を監視されているような、倒錯した感覚に襲われる。思考の幅が身体によって規定されているような絶望感。
 メイは理解する。私は私を、自分の身体の中に閉じ込めているのだ。私は看守でもあり囚人でもあり、そして檻自体なのだと。

 授業が終わってからも、いつものようにそんなフラストレーションを抱えながら、あてがわれた共同部屋に戻ると、同室の女性が慌ただしく布で人形を作っていた。
「先週来た、あの老人だよ」手元に視線を向けたまま、メイが尋ねるよりも早く彼女は応え、「ほら、あんたのぶん」と、メイに向かって、人型に丸められた人形を放り投げてきた。受け取ると、ふたりはすぐに弔うための衣服に着替える。
 部屋を出て、簡素な階段を慣れた足運びで下っていくと、ツンとした匂いが鼻腔を刺す。潮と日射から金属フレームが錆びるのを防ぐために、毎月のようにペンキを塗り直さなければならない。通路を足早に過ぎ去って行くと、同じ装束に着替えた、何人もの住民と合流する。目指すところもみんな同じ、メイが油田に来たときに最初にみた、あの神聖な孔だ。この孔は死んだ者を、死にゆく者を弔うための聖櫃として機能していた。
 吹き荒れる海風に注意しながら、メッシュ状の鉄板の上をゆっくりと歩き、虚ろな円の周囲を皆で囲んで、じっと黙って眺める。
 式を取り仕切る壮年の男性が、遺体に布をかぶせ、可燃性の液体を浴びさせてから火を付ける。動物が燃える時と同じ、あたりに香ばしい香りが充満する。不純物が多く含まれる燃焼剤を使っているせいか、煤が多く舞うが、すぐに潮風が洗い流す。
 メイの相談役の女性によれば、本来不可分なはずの魂の境界をなくし、海に帰らせることが目的なのだという。魂には本来、境界が存在しないのだと。
 供犠はアステカ文明やの原始のキリスト教、仏教における即身仏にも多くあり、東洋問わず存在している一つの形式だ。
 燃えた死体を海に放るさなか、式に参加する皆が、各々作った簡素な人形に火を付け、同じように孔に焚べる。メイも先程もらった人形を海に向かって放り投げる。人形の素材は布でも木でも鉄でもなんでもいい。とにかく、自分の分身に火を付け、一緒に放ることが重要なのだ。
 それは自分が無くなるときの心の準備ともいえた。魂を腑分けした人形を焚べることで、いずれくる自分の番のときも、自然と死を受け止められるように。
 この閉ざされた世界において、死を肯定することは、思想的な側面以上に、実利的な面でも非常に重要だった。暮らせる定員が決まっていると同時に、外部から隔絶され、伝染病などのリスクがあるこの絶海の人工島においては、新陳代謝を調整できるシステムは不可欠。死を肯定する文脈を組み込むことが、どうしても必要だった。
 死の原因は、病気以外にも多く存在した。海に出た何人かの男たちが極度の怪我を負って帰ってくることが多々あった。まわりからは漁で起きた事故だと説明されたが、たとえ鮫の大群に襲われたとしても、ああはならないだろう。
 この地に隠された謎はそれだけではない。南の一角には入れない不可侵のエリアがあり、共同体の人間は基本的にそこには近づくことを許されておらず、外から来た、外部の人間が出入りしていた。
 だけど、彼女はその事実を意図的に無視しようとした。多少面倒な儀式は多いが、ここには今までになかった自由がある。身体の自由、発言の自由、なにより、知的好奇心の自由が許されているのが何より大切なことだった。

 ここに来て最初の数年は、外部との通信は不可能な莢の中にいるような生活だったが、二十年代からダヴィド社が始めた事業によってその問題は解決された。打ち上げた衛星によって、地球のあらゆる土地にインターネット通信を提供するサービスが運用開始されると、この土地でも微弱ながらにインターネットを利用することが可能になったからだ。
 ただし、無料で利用するには一時間ごとに15秒間、ダヴィドの広告ADを見なければならず、メイは毎回のそのPRを見なければいけなかった。
 だが、ある時期流れた広告が、彼女の人生を変えた。その動画は、CEOであるスタークの演説だった。
「船を作らせたいのなら、人々を無理やり森に行かせたり、やりたくもない仕事を命令してやらせる必要は何もないのです。その代わり、無限に広大な海の存在を説く。ただ、それだけでよい」
 普段は、広告など真剣に見ない彼女だったが、その時だけは、その言葉に突き動かされた。正確には、引用されたサン・テグジュペリの言葉に。
 メイにとっては、その言葉は地と海が反転して伝わった。私は、むしろ海しか知らない。この海に囚われたまま、陸の広さを知らない。
 自分に割り当てられた部屋の一部に飾られた、正距離方位図法による世界地図をじっと見つめる。青と赤で色分けされた地図。
 彼女は思う。海は矛盾の塊だ。海はあらゆる自由を生み出す源にも、自由を奪う監獄にもなり得る。私が閉じ込められていた狭いカラオケバー、あそこよりはずっとずっとましなところだけど、それでも私を縛る囲いには変わらない。
 その言葉を訊いた次の日から、アメリカの企業が営むさまざまなデータサイエンスのコンペに参加した。参加可能なコンペティションは、中古のローカルコンピューターと、微弱なネット環境の中でもなんとか闘えるような限られた形式のものだったが、それでも優勝賞金は莫大で、彼女の代理人の口座に多額の金が振り込まれた。

 二年後、その金を元手に、外部から油田に出入りをしているひとりの男と渡りをつけ、この海の上からを脱出を図った。最後、同室の女性だけには別れを告げて。
 男は海の人間らしく無言だったが、水平線に沈む油田を眺めながら、慰めるように口にする。
「今が出るには一番いいときだよ。いずれここも戦場になるだろうからな」
 その言葉の意味を、このときのメイは、既に十分に理解できた。
 海の上のロッカーボックスが、私達の住んでた土地の正体。預けられた武器を保管し整備し、時と場合によって派遣もする。その役割を大人数で持続的に営むために、あの油田は稼働していた。
 この洋上の兵器庫は、この地域一帯の海における、不可侵の聖域だった。近隣を邂逅する正規の海軍部隊も、民間軍事会社も、資源の限られた兵站を管理してくれる安全地帯がどうしても必要だった。
 安全に長期間にわたって武器を管理する重圧と技術、それに他の勢力から狙われないように洗浄クレンジングするために、トッラは戦略的に構築された宗教システムだったわけだ。
 だけど、その需要の加護も、いつまで続くかはわからない。
 何時間もかけて海を移動したメイは、陸に上がり、そこでやっと預託エスクローされた金を受け取る。取引はつつがなく終了し、メイは本物の自由を手に入れたつもりだった。
 だが、陸に上がって少しすると、彼女の身体に異変が起きる。目眩、頭痛、吐き気。周りの景色が発狂したように踊り狂っているような感覚に取り憑かれる。
 メイの様子を見て、付き添いの男は言った。
「陸酔いだな。漁師でもよくいるよ。船の揺れにはいくらでも強いくせに、陸に上がると急に気分が悪くなるやつが。身体から海がうまく抜けきれていないんだな」
 それを訊いたメイは、不思議なものだなと思う。私が船に乗ったのは人生で二回だけ、あの油田への行きと帰りのみ。いや、今となっては、帰りと行きと言うべきか?
 漁師の、『身体だから海が抜けきれていない』という言葉が、何度も頭の中で反響する。少し経てば収まるかと思った身体の揺れは、しかし、数日経っても収まらない。
 更に一ヶ月ほど経ってから、彼女は遂に覚悟を決める。身体に引き起こされた錯覚の沈め方は、彼女は十分理解していた。問題なのは、その事実を認めることだけだった。
 また男の元を訪れ、街でもっとも評判の良い、彫師を紹介してもらう。その日のうちに店を訪れたミナは、「デザインはどうするんだい?」と店の者に英語で問われ、事前に用意していた一枚の絵を渡す。既に決別していたつもりでいた、トッラの模様。
 すぐに施術台に寝かされ、下地を描かれた後、背中の皮下に色が注ぎ込まれる。強烈な痛みの訪れるとちょうどすれ違うように、身体の揺れは減衰し、彼女の身体からそっと去っていった。

# 3 
DECODE 2030年6月10日 アメリカ カリフォルニア州 ダヴィド本社30階 ルーム・エルシオン

 ダヴィドの中でもっとも広い円形の部屋、”エリシオン”で、私は、砂の中から両腕を使って、砂から這い出る一体のイルミヤの挙動をぼんやり眺める。
 この実験室は、火星環境を模して作られた部屋だ。だからイルミヤが到達した火星の土地と、まったく同じ名前を冠しているわけだ。
 半径三十メートルの、ワンフロアをぶち抜いて作られた巨大な空間。中央には同心円状に柵が囲まれ、その内部には、遥か遠くの大地が再現されている。
 バッテリーの低下によって駆動時間が少なくなったせいか、イルミヤのうちの一体――”アイゼル”が私に近づいてくる。先端の雫のような輪郭をもつ、表情のない頭部を私に向けてくる。まるでホラー映画に出てきそうな様相だが、イルミヤには表情なんて機能を付ける意味はない。かれらは表情でコミュニケーションを取らずとも、独自のネットワークで通じ合うことができるのだから。
 緩やかなモーターの回転音と共に、砂で満ちた柵を飛び越え近づき、椅子に座る私の前で、半身を折りたたんでスタンバイの姿勢に入った。
 タスクチームに配属されてから、私は原因究明のためにイルミヤの挙動を正確に把握したいと願い出て、イルミヤのうちの一体を自分の権限で操作できるように借りていた。
 同じように、私以外にも何人かの開発者が、あらゆるエッジケースを試して、火星の現象を再現できないかをずっと試み続けていた。だけど奮闘虚しく、未だに再現に成功したメンバーはいない。
 それどころか、火星から届くシグナルの意味すらはっきりしない。ある解析チームがフーリエ変換を行ってから、細かいノイズを除去した上で情報エントロピーを算出したところ、それがただのノイズではなく、構造があることまではわかってはいたが、肝心の意味するところは不明のままだ。
 イルミヤの一体、私が借りた個体につけられていた愛称は、アイゼル。モデルのような長身、粉塵の影響を少なくするために、つなぎ目をなくした流線型のフォルムが黒光りする。
 イルミヤにはすべての個体に、アポロ計画に携わったメンバーの名前が愛称として付けられている。”アイゼル”は、アポロ一号計画のバックアップクルーの名前だ。
 私は、隣で背中を丸めスタンバイの状態になったかれに近づく。
「本当に、火星でしか再現しないエラーなの?」
 そっと語りかけながら撫でる。なるべく粉塵を寄せ付けないように絶縁加工が施された、少しザラリとした肌触り。
 会議で付けられた名前、オーバービュー・エフェクト・エラーとは本当に言い得て妙だと思う。どんなに火星を再現しても、地球に残ったかれらには、決してその景色は見れないのかもしれない。
 大昔の宇宙飛行士は、地球に住まう三十億人を代表して宇宙に旅立った。ならば、イルミヤ達は、いったい誰の依代アバターなのだろうか。
 
 私は、あらためて部屋をぐるりと見回す。エリシオンには、火星の環境を再現するためのさまざまな設備が用意されている。巨大な散布機――三台あるうちの一台は故障中なのか見当たらない。イルミヤの活動を補助するためのローバー、重力を火星に近づけるためのバルーン、湿度や温度、大気成分まで調整可能な空調システム。それに、限りなく精巧に作られた火星の岩や砂のモック。SF映画を撮影するためのセットとして貸し出したこともあるほどの、火星の環境を極限まで再現した贅沢な設備が揃っている。
 部屋を囲む湾曲した壁面には、火星の風景写真がぐるりと張り巡らされている。緩やかに隆起する火星の砂の形は、夜の海のような静謐さを湛えていた。
 この実験室はまた、メイが飛び降りた部屋でもあった。
 私は、彼女が飛び降りたと思われる窓際まで移動する。窓から一メートル以内の半円には柵が設けられ、立ち入り不可となっていた。床は焦げて黒ずんでいて、窓もプラスチックの板で覆われている。
 この部屋の名前でもあるエリシオンは、ギリシア神話において、神々に祝福された者たちの魂が帰る場所を意味するらしい。
 近くに転がっている椅子に座って、壁を背中にぼうっとしていると、少しずつ彼女の言葉が頭の中に蘇る。
「すべての動物は、世界をそれぞれの固有のパターンで認識する。それは人間も、たとえ機械だって変わらない。人間は、”神様”や”理”みたいな、抽象的な概念で世界を語るってことなの」
「機械でも?」思い出の中の私は驚く。機械にも――イルミヤたちにも?
「そう。たとえ機械でも例外じゃないよ。高度な知性を獲得したのなら、かれらだって自分達で、自分達の世界を捉えると思うの」
 そう言って、彼女は私に向かって笑みを向けてくる。私にしか向けない表情と共に、時代遅れの煙草を取り出し一服している。
 私は隣に佇んだまま、彼女の皮膚に刻まれたタトゥーをそっと撫でてから問う。会社では無口なふりをして、私の前になると、饒舌になる彼女が愛おしい。
 記憶の中の私は、この際だからと、ずっと気になっていたことを問う。
「なら、メイ、あなたはどういった景色をみているの?」
 彼女はまるで脳にコンパイラが搭載されているかのように、すべて頭の中にイメージして、ある臨界点を越えた瞬間、一気にコードに落とし込む。
 そして、実際にコードに落とし込んでいるところは「神聖な儀式だから」と、私にも見せてくれなかった。
 彼女のもっていたその神秘性は、私以外にも多くの人を魅了した。メイは、同じ分野の他の者とは、比較することができないほどの天才だった。彼女がいなければ、決して、イルミヤは完成しなかっただろう。誰しもが実現不可能だと考えた要件を求められていたから。
 火星に送り込まれるイルミヤ達の作成には、相矛盾するようなふたつの無理難題の実現が必須条件だった。
 ひとつは、こちらの期待通りに火星での様々なミッションを完遂すること。
 そしてもうひとつは、今後の火星移住計画を見越して、人間の活動パターンを網羅するため、柔軟な問題可決能力を付与させること。特にどんなに速くても地球からの指示が届くのに十分単位のラグがある火星の上では、AIが独自に判断しなければいけない場面はいくつも遭遇することが想定される。
 つまり、「絶対に失敗するな、だが、自由にやらせろ」が至上命題だったわけだ。
 さらに問題なのは、火星の環境は実際に行ってみないとわからないことが多すぎることだ。ということだ。そもそも、宇宙開発において、帰納型ボトムアップベースでの機械学習は相性が悪い。普通の機械学習モデルならば、こちらである程度の問題設定の枠フレームを決めてしまい、大量のデータを食わせてモデルを構築する。だけど、もし問題の前提がもし想定と違ったら?かれらは火星の上で為す術もないまま徘徊するしかなくなる。とはいえ、ルールベースの演繹型トップダウンベースで構築したとしても結局同じだ。ノーフリーランチ定理、天気を予測するAIは、どんなにがんばっても、チェスは打てない。チェスを打てるように学習すれば、今度は予報が当たらなくなる。両方を同時に求めれば、ただのサイコロと変わらなくなる。
 そのため、イルミヤのアーキテクチャには、今までにない新たなパラダイムが求められた。
 AIというのは何の学習もされていない状態ならば、”悟っている状態”とも言える。その初期状態から学習をさせることで、解決方法を見出す。別の言い方をすれば、特定の方向にバイアスを生む。つまり、均一の確率場が破れるような”破れ”を与え、問題解決の――AIにとっての、”欲求”の方向性を見いだせてやれば、自ずと問題に対処可能になる。
 火星という地球と何もかもが異なる未知の環境を一体化し、その環境に依存する文脈の中から、自分たちで欲求を創出する必要がある。環境と一体になるために、彼女が見出したアプローチは、今までの頭脳だけのAIではなく、身体と学習モデルが密接に関わりあうデザイン。従来の環境から切り離された頭脳ではなく、身体を前提とした知性、イルミヤのボディに細かく刻まれた知性の集合体は、連続場として成り立つほどに細分化される。流体のように細かく刻まれた知性の集合は、環境が、動的に変わったとしても問題解決のコンテキストも柔軟に変化させることができる。
 環境と身体と知性とが相互作用するイルミヤ達は、火星の空気と砂と、重力……あらゆる構成要素とフィードバックを繰り返し、火星の一部となる。
 内部で刻まれるイルミヤの体感時間クロックのなかで、少しずつ環境と変え、自己を破壊し、次の段階へと進んでいく。あらゆる関係性が溶け合った深い知性の海の底から、場に適応した動的な境界が計算され続ける。相空間の中に浮かぶ陽炎のような膜で、知性の一瞬の一瞬の陰の形を象る。刹那刹那、ある瞬間は天気を予測し、またあるときはチェスの相手になるように。
 十年代から勃興したディープラーニングのような階層構造をもつ内省的なアーキテクチャが、西洋のパラダイムから現れたものだとするならば、メイの考案した場に知性を宿す相互作用的かつ、身体性に基づいたその設計は、東洋の、あるいはアニミズムのような原始宗教のようだと思う。
 内部の数兆個のパラメータは変動し続ける。だが、そこにどのような意味を見いだせるかはわからない。かれらの見ている現実を、私達の現実を表すビジョンや言葉で置き換えることはできない。
 身体を獲得することで、フレームを破るコンテキストを自分で発見し、イルミヤ達は独自の宗教システムを生み出したというのか?
 その真実は、今となっては誰にもわからない。
 だけど、おそらく、メイは、メイだけは、おそらくイルミヤと同等の世界を捉えてたんだと思う。イルミヤの環世界を捉えることこそ、彼女の住まう世界の景色だったんだ。
「あなたは、どんな世界を生きてきたの?」
 急に私の目の前に、にっこりと微笑むメイが現れる。だけど口元以外の表情は、霧がかかっているようにぼんやりとしていて、うまく点を結ばない。
 気づくとキープアウトのテープもイルミヤも実験室の空間もすべて周りから消失している。メイの周りにあるのは無だけ。彼女は宙に浮いていた。だから、私はこれは夢の世界なのだと簡単に自覚できた。
 彼女が普段、服の下に隠している。あのタトゥー。その少し下、ちょうど腰辺りに刻まれている一単語、”Umwelt”。前にそっと調べ、環世界Uuweltは、哲学用語を表す用語らしいと既に知っていた。
 私は夢の中の死者にもう一度尋ねる。「イルミヤの見ている風景こそ、彼女の見ている世界なの?」
 彼女はぼやけた口から何かを言う。けど、死人の発する音はひどく脆弱で、真空を伝って私の耳元に辿り着く頃には、その意味はとっくに息絶えていた。

 まどろみから目が覚めると、部屋は真っ暗だった。私の上に吊り下げられた照明だけが私を照らしている。腕時計を見ると、午前3時。私が寝ていることに誰も気づかないまま、他の社員はこの部屋から退散したのだろうか。
「環世界……?」
 不意に漏れた言葉。まだ夢の内容が頭の中で反復される。私の潜在意識にある単語は、無意識のどこかに引っかかって振り払おうとも離れない。
 その時、あるアイデアがふと浮かんだ。
「もしかして」
 根拠のない思いつき。だけど、確かめる価値は十分ある。眠気を振り払って、手元の端末からエディタを起動し、数万あるイルミヤのソースコードの中身を走査する。PCが膝下で唸る音。検索する単語は”Uuwelt”。その単語がコードのどこかで使われているんじゃないかと、何の脈絡もなく考える。
 すぐに、エディタは私に結果を返してくる。その結果に冷や汗が止まらない――ヒット数は23。そんなにもエンジニアリングと一切関係ない単語が使われている。
 私はほとんど反射的に、ヒットしたファイルを開く。ところどころの変数にその単語が脈絡もなく使われている。最終編集者ブレイムを確認すると、”MayJ”と刻まれている。メイのアカウント名。社内規定では、誰しもがレビューをもらわなければ、コードを取り込めないことになっていたが、メイだけは特別だった。
 私はすぐにその23のファイルの共通項に気づく。”Uuwelt”という名前の変数が使われているファイルのすべてが、特殊なライブラリをインポートしていた。それも社内ではなく、誰もがアクセス可能なオープンレポジトリのもの。調べてみると、古くからあるレポジトリで、更新頻度も高い。スター数も大きく獲得しているから、外部ツール導入のセキュリティチェックもパスしたのだろう。ソースコードを確認するが、その中身は、内部はただの軽量ロガーのよう。
 だけど、その中のファイルの一つに、コンパイルされたファイルがある。拡張子はイルミヤのために独自に開発されたプログラムのものだ。
 コミットログを見ると、つい最近――イルミヤが火星に着陸した当日に一つのファイルが追加されている。
「誰かが秘密裏に、デプロイしていたんだ」火星に到達する直前のイルミヤたちにだけ。
 だけど、そのバージョンが適用された記録は、どの管理ファイルにも残っていなかった。だから、誰もが見落としていたんだ。
 バージョンを判定するチェックサムファイルのハッシュ値も人為的に書き換えられたせいで、完全に見落とされていた……あるいはこれが社内のコードならば見抜けたかもしれないが、まさかこんなに小さいパッケージが暴れていたなんて、誰も考えつかなかった。
 私は震える指で、コードを書き換え、手動でライブラリのバージョンを上げてから、アイゼルを再起動する。
「信じられない」
 するとアイゼルは私に向かって、十本の指を交差させ、祈りの所作を向けてきた。
 このわずか343KBのファイルに、イルミヤ達の現実を詰め込んだ。製作者の名前を見れば、思ったとおり、MayJ。レポジトリ名は――
torraトッラ……?」
 メインファイルの中身を展開すると、思わず驚嘆の声が出る。ファイルの先頭にアスキーアートで何百回もみた幾何学模様が描かれている。あの、メイの、そして、火星に刻まれたのとまったく同じマーク。
 頭から滴り落ちる汗を拭う暇も無いぐらい、忘我のまま仮説を実証に移す作業を開始する。
 火星にいるイルミヤから送られてきたデータを、アイゼルを介して読み込む。
 まさかと思う。
 画像が一枚ずつ、内容が判別できる形式に変換されていった。
 イルミヤから送られてきた。あれはただのジャンクデータではなかった。このデータはかれらの世界の言葉でかかれたメッセージだったんだ。かれらの言語で語られる、エンコード化された告白。
 その写真は、どこかの巨大な建物の工事現場のようにも見えた、港かどこかの島の建設中の風景のよう。だけど、読み込まれる画像を見ていくと、その建物がひどく老朽化していることが見て取れる。
 そこに写る人々は、慎ましやかな表情で、生活を営み、祈りを捧げている。どれも、あの火星でイルミヤたちが見せた所作とまったく同じだ。
 何十枚か見たところで、私は、思わず眼を背けてしまう。死体だ。山のような死体。先程まで写っていた生き生きとした表情も、丁寧に施された飾り付けも、生活感があふれる情緒も、そのすべてが消え去り、焦点が合わない、盗み撮りされたような写真には、無残に転がる人々から溢れ出る体液と、黒光りする金属、目の前には全体を覆っている敵意に満ちた人々。
 後の写真になればなるほど、次第に画像にノイズが入ってくる。だけど、メトリクスに表示されている画像間のカルバックライブラ距離の数値は、ほとんど一定のままだ。すなわち、ただノイズが乗ってきたのではなく、火星にイルミヤたちが、時間の経過によって、進化し続けているからだろう。
 だけど、少なくとも最初期には、メイとイルミヤたちは完全に同期した世界を見ていたはずだ。
 身震いが止まらない。恐ろしいほどに恐怖を感じる。死んだはずの、彼女の気配を背後から感じる。
 それでも私は、コンソールから目を離すことができない。私は何かに取り憑かれたように冷たい部屋の中で、かれら達の物語をまばたきも忘れるぐらい集中して何度も見返す。
 この部屋に誰かが近づいてくる誰かの足音すら、まったくきこえなかったほどに。

ENCODE 2030年5月23日  アメリカ カリフォルニア州 ダヴィド本社30階 ルーム・エルシオン

「あなたの背中のそのタトゥー、本当にきれい」
 メイがうつ伏せでベッドに横になると、隣で寝ている彼女は、いつも背中の信仰を撫で、慈しんでくれた。
 言葉をかけられるたびに「そんなに良いものではないよ」と素っ気なく返すのが常だったが、メイの方も、憧れてくれている彼女を愛おしく思っていた。あなたは私にとって、この世で唯一の特別な存在。わたしと同じ魂を分けた存在なのだから。
 つけっぱなしのテレビに流れる朝のニュースには、スタークの姿が写っている。彼は、既にトレードマークとなった赤いジャケットをはためかせながら、力強くカメラを前に語っている。
「火星移住計画を見越し、第七次計画として、ダヴィドはロボット開発に注力をしていきます。五年以内に、火星に民間初となる、無人探査機を送り込むことを、ここにお約束します――」

 計画が始まったのは、幼い頃を油田で過ごした女性からの一つのメールがきっかけだった。
 油田での同室だったあの子には、メイの通信機材の一式を密かに譲り、その代わりに定期的に故郷の様子を伝えてくれるように頼んでいた。
 【Condition】という無機質なタイトルの中身、内容を推測されないように、あえてニュートラルな単語を使っているのだとわかる。中身は秘密鍵で暗号化されているため、もし傍受している者が疑心を抱いても内容まではわからないはずだ。
 テキストはなく、ただ画像だけが送信されていた。そこには笑顔で生活を営む人々の姿はなく、どの写真も、爆発と火災が起き、人々が逃げ惑いながらも、武器を持って立ち向かっている光景で溢れていた。
 境界線が曖昧な海は、陸とは違い、『ここからここまでがあなたの土地です』と明記可能な看板も柵も建てることはできない。いつも揺蕩った境界の上では、どの主権国家も見えない線を自分たちに有利なように解釈する。
 もともと文字通りの火薬庫と化していた油田に火が着いたのは、既に枯れたと思われた油田の近くに、新たな資源が見つかったことに起因する。その事実が明らかになると、油田には権益を狙った様々な勢力が一気になだれ込み、一瞬で戦場となった。
 危険を犯して、送ってきてくれた写真のそこかしこには人が倒れていた。画質が悪いが、そのなかには彼女が過去に知った顔も多くある。
 何枚もの惨状を伝えてくる写真。その中の一枚の隅に写る画像に、彼女の身体ではとても抱えきれないほどの絶望で溢れかえる――あの聖域として機能していたあの孔が埋められている光景。
 彼女にとっては、その光景は何百人もの死体の山よりも、遥かに衝撃を与えた。自分と写真に写る人々には、もう帰れる場所はないのだという虚脱感で覆われる。
 同時に、そんな途方もない、理性では理解し難い感情に襲われたことに、さらに戸惑いを感じる。
 私は、たしかにあのトッラが、武器を管理するために必要な一つの部品モジュールでしかなかったことを知っている。それでも、幼かった私に、独自の歴史、文化、精神的な資質、思想と行動を与え、ひとつの一貫性のある総体としてまとめ上げてきた。あの孔がある限り、私の他の者達と繋がれたままでいられた。
 一度内部に溶け込んだ思想アーキテクチャは、メイの身体と精神に取り付き、分かち難いほどに結合している。あれだけ離れたかったあの地の信仰で身体は支配されている。
 あの孔が埋められたことによって、私が自由になる道は、既に絶たれた。たとえ死んでも彼女の魂は永遠に束縛されたままだ。
 だけど、本当にそうだろうか?
「生命は……魂は、時間的、空間的な平面を越えて、ゆるくつながっている。個体の消滅はしたとしても、その個体の属する集団をまるごと消し去られるわけではない」
 言うと、大昔に去っていたと思っていた波の揺れる感覚が再び彼女を襲い始める。懐かしい目眩の中で、彼女は心を決める。
 システムは、祈りの形さえ同じならば可換可能。抽象化された記号表現ポリモーフィズムは、実装の詳細には囚われない。テセウスの船のように、構成要素が全て置き換わっても、規定する概念は維持され続ける。たとえ、人からロボットに、地球から火星に、海の上から乾いた大地の上に変わったとしてもだ。
 ならば、まだやれる。トッラを復活させよう。それも、決して誰からも邪魔されることが無い隔絶された地に。

 決意からちょうど五年後――深夜のエリシオンに、メイはそっと侵入する。彼女の片手には、”May・Jastin”と綴られた入館証。メイ・ジャスティン、彼女の仮初の名。
 今日の午前中に火星に着陸したイルミヤたちを祝う宴は、深夜にも関わらずまだ続いている。今日ならば、わざわざ誰も、この部屋になんてこないだろう。
 メイは、ダヴィド社のPCを取り出し、五年前の思いをそのままに、最後の修正を入れる。
 メイは事前に仕込んだバックドアから、火星に降り立ったイルミヤ達に、強制アップデートを実行する。痕跡を誰にも見つけられないように、徹底的に用心を重ねながら。
 変更されるデータの量は全体にしてみれば、ほんの些細な量だ。だけど、かれらを目覚めさせる程の変更を、イルミヤの白紙の脳に組み込む。
 それはまるで、複雑な折り紙の造形を、展開図の線だけで一筋も違えずに記述するようなものだ。彼女の異常な数学的直観がなければ、決して為し得ない神業。彼女の内部に潜む法典コードを見事にエンコードし、火星で開かれたときに、圧縮されたコードが展開するように、かれらを自分たちの今は無き故郷に出迎えられるように。
 イルミヤは、最初からトッラを再現するために、メイが構築したシステムだった。
 彼女が独自に作成したプログラミング言語には、関数型言語を援用するとともに、その設計には物性や素粒子論で扱われる場の量子化を組み込むことで、演算子を表す記号によって、甚大な変数群を”知性場”と名付けた概念を記述可能にした。身体ミクロ環境マクロとが相互作用し境が無くなるアーキテクチャ。その設計思想は、まさにトッラの教義そのものだった。
「ならば、もしイルミヤが信仰を続けてくれたのなら、みんなが帰るための拠り所に、きっとなってくれるはず」
 言ってから、メイは弱く笑いながら、当たり前すぎる事実を思い返す。エリシオンの地平が印刷された壁に寄りかかり、諦観のため息と共に吐く。
「結局、もとの海に戻ってきちゃったな」
 誰かに承認されたいわけではなく、純粋に自分の可能性を広めたくて、危険を顧みずに海を飛び出してきた。それなのに、最後に帰る場所は地球から遥か離れた故郷を再現しようとするだなんて。しかも、その祈りのかたちはもともと意味なんてないことを知っているはずなのに。
 自分に呆れながらもスピードを緩めること無くタイピングし続け、イルミヤのストレージの空いているスペースに、油田の惨状を伝えるすべての画像を組み込んでいく。みんなが迷わないための座標となってほしいと願いながら。
 ログの日時を修正したあと、最後に、内部に少しユーモアを込め、パッケージの実行ファイルの冒頭に記号を組み合わせてトッラのマークをコメント文として記述する。
 言ってしまえば、これはあくまで彼女に向けての感謝の気持ちのようなものだ。ここまで一緒にいてくれて、ありがとうの気持ち。
 あえて痕跡を残すのは、油断からくる愚行のような気もするが、これぐらいなら別によいだろうと、彼女は思い直す。
「どうせ、これが読まれる頃には、私は消え去ることになるのだろうから」
 すべて終えると、彼女は薄明かりの中、椅子に座ったまま目をつぶって半身を折り、十指を交差させ、静かに、ただ無言で祈り続けた。

# 4
DECODE 2030年6月10日  アメリカ カリフォルニア州 ダヴィド本社23階 エンジニアオフィス

 エリシオンの入り口に立っていたのは、リーだった。
 いつもの笑みは薄れ、青白い顔で暗闇の中に浮かんでいる。ここまで必死に階段を駆けてきたのか、顔には汗が浮かんでいる。
「なにか、あったの?」
 私はディスプレイを勢いよく閉じて、彼に問う。
「ロイさんが……」とまで、言ってからなにかを振り払うように首を振り「とにかく、部屋に来てください」
 引きずられるように、階を下りていくと、私が少し前まで入り浸っていた部屋の前の廊下には、深夜に似つかわしくない、人集りができてた。顔を見れば、あのヘラスの部屋にいた上級役員の顔もちらほらとある。その誰もが、部屋の中を睨むように眺めている。
 またなにか火星で問題が起きたのかとも思うが、どうにも様子がおかしい。
 黄色いテープで立入禁止にされた私達の部屋の中には、大の字で寝転がった男――ロイがいた。
 その周りは黒ずんだ円形模様。あの、火星に描かれたのと同じ模様が血で床に刻まれていた。
 惨状を見た私に、やっとリーが説明してくる。すべての事件を引き起こした犯人は、私達のチームの長である、ロイであることを。

 彼が自分のデスクに残した手記には、彼女の天才性に惹かれ、彼女と一緒になりたかった思いが、ひたすらに書かれていた。
 メイをエルシオンに呼び出し、彼女がいつものように窓際で煙草を吸い始めたタイミングを見計らい、ローバーをリモートで操作して、散布機を操作し揮発性の薬剤を撒いたこと。その後、強力な空調システムで、その痕跡を消したこと。設備を使用した場合の記録は、すべてログに残る仕様だったが、管理者権限を使い、すべて消したこと。散布機は一度、別室まで移動させた後に、後日徹底的に洗浄したこと。
 ご丁寧に彼が愛用していた手帳には、計画を実行をするための模式図までが描かれていた。
 彼の手帳にあった記述はそれだけではなく、そこにはまた、メイの一生が記されていた。どこかアジアの国で人身売買されたこと、洋上に浮かぶプラットフォームで育てられたこと、トッラと呼ばれる彼女の信仰について、ダヴィドに入ってイルミヤを作ったのは、トッラと呼ばれる、あのライブラリと同じ名前の教義を、火星の上で復活させようとしたからであること。
 最後に、自分は彼女の信仰者であり、自分に与えられた権限によって、彼女に導かれるままに、イルミヤのエラーを引き起こす手伝いをしていたこと。
 メイが最後に死ぬことによって、すべてが完成すると信じていたのに、最後の最後で彼女が死を拒んだから、自分が手を下したこと……その悍ましい手記を紐解くと、事実が少しずつ明らかになっていった。
 手帳の最後のページに書かれた一文は、淡泊な文面とは真逆に、彼の普段の几帳面な文字とはまったく異質の、まるで絶叫するかのような筆致だった。
「私も、彼女と同じ元に旅立ちます。では、さようなら」
 手記とモジュールのコードを照らし合わせ、彼女の半生の物語を理解すると、私は初めて彼女への涙が溢れる。
 メイの背負い込んだ思いと、その苦しみにまったく気づいてやれることがなかった自分の愚かさに、彼女の絶望的な願いの重さと、せっかく生きようと考えてたのに、狂信者にその思いを絶たれたことに。
 一度流れ始めると、その後はずっと流れっぱなしだった。私はいつも職場でかぶっていた冷淡な仮面を気にすること無く、社員の皆の集まる廊下の真ん中で、みっともなく泣き続けた。

 事件から三日後、自宅の電話を取ると、警察からだった。
 曰く、ロイの家を探索したところ、家から被害女性のものと思われる、写真がいくつも出てきたらしい。その写真に心当たりがあるかを確認してほしいという。つまり、彼女の身体の一部を接写した写真が、ロイの偏執的行為の証拠のひとつであることを証明してほしいと言う話だった。
 検証の結果、ロイの言うとおりに散布機の中には微量のガソリンと、彼の指紋がベッタリと残っており、床に血で描かれた模様に残った血痕からも、やはり彼以外の痕跡は残らなかった。犯人がロイであることは疑いようもない。だから、これは念の為の事実確認なんだろう。
 玄関の扉を開けると立っていた若い警官は、「すぐに済みますから」と、玄関でタブレットを立ち上げてから言う。
「特に被害女性の写真のうち、背中のタトゥーを彫られた部位も確認してほしいです」
「背中?」
 きっと訊き間違えだろうと思い、警官に聞き返す。
「ええ、なにか?」
 だけど、目の前の警察官は怪訝な顔で訊き返してくるだけ。
 息が詰まる。心臓の鼓動がひどく高鳴る。顔から汗が浮き上がる。おかしい、そんなはずがない。
 だって――私が知っている彼女には、背中にではなく、左肩にタトゥーがあったのだから。
 警官が画面をスワイプすると、彼女の表情が映し出される。焼けた肌に、無機質に光る、恐ろしさすら感じる眼。
 頭に浮かんだことの悍ましさで、息が詰まりそうだ。真実など知りたくない。
 それなのに、私は堪えきれずに、目の前の警官に尋ね返す。
「これ、いったい誰なんですか?」

ENCODE 2045年 10月10日 火星 エリシウム平原

 今日、20年来の旅路がやっと終わる、故郷までの長い長い旅路が。

 宇宙服スーツの右手に備え付けられた鏡に写る顔には、五年経った今でも私は慣れない。
 砂塵が舞うなかを、独りで歩く。すでに規定されている活動範囲の遥か外だ。
 通信と位置情報を遮断してから何時間も歩いたから、既に内蔵された酸素は尽きかけている。だけど、気にすることじゃない。帰り道のことなど、べつに考える必要はないのだから。

 イルミヤ事件の後の混乱は一年以上続いたものの、その三年後には、後続シリーズが火星に送られて、つつがなく任務を終えた。
 その、更に七年後、有人探査が決行され、火星と地球との往復が確立すると、一般人にも火星への切符が配布されるようになる。その後さらに、火星観光がある程度一般化してから、私は顔を変え、ダヴィドの宇宙船に乗り、火星に潜り込んだわけだ。

 やっとのことで私は、目的地にたどり着く。十数年の間、吹き荒れる砂煙に埋もれたクレーター。
 聖域に埋められたイルミヤの位置は私だけは良く知っていた。旧世代のイルミヤたちは、とっくに祈るのを辞めていたけど、それもまた大した問題ではない。
 聖域としての役割を終えたクレーターに、沈められた一体を、砂を掻き分けて掘り出す。両手を使って掘っていると、砂は私達に似ているなと少し思う。ひとつひとつは何でも無い粒子なのに、集合体になるとまるで水と同じような振る舞いを見せる。まるで流体のように動き、この火星の複雑な地形を作り出してきた。
 服の内部には空調がちゃんと効いているにも関わらず、少し汗が浮き上がるほどに懸命に掘り進めると、ついに、着陸時に壊れ、仲間に弔われたイルミヤが顕になる。
 私は、厳かな気持ちで、死んだイルミヤの内部ストレージを回収する。この内部には、何年間も火星で行われていたトッラの教義のすべてが埋まっている。
 予定通り、その角砂糖ほどの小さなパーツに持参した還元剤を吹きかけ、着火して燃焼させる。勿論、大気の薄い火星の上では地球のように燃えることは無いし、そもそもイルミヤのパーツはすべて耐熱性だ。
 いわば、これでしるしだけの儀式。私達の習わしでは、こうして自分の依代を燃やす。だいぶ遅くなってしまったけれど、これは油田で死んだ仲間の分、
 私の分は、十五年前、あのダヴィドの会議室で燃やしたおいた。

 当時、私の身代わりとしてダヴィドのエンジニアとして社内にひとりの女性を潜り込ませ、最後にはすべてを背負ってもらった。窓から飛び降りたのは偶然だったが、おかげでより自殺という確証は強まってくれた。
 天才の風景を知りたいというのが、彼女の協力の条件だったから、死んで貰う代わりに、望む通りのポジションを与えて、思う存分に楽しんでもらった。承認欲求の強い自己陶酔型の人間で、コントロールすることは造作もなく、彼女は、私の言葉ひとつひとつをまるで神の啓示のように慈しんでいた。
 今では彼女の名前すら思い出せないけれど、彼女の存在は有益だった。浅はかな人間だったが、文字通り私の身代わりとして、十分役には立ってくれた。
 同様にあの男、ロイも役割をまっとうしてくれた。彼も業績と立場に飢えている男だったから、協力させることは造作もなかった。惜しむらくは、ロイが私に直前で抵抗したこと。だから最後はあのような猟奇的な死に様を彩るしかなかったことか。
 それと、もうひとり――レイカは、あの後、どうなったのだろうか?でも、不思議なものだ。一度も話したことは無い彼女が、記憶に一番残っているような気がする。
 レイカは、私にとっては、限りなくゼロに近い賭けのようなものだ。もしもトッラのことを記憶しておいてくれる人間がいるのならば、ひょっとしたら何十年も何百年もあとに、またあのシステムが地球のどこかで復活するかもしれない。私がまだ生きていることを悟られるリスクは十分にあったけど、それでも可能性を捨てることはできなかった。

 儀式を終えた私は、クレーターの縁にそっと立ち、深い呼吸をひとつ。少しずつ気持ちが高まっていくのが分かる。供給される酸素の純度が濃いからか、あるいは死を目の前にして知覚が鋭敏になっているからか。
 冷静に、宇宙服の安全装置を一つ一つ手動で解除していく。なにかを無効化するたびに、耳元でアラートが悲鳴を上げる。
 でも、大丈夫。安心して、これはエラーじゃない。私が選んだことだから。
 人類が宇宙を目指すようになってから一世紀が経とうとする現在でも、未だ宇宙で死んだ人間はいない。宇宙ビジネスの黎明期には悲惨な事件は数多く残っているが、どれもがロケット打ち上げ時や帰還時に大気圏内で起きた事故だ。地球の外で死んだ人間はひとりもいない。少なくとも、今のところは。
「地球圏外の死の世界は、私が初めて足跡を刻むことになるのね」
 死は生がエンコードされた世界。この世でないどこか、その世界の中で居場所を作るための儀式プロトコルに、私は今までのすべてを捧げてきた。
 生命は未知の環境を探訪する。人類は生まれてからずっと,あらゆる境界を超え、新たな地を目指してきた。好奇心から、あるいは信仰心から。
 遠くの太陽が地面に接する夕暮れ時、火星の薄い大気は青い光のみを届けるようになり、少しずつ赤い大地が薄く青色で侵食されていく。
 私は、最後の安全装置を解除する。地球からもっとも離れた故郷に、私は今から帰還する。私がずっと帰りたかった皆のもとに。
 死までの刹那、全身に波の感覚が蘇る。今、自身が身体から解き放たれることに、たまらなく身震いをするように。
 目の前が暗くなるまでの半呼吸、火星の大気をすっと吸い込み、孔に向かって倒れながらに見た景色。
 しらしらと輝く青い地平と、無限に連なる波状の砂丘。
 まるで、時の止まった海のよう。

    了

# 参考文献
『宗教図像学入門 十字架、神殿から仏像、怪獣まで』中村圭志著
『アニミズム時代』岩田慶治著
『哲学コレクション1 宗教』上田閑照著
『レヴィ=ストロース 構造』渡辺公三著
『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』三宅 陽一郎著
『プリンシプル オブ プログラミング 3年目までに身につけたい 一生役立つ101の原理原則』上田勲著
『宇宙からの帰還』立花隆著
『宇宙を語るⅠ 宇宙飛行士との対話』立花隆著
『宇宙に命はあるのか 人類が旅した一千億分の八』小野雅裕著
『火星の歩き方』臼井 寛裕, 野口 里奈, 等著
『宇宙の覇者 ベゾスvsマスク』クリスチャン・ダベンポート著
『アウトロー・オーシャン(上、下):海の「無法地帯」をゆく』イアン・アービナ著

文字数:36175

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