コールドフィッシュ

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コールドフィッシュ

 

    1.

「なぁ、知ってるか?」
 水曜の朝、午前三時。ダイナーに集まった若者たちは、車で二時間ほどかかる山奥で仲間の一人が体験した出来事について話していた。店内には彼らの他にカウンター席に座っている男が一人いるだけだった。
「ルート13をずっと北に上がっていくと山に入っていく。そこを越すと湖があるだろ?」
「コールドフィッシュがあるところか?」
「ああ、そうだ」
 山中のトンネルをいくつも抜け、峠を越すと大きな湖が広がっている。そこに総合保険会社のLTライフ・トラスト社が運営する死刑囚専門の民間刑務所がある。一年のほとんどが氷点下に晒されるサクハ地方の山では、湖に生息する魚すらも凍ることがある。そのことから刑務所は通称、コールドフィッシュと呼ばれていた。
「前に仕事で通ったとき、夜中の湖に人が立っていたんだ」
 青年がそういうと、カウンター席の男がちらっと彼らをみた。目が虚ろだった。相当酔っているのだろうと彼らは思った。絡まれたら面倒だと若者たちは小声になった。
「釣り人がワカサギか何かでも釣ろうとしていたんじゃないのか?」
「でも深夜だろ? そんな馬鹿な真似するやつはいないだろ。それに今の時期は湖も凍っている」
「じゃあ、寝ぼけていたか」
「それか酔っていたかだな」
 若者たちの声が段々と盛り上がってくるなか、青年は少し声を荒げた。
「違うんだ!」
 雪が強くなり、ダイナーの扉がかすかに揺れる。
「あれは死刑囚だった」
「なんで、そんなのわかるんだ?」
「その後、調べたんだ。見覚えのある顔だったからな。有名な事件の犯人だった」
「見間違いだろ」
「それか逃げ出したかだ」
 若者たちは盛り上がった。
「もし脱走したなら大ニュースだ! どこかに情報を売って金にしよ……」
「いや、無理だ」
 青年はその言葉を遮った。
「なんでだよ? 見たんだろ?」
「そいつはもう刑が執行されていたんだ。俺が見た数週間前に」
 一瞬、彼らの間に沈黙があった。
「おいおい。じゃあ、幽霊か?」
「わからない。ただ、まるで湖の上を散歩しているようだった」
 仲間は青年の告白に笑い転げた。彼が睨むと、ばつが悪そうにおとなしくなった。
「まぁ、わかったよ。とりあえず深夜勤務は辞めろ。働きすぎだ」
「本当なんだ!」
「わかった、わかった。もうLT社で働けよ。待遇は悪くないらしいぞ、ほら」
 仲間の一人がLT社のホームページ動画を再生した。

“LT社に興味を持っていただき誠にありがとうございます。簡単ではありますが、当動画にて弊社の説明を行っていきたいと思います。その後、本エントリー手続きのご案内へと移りたいと思っております。
弊社は元々、民間刑務所を運営する会社としてスタートしました。大手製造業者様と提携し簡易部品の製造を請け負い、受刑者の方々に製造していただくことで業績を伸ばしてきました。弊社の品質と納期順守の精神はクライアント様に大変評判で、一時期は簡易部品の国内生産でトップに入った時期もありました。また当時の民間刑務所に収監する犯罪者は軽犯罪者のみが対象でした。そのため、弊社の刑務所で刑期を終えた後、そのままクライアント様の会社で就職する方もおられました。受刑からその後の社会復帰までを包括的に担う弊社のビジネスプロセスは国内外を問わず注目されるようになり、次第に業界トップの総合刑務所産業会社として成長していきます。その実績から八年前には、世界初の死刑囚専門の民間刑務所の運営を開始することが許可されます。民間会社に死刑執行を委託することについては、その案が上がったときから世間で大きな議論を呼びましたが、最終的にはこれまでの弊社の刑務所運営の信頼と実績が認められ、十年間の試験的運営の許可が下りました。
その後、弊社は世界中にクライアントを持つ総合保険会社へと移行していきます。ここからは弊社の保険商品について少し紹介していきたいと思います。弊社の展開する看板商品の一つに囚人保険というものがあります。業界初のユニークなものなので、もしかしたらお聞きになったことがある方もいらっしゃるかもしれません。囚人保険について簡単に申しあげますと、一親等以内の方が犯罪を犯した場合におりる保険となっております。誕生のきっかけは、創業者が民間刑務所を視察した際に、面会に来られていた受刑者様のご家族とお話をする機会がありました。そこで家族が刑務所に入ると生活が厳しくなるという声があり、その意見を元に誕生したのが囚人保険となります。かつて囚人保険にマフィアに所属する子どもを持つ母親が加入しようとしたことが問題となり後に契約条項が改定され、現在では保険加入前に一度の逮捕歴もないことなど、いくつかの条件が付け加えられております。
簡単ではございますが、以上で弊社の説明を終わらせていただきたいと思います。本説明を踏まえた上でLT社についてより知りたい、働いてみたいと思っていただいた方には今後の採用スケジュールと本エントリーの方法についてご説明していき……”

「もういい、飽きちまった。カードでもやろう」
 青年が動画を消しすとカウンターにビールを買いに向かった。
「景品のチップスも頼む!」
「オッケー。じゃあ、負けた奴は刑務所行きだ」
 それから彼らは景品を賭けて、ポーカーやブラックジャックで遊んだ。男はいつの間にか店を出ていて、彼らが最後の客だった。朝方、店を出ると雪は幾分か弱くなっていた。青年は家に帰るとそのままベッドに寝転んだ。コールドフィッシュのある山の方を窓から見つめながら、いつの間にか眠りについた。

    2.

 トラックは途中で休息をはさみながら一晩中走り続けていた。チェーンを巻いたタイヤの金切り音がカーブを曲がる度にキイキイと響く。片側一車線の道路には一定間隔で設置された外灯が並び、長いトンネルを何本も抜けると、空が明るくなりはじめていた。まだ本格的な冬は先だが、サクハ地方は既に雪のなかにある。年間の平均気温はマイナス三〇度にまで下がり、庁舎のある中心街には凍った広場でアイススケートをする子どもたちの風景や、トナカイの肉や毛皮を加工する工場に勤める人々の姿がある。水道の配管や配電は凍らないように地上に設置され、極寒の地であってもそれなりに生活ができる環境が整っている。だが、山奥に進むとまた別の世界が広がる。山中は幹線道路が通っているだけで人は住んでいない。八年前まではその道路さえも整備されておらず、ちょっとした積雪で通行止めになることも多かった。一年の半分以上、氷に閉じ込められる世界は、誰もが望む暮らしとは言えない。そんな居住に適さない場所に住むのは囚人だった。
 十年前、サクハ地方ではコールドフィッシュ建設を受け入れる臨時条例の是非をめぐって住民投票が行われた。一部の議員たちや住民からの反発を抑え、条例は通過した。過疎地のサクハ地方に莫大な交付金が降りることが大きく、そのおかげで道路や地下鉄は整備された。
 刑務所に運ぶ荷物はセキュリティの観点から日用品からすべて通常の配達会社ではなく、LT社の運送部門が担うことになっている。夜が完全に明けると白い平原があらわになった。トンネルを抜けてからの風景は、目印の湖がみえてくるまでは何一つ変わらない。ただ、白い山と森が続くだけである。湖畔を淵どった緩いカーブを曲がると湖の真ん中まで伸びた半分だけの桟橋がみえてきた。その手前でトラックは停車した。コールドフィッシュは湖に浮かぶ楕円形のかまくら状の建物で、そこから伸びた一本の橋でつながっている。トラックから降りた運転手は到着の連絡を入れた。しばらくすると、もう半分の桟橋がゆっくりと降りてきて山側の橋と接続した。鈍い音と振動が辺りに響いた。桟橋前に設置された監視カメラ機の上部にあるライトが赤色から青色に点灯し、奥からスノーモービルに乗ったロバート・キャッスルが現れた。
「ご苦労様です。フランクさん。相変わらず寒そうですね。運転大丈夫でしたか?」
「まだ九月だろ? 例年以上に今年は冬が来るのが早いな。途中タイヤも変えて遅れちまった。悪いな」
「いえいえ。ここはほとんどが冬ですからね。僕もまだ慣れないですよ」
 新人刑務官のロバート・キャッスルは、コールドフィッシュに配属されてまだ一年にも満たなかった。夏はほとんどなく、一年の九割は氷点下に晒される過酷な環境。コールドフィッシュでは死刑執行が決まった死刑囚が収監され、最期の数ヶ月を過ごすことになる。長年、サクハ地方で配送を担当しているフランクは、ここでの勤務の過酷さを外からみてきた。慣れている彼でさえ冬用の服を何枚も重ね着しないとやってられない。それでも寒さが軽減されることはない。何より荷物の積み下ろしをするには動きづらいのだが、少しでも着込まないと寒さで心が折れるのだ。ここの空気は普通の寒さとは違うとフランクはいつも思っていた。コールドフィッシュに異動してきた者はだいたい一年もたない。過酷な生活環境に加え、精神的にもきつい仕事だからだ。その点、今回のロバートは骨がありそうだとフランクは思っていた。新人にしてはかなりよくやっている。中身を確認したロバートはフランクとともにスノーモービルの荷台に載せる。ここ八年、全く変わらない品目、全く変わらない量だ。
「しかしいつも同じ分量だな、おたくの所長に飯の好みはないのか。八年ずっと同じ注文しかしていない。最近は注文伝票も全部過去のコピーだ。配送センターのマニュアルにもコールドフィッシュは毎回同じでいいって書かれてたぞ」
「所長はあまり食に興味ないんですよ」
 コールドフィッシュは最初の刑執行までは世間から注目を集め続けたが、次第に関心は失われていった。だが実際に刑を執行していくなかでLT社は課題に直面することになった。職員たちの間にPTSDとみられる症状が多く発生した。異常な寒さと過酷な勤務体制で、一年も経たずに異動することは慣例となりつつあった。ただ一人、所長のビクター・ノースロードを除いて。
「だろうな。こんなとこで飯が楽しみだとやっていけない」
「そうですね、だから僕は辛いですよ。結構、中心街に食事に行ったりします」
「本当か! 二時間はかかるだろ?」
 コールドフィッシュから出るには、桟橋を使うしかない。仮に囚人が逃げてもどこにもいけない。極寒の湖に入ることになるか、氷が張っているときに運良く渡れたとしても山中で凍るかのどっちかだ。
「そうですね。中心街のボルシチスープの店行ったことありますか?」
「どこだ?」
「サクハ中央駅のところです」
「ああ、あそこか。妻や娘はよく買い物にも行ってるが、俺は普段行かないところだな」
「今度、ぜひ行ってみてください。美味しいですよ。そういえばビクター所長が外出しているところは見たことないですね」
「あいつは変わっている。こんなところに望んで八年も!」
「僕はまだ浅いですけど、フランクさんの方が付き合い長いですよね?」
「まぁな。でも基本は荷物のやり取りだけだ」
「あまり話さないんですか?」
「おしゃべりじゃないんだ、ノースロードは」
「そうでうかね? かなり話しやすいですよ」
「そうだな、確かに話しにくい雰囲気はないな」
「強靭なんですよ、きっと」
「さすがアイスマンってことだな」
「なんですか、それ?」
「ノースロードのあだ名さ! 俺らの間でそう呼んでいる。こんなところで八年も勤めるのはまともな奴じゃない。あいつの心は氷で出来ているんだよ、きっと」
 ロバートは笑った。
「なるほど! 確認終わりました。ありがとうございます。何か温かいものでも飲んでいきますか?」
「いや、今日はいいかな。午後から雪が強くなるみたいだし早めに戻った方がよさそうだ」
「そうですか」
「それにしてもキャッスル。お前はここの勤務平気なのか?」
「そうですね、今のところは」
「中々だな。コールドフィッシュが希望だったのか?」
「まさか。こんなとこ誰も望みませんよ。たまたま配属がそうなっただけです」
「そうだよな、たしか南の方の出身だったよな」
「そうです。ここに来るまでは寒さと無縁の世界で生きていましたよ。大変ですが、仕事があって生活できるのはいいことです」
「若いのにちゃんとしてるな。じゃあ、アイスマンにもよろしく」
 トラックが湖沿いの道路を抜けトンネルに入っていくのを確認すると、ロバートは凍らないようにエンジンをかけたままのモービルにまたがり、コールドフィッシュへと戻った。保管庫で荷物を整理しながら、フランクにいわれた言葉を思い出した。彼が年齢の割に大人びているのは、亡くなった母親の教育によるものだった。
 ロバート・キャッスルの育ったナワタイ地方は、南国のバカンス地として有名な場所だった。訪れる観光客たちはカジノや高級コンドミニアムで優雅に過ごす。だが、多くの現実に表裏があるようにナワタイにも二つの顔があった。光は派手なリゾートとしての側面。影はナワタイの大半の住民たちの生活だった。砂埃交じりの灰色の風が吹き、道路に転がった死体が一週間経っても片付けられることがないときもある。何度も車輪に巻き込まれた死体は空のダンボールと同じで、何度も踏まれる内に次第に薄くなり、ハエすらも集らなくなる。やがて突風に巻き込まれどこかに消える。そういう最期を迎える者も少なくなかった。それが光に漏れないように、リゾート界隈はぐるりと何重もの鉄格子によって囲まれ、そこをカジノを運営する会社と地元警察で警備する。住民たちは有名なナワタイ・カジノをテレビ画面でしかみたことがなかった。鉄格子の外ではいくつもの小さなマフィアがトップに立っては消えを繰り返した。多かれ少なかれ住民たちは何かしらの形でマフィアと関わっていた。ナワタイ自体が一つの企業のようなもので、例え警察の取り締まりがあっても、しばらくするとまた別の腐敗が生まれた。そんな街で彼は育った。
 ロバートの母親であるメアリーはホテルの清掃員を長年勤めた。地元の人間が敷地内のリゾートホテルで勤めるのは大変なことだった。少しでも犯罪とのつながりが疑われれば、もう就職はできない。さらに賃金も安い。なかにはホテルの宿泊客の私物をくすねる者も少なくなかった。そういう時に真っ先に疑われるのは彼女たちのような地元の清掃員だった。メアリーも何度か疑われたことがあった。それでも彼女は粘り強く働いていた。そして最高級の信頼を得て清掃員のステータスでもある高級コンドミニアムの清掃も任された。昔、母親が大量のチップをもらって帰ってきたことがあった。新婚旅行で来たという若い夫婦からだったらしい。彼女は夫との間に夫婦らしい思い出は何もなかったが、ロバートにいつかあの客人のような夫婦になってほしいと話した。そして、その夜は二人で豪華な食事をした。そのことをロバートは、はっきりと覚えていた。

 そう考えると彼女は幸せかもしれない。ロバートは母親の遺体に触れたときにそう思った。メアリーは息子の左利きの癖を直そうとはしなかった。それは父親の面影をロバートに残したかったのかもしれない。彼女はきちんと働いてくることができたし、病室で息を引き取れたのだから幸福な方だった。そうでない者もナワタイにはたくさんいる。事実、ロバートは自身の父親がどこで何をしているのか、死んでいるのかどうかすら知らなかった。父親はマフィアの使い捨ての構成員で、何度も捕まっていたし、幼いころのロバートは刑務所が父親の職場だと勘違いしてたほどだった。父親は簡単なことしかできなかったようで、それが功を奏して仕事がなくなることはなかった。誰も父親に重要な情報は何一つ流さない。警察もいつでも捕まえられることから彼のような末端構成員たちは基本的に泳がされ、年度末の検挙率向上キャンペーン時に逮捕されるのが常だった。父親の人生はそれの繰り返しだった。あるとき、父親は姿を消した。出所の日にロバートが母親と迎えにいくと、塀の外に彼はいなかった。それっきり父親の姿はみていない。
 病院のベンチに座った彼は、メアリーの最期の言葉を思い出した。
「ロバート、全うに生きなさい。人を恨んではいけないよ」
 母親は自宅で洗濯をしているところを父親に恨みを持つ者たちに襲われた。法律上、ナワタイで法律上というと失笑も起きるが、失踪後も父親と母親の婚姻関係は法律上続いていて、襲った者たちは母親から何か父親に関する情報を引き出すつもりだったらしい。彼らがちゃんと下調べをしていれば、父親の情報など何の役にも立たないものであることを知っていたはずだった。だが、彼らもまた何も知らない者たちだった。そして、この事件は父親が生きていることを意味していた。そう考えるとロバートは父親に対する私怨の気持ちが込み上げていた。しかし、一方で父親がいなければロバートはきちんと成長しなかった。ナワタイで女手一つで生活をする、ましてや子どもを育てることは非常に困難なことだった。それでも母親がロバートを育てることができたのは彼女の仕事とLT社の囚人保険があったからであった。メアリーがホテルのスタッフから紹介され囚人保険の契約書を持ってきた当初、父親は面倒くさがっていたが、彼女が自身の腹に手を当てさせ、動く赤ん坊を確認させると渋々とサインをした。それが唯一父親らしい彼の行動だった。つまり間接的にではあるが、父親がいなければロバートは育たなかった。彼は母親の言葉に従い生きることを決めた。葬儀からしばらく経ったとき、駅の掲示板でLT社職員募集のポスターをみた。ポスターに写る刑務官の顔には、切り抜かれ犬の顔写真が貼ってあったが、きちんと働いて全うに生きようと思った。
 入社して一ヶ月が経ち、研修最終日に新人たちそれぞれの配属先が発表された。ロバートの配属先が発表されると室内に驚きが広かった。研修成績の良かった彼は当然、営業部に配属になると誰もが思っていた。それが刑務官業務、しかも長らく新人の配置のなかったコールドフィッシュへの配属に彼自身も動揺していた。だが、それでも彼に働く覚悟はあった。

 フランクからの荷物を全て保管庫にしまったロバートは、鏡に映る自分の顔が疲れていることに気付いた。何枚も重ね着しているせいで体型は大柄にみえる。最初の内は保管庫のなかですら、数十分も過ごすと身体に痺れのような痛みが走った。だが、それにはもう慣れはじめていた。しかし自分の気持ちはそうではないかもしれないと彼は思った。最初に痛みを感じるのは、露出している顔の皮膚部分で痺れの後には感覚を失う。その感覚はやがて自分の内部にまで入るのかもしれない。業務を終えて職員棟の自室に戻ったロバートは、端末を開いて母親に日課となっているメッセージを送った。しばらくすると返信が返ってきた。彼は故人の生前デジタルデータを読み込み、チャットができる故人ボットサービスを利用していた。

“やぁ、母さん。さっき仕事が終わったよ”
“おかえり、ロバート。今日も寒かったかい?”
“相変わらずね。母さんには想像もつかない寒さだよ”
“写真でも送って見せてくれ”

 ロバートは窓から見えるサクハの景色を撮って、母親に送った。それからロバートは夕食を食べながら、何通かやり取りをしてシャワーを浴びるためにログアウトした。暖かい故郷が懐かしかった。

    3.

「おはよう、ロバート君。いこうか、見回りの時間だ」
 乱暴に管理棟内の宿直室の扉が開き、渇いた声が室内に響いた。仮眠をしていたロバートは気だるそうにソファから立ち上がると壁に掛けたベルトに手を伸ばして腰に巻いた。机の引き出しから護身用の拳銃を取り出す。銃はショーウィンドウに飾られた食器のように真新しい。それを腰のホルダーに入れた。
「ノックくらいしてくれ、フィグ」
「業務に遅刻する君に問題があるのでは?」
 時計をみると、わずかに時間が過ぎていた。
「少しくらいいいじゃないか」
「早くしてくれ、業務遅延だ」
 宿直室から外に出ると、皮膚を刺すような朝方の冷気がロバートを襲った。寝起きのこの寒さにはやはり慣れない。思わずロバートは身震いした。フィグは既に独房棟に向けて、棟内をつなぐ通路トンネルを進みはじめていた。それを慌てて追うロバートの靴音が反響する。コールドフィッシュに配属されて約一年、業務のほとんどはサポートドロイドであるフィグと分担で行っている。LT社では職員の離職率を下げるために研修時の制度や採用プロセスなど様々な改善を試みたが、上手くいかなかった。開設からしばらくして、所長のビクター・ノースロードは元々技術職であった経験を生かし職務をサポートできるドロイドの開発を行った。その結果、コールドフィッシュに勤務する人間は所長であるビクターを含め、二名でよくなった。ロバートたち刑務官の仕事は主に独房の看守で、日に数度見回りを行うことが主な業務だった。簡単で退屈。それでも彼はこの業務に疲弊していた。そしてそれが最近彼が抱える不眠の要因だった。寒さと孤独によるものだ。母親を亡くして以来、ロバートはずっと孤独だったし、それをここに来るまで特に意識することもなかった。しかし、コールドフィッシュは彼に本当の孤独を見せつける。それは寒さのせいなのか、元々あった孤独を寒さが解かしはじめたのかわからない。いずれにせよ、彼はコールドフィッシュの空気に段々と蝕まれ、あまり眠れずにいた。
 コールドフィッシュ内には保管庫や職員の住居である職員棟の他に、独房と直結している管理棟と本館棟の四つがある。各棟は廊下でつながり、本館棟は面会室や会議室、刑の執行を行う処置室などが置かれている。勤務の際、職員は管理棟の宿直室で大半を過ごす。各独房は管理棟からの通路トンネルのみで行き来可能で、周囲は湖に囲まれている。全部で五つある独房のなかで、稼働しているのはまだ一つだけだった。試験的運営である10年の間は、死刑囚の受け入れは一つずつしか行えない決まりになっていた。
 通路トンネルから独房へと渡っていると、湖を囲む針葉樹林の山々がみえる。周囲から完全に隔離されたコールドフィッシュは蟻地獄の底にあるような光景だった。フィグはどんどんと先に進んでいく。ロバートは宿直室の鍵をかけ忘れたことを思い出したが。放っておくことにした。どうせ、ここには誰もいない。フィグの後を追いながらロバートは制服の下に汗をかいているのがわかった。
「待て待て、速い。そんなに急ぐこともないだろ」
 フィグは一度、急停止し再びゆっくりと動き出した。大きく呼吸をしたロバートは自分の吐いた白い息をみつめた。
「ロバート君。君がソファでうたた寝などしていたせいで見回りの時間は既に遅れている」
「少し遅れたってどうせ、変わらない。いつも通りだよ。本来なら職員三人でも多いくらいだろ、しかも一人はサポート専門のドロイドだし」
「ロバート君。三点伝えよう。まず容姿で人を判断する傾向があるようだな。女性にもてなくなるぞ。次に私の方が君より先輩だ、あまり無礼な態度はよせ。マトン差別にあたる可能性があるぞ、その発言は。最後に……」
 フィグは廊下のプラグに自らの指を接続した。独房とトンネルをつなげる廊下の扉が開いた。
「三人が多いとは思わない。人手が不足しているから人員要請をしたのだ。多いと感じるのは君がまだ本当の仕事をしていないからそう感じるのだ」
「どういうことだ?」
「コールドフィッシュがどういう場所か知っているだろ。普通の刑務所とは違う、死刑囚が最期を過ごす場所だ。この第一ポッドに収監されている囚人も、もうすぐ死ぬ。人が死ぬにはコストがかかるのだ、三人でも決して余裕があるとはいえない」
 廊下を抜けると第一ポッドと印字されたハッチの前に着いた。扉を開け、なかに入ると三角錐状の独房内でベッドに腰掛け天井を眺めるモリスがいた。
「モリス死刑囚。気分はどうだ?」
 ロバートの渇いた声が独房に響いた。モリスは問いかけには答えず、身体を起こした。ロバートは毎朝行う健康診断の体調部分に異常なし、良好と記載した。モリスは小さな声でいつも通り一言だけ漏らした。
「俺はやってないんだ」
 モリスは身体と首をひねり、辺りを見渡す。一日に一度、精神衛生上の観点から囚人たちを日光に当てる決まりがあった。ロバートがスイッチを押すと三角錐の壁面のレンガタイルが頂点から順に透明になっていく。オセロを裏返すみたいに壁面がクリアになる。コールドフィッシュを囲む湖がロバートたちの目の前に現れた。外からだと第一ポッドは湖上にプリズムが浮いているようにみえる。三角錐の面が全て透明になるとモリスは立ち上がり、湖の近くに寄った。
「どうだ、フィグ?」
 フィグは自身を第一ポッドにつなぎ録画データの解析をはじめた。昨夜の間の不審な動きがなかったかを確認する。
「特に異常はない。いつも通りだ」
 ロバートの足元にも透明になったガラスの床越しに凍った湖が広がる。腹の膨張した魚が水面近くに浮いているのがみえた。湖の周りには鋭利な枝の細長い木々が生えている。昨晩も雪が降りつもり、木々の所々に積雪があった。はじめは感動を覚えたが段々と何も思わなくなった。
 フィグがモリスの元に食事を運ぶ。チキンクリームパスタだった。モリスが温かい食事をとるのは本当に久しぶりだった。いつもは冷たいプラスチックの食器も今夜は温かく、しばらく両手の上に器を乗せて暖を取った。クリームソースのなかにはローストされたチキンの切り身とほうれん草、細かく刻まれた唐辛子がわずかにまぶされていた。平打ちの麺がソースとよく絡んでいる。彼は自らの好物を前にその懐かしい匂いと音を立てる腹に久しぶりに自分はまだ生きているのだと思い、同時にこの食事が運ばれてきた意味を前に自らの死を実感しはじめていた。囚人は刑が執行される前日に好きな食事を取ることができる。
「さぁ、食べるんだ」
 フィグの声が第一ポッドに響く。ロバートはその様子を黙ってみていた。クリーム独特の甘ったるい匂いが部屋に充満した。モリスはフォークの先をそっと触って落胆した。
「無駄だ。合成樹脂のフォークで肌を刺すことはできない。おとなしく食べるんだ」
「俺はやってない」
「では、なぜここにいるんだ?」
「誰かが・・・・・・」
「その誰かとは誰だ? 裁判ではお前も罪を認めたとの記録になっているが」
 モリスは黙った。
「とにかく温かい内に食べたほうが美味しいらしいぞ」
 フィグが振り返った。
「残すのはもったいないというのだろ。ロバート君」
「・・・・・・そうだな」
 モリスはおとなしくパスタを食べはじめた。フィグが第一ポッドのデータを処理している間、ロバートはモリスの様子をずっとみていた。彼は次第に涙を流し、それが器に滴り落ちた。モリスはパスタを食べ終えると皿を傾け、底に溜まったクリームを飲みはじめた。
「ロバート君。終わったら食器を引いてきてくれ」
 そういうとフィグは出ていった。フォークと皿を舐めるモリスをロバートはただ眺めるしかなかった。

 モリスの刑が執行される日をむかえた。ビクターは警察関係者や本社から来た立会人たちとともに処置室でそのときを待っている。五〇歳手前のビクターの容姿は年齢よりも若々しいものであった。清潔な見た目と引き締まった肉体があり、人柄も温厚でアイスマンとは程遠い印象のものだった。中年男性が美容室で読むようなファッション誌のモデルとして出ていても違和感はないとロバートは思った。挨拶を済ませると、ビクターは処置室の下にある部屋に関係者を誘導した。ロバートとフィグが準備をはじめる。シミュレーションはしたことがあったが本物の刑執行を前にロバートは緊張していた。モリスの両腕を後ろで縛り、頭に白い袋をかぶせる。突然、それまでおとなしかったモリスが抵抗し身体を左右に揺らしはじめた。
「俺はやってない、本当なんだ」
 その強さにロバートは苦戦し、うまく絞首台に連れ出せなかった。見かねたフィグが慣れた手つきで鎮静剤をモリスに刺す。容赦はなかった。大人しくなったモリスを絞首台にセットし、フィグから準備完了の合図がビクターに送られる。ロバートは下に降りた。周囲はまるで誰も息などしていないかのように静まり返っている。息が上がってるのは彼一人だった。床の開閉ボタンは複数あり、職員の精神衛生上の理由から刑執行は誰がやったのか正確にはわからなくなっている。
「では、押すぞ。いいな」
 ビクターの合図とともにロバートはボタンを押した。執行部屋の天井が開きモリスの身体がロバートたちのいる下の部屋に落ちる。死に追われたモリスの足が空を駆ける。ビクターが視線で上のロバートに合図を送った。彼はモリスの身体を押さえなければならない。しかし彼は怯えていた。処置室に入り、上を見上げるとフィグが覗いていた。
「いいかい、ロバート君。君にアドバイスだ」
 フィグの平坦な声が響いた。
「君がやっていることは彼を苦しめないためでも、世の中のためでもない。仕事だから殺すのだ。さぁ、いくんだ」
 ロバートは暴れるモリスに飛びついた。ぐずる猫をなだめるように両足を抱きしめた。はじめて自らの仕事の恐ろしさを知ったのだ。この男は生きようとしている。そして自分はそれを必死に防ごうとしている。生死の境目にいる男に対して最後の絶望を与えていた。ナワタイでも多くの死体をみてきた。しかし、思い起こせば死にかけの人間をみたことはなかった。それは不思議なことだった。幼い頃から転がる死体に対して恐怖はあった。それは人間としての本能に刷り込まれた嫌悪感のようなものだろう。だが、恐怖と同時に死体は何か別のものにも感じた。生きている人間と死んでいる人間、生と死が交互に瞬間的に入れ替わったに過ぎない。そんな感覚をロバートはずっと持っていた。だが実際に目の前の光景をみるとそれは全く間違いであったことに気付いた。簡単に人は死なない、じっくりと死んでいくのだ。身体の細胞、組織が一つ一つ順番に。ロバートは盤面のオセロの駒を一つ一つ白から黒へと裏返す作業をしているのだ。
 やがてモリスは動かなくなり、辺りに糞尿の臭いが充満した。モリスは死に追いつかれた。全て黒になったのだ。ハンカチで鼻を覆った立会人たちはビクターに案内され、足早に部屋を出た。もはや何の抵抗もしない遺体を前にロバートは立ち尽くしている。花が咲くように人は死ぬ。生きてる間は一つ一つの花びらが開き、死の光を浴び続ける。やがてその光によって枯れる。頭で死をわかっていても、得たいの知れない気持ち悪さをロバートは拭えなかった。
「さぁ、続きだ」
 フィグは遺体を滑車で引き上げ、処理専用のビニール袋へと入れて下を覗いた。ロバートの姿はなかった。彼は本棟の外に出ていた。雪の上に何度か吐いた。嘔吐が終わると、起き上がり辺りを囲む雪山を眺めた。丁度、コールドフィッシュを出た立会人たち車が湖の向こうのトンネルに入っていくところだった。ロバートは自分が取り残された気分になった。仕事であっても紛れもなく殺したのはロバート自身であった。それでも彼には何の責任はない。残ったのは今日の分の給与と執行手当である。全うに生きること。コールドフィッシュにおいて、それは殺人を意味した。

「初めての執行はどうだった?」
 ロバートが振り返ると、立会人たちのサインの入った書類を持ったビクターが立っていた。
「ええ、まぁ……」
「少し話そうか? ここの寒さは堪えるだろ、特に南国育ちのキャッスル君には」
 ビクターはロバートを連れて本棟の所長室に戻ると、ホットココアを入れた。
「ありがとうございます」
「どうやらここ最近眠れていないらしいね。でも当然だ、ここは特殊だからね」
「はい」
「それに加えて、初めての刑執行だ。新人にとってはここが第一の壁になる。実際に刑を執行するまでは大丈夫だと誰もが思う。こいつらは悪人だし、俺にはなんの落ち度はない。法的にも認められているし、うまくやれると。ところが実際その場に立つと躊躇する」
「はい、そのとおりです」
「その気持ちはわかるよ。全うな反応だ。私もそうだ」
 ロバートはビクターの言葉を意外に思った。
「ここの寒さは他所とは違う。単に気温が何度だから寒いとかそういう数値では表せない特有の冷気がある。それは死刑囚や我々刑務官にまんべんなく訪れるものだ。体の芯にではなく精神に作用する。そしてそれが徐々に全身に広がっていく。そういう寒さだ。キャッスル君はどこの出身だっけ?」
「ナワタイです」
「あそこか! いい所だ」
「行ったことがあるんですか?」
「妻も私も南国が好きでね」
「ご家族がいらっしゃるんですか?」
「まぁね。バカンスで訪れていたよ。そうだ! あのホテルはまだあるのかい? 確か……」
 ビクターが出した名前のホテルは、母親のメアリーがかつて勤めていた場所だった。元々は、地元のリゾート会社が運営していたが、ロバートが中学に入るころに破産した。それに伴い母親も職を失った。幸いにもすぐに次の働き先はみつかったが生前よくあのホテルが一番よかったと彼女はこぼした。久しぶりに聞いたその名前はロバートに故郷を思い出させた。
「いえ、あのホテルはもうなくなってしまいました」
「そうか、残念。もし、不調が続くようなら一度、カウンセリングを受けてみるのもいい。もちろん任意だが、必要だと思ったら遠慮せず受けてくれ。キャッスル君も知っていると思うが、ここは人の入れ替わりが多い部署だ。それを回避できるなら所長として可能な限り手を尽くしたいと思っている」
 笑いながらビクターは慣れた様子で話した。それは余計にロバートを不安にさせた。なぜビクターはコールドフィッシュに居続けているのだろうか。自分は彼を誤解しているのかもしれない。ロバートはそう思うのと同時に彼との間に分厚い隔たりを感じた。そしてこれが、アイスマンと呼ばれる由来かもしれないと思った。

    4.

“眠りの浅瀬を漂う夢のなか。ロバート・キャッスルは地下鉄の駅に立っていた。目の前の線路は水平ではなく垂直に伸びている。ホームには、彼以外誰もいない。静寂の世界が広がる。電車は本当に来るのか? それは上と下、どこから来るのか? たずねようにも誰もいない。答えは彼が自ら探さなければならない。駅の壁に掲げた広告の看板も時刻表も電光掲示板もクリーム色のペンキで空白に塗られていた。自動販売機のメニューも同様だった。ロバートに情報は何一つ与えられていない。夢の最も夢たる部分は非現実的なところではない。場所の喪失にある。そこがどこかは決してわからない。自動販売機のボタンを押すと、ガコンと音が鳴った。次の瞬間、騒がしい声が聞こえてきた。駅の階段を覗くと、下の改札を抜けた大勢の人々がホームに向かって走ってくる。そしてそれらはあっという間に階段を上りきり、ロバートは人々の流れに埋もれた。声をあげたが誰も気にする者はいなかった。声が発せられたのかもわからない。彼は倒れないように何かにつかまろうと必死に手を伸ばした。コツンと軽い音がした。それに向かって腕を伸ばした。つかんだのは吊革だった。身体を起こすと、ロバートはホームではなく満員電車のなかにいた。身体は他の乗客たちに挟まれていたが不思議と暑苦しくはない。ひんやりとした車内から辛うじて外の景色がみえた。見慣れない街だった。街は水平に続いていた。ロバートは自分があのホームから本当に電車に乗ったのか、そしてどこにいくのかわかっていない。ロバートは先ほどのホームのことはもう気にも留めていなかった。路線図を探そうと辺りを見渡すが地図はなく、大きなカーブに電車は差し掛かった。人波に押され身体が傾くと視界が狭くなる。天井には無数とも思える吊革がぶら下がっていた。握り直すとそれは急に柔らかくなった。内臓のひだのようだった。ロバートはその吊革から手を伸ばし振り落とされないように必死に掴み、力を入れた。カーブを曲がりきり、再び立ち上がると同時に近くから悲鳴が上がった。吊革の一つが天井に上がり、乗客の男の首が吊られていた。そして車内のあちこちで吊革を首に巻いた人間たちが天井へと上がっていた。電車は再びカーブに差し掛かる。その度に、力の抜けた死体が互いにぶつかりあう。その度に冷たい感触がロバートを襲う。彼は手を離すことだけは避けようと決めていた。何度目かのカーブを曲がると、ロバートの吊革は手元からなくなり、自らの首に吊革が掛かっていた。首元の吊革をつかみ、はがそうと必死で力を入れた。すると歯茎に何かが染みた。隙間風だった。口を開けると歯が全て抜けていた。それは彼がしがみつけばしがみつくほど数を増していき、次第に上手く声が出せなくなる。しかし彼にはそうするしかなかった、どれだけ耐えようと停車することはない満員電車をどこまでも。次のカーブが見えてきた……”

 夢から覚めたとき、ロバートの身体は冷えきっていた。掌に爪の痕が残っている。だいぶ力を入れて拳を握っていたようだった。腕は微かに痙攣している。口をゆすごうと洗面台へ向かう。鏡に映る顔にはきちんと歯があった。ロバートは端末を起動しチャットボットを開いてみた。しかし深夜のメンテナンス中で使用できなかった。時計をみるとまだ日をまたいでいない。彼は着替えてコートを羽織ると、車へ向かった。金曜のこの時間なら、サクハの中央街にいけば店がいくつか開いているかもしれない。トンネルを抜け、雪山をくだっていく。一時間をかけて中央街に入ると、点々と駅周辺のバーやダイナーの灯りが点いていた。ダイナーに入ると客は彼一人だった。クラムチャウダーとドライフルーツ入りのバケットを注文した。
 しばらくすると若者の集団が入ってきて奥のテーブル席に座った。年齢は少し下だろうか。彼らは既に酔っているようで声が大きかった。少し落ち着いたロバートは、ビクターから勧められたカウンセリングプログラムについて調べた。まず社内システムを通じて、チェックテストを受ける必要があった。これはコールドフィッシュで受けることが可能だった。そして、その結果によって本社での研修を実施し、休職や通院が必要かどうかの判定が下される。ロバートはカウンセリングプログラムの予約をすることにした。クラムチャウダーとバケットが運ばれてきた。スプーンですくい、一口食べると身体がじんわり温まってくるのがわかった。
「コールドフィッシュがあるところか?」
 奥から若者たちの声が聞こえてきた。ちらっと彼らの方をみた。死刑囚が歩く……彼らの話は根も葉もないことのように思えた。それからロバートは、アイリッシュコーヒーを頼んで時間をかけて飲んだ。帰り道、スープとコーヒーで温まっていた彼は、湖上に建つコールドフィッシュがみえてくると辺りに目を配った。若者たちの話を思い出していた。奥に影が見えた。車を端に寄せて、ヘッドライトを見えた影の方向に合わせる。だが、死刑囚の姿などなかった。あるのは夜の闇と冷たさだけだった。

 数日後、カウンセリングのために会議室に入ると、フィグが座っていた。フィグは本社のデータベースへアクセスしカウンセリングプログラムを起動できるとのことだった。ただ機械の前でチェックを受けるよりも、対面した方が結果の精度が増すということが理由だった。
「カウンセリングをはじめる前に一言。この機能が働く間、私はロバート君が知っているフィグではない。書面上の君のデータは把握しているが、これまでの個人的な会話のやり取りのなかで発生した出来事等についてのログはカウンセリングチェック実施の対象外である。そのため、重複している内容を質問する場合もある。カウンセリング機能を終了すれば、記録は本社に送られ私の内部からは消去される。平たくいうと見た目は同じだが中身は全くの別人だ。安心してプライベートなことも話してくれて構わない。いいかな?」
「本当にそんなことできるのか」
「人間も都合の悪い記憶は隠すだろ、それと同じようなものだ。ではカウンセリングに入る」
 フィグはしばらく沈黙した後、何度かまばたきをした。
「ハロー! ロバート・キャッスル。職員番号は?」
「BH82」
「ありがとう。これからいくつかテストを受けてもらいます。問題は、私を通じてあなたの端末に表示されます。準備ができたら声をかけてください」
「大丈夫だ」
「ありがとう。では、テストをはじめます」

問1.
――次の空欄のなかに当てはまるものがそれぞれ下記a.からe.と想定した場合、あなたが取るであろう行動を選択してください。
火事が発生し建物が燃えています。一階に(   )が取り残され、こっちをみて助けを求めています。
消防車が到着するまではあと数分です。あなたは建物に入り救出に向かいますか。それぞれイエス、ノーでお答えください。

a.家族
b.友人
c.他人
d.飼い猫
e.野良猫

問2.
――今から様々な手のイラストが出されます。そのイラストが右手と左手どちらを描いているものか答えてください。イラストは全部で10~15枚です。では、はじめます。

問3.
――次の一桁の計算問題を制限時間3分で、できるところまで解き続けてください。尚、問題を途中で飛ばしてはいけません。

問4.
――今から或る外国語で書かれた文章が出てきます。その文章の横にはあなたの母国語で書かれた外国語翻訳のための辞書の一部が抜粋されています。辞書を使用し、外国語を翻訳してください。
尚、この外国語は本テストのために作成されたオリジナル言語です。

問5.
――次の空欄に入ると想定されうるものを全て答えてください。制限時間は一分です。
A(  )CDE

問6.
――海のなかにあなたの脳が沈んでいきます。記憶のなかから五つまで思い出を取り出すことができます。しかし実年齢から離れた年代の思い出はその分、深く潜らなければいけません。今、あなたには先ほどの問3で答えた計算結果の数の分の秒数が与えられています。思い出は一年につき一秒の割合で沈んでいます。
与えられた秒数と潜水して思い出を取り出すまでの秒数を組み合わせて取り出した思い出を記述してください。
例:20問解答し、実年齢が40歳の場合
取り出し可能な思い出の例:40歳(±0)、35歳(-5)、25歳(-15)

問7.
……

「テストおつかれさまでした。この後はトークセッションに入ります。注意事項が一つあります。会話の際は可能な限り、私と視線を合わせるようにお願いします。準備ができたら声をかけてください」
 トークセッションでは名前や職員番号、生体認証の確認からはじまり、次いで簡単な雑談や抱えている具体的な症状についての会話に移っていき、それからロバートの抱えている悪夢や、過去の出来事についての話をフィグの身体を通してシステムに記録していった。
「職員番号BH82、ロバート・キャッスルさん。お疲れさまでした。後日、上司からカウンセリング結果の通達があります」
 それから一週間後、ロバートの三日間の研修が決まった。

 久しぶりに訪れる本社は一年前と変わらないはずだったが、全く違うものに思えた。研修ルームに入ると人事部のヘンリーが座っていた。
「こんにちは、キャッスル君。覚えているかな?」
「確か、人事の……」
「そうそう。君の配属については人事部でも話題だったんだ。何せ、新人をコールドフィッシュに配属するわけだからね。元気そう……ではないよな、当然」
「ええ、まぁ」
「まぁ、研修と言っても大したものじゃない。気楽に受けてもらえればと思う。カウンセリング結果も決して悪かったわけではないんだ」
「そうなんですか?」
「先に結論だけいうと、キャッスル君のストレス度は、これまでコールドフィッシュで勤務してきた職員たちと比べても重くはない。それでも今回は、ノースロード所長の要請で研修が決まったんだ。あいつは慎重なんだ、とてつもなく。キャッスル君のこれまで育ってきた環境と比べるとあまりにも違い過ぎるし、今回の本社での研修は少しリフレッシュの要素も兼ねているんだ」
「所長とは知り合いなんですか?」
「ああ、同期だよ。恐らくノースロードは君に期待している。だから大事に育てたいのだろう、久しぶりのコールドフィッシュへの配属だからね」
 午前中のプログラムは産業医でもあるヘンリーと会話をするだけだった。業務を離れ、ただ誰かと何気ない会話をする。そんなことは母親のチャットボット以外とここ一年間していなかったことにロバートはそのとき、気付いた。昼休みに入ると、ヘンリーはロバートを誘い九階のカフェテラスへと向かった。
「ノースロードはどうだ?」
「いい人です。不思議なくらい」
「昔から変わり者ではあったが、面倒見のいいやつだったからね」
「どうしてあんなに温厚なのにコールドフィッシュで勤務が続けられるのだろうかと思います。でも同時に壁も感じます」
「壁?」
「悪い意味ではないのですが、入り込めない領域みたいなものです」
「まぁ、あいつの人柄や苦労もわかるからな」
「何かあったんですか?」
「何も聞いていないか。まぁ、プライベートなことだから他言はしないでくれ。あいつは奥さんを亡くしているんだ」
「えっ」
「それも殺人事件でな。当時、ノースロードは本社の研究職だった。ある日、帰宅したらバラバラに惨殺された奥さんの死体があったんだ」
「そうだったんですか、知らなかったです」
「奥さんのイライザはノースロードと大学院の同級生で、ともに脳科学の研究をしていた。聡明で素敵な人だったよ」
「犯人は?」
「正確にはわかっていない。当時、同様の事件が多発していてな。イライザの件もその犯人だということになっているが確証はない。なにせ、犯人が捕まったときにどれだけの数を殺したか覚えていないと証言していたんだ」
「そうですか……」
「チャーリー・カーニバルの事件だよ」
「あのチャーリー・カーニバルですか?」
「そう」
 ロバートは初日のプログラムを終えた後、社内のデータベースで当時の事件を検索した。チャーリー・カーニバルを知らない者は恐らくいない。ここ十数年で最も多くの人を殺害したシリアルキラーだった。彼の残虐性と哲学めいた言動は世間の関心を引き、連日のように彼の特集が組まれた。チャーリー・カーニバルをモデルにした映画やドラマも製作された。

囚人番号AG259:チャーリー・カーニバル
搬送予定:10月14日 サクハ刑務所行き

 ロバートはカレンダーをみた。来週、チャーリー・カーニバルはコールドフィッシュに搬送されることになっていた。

    5.

 湖上を歩くモリスの死体を二つの影が見守っている。
「どうだ? モリスの調子は」
「数値は比較的良いです。しかし、そもそもの状態が良いとはいえませんので長持ちはしないでしょう。新人のやったことですし」
「確かにあまり美しくはない。でもね、フィグ。それは仕方ないことだ。工程プロセスを一つずつこなしていく上達する術はない。他に方法はない」
 ビクターは刑執行後にフィグがまとめたモリスのデータを眺めた。モリスの内部を検査すると器官の損傷が激しかった。首についた縄の跡は紙の折り目のようだとビクターはいつも思っていた。ロバートにとっては初めての執行であり、職務をこなすことに彼は必死だった。新人の間は誰だってそうだ。美しく執行できるのはもっと先のことになるだろう。それに……ロバートはそもそも何も知らない。
 LT社では生体冷凍保存クライオニクス技術を応用した新たな保険事業のICアイス・キャッシュを計画していた。究極の保険は延命であるというのが社の方針だった。ICが実現すれば、顧客は半永久的な命を手にできるというのが事業の売りになる予定だ。コールドフィッシュの建設は、ICの実験用遺体を調達することも目的の一つだった。死刑囚は、陶酔した一部の者たちが墓荒らしを行う可能性や家族が遺体を引き取りたがらないことも多く、家族が承認した場合は遺体の処理をLT社で一括で行うことができた。そして引き取り手のない遺体を研究に使用することが可能になった。遺体は刑が執行されると、本棟の地下室で処理することになっている。まず囚人服を真ん中から切り、シャワーで体液や糞尿を洗い流す。それから保存液のなかに遺体を運ぶ。それから血液を抜き出し、保存用の人工液と入れ替えていく。この作業のスピードは生体冷凍保存技術において大事なポイントだった。血管の詰まりはこの進行を遅らせる。そのため、コールドフィッシュでは血管の詰まりを緩和するような食事を与えていた。血液の成分を一定に維持することで細胞は劣化していく。水の流れのない湖が腐っていくように。作られる血液を人工的に循環させれば、細胞の劣化は防げる。処理が終わると、まるで生きているかのように保存液の循環効果で遺体の顔色が良くなる。次に耳たぶに針で穴を開け、タグを付ける。あとは血管に配置したマイクロポンプが定期的に人工液をクリーンにしながら循環させる。処理を終えると保存用カプセルを開き、遺体を保管する。IC事業は冷凍保存した人体の再生を最終目的としていたが、実験は上手くいっていなかった。思うような結果を得られないことに会社の上層部は落胆していた。
 氷上を歩くモリスの足元がふらつきはじめた。ビクターは、これまでの経験から一度心臓が停止した肉体を、安全に復活させることは難しいと踏んでいた。つまり、この事業にはそもそも無理がある。一度死んだ肉体を再生することは、神の領域に達することだ。フランケンシュタインの再現は不可能だと彼は考えていた。
 モリスの肉体が痙攣しだした。やがて彼は氷上に倒れ、停止した。ビクターとフィグは倒れたモリスの状態を確認し、地下へと運んだ。本棟のエレベーターを降りて扉を開ける。地下室は一面ガラス張りとなっていて、窓の外に湖の水中が広がる。水中には藻が繁殖していて湖内部の様子はほとんどみえなかった。時折、対流で藻がなびいているだけだった。魚の姿は見当たらない。フィグに遺体の処理を任せ、ビクターは報告書の作成に取りかかった。もし人類に半永久的延命の可能性があるとすれば、それは機械筐体へ脳を移転することではないだろうかとビクターは考えていた。会社には何度もICの限界と脳移転の可能性を提案したが、機械での生活を延命とは認められないというのが会社の回答だった。彼らや顧客は、自身の肉体を含めた延命を求めていた。人間はいつか死ぬ、時には思いもよらないタイミングで。それを彼らはわかっていないとビクターは思った。フィグがモリスの脳を取り出し保管する。
 ビクターはコールドフィッシュ開設時から独自に脳の移転に関する実験を繰り返していた。彼にとって遺体の処理が管理されていないのは好都合だった。移転に大事なことは、脳と筐体をつなぐ回路の形成だった。機械を身体とするなら回路は脊髄の役割を果たす。実験を通して、つくづく人体は奇跡の構造物だとビクターは感じていた。単純に身体能力を向上させたいのであれば、人工の身体を作るのが有利であろう。しかし神秘さという点で言えば、圧倒的に人体は完璧な機械であった。フィグが処理したモリスの脳を確認し、カプセルに戻した。それから一年前に刑の執行された別の死刑囚の脳を取り出す。実験で使用した肉体は地下室のダストボックスから湖に廃棄していた。藻の広がる湖に突然放り出された頭部のない身体が、ゆっくりと沈んでいく。凍った湖の底だ、誰にも見つかることはないし、誰を見ることもない。
 脳の移転には大きな壁がある。そこには無限に近いパターンのルートがあり、それは神経たちと絡み合い複雑な回路ができている。世界中の路線図を合わせても足りないほどだろう。それらを全て網羅することは不可能に近い。脳と機械を接続することはできるが、それが意識や記憶を持った場合、果たしてその本人と言えるのだろうか?
 地下室の窓から沈んでいく身体を眺めながら、ビクターは自分の疑問の答えを探していた。

[報告書]
被験番号:017
囚人番号:BB232
被験者名:マイケル・モリス
解凍状況:対象外
切断状態:C+

今回は被験者の切断状態が悪かったため、冷凍期間を短くし、頭部の劣化が進行しない内に実験を行った。よって解凍状況については割愛する。前回までと同様、第一プロセスである頭部の解凍に問題はなかった。ここ十数回、連続で成功していることから第一プロセスについてはある程度完成していると言える。人工血液の循環も通常の人間の血液循環との差異が1%未満であり問題ないと言える。
第二プロセスの通電であるが、頭部の首もとの損傷状態から約12%の欠陥がみられた。メイン神経となるAエリアに問題はなかったが周辺のEエリアは人工パイプで補完した。通電テストではAからCエリアまでは問題なく反応したがDエリアで通電箇所にばらつきがみられた。一番外側にあたるEエリアに関してはほぼ通電不可状態となった。エリアの損傷があった場合、対象エリアより一つ内側のエリアに通電不可の影響がみられ、その割合は内側のエリアに近づくほど大きくなる。これは被験番号008の場合にもみられたことから一般化できる可能性が高いと思われる。
基礎反応である両アームによる補給、歩行作業については問題なし。マイクによる言語反応も90%の一致率をほこる。思考反応については簡単な物の認識については可能。現行では70%前後を行き来する。しかし、感情反応に関しては40%を下回る。前回から連続で50%を越えていたが、今回下がったのは個体差によるものと考えられる。
総括として、前回の016と比べても大きな進捗はないと判断できる。取り分け、感情反応については不安定な状態が依然として続いている。プロセスについては動物実験やプログラムによるシミュレーションが難しいため、被験体のデータを取り続けるしかないと考えられる。以上。

 本社での研修最終日、カフェテラスでの昼食を終えるとヘンリーは研修の修了を告げた。
「これまでの研修で問題はないし、午後のセッションはなしにしよう。早めに戻ってもいいし。本社にいる同期たちと会うのもいいだろう」
「ありがとうございます」
「最後に何か気になることはあるかい?」
 ロバートはダイナーで耳にした噂について話した。ヘンリーは笑った。
「おもしろいね。ただ、そんな話は聞いたことがないな。ただのおふざけさ。キャッスル君。そんなことが気になっていたのは、疲れていて色々と過剰になっていたからだと思う。気にしなくていい」
「はい」
「よし、これで研修は終わりだ。週明けからはコールドフィッシュに戻って大丈夫だ」
「ありがとうございます。教官、あのテストは何の意味があったのでしょうか?」
「具体的には教えられないが一言でいうなら、あれはただの適性検査だ。この会社に限らず社会は色々なものの組み合わせからなっている。LT社では適性こそ、社員がパフォーマンスを最大限発揮する動力源だと考えているんだ。あのテストの項目のほとんどはダミーだ。本当に知るべき設問以外にそれっぽい問題を配置している。なにかを知りたいときに、それだけだと正しく測れないことがあるからな」
「そうですか。では私の適性は……」
「大丈夫だ。コールドフィッシュで働くのだから、君は業務に耐えるだけの冷酷な人になれる」

    6.

「ドライバーさん。こんな昔話を知っているかい? 昔々、ある村に結婚を誓った若い男女がいた。村は貧しく、そのなかでも女の家はより貧しかった。両親は金に困り、女を人買いに売った。女が街に連れていかれる前夜、男は必ず迎えにいくと女に約束をした。それから男は村での稼ぎでは足りないと考え、よそで働きながら金を貯めた。幸運にも男には商才があり、やがて自らの工場を持つようになった。そして街に女を迎えにいった。しかし、女は既に別の場所へ売られていた。男はその場所を探し出そうとする。その繰り返しが何年も続いた。そして二人が再会したとき、女は病を患い死にかけていた。男はそれまでの財力や人脈を生かし、あらゆる医師をたずねた。しかし女を治すことはできなかった。女は男が用意した自分が寝たことのないようなシルクのベッドで、最愛の男の腕に抱かれながら最期のときを迎えた。女の死後、男はあらゆる街で女のような処遇の若い娘を買い漁った。そして、いくらかの金を渡し故郷に帰させた。身寄りのない娘は自らの工場で働かせた。男は生涯、独身を貫き多くの娘たちを救った。この話は何を意味していると思う?」
 囚人を輸送する際、LT社の護送トラックには地元警察の警備がつく。護送車のなかでチャーリー・カーニバルは、この昔話のような物語を金網の向こうに投げかけて楽しんでいた。フランクは、その話に妙にひきつけられる自分が怖かった。運転に集中すること、それこそが最良の手段だった。チャーリーは話を続けた。
「永遠の純愛か、貧しさの悲惨さか……違うぜ。これは倫理の罪の話だ。あんたは男は立派な人物だと思うかい、ドライバーさん。いや違うね。じゃあ、男はどうするべきだったか。一つ考えられるのは、出発前夜に女を殺すべきだった。その方が機能的なんだ。不幸をマイナスと考え、そこに自分がいると仮定したとき、人間はなぜか幸福を積み重ねプラスマイナスゼロの地点を目指したがる。幸福を望み、プラスの人生を夢見るくせにぶっ飛んだ幸福は望まない。極端なプラスに振り切ろうとはしない、この男もそうだ。なぜ後から迎えにいく必要があった? その場で最良の選択ができたはずだ。死んだからこそ真実の愛だなんて馬鹿らしくないかい。それなら、はじめからそうしたほうが効率的だし、よほど美しい」
 訳の分からない理論だったが、フランクはチャーリーの話を聞き流すのに必死だった。何度も通り慣れた山道だが急ブレーキを数回踏んだ。目的地がみえてきたとき、彼は心から安堵した。コールドフィッシュの前では既にビクターとロバート、フィグが立っていた。三人とも揃っているのは珍しい光景だった。

「きましたね」
「そうだね。引き渡し業務は久しぶりだ」
「やはり代わりましょうか?」
「いやいや、大丈夫だよ」
 ロバートは護送トラックを確認した後、ビクターを見つめていた。彼にいつもと変わった様子はなかった。囚人の引き渡し業務は一般刑務官の仕事であり、所長のような管理職は関与しない。しかし、急にビクターは立ち会うと言い出した。トラックが到着し、後ろの扉を開けると両脇を付き添いの職員に抱えられたチャーリーが現れた。彼は身震いしながら辺りを見回し、大きく息を何度も吐いて、口から出る白い煙を楽しんだ。
「寒いね。ここに来たということは俺も余命一ヶ月ってことかな?」
 フィグが職員と一緒に運搬用セル内にチャーリーを移動させる。
「状況にもよるが数ヶ月内が慣例だ、囚人番号AG259。これから君は第142特別条例に従い、サクハ刑務所に収監される。楽しそうだな、チャーリー・カーニバル。ここを待ちわびていたのか?」
 チャーリーは笑い声をあげた。
「感情的になるな、ドロイド君。俺に恨みでもあるのか。久しぶりの外の景色に気分が良くなっただけさ」
 フィグとロバートはセルを運び、コールドフィッシュ内の第一ポッドへと向かった。

「今日は私が引き渡しをやるよ」
「珍しいな、どうしたんだ?」
「実はこの前、キャッスル君がカウンセリングを受けてね」
「……そうか」
「それで結果は大した事なかったんだけど、業務の負担は減らした方がいいと本社から報告があった」
「なるほどな」
「お茶でも入れよう。マニュアルを確認しながらじゃないと不慣れなものでね」
 付き添いの警察車両が去った後、ビクターはフランクたちを本棟の所長室に案内し、湯を沸かした。
「いつも注文してるやつじゃないか」
「そうそう。パックなんだけど美味しいんだよ。身体も温まるし」
 ビクターは棚から人数分のカップを取り出し、お湯を注ぎ温めた。それからカモミールティーを入れた。
「引き渡しデータは送ったからデータベースで確認してくれ」
「データベースってのは、この収監用のやつでいいのかな?」
「ああ、そうだ……なぁ、ノースロード」
 ビクターは顔を上げた。
「チャーリー・カーニバルには気をつけた方がいい。こんな奴は滅多にいない」
 これまで何人もの囚人を運んできた彼がそんなことをいうのは初めてだった。ビクターは机のケースから角砂糖を三個取り出し、フランクのカップに入れた。
「おい、止めろよ! ガキかよ、こんな甘い紅茶」
「いいから飲め。こういうときは甘い物がいいんだ。神経を落ち着かせてくれる。他のみなさんも良ければどうぞ」
 フランクはカモミールティーを一口飲んだ。運転中に抱えていた緊張がいくらか和らいだ気がした。机にあるラジオからは聞き慣れない番組が流れていた。
「なんだ。この番組は?」
「ずっと配達しているのに知らないのか?」
「ラジオはあまり聞かないんだ」
「珍しい運転手だ。これはサクハ地方で有名なローカルラジオさ。トーマス・ウィルソンというDJが平日の朝から夕方までやっている。ほら冷めない内に飲めよ」
 フランクはソファーに座り、ビクターの勧めたタバコを時間をかけて吸った。天井に向けて吐いた煙は昇るに連れ薄くなり、天井に届く頃には消えていた。彼はそれを何度か繰り返し、暇つぶしにラジオのチャンネルをいじった。
「いつまでかかってるんだ? キャッスル君ならとっくに終わっているぞ」
「待て、もうすぐ終わる……ほら、できた。確認してくれ」
 端末を開いてデータの検証をしながら彼はビクターに話しかけた。
「ノースロード。さっきの話は本当だ。あいつは狂ってる、気をつけろ」
 ラジオをテーブルに置くと、ビクターは立ち上がった。それから身体をねじった。
「大丈夫。何年ここにいると思ってるんだ、そういう奴はいくらでもいた」
「それならいいが」
 検証を終えたフランクは脱いでいたダウンジャケットに腕を通した。
「しかし、いいダウンだな。お前らしくない色だ」
 彼は妻が新調したダウンジャケットをみつめた。
「ああ、温かいよ」
 トラックが去るのを事務室の窓から見送ると、ビクターはカモミールティーを飲みながらチャーリー・カーニバルの資料をめくった。

[資料]
囚人番号AG259:チャーリー・カーニバル

a.人物像について
チャーリー・カーニバルの両親は幼いころに離婚し、彼は母親と二人で暮らしていた。母親は男を定期的に替える性分だったようで、幼いチャーリー・カーニバルを残し夜な夜な出かけていた。その内、自宅が即席のホテルとなった。チャーリーの部屋は男の部屋になり、物置部屋が彼が一日の大半を過ごす場所となった。男の影響で母親は娼婦まがいのことをすることもあったようだった。派手な服装で昼夜を問わず客と寝室に入っていく母親の姿をみて彼は育った。自宅のリビングには香水と汗の染みた下着やドレスが散乱し、どんなに言っても新しいシーツを与えてくれない母親の洗濯物を寝具代わりにチャーリー・カーニバルは眠った。
父親は税理士をしていて裕福だった。母親とは縁を切っていたが、チャーリー・カーニバルとの交流は離婚後も続けていた。そのため幼少期から金銭的に困ることはなく、当時の同級生の証言によると流行していたおもちゃはほとんど持っていたようだった。学業の成績はよくなかったが、父親の教育で多くの本を読んでいたことが図書館の履歴から確認されている。
中学校を卒業後、チャーリー・カーニバルは家を出て、作家を志しながらスーパーの鮮魚部門で働きはじめた。途中で職を替えながら、通算で15年間同じスーパーで勤務した。彼の主な仕事は魚の解体とパッキングだった。魚の臭いを毛嫌いする者が多く常に鮮魚部門は従業員募集中の状態にあったという。チャーリー・カーニバルが戻ってくるたびにスーパーの店主は喜んで再雇用した。チャーリーの勤務態度は真面目で、遅刻や残業にも文句をいわない優秀な労働者だった。また、彼は社交的で容姿も整っていたため、スーパーで働く女性従業員や客からの人気も高かった。家庭や対人関係の些細な愚痴を心地よい相槌で包み込み、最終的にその相手を肯定した。何人かの既婚女性と関係を持っていたが、誰も彼を咎めなかった。
最初の殺人を犯す一年ほど前から不眠が続き、頭のなかの空想が過激になっていると、一度病院を受診している。しかし、その後は通うのを止めている。理由は不明だった。
チャーリー・カーニバルにはいわゆる服フェチの傾向があるようで、殺害した女性の衣服をひとつひとつ丁寧に並べ、そこに時折、射精する場合もあったようだった。チャーリー・カーニバルの殺人の特徴である遺体をバラバラにする、被害者の服を丁寧に並べる。そのどちらかまたは両方の特徴を当てはめるなら、同時期に数十件の殺人事件が起きていたが、そのすべてに関わっているかは不明である。チャーリー・カーニバルいわく、バラバラの身体をみなければ本人かどうかわからないと供述していた。逮捕後の精神鑑定は拒否し、裁判でも黙秘し続けた。判決に対してはそれまで多弁だった彼とはうって変わって無言を貫いた。しかし収監された刑務所では社交的な模範囚として過ごしていた。

b.事件について(一部のみ抜粋して記載)

被害者A
被害者はスーパーの同僚の女性だった。彼女はシングルマザーで5歳になる子どもがいたが別れた夫に養育権を取られ一人で暮らしていた。勤務後、帰り道が同じだったためチャーリー・カーニバルは彼女を自分の部屋に誘い、その後殺害した。そして遺体をバラバラにし、冷蔵庫に保存した。殺害の理由についてチャーリー・カーニバルは後の供述で、魅力的な洋服を着ていたからだと語っている。

被害者B
ベッドで発見された。頭部及び腹部を撃ち抜かれており、傷口の一部から腸が飛び出していた。所々に十字の切り傷があり、一部にマヨネーズが塗られていた。精液は発見されなかったが、大量の唾液と血液がベッド脇のサイドテーブルにあるワイングラス内から検出された。チャーリー・カーニバルの供述によると、血液と唾液を混ぜるとアルコール成分が発生するようで、酔っていて覚えていないと語っている。

c.備考
チャーリー・カーニバルにはなんの問題もない。ただ、よくしゃべるだけだ。(担当刑務官)

「水族館にいくと、ガキってのは直ぐに鮫だ、鯨だのデカイ生き物を探しに行きたがるんだ。だが隅の方には飼育員が魚の生態をわかりやすく解説しているゾーンがひっそりとある。模型なんかを置いたりしてある暗い場所だ。あそこには骨や器官が役割毎に作られている。つまり機能的な物事の考え方が学べる場所だ」
 チャーリーは収監された第一ポッドのなかから、フィグに話しかけていた。しかし、その反応は全く気にしていない。それは自分の話がしたいというよりも相手の反応を楽しむためであった。ロバートとビクターはそれをモニタリングしていた。
「ずっとああいう感じだ。資料通りだね」
「ええ、そうですね」
「チャーリー・カーニバルという男は本当によくしゃべる奴だ。だが、その話に整合性や論理性はない。断片的と言った方がいいのかな。奴の話をきいていると色んな本から適当に破りとったページを組み合わせたような感覚になる」
「確かに」
 ロバートはビクターを注意深く観察していた。
「どうした、顔が強張っているようだが……」
「いえ」
「疲れているときは遠慮せずに言ってくれ。とにかく、まともに相手にすることはない」
「わかりました」
 ビクターが第一ポッドに入ると、チャーリーはビクターの名札をちらりとみた。
「これはお偉いさんだね! ノースロード所長、ノースロード所長」
 ビクターの名を連呼すると、チャーリーは裁判でスーパーの精肉鮮魚部門で食肉加工の職に就いてたときの話が動機の一因だという検察側の主張への文句を垂れはじめた。
「あれは機械的な作業であり、単なる労働だ。それと俺そのものを結びつけるなんて安易だ。ワイドショーと同じだと思わないかい、所長さん。裁判でスーパーの店長が出てきたときはがっかりだったね」
 ビクターはそれを無視した。
「逆に映画は素晴らしかった! 役者の人選も悪くない。ただ俺ならもっとうまく描けた。監督はいいが脚本家が駄目なんだな」
 そして、自らを実は作家だと言い、映画について独自の見解を述べていた。後から供述調書をたどると、たしかにチャーリーは作家を志していたようだが、実際には創作メモがいくつかあるだけで、作品を完成させたことは一度もない。それについては本人曰く、手で書くより行動を起こした方が早いことに気付いたから止めたとのことだった。そして実際には、チャーリーは収監されていたために映画も観ていない。
 ロバートの頭には、一つのアイデアが浮かんでいた。
――ビクターがコールドフィッシュに居続けられたのは、チャーリー・カーニバルに妻の復讐をするためなのではないだろうか?

 チャーリー・カーニバルがコールドフィッシュに収監されてから数週間が経過した。
「キャッスル刑務官。君は左利きなんだね、スペシャルな男だ」
 彼は相変わらずロバートの無視すら気にしていないかのように話を続ける。
「幻肢病って知っているかい。腕や足がない人間がまるであるように感じることだ。それの逆だ、俺にあるのは。バラバラになった人間にこそ親近感がある。その時、確信したんだ。人間はパーツの足りない機械なのだと。そこを一つ一つ機能的に、人体パッチワークを構成すれば美しいはずだ。君のような美しい機械だ。そう思わないかい、ドロイド君」
 フィグもロバート同様に何も答えなかった。
「ちょっと外に出てくる。通信用ケーブルが少しおかしい」
「ああ、わかった」
 フィグが出るとチャーリーは一層ロバートに話しかけてきた。刑務官が囚人と話すことはないが、それでも微妙に反応を起こすことはある。それは視線や頬の動きなど隠し切れない刑務官の個性だ。チャーリーはそれを見逃さなかった。相手が何を好み何を嫌うのか。それは重要なことだ。しかし、彼はそれを知ってどうこうということではなかった。ただ、その様子を楽しんでいるだけだった。
「君は殺した被害者たちのことを覚えているのか?」
 ロバートは自らを静止しようと思っていたが、いつの間にか話をしていた。
「いや、全く」
 チャーリーが笑った。
「知り合いでもいたのか?」
「イライザという被害者に覚えは?」
「ないね、全く。悪いが仮に俺がその女を殺していたとしても狙った訳じゃない。魅力的かどうかで俺は殺しはやらない。もし、そいつが俺に殺されたのなら、たまたまだ。キャッスル君。お前だってそうだろ、例えばトイレにいったら空いてる個室に入るだけだ。それと同じだ。俺は用を足すことで頭がいっぱいだっただけだ」
 ロバートは怒りを抑えるのに必死だった。その表情をみて、チャーリーは挑発を続ける。
「キャッスル刑務官。君は良い人間なんだな。だが、それだと居心地が悪いぞ。逃げ場をなくしてしまう。いい子ほど真剣に向き合うことが正しいと思っている。その内、自ら道を狭めていく」
「なんだと?」
「それにそのイライザはきっと幸せだ。その手助けができたと思うと生きてきた意味がある」
 ロバートはチャーリーを睨んだ。
「生きている期間は短い。死んだ後に会える方が素敵だろ。その後ずっと一緒にいられるんだから」
 チャーリーは立ち上がり両手を叩いた。大きな拍手だった。それがロバートの息をますます荒くする。フィグが入ってきた。
「おい、ロバート! 戻るぞ」
「キャッスル刑務官。君の質問は左利きの理由を探すようなものだ」
 ロバートは第一ポットの扉を閉めた。
「キャッスル刑務官。お前の利き腕はなぜ左だ?」
 チャーリーの声を聞きながら、ロバートは自分の左手を見つめた。
「何をしていたんだ? 囚人と会話するなんて」
 宿直室に戻るとフィグがロバートに言い寄った。
「どうしたんだい? とりあえず二人とも座って」
 ビクターはラジオを消してソファーに腰を下ろした。
「いえ……ちょっと魔が差してしまいました」
「まぁ、カウンセリング研修終えて日が浅いし。今日はもう休むといい。勤務は私とフィグで代行できるし」
 ビクターの様子に変わったところはなく、いつも通りだった。それでもわずかな違和感をとらえようとロバートはビクターを注視していた。彼の頭に浮かんだアイデアは日に日に確信になりつつあった。チャーリーを収監して以降、これまでフィグとロバートの二人体制で囚人の監視を行っていたがそこにビクターも加わるようになった。もしビクターが復讐のためにここに居続けていたのなら、全て納得のいくものになる。

“母さん、ただいま”
“今日は早い帰りだね”
“体調が少し悪くて”
“大丈夫かい? 風邪気味のときはスープが一番だよ”
“ありがとう”
“何かあったのかい?”
“いや……もし”
“そうだね、私は恨み続けるのはよくないことだと思う。それを解決するために人には赦す気持ちがあるんだよ”

 ビクター所長は自分の妻を深く愛している、今も変わらず。そして、その愛が強ければ強いほど、確実に自らの手で殺す。ロバートの頭には母親の恨んではいけないという教えが巡っていた。しかし自分にそれを止める権利があるのかはわからなかった。ビクターは十数年もこの極寒の地でチャーリー・カーニバルを待ち続けていた。その忍耐強さは尋常ではない。もし自分が逆の立場なら……ここまで強くなれないだろう。コールドフィッシュで過ごせるのは解けない精神を持つ者だけだ。とても自分にはできない。ロバートはそう確信した。そして、その晩ビクターの元を訪れた。
「所長、すみません。こんな時間に」
「どうした? 入ってくれ」
 思い切って自分自身がこれまで考えていたことを語った。ビクターは話を聞きながら、時折ホットココアをすすって相槌をうった。
「そうか。知っていたんだね。ヘンリーは昔から口が軽いところがある」
「すみません」
「いや、全然構わない。結論から言おう。確かにチャーリー・カーニバルの起こした事件と私の妻の死は非常によく似ている。時期も同じだ。証拠はないが可能性は高いと思う。ただ、ひとつだけ言えるのは私がもはや妻の死の真相を知ろうとは思っていないということなんだ」
 ビクターはロバートにココアをすすめた。湯が沸くまで二人は無言だった。ロバートはビクターの言葉の意味を考えた。マグカップにココアを注ぐと、ビクターは妻のイライザについて話しはじめた。

    7.

 機内からみえる眼下の雲海は、朝焼けの日光で橙に染まり、ビクターはブランケットの下で繋いでいたイライザの手を離しガラス窓に触れた。清みきった外の空気を容易に想像できる冷たさだった。それはラボのなかに比べれば優しい冷たさ。窓に掌を強く押し当ててみた。何重に貼られたガラスを止めているネジが音を立てた。これはマウスの声に似ているとビクターは思った。掌をみると、窓で圧迫された血管のために紅潮していた。ビクターはブランケットのなかに手を戻した。
「冷たい」
 イライザは目を閉じたままつぶやいた。
「ごめん」
「今、何時?」
 ビクターは時計をみせようとしたが、彼女は目を開けなかった。
「もうすぐ着くよ」
「そう。なら大丈夫」
 そういうとイライザはビクターの手を握って、再び寝息を立てはじめた。ビクターは再び窓の外に目をやる。二人の座席は本来の彼らのシートではなかった。航空会社の手違いで、予約していた席には別の乗客が座っていた。幸いにも空席があったため搭乗に問題はなかったが、翼の延長線上にある席では外の景色を完全に眺めることはできない。ビクターはそれがわずかに不満だった。席を立ってトイレに向かう途中、元々の席の前を通ったが誰も座っていなかった。乗務員にたずねると、予約がキャンセルになっていたのを忘れていたとのことだった。ビクターは席に戻り、横でブランケットを毛布代わりにかぶっている妻の寝顔をみていた。
 元々、大学院の同級生だった二人は、昨年結婚した。ビクターはLT社の商品開発部で働き、脳科学の研究者だったイライザはビクターの転勤を機に最前線の研究から離れ、自宅でデータ解析の仕事をするようになった。二人は新婚旅行で南部のナワタイ地方へ向かっていた。到着まではまだ小一時間あった。ナワタイに行こうといいだしたのはイライザだった。ビクターにとってそれは嬉しい提案だった、彼は毎日極寒のラボで過ごしていたため、寒さに嫌気がさしていた。ラボのなかは実際に気温が低いだけではなく空気も冷たい。その冷気は麻痺させるような何かがある気がビクターにはしていた。飛行機が着いてホテルに向かう車のなかでビクターは本来の席が空席だったことをイライザに話した。
「ちゃんとして欲しいよ」
「別にいいじゃない、乗れたんだし。移動手段にこだわることはない」
「そうだけど」
「それに誰か乗っていたかもよ」
「どういうこと?」
「例えば透明人間とか」
 ビクターが彼女に惹かれた要素の一つにこういう突拍子もないことを言えるところにあった。理屈っぽいビクターにとって透明人間などの在りもしないことを平気で言えるのは不思議なことだった。
「なるほどね」
「冗談だとしても記録上は乗ってるんだから、半分は透明人間みたいなものでしょ」
「まぁ、そうか」
 ホテルで受付を済ませると、レセプション係がルームブレスレットと一緒にカジノ用のクーポンを渡した。外に用意されたカートに乗り込み、ブレスレットをかざすと自動で出発した。ゆっくりと敷地内を走りながらパネル画面に写された動画がホテルの説明をはじめる。イライザはミュートボタンを押し、外の景色を眺めた。ホテルは決してグレードの高いクラスではなかったが、部屋はそれぞれが独立したコンドミニアム形式になっている。二人の宿泊する建物の前でカートが停まると同時に部屋の扉が開いた。荷物を部屋に運ぶ。カートの画面にはカジノ広告が出ていた。ナワタイ地方のホテルはカジノで利益を上げることができるため、宿泊費を安く設定しているらしい。荷物を室内に運ぶとイライザはベッドに転がった。寝室のカーテンを開けて外に出ると、小さなプールとアウトドアチェアのセットがあった。
「写真より小さいね。本格的に泳ぐなら本館に行かないといけないみたいだね」
 ビクターはパンフレット画面をスワイプしながらソファに座った。
「十分よ」
 テーブルの上にはワインクーラーが置いてあり、白ワインがよく冷えていた。
「ほらきて! 乾杯しましょう」
 二人はワインを注いでグラスの音を鳴らした。
「いいとこだね」
「ほんと。なんかお金持ちにでもなったみたい」
「自宅より全然いいや」
「戻るの止めようか?」
「でも、ここから通うのは無理だな」
 イライザは笑った。
「本気じゃない。年に一度来れればいいね」
 カジノは初日の夜にクーポンを使って遊んでみたが、二人の肌には合わず、すぐに部屋へ戻った。翌日からはホテル内の公園や施設を散歩し、プールサイドで他愛のない会話をした。特にイライザが気に入ったのは温室の植物園で、なかには珍しい蝶がたくさんいた。日が暮れるとバーカウンターでのんびりと過ごした。飽きることのない会話は何よりの幸福だった。
 二人がホテルを気にいった理由の一つにコンドミニアムの清掃をしてくれた女性の存在があった。彼女の名札にはコールミーと爽やかな字体が印字され、メアリーと記されていた。客が出払う日中に清掃は行れるため、清掃員と客が接触することは滅多にないが、二人は一日のほとんどの時間をコンドミニアムのなかや周辺の散歩に費やしていたため、メアリーと話すこともあった。彼女は快活で愛想もよく、イライザと気が合うようだった。メアリーの仕事ぶりは見事で、ホテル特有の装った小綺麗さでもなく気持ちの良いルームメイキングだった。
 滞在期間の中日のある昼下がり、本館からコンドミニアムの道中に流れている川のほとりに座りながら二人はシードルを飲んでいた。彼女の清らかな足が水中で揺れながら、時折跳ねる水飛沫がナワタイの日光が輝いていた。
「暖かい」
「そうだね」
 日光は肌ではなく、内側の臓器からじんわりと身体を温めた。
「私は寒いとこで生まれ育ったけど、ここの方がよっぽど落ち着ける」
「僕も寒い本社には戻りたくないな」
「本気で考えようかな……」
 彼女のいたずらな笑顔に、思わずビクターはキスをした。シードルを含むと炭酸のシュワっとした感覚が口内で弾けた。ホテルに戻ると部屋の扉に清掃中の画面が出ていた。二人は前のベンチに掛けて終わるのを待つことにした。しばらくして、メアリーの乗った清掃用クラフトが目の前を通った。
「こんにちは、おふたりさん。何をしてるの?」
「ああ、清掃が終わるのを待ってるんだ。今日は別の人なんだね」
 メアリーはコンドミニアムの扉の方をみて、清掃用クラフトから飛び降りた。
「ちょっと待っててください!」
 しばらくして室内からメアリーの怒鳴り声が響いた。二人が部屋に入ると、メアリーが彼女と同じ制服を着た若い男を叱責していた。ベッド脇の二人のトランクケースが開いていた。男は二人の方を睨み、無言で立ち去っていった。彼女の話によると男はメアリーの同僚で、金品を物色するために彼女の清掃用IDでコンドミニアムに侵入していた。幸いにもトランクケースは開けられていただけで何も盗られてはいなかった。
「お願いです、彼を赦してあげてください」
 メアリーは涙を浮かべながら謝った。二人はメアリーが不憫になり、ホテルには何も言わないことにした。その後もメアリーは何度も頭を下げた。その夜、ホテル本館のバーでナワタイの街を眺めながら、二人の間には沈黙が流れていた。ナワタイ地方が裕福でない地域であることはもちろん知っていた。しかし、それは情報として知っていただけで実際に自分たちが体験すると途端に複雑な感情になった。
「なんでメアリーはあんなに謝ったのかな?」
 ビクターが口を開いた。
「なんでって」
「だって彼女は何も悪くない。むしろIDを使われていたんだし被害者だ。あのままだと清掃者は登録上メアリーになるんだから。それにもしかしたらあの男はもう一度するかもしれない」
「そうね。でも、それはきっと彼女が優しいからよ」
「そんなの……」
「いいじゃない、メアリーがそうしたいんだから」
「別に責めてる訳ではない、ただなぜだろうって思ってさ」
 ビクターは自分が明らかに苛立っているのがわかった。それはメアリーに対する好意からであった。彼女はその善良さ故に貧乏くじを引いている。もしかしたら今までも引き続けてきたのかもしれない。そのことは結果として彼女を苦しめている気がした。だが、周囲や本人はそれを美徳だと思っている。事実、イライザの言い方はそのように思えた。その言い様のない正しさみたいなものは彼を厭な気分にさせた。
「私には少し気持ちがわかるかな。愛情深いのよ、彼女は。もし私がメアリーの立場だったら相手を赦すとはならないと思う。愛情ってナマモノみたいなもので一度腐りはじめたらもう無理だと思うの。腐らないように維持し続けるってかなり強くないと無理。みんなが彼女みたいならきっと世界も良くなるはずだけど……」
 そういうとイライザは少し口をつぐんでグラスを回した。
「昼間のメアリーをみて彼女は本当に強い人だなと思った。そうなりたいな。でも、私の愛情は普通のもの。きっと腐りはじめたらそのまま黒くなっちゃうかな」
 滞在最終日、二人はメアリーに最大限の感謝をチップで示した。彼女は驚いた顔をしたが、にっこりと笑った。毎年来ようと二人は帰りの飛行機で約束した。

 今夜のコールドフィッシュは一段と冷えた。時計は日付をまたごうとしていた。
「おかわりはいるかい?」
「はい、お願いします」
 ココア用の湯を沸かしている間に、ビクターは事件の日について語りだした。
「あの夜のことはもちろん忘れることはない。私は本社で研究職としてこのまま働き、たまに妻と旅行にいく。そんな人生を送れるだろうと思っていたからね。私たちは子どもには恵まれなかったが、それでも十分に幸せだった。ただ、これは全て後から気づいたことだ。帰宅し駐車場に車を停めると点いているはずの家の灯りが消えていた。イライザからの返信はなかった。扉を開けるとなかは静まり返っていた。玄関からリビングへ抜け、電気を点けるとナワタイで買ってきた人形の民芸品が目についた。人形は全部で五体あったが、そのどれもが床に散らばりバラバラになっていた。彼女の名を呼ぶが返事はない。家のなかは、もうここには人など居ないという静けさだった。鞄と仕事用のアタッシュケースをテーブルに置いて寝室に入った。だが彼女の姿はなく、ベッドはきれいにメイキングされたままだった。旅行以来、イライザはベッドメイキングを丁寧にするようになった。それまでは布団をきれいに置き直すくらいだったが、シーツのたるみや枕の歪みまできちんと正すようにしていた。彼女曰く、メアリーに対する憧れらしかった」
 口にはしなかったが、ロバートは母親とビクターが過去に接点があったことに驚いていた。
「リビングに戻り、イライザに電話をかけると着信音が遠くできこえた。風呂場の方だった。急いで扉を開けた。脱衣場にはイライザの携帯電話と衣服があった。衣服は一つ一つ畳まれ、靴下、スカート、ニットの順番に丁寧に置かれ……置かれているというより飾られているようだった。スカートを拾い上げると下着が落ちてきた。彼女が身につけていたかのように下着は服のなかにあったのだ。まるでイライザだけがどこかに消えたようだった。シャワールームにもトイレにも彼女の姿はなかった。シャワーは使って間もないようで浴室内の水蒸気や床は温かかった。どこにいたと思う?」
 ロバートはわかりませんと答えた。
「彼女がいたのはベランダだった。彼女の身体はホールケーキを切るように丁寧に分けられ、小物干しに吊るされていた。それは動かない操り人形のようだった。洗濯バサミに挟まれた腕の皮が薄いグミのように伸び、滴る血液が下のセメントに染みていく。遺体もまた、部位にそって正しく配置されていた。イライザの頭部は左耳と頬、髪の毛をまとめた束をいくつか作り、それが吊るされていた。寝ているときの横顔と同じだった。警察の捜査の結果、イライザを殺害したのは手口の類似点などからここ数ヶ月、発生している連続殺人事件と同じ犯人であろうと推測されたが、イライザの事件が違っていたのは頭部が紛失していることだった。だからチャーリー・カーニバルが捕まったとき、イライザの事件も彼の犯行であるという証明はされなかった」
 ビクターは震えながら手に持っていたマグカップを置いた。
「それまでも仕事上、死体をみることは幾度となくあった。だけど、それのどれとも違うんだ……やはりね。それから私は研究所からの異動願いを出した。とにかくそれまでの妻との思い出がある場所から逃げたかった。異動願いはすぐに通ったよ。事情が事情だからね。そうやって私はコールドフィッシュに来た。妻のいない現実から逃れるために私はここにいるんだ。しかし、コールドフィッシュで過ごす内に、少しずつ私の心境に変化が起きてきた。辛いのに慣れる必要はないと思えてきたんだ。ただ、排除すればよい。復讐心を長く持ち続けるということは、ある意味では、妻の死をその都度受け入れることだ。私にはそれができなかった。死はいずれ誰にでも訪れる。それがいつかはわからない、偶然の問題だ。つまりキャッスル君や私の最期はいつだってある程度の偶然のなかで転がされている。イライザの死もそうだった。そんな偶然のせいで、なぜこんなに苦しい思いをしなければならないのか。妻を失ってずっとそう思ってきた。あの幸福な時間たちも結局は偶然の一部であることを私は憎んだ。しかし、ここでは違う。この場所において死というのは決まっている。それに気づいたとき、私は少なからず安心したのだ。妻の死も、もしかしたら決まっていたものだったかもしれないと。そうすれば自分を納得させることができたんだ。誰だって人は殺したくない。そこには良心があるからだ。私の抱えていた復讐心もその良心が歪になった結果だろう。しかし私たちはどうだ。今、工程プロセスによって殺している。仕事として刑を執行しているだけだ。チャーリー・カーニバルの過去にもはや興味はない。彼にあるのは死への道理のみであり、私はそれをひとつひとつ実行するだけだ。決して不条理な死を認めていないんだ」

 ビクターはロバートに本社から届いたチャーリーの死刑通知書をみせた。

[通知書]
囚人番号:AG259
被験者名:チャーリー・カーニバル
執行日時:11月7日

上記、死刑囚の刑執行日時が決定しましたので通知致します。
立会い人については連絡済み。
承認書類については別途添付ファイル参照。
尚、IC用被験番号は018とする。

「彼も工程プロセスによって死ぬ。それだけだ」
 突然、室内に警報が鳴った。第一ポッドからだった。

    8.

 警告音がコールドフィッシュ内に鳴り続けている。ロバートとビクターは第一ポッドの扉の前に立った。管理棟の宿直室にいるはずのフィグの姿がなかったのが二人を一層不安にさせた。通信用端末で呼びかけてみるが応答はなかった。
「内部の様子は?」
「駄目です」
「侵入の形跡はあるか?」
「いえ。ログを見る限り、特にはありません」
「キャッスル。覚悟しておけ」
「はい」
 警報はポッド内にいる職員が外へ緊急事態を知らせる際、もしくはポッド内のシステムに異常が起きたときに発せられる。管理棟にフィグがいないということは、扉の向こうにいる可能性が高い。ロバートは腰元の銃に触れた。金属の感触が冷たかった。これを使うかもしれないと思うと、ロバートは憂鬱な気になった。最悪の事態を想定する。君のような美しい機械……ロバートはチャーリーの発したあの言葉が頭に浮かんだ。そして、バラバラに解体されるフィグの姿を。手の汗を拭いて銃を握った。もう冷たさを感じることはなかった。それほど彼は興奮していた。独房の脇には内部の異常を示すランプが点灯している。IDによる扉の開閉はできなかった。
「フィグ、応答しろ」
 やはり返答はない。
「まず私がいく。後ろから援護しなさい」
 ビクターの指示でロバートは手動レバーを上げる。ゆっくりと第一ポッドが開く。なかに入った二人の目の前にあったのは、彼らにとって意外な光景だった。

 フィグがチャーリーに馬乗りになっている。床には包丁が転がっていた。
「終わりだ、チャーリー・カーニバル」
 両手がチャーリーの首元にかかっている。ロバートは事態が飲み込めなかった。ビクターをみると、彼はその光景をじっとみていた。
「おい、フィグ! 止めるんだ」
 ロバートは駆け寄り、チャーリーとフィグを引き離そうとした。しかし首を締めつける力が強く、手はなかなか離れなかった。
「何してるんだ!」
 ロバートは銃を抜いてフィグの腕に向けた。
「所長!」
 しかしビクターは黙ったまま、この光景をみているだけだった。チャーリーの顔は青白くなり、血管がはっきりと現れはじめた。
「フィグ! 止めろ……撃つぞ」
 ロバートが三つカウントを数えた後に、銃声がポッド内に響いた。
 フィグの片腕が床に転がった。ロバートはチャーリーを引き離し、脈を確認する。呼吸は荒いが無事だった。首に痣は残っているが、大きな問題はなさそうだ。フィグは黙ったまま床を見つめていた。ロバートは大きく肩で息をしながら、せせら笑うチャーリーの胸ぐらを掴んだ。
「何をした?」
「別に何もしてないさ」
「調べればわかるんだぞ」
「勝手にしろよ。監視カメラでもなんでもみればいいじゃないか」

「……イライザ?」
 ビクターがそう漏らすとフィグが振り返った。ゆっくりとビクターに近寄り身体を預けると、そのまま倒れた。
「所長。どういうことですか?」
 チャーリーが咳き込んで嘔吐しはじめた。
「とりあえず、君は病院に連絡して囚人の搬送手配をしてくれ。話はその後だ」

    9.

 第一ポットのハッチが開き、フィグがチャーリーの前に現れた。
「どうした、ドロイド君。眠れないなら絵本でも読んであげようか?」
 フィグは調理室から持ってきた包丁を手に持っていた。
「どういうつもりだい?」
 フィグは何も答えなかった。
「まさか、それで刺して執行するのか? さすが民間の刑務所だ。経費削減か?」
 チャーリーの笑い声がポッド内に響いた。フィグはケーブルを操作タブにつないだ。
「いつだって欠陥があるのが人間だ。そもそも、そういうものだ。フィグはそう思う」
 フィグが初めて彼に対して言葉を発した。チャーリーは嬉しそうに指を一度だけ鳴らした。
「確かに。同意するね」
「私はビクターを救いたいのだ。フィグはそう思う」
「なんとも慈悲深いドロイドだな。素晴らしいプログラムだ」
 チャーリーが嘲笑した。フィグは通信用ケーブルを切断した。緊急警報が鳴る。
「違う。愛だ。彼は前に進まなければならない。こんなの間違っている。フィグは……私はそう思う」

    10.

 ビクターは地下室にフィグを運び、本体の解析をはじめた。これまでドロイドへのは半年に一度で十分な作業だった。前回は二ヶ月ほど前に実施したばかりだった。しかし、今のフィグは不安定な状態にあった。細部まで全て検証を行う必要があるだろう。妻の名を呼び掛けたことにフィグは反応した。彼女の脳は、現在フィグのなかに留まっている。身体全体の冷凍保存と違い、臓器単体での冷凍保存は保護液に含まれる神経毒性の浸食を受けやすい。そのため長期間の冷凍保存はできず、定期的に脳を別の場所に移す必要があった。
 偶然だったとしても、イライザと再会できたことは奇跡だった。だが、それを正確に再現できる技術がビクターにはない。回路から正しい道順を探し出すことは、未だできていない。ビクターがこの道に迷ってから、もうだいぶ経っている。

 チャーリーを病院に搬送した後、ロバートはコールドフィッシュの地下室へと入った。一年近く勤務していたが、こんな場所があることは知らなかった。なかに入ると、いくつものケーブルと繋がれたフィグの身体が台に載せられていた。奥にはカプセル状の装置があり、窓から覗くとなかに脳がいくつも保存されていた。
「これは何ですか?」
「実験用の検体だ」
 そこでロバートは初めて、冷凍保存技術を用いた保険商品を開発していることを知った。
「じゃあ、これまでの死刑囚たちは」
「遺体はサンプルとして使用してきた」
「でも……こんなの許されるんですか?」
「少なくとも会社の認可は下りている」
 フィグの身体が揺れた。ビクターは駆け寄り、機器の値を確認する。
「良かった」
「フィグの内部には……」
「そうだ、妻の脳が入っている。事件のあった夜、保存用の大型アタッシュケースを車に積んでいた私はイライザの脳を急いで冷凍したんだ。死刑囚たちのように身体全体を保管する場合は、昏睡状態に近い形で冷凍保存が可能になる。しかし、臓器単体だとそうもいかない。特に脳は冷凍保存用の保護液に含まれる神経毒性の浸食を防ぐために、単体での長期保存はできないんだ。だから適度に解凍し再度冷凍保存する必要がある。その間をつなぐために、ドロイドへ脳の一時移植をする必要があった」
「それでフィグに」
「サポート用ドロイドは私が開発したからね。ある程度、脳が入る部分を確保しておいた。これまでも何度か移植したことはあったが、一時移植に問題はなかった。多少、行動に不規則な部分がみられることはあったが、それも微々たるものだった。今回みたいなことは初めてだ。人工脊髄との回路構築でうまくいった部分があったのかもしれない」
 フィグが突然、起き上がった。ビクターが声をかける。しかし、そこにいたのは、いつものフィグだった。
「大丈夫なのか?」
「キャッスルくん。心配ありがとう」
 フィグはゆっくりとビクターに歩み寄り、片腕で彼を抱きしめた。
「フィグ……? やはり、君はイライザなのか?」
「ええ」
 フィグは次の瞬間、ビクターの腰元の銃を抜いて彼の身体を突き飛ばした。ロバートは倒れたビクターに駆け寄った。
「フィグ! どうしたんだ?」
「ビクター。今も私を愛しているの?」
「もちろん」
「本当に?」
「ああ」
「そう。もし本当に貴方が私を愛しているなら、私は死ぬべきなの」
「なぜだ、せっかくここまで……」
「あなたは自分の死が怖い?」
 フィグは銃口をビクターに向けた。
「フィグ、止めろ!」
 ロバートは銃を取り出し、フィグに向けた。彼女は銃口を自らの太股に向けて発砲した。
「私は全く怖くないの。自分の死すら別の事に感じている。そういうがあるの。脳は自分の生命が脅かされるような場面に直面すると、それを他人事として認識する一種の防衛反応が働く場合がある。でも実際に私は死を経験している。だから、この防衛反応は意味を成さない。ただ、脳を移植する度に防衛反応が私の死を経験している記憶に対して現れようとしてくる。そこで自分の生物としての反応と実際の記憶の間に相反する衝突が起きて異常が発生している。それが違和感の正体だと思う。そして、その違和感は暗闇からやってきてどんどん大きくなる。これがどれだけ恐ろしいものか……ビクター、あなたにはわからないでしょ?」
 ビクターは黙ったままだった。
「はじめのうちは、夢をみているようなぼんやりとしたもので、記憶に残るようなものではないと思っていた。保存液の侵食で脳の萎縮が引き起こされているのだと思った。私の脳が摘出され、再び冷凍されると確かにその感覚はなくなった。だけど、安心するのは束の間だった。私は氷のなかで停まっているか、違う肉体のなかにいるかの繰り返しだった。新しいドロイドに移植されると、急に違う世界にいるみたいになる。まるで寝ている間に別の場所に移動させられたように。でも、その違和感だけは結局、どの肉体にいても必ず私のなかに居座り続けた。チャーリー・カーニバルを襲ったのも、復讐心だけじゃない。あなたに前に進んで欲しかった。不死を望むなんて品がない。延命をしても心が苦しいだけ。肉体的に死を乗り越えても、それはそれまでの自分とは異なる。大人の脳を赤ん坊の身体に移植することを考えてみて。きっと今までの肉体との不均衡さに苦しむはず。私たちは永遠を感じるようにはできていない。それを望むのは強欲な人たち。彼らは脳からの沈黙の叫びには耳を貸さない。でも、あなたは違う」
 フィグは銃を床に投げ捨てた。彼女の太股からは何も流れていない。
「この違和感は、これから先も静かに私を浸食し続けていく。それでもあなたは私を求める? お願い。永遠なんてない、一度死んだら生き返らない。それが人の定められた工程プロセスでしょ? 愛するビクター……あなたが私の死を乗り越えようとしてきたものを信じて」

    11.

――おはようございます、トーマス・ウィルソンです。今日も夕方までの生放送はりきっていこう! まずは交通情報からです。現在サクハ地方における渋滞及び電車の遅延はありません。どの道路も順調に流れている模様です。昨晩までの寒さが少し落ち着き、今日は氷点下10度前後の、この時期のサクハ地方としては暖かい一日となるでしょう。ただ気温の上昇で路面が滑る恐れがあるので運転には十分気をつけて下さい。チェーンを忘れずに。

 チャーリー・カーニバルの刑執行当日を迎えた。ビクターはいつものラジオ番組を流し、事務所から湖を眺めていた。太陽の光が凍結した湖面に反射し輝いていた。あのときみたいだと、ビクターは思った。イライザと訪れたナワタイのホテル。彼女も幼い頃は、こういう冬景色を過ごしていたのだろうか? 彼女がナワタイの方が落ち着くと言っていた理由がなんとなくわかった気がした。あの暖かさは特別だ。風が吹き、細かい雪が窓ガラスに降りかかる。それは足で水面を蹴ったときの飛沫によく似ている。雪は室内の暖房のせいで、すぐに水滴へと変わった。

――今日は何の日? さて365日、毎日が何かの記念日ということでそれを取り上げているこのコーナーですが、本日はココアの日です。ココアの歴史は古く、15世紀のメキシコでは既にココアの原型となるチョコレートにバニラと香辛料で味付けされた飲み物が存在していました。ココアに含まれるフラボノイドやカテキンは血管の強化・拡張にも関係していて・・・・・・

 ビクターは湖畔へと出た。珍しく少し散歩でもしようという気になった。気温は相変わらず零度を下回っているが晴れ晴れとした気分だった。湖に浮かぶ三角錐を眺め、大きく背伸びをした。足跡のない雪原を歩きはじめる。ここに長く居すぎたと自分で思った。極寒の閉鎖的な世界で作り上げた自分自身をゆっくりと解かす必要があると感じていた。雪は少し水っぽくなっている。雪を融かすこの朝日が自分には必要なのだ。湖畔を歩きながら初めてここの風景を美しいと思った。
 コールドフィッシュは職員の増員を決定した。死刑囚の受け入れ人数一人という制限は、これまでの実績を考慮し来年以降、徐々に拡大していくことになった。それにともない職員の配置転換も行われる。サポートドロイドは廃止し、人の手で運営していくことになった。所長室に戻り、時計を確認した。チャーリー・カーニバルを陽に当てる時間を少しだけ過ぎていた。彼にとっては最後の太陽になる。ビクターは第一ポッドへと向かった。

“母さん、おはよう”
“おはよう、ロバート。久しぶりね。今日も仕事なの?”
“そう、これから大事な仕事なんだ”
“大変だね、身体壊さないように温かくするんだよ”
“わかってる。じゃあ、また夜に……”

 ロバートはいつもの挨拶を打ってしめようとしたところで手を止めた。チャットボットは精巧で、たまに本当に母親とやり取りしているように感じる。だが、彼女は実際にはもういない。残っているのは彼女を再現し続けているデータだけだ。フィグの姿が浮かんだ。ロバートは退会用のページに進んだ。

“退会処理をおこないますか? 退会後は24時間以内に対象データや学習ログも合わせて消去されます。サービス改善のご提案はこちらから……”

 彼はチャットボットを削除して部屋を出た。死刑執行に立ち会う行政の立会人たちが来る時間だった。

――州政府は刑の確定していたチャーリー・カーニバル死刑囚の刑がサクハ刑務所で執行されたことを明らかにしました。サクハ刑務所では通算18人目の死刑執行となりました。さらに合わせて、州政府はこれまでのLT社の実績を考慮し、次年度以降のサクハ刑務所における死刑囚の収監人数増加を認める決定を下しました。この決定に対してLT社は、非常に責任のある決定を重く受け止め、これまで同様尽力するとコメントしています。また、民間刑務所による刑執行拡大の動きに伴い、抗議団体からは死刑そのものが犯罪の抑止となるものではないという声が上がっていますが、州政府は定められた司法判断に基づいて厳正に執行しているため問題はない。しかし同時に峻厳な刑罰である以上、引き続き生命倫理の観点から議論を深めていく必要があると述べています。以上、ニュースでした。

 DJのトーマス・ウィルソンの声が地下室のなかに静かに響いた。ビクターは冷凍保存されたチャーリー・カーニバルの遺体を見つめていた。そして、ダストボックスを開いて今朝執行されたチャーリーの遺体を湖に沈めた。もはや彼にとってIC事業も何の意味はなかった。時計は十八時をまわり、ラジオ番組も終了に近づく。コマーシャルから明けると、最後にDJが曲をかけて番組が終わる。ビクターの一日も終わりに近づく。

――さぁ、今週の放送も終わりです。明日からの連休は残念ながら、どんよりとした天気がサクハ地方を覆いそうですね。今日のお別れのナンバーは、サイモン&ガーファンクルの『 The Sound of Silence 』です。お相手はトーマス・ウィルソンでした。それでは、また来週。善い週末を。【了】

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内容に関するアピール

▲最終実作について
『コールドフィッシュ』は”定められたプロセスの検証とそれに対する信頼”の物語になったと思う。
適切かどうかの検証は適宜必要であるが、定められたプロセスを信頼して受け入れることもまた同時に重要な要素である。
一ヶ月前に梗概を提出した時点では『フランケンシュタイン』をベースにした死の受け入れ方についての物語を想定していた。その部分がなくなった訳ではないが、他の方の意見やアドバイスを受けて、読み物としてミステリー要素を強くする方向に修正していった。SF色が強いとはいえないが、梗概提出時にイメージしていた『アイ・アム・マザー』『エクス・マキナ』のような雰囲気の物語に近づけたのではないかと思っている。

▲講座について
私は書くのがとても遅く、一日2000字でも書くことが出来たら自分を褒めたいくらいだ。
そんな私にとって講座のサイクルは物凄く速かった。
毎月の課題に応えることが精一杯で、並行して他のことに割く時間を取ることはほとんどできなかった。読みたい本や漫画、観たい映画やドラマに接することもあまり出来ず、積読本や動画配信サービスのブックマークだけが増えていく日々だった。
それでも、講座そのものは結果の出ない苦しい一年間だった。そんななかで胸を張れるものがあるとするなら、それは”定められた〆切と字数”を守ったことくらいだと思う。
講座内で提出した作品たちは、大げさにいうと私がこれまで感じてきたことや好きなもの、考えたことの集大成のようなものだと思う。読み返すと稚拙なものばかりだが、どの作品も推敲を重ねていけば、きっと良いものになると信じている。
最後に、難しい環境のなかで講座を運営してくれたゲンロンの方々、大森さんをはじめとする講師の方々、ダールグレンラジオのお二人とOBの方々、そして同じ五期生のみなさまに感謝を申し上げます。一年間、ありがとうございました。

文字数:783

課題提出者一覧