木島館事件

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木島館事件

 最初に火にくべられたのは村上春樹だった。
 半村良と平井和正、萩尾望都と大塚英志、安部公房と阿部和重と舞城王太郎、そしてフランツ・カフカ、エドモンド・ハミルトン、フィリップ・K・ディック……マルティン・ハイデガー、ジャック・ラカン、ジャック・デリダ…………エレナ・ブラヴァッキー、ルドルフ・シュタイナー…………つぎつぎと火にあぶられて、表紙がめくれあがり、ページが一枚一枚徐々に灰になって、風に吹かれて消えていく。
 月夜の森で、七人の男女が焚き火を囲んでいる。
 焚き火の間に日付が変わり、いまは2077年7月18日の午前一時過ぎだ。波の音がよく聞こえる、海岸の開けた場所だった。うすい月明かりと、大きな火に照らされて七人分のシルエットが闇のなかに浮かんでいる。
 木島館から持ち出した七人それぞれの蔵書は数十冊を数える。すべてを燃やし尽くすのには一時間以上かかるだろう。毎月行っている焚き火会で、火に蔵書をくべようと提案したのは最年長の三浦嗣治だった。
「火から生まれた言葉を火に還す」
 焚き火会の日の朝、蔵書を燃やすという提案の理由を、嗣治はみなにただその一言で説明した。
 本をひとりひとりくべ始めた頃に、七人のなかで一番若い十二所じあみが「これだともう、焚き火会ならぬ焚書会ですね」と他の六人を見やりながら言った。
 この場にいる七人は、全員がオカルティックロマンへの関心をもとに集まった作家だった。

三浦嗣治みうら つぐはる  (2005年生、72歳、SF小説家)
 加納栄瞬かのう えいしゅん  (2006年生、71歳、推理小説家)
 古谷志道ふるや しどう  (2027年生、50歳、哲学者)
 支倉梶木はぜくら かじき  (2036年生、41歳、オカルトライター)
 来坐奈津流こざ なつる (2037年生、40歳、SF小説家)
 白川連歌しらかわ れんが  (2048年生、29歳、芸術家)
 十二所じゅうにしょじあみ(2050年生、27歳、SF小説家)

 20代のふたりが女性で、ほか五人は男性だ。彼らは長崎県壱岐島にある木島館でともに生活をし、仕事をしている。三浦嗣治と加納栄瞬が木島館に移り住んでからは15年が経っている。ほかのメンバーが木島館で生活を始めた時期はそれぞれ違うが、来坐奈津流と支倉梶木が前後している以外は、生年順に木島館やってきたことになる。
 焚き火会は、月に一度ほどの頻度で不定期に行われ、生活リズムの異なる七人全員が集まって話す、数少ない機会でもある。酒やたばこを嗜みながら、互いの仕事や関心領域にについて談話をすることが多い。特に取り決めたわけでもなく、会を重ねるうちに、一人ずつ順に語り聞かせをする形式が自然に定着した。話の内容に縛りはなく、実話でも創作でも演説でもその場では受け入れられた。
 この日も順に語り聞かせを行うことになった。
 焚き火と波の音を背景に、まず最初に三浦嗣治が語り始めた。
「村上さんの葬儀にでたときの話なんだけどね、ひとつ不思議な出来事があったんだ。葬儀の最中に、村上さんの遺体が一時的に行方不明になってしまったんだよ。2039年の出来事だけど、あの年は一月に萩尾望都さんが亡くなって、それから大塚英志さん、村上春樹さんと僕にとって偉大な先人が相次いで亡くなった年だった。
 村上さんの葬儀は作家仲間たちがけっこう集まってね、音楽の一切かからない静かな式だったよ。僕は焼香を済ませると、すこし居心地の悪い思いで会場の隅にいた。当時は僕もまだ30代、まわりは僕よりずっとベテランの作家さんばかりで、ようやく同期デビューの友人を見つけてホッとしたのをよく覚えてる。彼と近況を話していると、にわかに会場にいた数人がざわつき始めたのに気がついた。何かあったのかと思って、そのうちの一人に話しかけて事情を聞いてみた。そしたら焼香台の前にあった棺のなかから、村上さんの遺体がいつのまにか消えてしまったという。僕もそっと棺の小窓を開けて確認してみたけど、確かに焼香の際はそのなかに寝ていた遺体が消えている。事情を共有した者のみで話し合い、騒ぎを大きくするのもよくないということになったので、僕たちだけで遺体を探し始めたけど、どこにも見つからない。そのとき会場の電話が鳴った。電話の一番近くにいたのは僕で、会場のスタッフは遺体捜しでまわりに一人もいなかった。僕はすこし迷って電話に出た。もしもし、と僕が言うと、電話の向こうからこんな言葉が流れてきた。子どもの声だった。
〈しかしそういえば、思い出しましたが、サリン事件の一週間くらい前に、桜田門の入り口、丸ノ内線から日比谷線に行く通路に不審なかばんが置かれている事件があったんですが、私はそれも目撃しているんです。通路を通行止めにして、消防隊員がこうやってホースを持って、警官と駅員がそれを遠巻きにしているところです。そのかばんもちゃんと見ています。それは朝の八時半くらいのことでした。
 でもそのときも、とくに気にはしませんでしたね。今になって思えば、もしあれが本当に爆弾で実際に爆発していたら、あそこにいた人はみんなやられていたと思うんです。被害を受けていたと思う。放水したって爆発が防げるわけでもなし。でも危ないから避難しろと言われても、そのときはみんな半信半疑だったです。差し迫った危機感がないと、いろんなことって見過ごしてしまうものなのですね。〉
 そのときは気づかなかったけれど、それは村上さんの『アンダーグラウンド』に収録されたインタビューの一節だった。言葉が止まったところで、僕は、君は誰ですか? と訊ねた。電話の子どもは、〈紙に電話番号と、いま読んだのが書いてあって、電話して伝えてほしいって書いてあったから、読みました〉と言う。要領を得ないので、今度は、君はどこから電話をかけているんですか、と訊ねた。〈火葬場〉と声は答えた。次に何かを訊ねる前に電話は切れた。
 僕は電話の内容をスタッフに話した。それから、もしかしてと思い、村上さんが移送される手筈の火葬場に連絡してもらった。すると火葬場のほうに村上さんの遺体はすでに到着していた、という話だった。棺は、葬儀場とまったく同じもので運ばれてきていたらしい。いつ誰が葬儀場から火葬場に村上さんを運んだのかは、結局わからずじまいだった。ともあれ遺体の消失は解決したわけで、大きな騒ぎにはならずに、その後の予定を早めて火葬を行うことになった。電話の子どもが誰だったのか、それもよくわからないままだった。そして、僕の体験した不思議な出来事の話は、これでおしまい」
 嗣治の語りが終わると、支倉梶木が「三浦さん、それはさすがに盛っているでしょう」と茶化すように言った。
「そんなことないよ。本当にあったことだよ」
「だってそんな事件があったなら、話題になりそうだし、誰かが文章のネタにしていそうなものだけど、俺はその話見たことも聞いたこともないですよ」
「葬儀に来ていた人でもこの事件を知っている人は少ないからね。それにこんな文章を雑誌に書いたってさ、つまり誰も信じてくれないと思うよ。だから僕も書いたことがないし、今まで人に話したこともなかった」
 嗣治の話を聞いた各人の反応は、梶木以外はおおむね本当のこととして受け止めている様子だった。加納栄瞬は、嗣治に対していくつかの質問を重ね、あり得そうな事件の真相について想像を膨らませていた。栄瞬に次いで質問を浴びせたのは白川連歌で、彼女はとくに電話の子どものことを嗣治に訊ねた。
 村上春樹の葬儀の話題が落ち着くと、「次は俺が話しますよ」と言って梶木がみなを見まわした。
 長い吐息で煙草の煙を吐きながら、栄瞬が「どうせまた次の本の構想なんだろう。今度こそ売れる本のアイデアが思いついた、って」と言った。
「真面目に聞いてください。今度のは本気の力作です。確信がありますよ、これは売れる、って」
「売れたら20年ぶりのベストセラーか」
「いや、正確には17年ぶりです」
 二人の会話を眺めながらバルヴェニーを瓶のままストレートで飲んでいた古谷志道が「とりあえず聞いてみようか!」と梶木に話を促した。
 梶木はよほど自分の話に自信があるのか「どんなに面白くても、みなさん自分の作品で俺のアイデアを盗まないでくださいよ」と冗談めいた口調で言ったが、彼以外の者は反応を返さず、ただ静かに彼の話が始まるのを待っていた。
 わざとらしく咳払いをして、梶木は話し始めた。
「いま栄瞬さんが言った通り、俺の著作は2050年の『古代火子計算機文明』から鳴かず飛ばずです。あれはオカルティックロマンと火子計算機の最初のブームに乗っかれたこともあって、50万部売れた。でもその後はどんどん部数が減少した。カルト宗教、陰謀論、地震兵器、ムー大陸、どれを書いても今じゃ1万部もいけば御の字って感じです。オカルトライターとしては完全に伸び悩んでいる。でもこの時代にオカルトライターとしてやれる仕事はあるはずだと俺は常々思っています。
 21世紀後半に始まったオカルティックロマンのブームのおかげで、半世紀前では考えられなかったほどオカルトは市民権を得ている。一般の人でも神智学という言葉を一度は聞いたことがあるほどです。もちろんそれは本来の神智学の体系を知っているのとはまったく意味が違いますけれどね。
 俺はいまもう一度、火子計算機についての本を書こうと思っています。俺の仕事の原点はやはりそこにある。次の本は、ずばり『火子計算機と惑星記憶』という仮題を考えています。
 火子計算機についてここにいる皆さんに解説を加えるのも野暮ですが、まだ理論的に存在すると考えられている技術に過ぎない、ある意味では空想科学ともいえるこの未知の計算機について、その本でどのように輪郭を与えるのかは少しだけ説明します。
 現代科学の主流な考えでは、従来の古典計算機や量子計算機といったものを、情報の演算を行う情報計算機として定義しなおしたのに対して、火子計算機とは、記憶の演算を行う記憶計算機である、と理論上は定義されていますね。
 記録には二つの類型、すなわち情報と記憶があるという論文を、2044年にガストラ・キング博士が発表したことで〈記憶を扱う計算機〉モデルの研究が始まった。情報と記憶のもっとも根源的な差異は、可逆的な参照か、不可逆的な参照かということです。
 情報は何度参照を繰り返しても、必ず保存した状態の情報を読みだすことができる。他方で記憶とは、参照されるたびに保存した状態が損なわれ、元とは別の形で読みだされてしまう。人の記憶がそうであるようにです。そして情報計算機は記憶を扱えないため、情報計算機によって稼働する人工知能は記憶という概念をもつことができない。人間の意識を再現するには、情報計算機と記憶計算機の双方を組み合わせなければいけないのではないかとも言われています。
 いまのところは火子計算機の開発に成功したという報告は世界中のどこからもない。だからこそオカルト的想像力との相性が良い。そこにはロマンがある。俺の『古代火子計算機文明』は、インドのカンベイ海底遺跡から発見された、約一万年の間消えずに残っている燃焼痕や、アトランティス大陸の伝説から、実は古代文明ではすでに火子計算機に相当する技術が利用されていたのではないかという仮説を書いたわけですが、次の『火子計算機と惑星記憶』ではそのスケールをさらに拡大して、宇宙の話をしようという目論見です。
 人新世という概念が生まれて半世紀以上が経って、地球環境についての知見はおおいに深まりましたが、しかし宇宙の、惑星の環境調査についてはまだまだ始まったばかりです。だからそこには人の想像力を掻き立てる未知がある。
 未知とは、知ることができないがゆえに、逆説的に人が信じることができるものです。それはある種の危険をはらみつつも、人びとの生にとって必要不可欠でもあります。……という話は、それこそオカルティックロマンの著作をいくつも書かれている皆さんに言うのは釈迦に説法ですが。
 古代文明において利用されていた火子計算機の技術を、俺は降霊術と占星術の二つではないかと考えています。降霊術は、いわば死んだ人の記憶を読み取り、それを再現する技術。占星術は、人ではなく星の記憶、つまり物質の記憶を読み取り、世界の大きな流れを人の手の中に再現する技術と考えられます」
 そこで他のメンバーから横槍が入った。
 まず嗣治が「物質の記憶というものはまだ証明されていないわけだけど、それは本当にあるのだろうか?」と梶木に質問した。
「三浦先生がそれを言うんですか? 小説内で書いてらしたじゃないですか」
「あれは小説」と嗣治が答える。
 ほかの者も五月雨式に会話に混ざってくる。
「俺は現実にはないんじゃないかと思うよ」
「私はある派だよ」
「現実が面白くなるなら、あってほしいですね」
「そーだよ、おもしろいほーがいーよ!」
 静聴していた観客たちが騒ぎ出したことで、梶木は慌てて両手を振って「その話に深入りしたら、俺の話がいつまでも進まないので、まあまずは聞いてください!」と声を大きくして主張した。
 みながふたたび傾聴の姿勢にもどった。火が爆ぜる音だけが彼らの中心で響いている。
「俺が考えている構想はですね」と梶木は再び話を始めた。「生物の記憶、物質の記憶、その双方を読み取り、演算というかたちで干渉することができるようになれば、人類が認知することのできる世界が想像を超えるほどにおおきくなるのではないかというものです。カンベイ文明やアトランティス文明を生きた人間は、その世界に指がかかっていたかもしれない。しかし彼らは滅んでしまった。われわれいまの人類文明は、もう一度彼らが歩んだ道をたどり直している。火子計算機、オカルティックロマン、太陽系惑星の調査、これらが同時代に動き出したことの真の意味を、俺は次の著作で書いて人びとに伝えるつもりです。時代の求めるものを書くからこそ、人びとの心を動かす本が書ける。俺の一貫した信念です。次はかならず売れる本を書きますよ」
 梶木はそこで話を終えた。
「いーと思う! おもしろかった」
 ぱちぱちと拍手をしながら、哲学者である古谷志道が声をあげた。
「話を聞いていて思ったのが、それは神智学のアップデートである、ということだね。降霊術と占星術はともに神智学における重要な要素だ。それを現代の科学の想像力の射程、つまり火子計算機と惑星調査というふたつの軸で更新しようというわけだろう? ちがう? あってるよね?」
「そうですそうです!」と梶木が答える。「伝わってよかった。話していない部分まで読み取ってもらえるとよろこばしいですね」
 志道はバルヴェニーを口に運びながら「でもまあ、言い足したいこともあるけどね」とぼそりと呟いた後、「つぎ、ワシが話してもいい?」と、こんどは逆に大声で言った。
 異論は誰からも出ず、こんどは志道が話す番となった。
「それじゃあ話そうか! 降霊術と占星術のふたつを、記憶演算の観点からとらえ直すというのはおもしろいアイデアだ。ただ忘れてはいけないのは、火子計算機という技術の実現にはふたつのおおきなハードルがあるってことだ」
 志道はバルヴェニーの瓶を持った右手の指を、ひとつ立てた。
「ひとつは、記憶演算をおこなうための演算回路の開発。そしてもうひとつは」彼は右手の指をもう一本立てた。「記憶を保存するための蓄積素子だな。古典計算機なら半導体素子、量子計算機なら超電導素子とかになるわけだけど、火子計算機の場合はそもそも火子自体が理論的物質だから、蓄積素子のことも単に火子と呼ばれている。このふたつが揃わなければ、火子計算機は実現できないとされているし、いまんとこはどっちも人類にとってはまさに未知なわけだ。梶木くんのいまの話を聞いた感じだと、そこんとこまだ詰めきるアイデアは出てないんじゃないの? ん? どう?」
「……突破口はかならず見つけますよ」
「要はまだなんだろう? むずかしいからね。それ。ワシも記憶の演算回路についてはぜんぜんわからない。そもそも専門外だしな! はは! でもね」
 立てた二本の指をたたみ、またバルヴェニーを一口あおると、彼は目を細めて瓶の先を梶木に向けた。
「火子については、ワシは最近思いついたことがあるんだよ。今日はそれを少し話そうと思う。梶木くんは執筆の参考にするといいと思うよ」
 上機嫌で語る志道に、嗣治が「火子にしても、古谷さんの専門の記号哲学とは離れてるんじゃない?」と訊ねる。
「や、実はそうでもなくてね」
 志道はそう言うと、バルヴェニーの瓶の底で足下の地面に文字を書いた。
「連歌くん、さて、これは何かな?」
「〈あ〉だよ」
 白川連歌の端的な回答に志道は満足して「だね。じゃあ、こうしたらどう?」と言いながら、地面に書かれた〈あ〉をふたつに断ち切るように、まっすぐ斜めの線を引いた。
「連歌くん、これは?」
「読めないよ。そんな文字ないもん」
「だね。記号というのはこんな風に、あるかたちを成すことで、ひとつの情報を保管する蓄積素子だ。古典計算機は、半導体素子がもつ〈1〉という情報の有無を読む。〈1〉がなければ〈0〉。この〈あ〉も同じと考えてみよう。〈あ〉のかたちが成り立っていなければそれは〈0〉だ。文字という記号を単純化すると、これもまたひとつのデジタルな蓄積素子ととらえることができる。――とはいってもね、これは記号を極端に単純化しているからね、実際には、例えば」
 彼は再び、バルヴェニーに口をつけてから、瓶の底で文字を書いた。
「〈火〉。この蓄積素子から読み出せる情報は一意ではない。〈ひ〉〈か〉というふたつの音がひとつの蓄積素子に保管されている。記号がもつかたちと意味は、一対一対応ではないし、その対応関係はつねに恣意的に決定されているわけだ。だから記号と半導体素子とはぜんぜん違う。まったくべつの性質をもった蓄積素子なんだよ。つまり古典計算機の蓄積素子として、記号はとても不向きだ。だけど、じゃあ、火子計算機の蓄積素子、火子としてなら、記号素子はどうだろうか? はい、どう思う、じあみくん?」
 突然話を振られた十二所じあみは、しかし落ち着いて「記憶の不可逆性と、記号素子の恣意性とに関係があるとしたら、記号素子は記憶を保管する蓄積素子、つまり火子として利用可能かもしれない、という話じゃないですか?」と即答した。
「そうだ」
 彼女の回答に、志道は満足げにうなずいた。
「記憶の不可逆性、参照のたびに内容が変わることと、記号素子の恣意性、複数の意味から文脈によって読まれる内容が変わることはつながっていると、ワシは考えている。ふたつの性質をつなぐもの、それは再帰性だ。
 再帰性という日本語は、物理学と言語学では意味がちがう。物理学ではRecurrence、言語学ではRecursivity。ふたつの用語に再帰性以外の日本語をあてると、前者は回帰性となり、後者は自己参照性となる。で、いまワシが問題にしているのは後者、自己参照性、言語学的な再帰性だ。
 われわれが記憶を想起するとき、まず元の記憶を想起し、さらにその記憶自体が現在のわれわれの状況や精神に応じてかたちを変えてしまう。大人になってから子ども時代の記憶を呼び起こすと、どうしても現在のじぶんの身体感覚や価値観で記憶を再定義してしまうだろう? そしてまた〈火〉という文字記号をわれわれが読むとき、まずその形を文字として認識し、さらにその文字自体が文脈を呼び寄せてみずからを一意の意味に確定する。〈火〉の隣に〈炎〉とあれば〈か〉と読み、〈炎〉ではなく〈柱〉とあれば〈ひ〉と読む。〈火〉という文字自身がどういう状況に置かれているかで読み方は変わってくる。
 記憶と記号。どちらも再帰的な処理を、人は無意識に行っているんだよ。だからワシとしては、火子というものが実現するとしたら、それは記号学の研究の延長にあるんじゃないかと考えている。工学だけでは火子計算機はつくれないと思うよ。工学と人文知の融合が必要なんだな」
 早口にそこまでを話すと、志道はさきほどまでより長く深く、バルヴェニーを喉に流し込んだ。
「っはー。……で、ワシの話はどうだった、梶木くん?」
「いや、とても面白くて、参考になりました……」梶木は感嘆のこもった声で言った。「火子は文字であるかもしれない、なんて俺ひとりではとても思いつかない話ですよ。本当に、大変参考になりました」
「僕も興味深かったですよ志道さん」
 と嗣治が言った。
「僕は、おそらく火子計算機について論文や、火子計算機を扱ったフィクションは国内外だいたい読めていると思っていますけど、いまの話は初耳です。いまのアイデアは、なにか本としてまとめる予定はあるんですか?」
「いちおうね、考えてはいる。以前に書いた『人間記号論』につづく記号論三部作の二冊目として、『火子記号論』という本を書くつもりだよ」
「三部作なら、三冊目の構想もあるんだ?」
 連歌が志道に訊ねた。
「うん。三冊目はタイトルだけ決まってる。『恩寵記号論』という本を書きたいんだ。シモーヌ・ヴェイユの〈恩寵〉っていう鍵概念があるでしょ。あれについて書こうと思ってるよ」
「たしか博論はヴェイユでしたよね」と嗣治。
「そう。ワシは昔からヴェイユが好きだったけど、なかなか手ごわい研究になってしまって、この歳までまったくヴェイユ論の本が出せていない。だがようやく筋道が見えてきた感じがするんだよ。
 学生時代に『重力と恩寵』を読んでワシなりに感じたことは、これは自然、物質世界、そこに縛られた人間の生をいかに解放するかということについての思考だった。その解放を、ヴェイユは神からの恩寵だと書いたわけだけど、まあこの時代に神を頼りにその方向を目指すこともできないから、別のアプローチを模索していて、情報と記憶という非物質の概念を使えばいけるかもしれないとこの頃は感じていてね。ずっと考えてはいたことだけど、木島館で仕事していくなかで少しずつかたちが見えてきた。この記号三部作が、ワシの人生の主著になるはずだよ」
 志道が話し終えると、場は少しの間静まり返った。
 栄瞬が煙草に火を点け、深く吸った煙を吐き出した。
「志道くんは志が高いね」
 栄瞬の言葉に、志道が笑った。
「加納さんの方が高いでしょ。三浦さんとふたりでオカルティックロマンの礎を築いた人なんだから」
「思いついたおもしろいホラ話を書いていたら、結果としてそうなっただけだよ。別に俺に志があったわけじゃない」
 彼の口調は水平線のようにフラットな響きを帯びていた。梶木のような気負いも、志道のような野心も、栄瞬は持ち合わせていなかった。
「つぎ、加納くん話してみないか? いま頭のなかにあるホラ話を聞いてみたいね」
 嗣治の言葉に、栄瞬は「かまわないよ」と答えた。
「今日は妙に火にまつわる話が多いから、俺もそれに合わせてみよう。そうだな……はじめて人が火を手に入れた話とか」
「神話かい?」と嗣治。
「神話をもとにしたホラ話だ。タイトルは……『人類史事件』としよう。
 物語の舞台ははるかな遠未来の移民船。もう移民できる惑星が見つかる希望はゼロといっていい。そこで生きる人びとは、自分たちが人類史の終点にいることを理解し、絶望していて、集団として生き延びようと言う活力をもはや失っている。
 あるとき移民船のなかで殺人が起こる。しかしそれにほとんどの者が関心をもたない。いまさら誰かが殺されたところで、どのみち滅ぶに違いない、という諦念が彼らを支配している。移民船には法律も裁判もあるが、けっきょくその殺人は事件として扱われなかった。
 物語の主人公たちは、その殺人行為を見て見ぬふりができなかった三人だ。シオキという少年、シヤという少女、そしてフンバという両性具有の若者の三人は、船内で起きた殺人について調べ始める。ところがすぐに思いがけない事実を知る。彼ら三人は、自分たちが追っている殺人の少し前にも、同じように人が殺されていた事実に気づく。その殺人も事件化されていなかった。その発見がつづく。ひとつ前の殺人、ふたつ前の殺人、みっつ前の殺人、よっつ前の殺人……深く調べなくても簡単にその事実は発見される。それらの出来事は互いに無関係ではなく、連続性を示す事実がある。しかしそのはじまりの出来事は謎なんだ。気づけば彼らは、自分たちが生まれる前の出来事までさかのぼって推理していき、その遡行は止まらずに、延々と連鎖していき、地球に人が住んでいた時代までいきついてしまう。
 そして人類の神話の時代に至って、彼らはついにはじまりを知ることになる。
 それは火にまつわる神話のなかで語られていた。
 最初の殺人は、火を盗んだ人間によるものだと彼らは推理する。
 なぜ彼らがそう言えるのか。それは、火を手に入れるという出来事が、人類史における最初の〈事件〉だからだ。
 シオキ、シヤ、フンバは地球の歴史を遡行していくなかで、20世紀前半に書かれたJ・G・フレイザー『火の起源の神話』を発見する。この本は、フレイザーが蒐集した、世界各地の火の起源の神話を紹介した著作だ。そのなかで彼は、火を扱う以前の時代についての言い伝えが、現実の出来事を記録しているとは思えない荒唐無稽な内容になっていると書いている。
 それはすなわち神話だ。そしてフレイザーはこう考えた。人が物語というかたちで出来事の伝承をはじめたのは、火を手に入れた後なのではないか、と。彼はその時代の人びとのことを〈考えることを始めた初期の人びと〉と呼んでいる。
 三人は、その人びとを〈記憶することを始めた初期の人びと〉と読み替えて考えた。なぜなら〈事件〉とは、人びとが記憶するべきだと判断した出来事を指すからだ。単なる出来事を人は〈事件〉とは呼ばない。記憶しない人びとの時代には、自分たちの起源を知るための神話も必要とされない。火が、考える力、記憶する力を人びとにもたらした。だから火の獲得以前の人類史には、移民船で起きた連続殺人の起点はないと三人は推理する。彼らが追っている謎は、〈事件〉として記憶されるべき連続殺人のはじまりであって、〈事件〉という概念自体がない時代まで遡行する必要はない。彼らはそう考えた。
 彼らはこの、人類史の最初から最後まで続く連続殺人の犯人を、リララフンバと呼んだ。その名は、南東アフリカ種族のトンガに伝わる神話において、最初の人類の祖先とされている。その意味は〈光る燃えかすを貝殻に入れてもって来た者〉。つまりトンガに火をもたらした人間ということだ。けれどリララフンバがどこから、どうやって火を手に入れたのかはわからない。
 三人は、リララフンバが火を手に入れた事実は神話のなかで語られている一方で、火を手に入れた方法は語られていないことに気づき、そこにこそ、人類史に記憶されなかった連続殺人事件のはじまりがあったことを理解する。
〈リララフンバ人類史事件〉。
 彼らはこの長い長い連続殺人事件をそう名付けて記憶した。
 人類史最後の謎は解けた。だが彼らは、奇妙な偶然には気がつかなかった。
 リララフンバには元となった可能性の高い物語が存在する。それはアフリカのフレングウェ一族に伝わっている。火をもたないその一族は、火をもつ別の一族から火を盗み出し、それによって戦争に勝利する。そのとき火を盗み出した人間の名前が、〈貝殻に入れて火をもたらす者〉を意味するシオキ・シヤ・フンバだった。
 移民船の運命は、謎が解けたところで何も変わらない。ただ人類は滅んでいくだけだ。だが、人類は滅ぶ直前に、人類史と同等の長さをもった連続殺人を事件として記憶することができた。シオキ、シヤ、フンバの三人はその記憶を胸に秘めた最初の人類として、移民船とともに滅びへと向かった。
 ――そんな小説を次は書こうかと思うよ」
 栄瞬は話を終えると、新しい煙草を取り出して火を点けた。
「栄瞬さん、もしかしていまの話、即興なんですか?」
 十二所じあみの質問に、栄瞬は煙を吐き出しながら「そうだよ」と答えた。
「よくこんなにすらすらと淀みなく語れますね。あと他の人の話もちょいちょい踏まえて作っていますよね? 火と記憶の話とか、あれも今まで暖めておいたアイデアじゃなくて、話しながら考えたってことですか?」
「そうだよ」
 栄瞬は無表情に短く答える。
 じあみ以外のメンバーも口々に感想を言い始める。栄瞬はそのひとつひとつに対して、物語の詳細を聞かれれば即興で細部について説明し、同意が必要な質問には短く端的に「そうだよ」と答えた。
 ひとしきり栄瞬の話題が落ち着いた後で、嗣治は「今日はあと三人か」と言って、残りの三人を見やった。まだ語り手がまわってきていないのは、白川連歌、十二所じあみ、来坐奈津流の三人だった。
 そのうちのひとりが挙手をした。
「アタシから話していい?」
 手を挙げたのは、芸術家の白川連歌だ。他のメンバーに異論がなさそうなことを確認すると、彼女は長い髪を手で流しながら、「実は、今日は大発表の準備があります」と言った。
「連歌さんのいつものパターンだ」
 梶木の軽口に、連歌は視線だけ向けて流してから、「みんな驚くといいよ。アタシはなんと――火子計算機をついに完成させたよ!」と高らかに宣言した。
 場が騒然とする。
「ええ!?」「本当かい、連歌くん?」「驚いたな」「はは! おもしろそうじゃないか!」「そんないきなり完成するものなんですか?」
「まーまー、みなさんお静かに」掲げた両手をひらひらと動かして連歌は場を整えた後、「まー、嘘なんだけどね」と言ってウインクをした。
 彼女の発言に、梶木が肩を落とし、志道が一瞬真顔になってから破顔した。
「じゃあ、本当はなにを作ったの?」
 と栄瞬が驚いた様子もなく訊ねた。
「なにもネタがなかったら、君はそんなこと言わないだろ」
「さすが栄瞬さん。鋭い」
 連歌は栄瞬を見てほほえむ。
「アタシが作ったのは、火子計算機の完成機ではなくて、《火子計算機レプリカ》です」
「レプリカ?」梶木が怪訝な声を上げた。「まだ世界のどこにも実機がない火子計算機のレプリカなんて、どうして作れるんですか?」
「実機がないのにレプリカがあるっていうのは、別に変なことじゃないでしょ。製造品の完成機の前にはプロトタイプがあって、その前にはデータモデルや模型だってあるじゃない。でもアタシの作品はプロトタイプと呼べるほどの機能は実装できていないから、よくてレプリカってこと。火子はどうしても実装が難しいよ。理論的なアイデアはあるけど、それをどう実装したものかと悩んでいるとこさ」
「その口ぶりだと、火子計算機のふたつのハードルのうち、火子ではなく、記憶の演算回路については実装できた、という風に聞こえるな」
 栄瞬の言葉に、彼女は「またまた鋭い」と答えた。
「栄瞬さんの言う通り。アタシの今回の作品、《火子計算機レプリカ》には、記憶演算回路が実装されている。これは世界初の快挙のはずだよ」
「だとしたら、こんどこそすごい話だ!」
 バルヴェニー片手に、志道が声を上げた。
「デジタルアートやポストインターネットの潮流にいる芸術家として、記憶の演算機なんていうワクワクするガジェットがあるならそれを使ってみたいと思うし、なければ自分でつくるしかないからね。頑張ってみたよ、アタシは」
「連歌くんの最高傑作は、《簡易移動式原子力発電所》シリーズだと思っていたけれど、最高傑作は更新されることになりそうだね」と嗣治。
「で、その《火子計算機レプリカ》はどこにあるんですか? 記憶の演算のデモンストレーションはできるんですか?」
 梶木が連歌に訊ねるが、彼女は「いまここにはないよ」と言った。
「お披露目は明日します。明日の、午前中は起きてこない人もいそうだから、午後になるかな」
「明日の午後は、島の図書館で講義の予定があるから、それが終わったあとでもいいかな」
「三浦さんは図書館でお仕事か。それじゃあ、明日の夜、アタシの《火子計算機レプリカ》のお披露目会としよう!」
 連歌の言葉に、他のみなが頷いた。
 残るふたりの語り手は十二所じあみと来坐奈津流だけとなった。
 じあみが奈津流の顔をうかがうと、彼は「先に話してくれないか。僕は最後がいい」と言った。
「いいですよ。最後は奈津流さんお願いしますね」
 じあみはそう言い、姿勢を正して語り始めた。
「今日は何を話そうかぜんぜん考えていなくて、みなさんの話を聞きながら頭に浮かんだ話をしようと思います。私の父の話です。父は北海道で生まれて育った人で、司書をしていました。父の務める北海道立図書館は、道内に百以上ある図書館のなかでも最大級の規模があって、百万を超える蔵書をもっています。父は利用者からのレファレンスのために調べものをするのが好きな人でした。誰かが知りたいことを代わりに調べることがライフワークのように感じていたのかもしれません。そんな父は、私が10歳のときに発狂しました。原因は、利用者からのあるレファレンスでした。それがどういう内容の調査依頼だったのか、誰がそれを依頼したのか、なぜか記録が残っておらず、それを知っているのは職員でも父だけだったらしいです。もしかしたらそのレファレンスが原因なのではなく、それ自体が気が狂い始めていた父が自分で作り上げた架空の依頼だったのかもしれないです。
 父はその詳細不明のレファレンスに回答するために、図書館内の書籍にぜんぶ目を通したと語っていました。おかしな話ですよね。百万の蔵書に目を通したというのも信じがたいですが、それよりも、たったひとつのレファレンスの調査で、図書館の蔵書を網羅的に調べる必要なんてふつうはありえないですよ。
 父は徐々に日本語が喋れなくなっていき、職場でも家庭でも筆談をすることが多くなりました。そして筆談の日本語も日を追うごとに壊れていき、父は他人と言葉でコミュニケーションをとることができなくなりました。
 結局、父が調べていたことがなんだったのかは誰も知らないのですが、父はいまもそのリファレンスの回答を作っているようです。実家に帰るたびに、父の机には手記が増えていました。中身を見せてもらったことがありますが、日本語にある文字と記号が並んでいるのに、それはまったく意味も文脈もくみ取れない文章でした。文章と言っていいのかもわかりません。私は実家に帰るとその手記を読むのが好きで、父から借りては読めない文章を眺めていました。なにかの暗号の可能性を考えても見ましたが、いまのところはそのアプローチも芳しくないです。でも私はなぜか、父の壊れた手記が好き、というか面白いと思ってしまうんですよ。何度も読み返すうちに、暗記してる部分もあります。例えばこんな文章です。
〈上ふやね↓ろ神レ穴さはらえ戸三悠全え度ごの→▽と図が急宇人隅馬あ根め×ご×↓す、ご火残字。〉
 ……朗読でも、まったく意味が通ってないおかしな文章ということは伝わると思います。こんな感じの文章がびっしり書かれたノートが十数冊あるんですけど、父はまだあのレファレンスの回答を書き切れていないみたいです。言葉でコミュニケーションがとれないこと、奇妙な手記を書いていること、それ以外におかしなところはないので、介護とかも必要なくて、図書館は退職しちゃいましたけど、母とふたりで今も実家で暮らしています。私にとっては、今も優しい父のままです。父の手記も、いつか読めるようになりたいですけど、なかなか難しいですね。父が読めない手記を書くことをライフワークにしているとするなら、私は父の手記を読むことが人生のひとつの目標という感じです。
 ちなみに、父とのコミュニケーションで一番楽しいのは家族で食事をするときなんです。父は食事中、表情豊かで、話すことは壊れた日本語ですけど、表情や仕草でだいたい感情はわかるし、家族でごはんのおいしさを共有できるので。父と母はケーキが好きなので、実家に帰るときは、いつもケーキを三人分買っていくのが習慣になってしまいました。
 父の話は、これでおわりです」
 話を終えると、じあみは長い息を吐き出した。
「じあみはいい家族に恵まれたんだね」
 連歌が静かにつぶやいた。
 じあみは彼女の反応に少し驚いたが、すぐに「そうですね。そうだと思います」と笑って答えた。
「いい家族……」志道がううんと唸っている。「……まあ、いい家族と言えばいい家族なのか……」
「いい家族でしょ。親がいて、子どもがいて、一緒にごはんを食べる楽しさを共有してるんだから、いい家族以外のなにものでもないでしょ」
 連歌は力強くそう言った。
「アタシは両親もいないし、子どもを産めない身体だからさ、いいなあ、って素朴に思うよ」
 その言葉は、普段の連歌のまっすぐな声にくらべて、ゆっくりと波打つようにその場に流れた。
 栄瞬がじあみの父の手記を撮った写真があったら見せてほしいと言い、全員でじあみの携帯端末の写真データを回覧したが、その場の誰もが首をひねるばかりだった。
「それじゃあ、今日は奈津流くんで最後だね」
 嗣治が言うと、それまでほとんど話題に口をはさむことのなかった奈津流が「そうですね。では」と言った。
 奈津流は軽く目を閉じた。
「いま家族の話が出て嗣治さんの作品を思い出しました。初期の作品に『水瀬市はいつまでも賑やか』があったじゃないですか。物語の主軸は、街の少年少女たちが土地の呪いからいかに脱出するかというものだけど、そもそもの物語の発端は呪いじゃなくて、その土地で子どもが増え過ぎていたっていう地域問題ですよね。嗣治さんの仕事としても、オカルティックロマンの小説としても初期の作品でしたけど、『水瀬市』の子どもが増え過ぎる問題って、あまり主題としてはその後に引き継いでいないじゃないですか。でも僕はあの主題は嗣治さんの仕事においてけっこう重要だと思っているんですよ。自分事ですけど、僕は若い頃、あの小説に登場する子どもたちに自分を重ねて読んでいました。僕と同じように感じていた読者は当時たくさんいたと思いますよ。
 あの子どもたちは、最終的には水瀬市の街を破壊していろんな土地に散らばっていく。水瀬市が消滅しても、子どもたちが生きていく限り、それらの土地は水瀬市とつながりを持ち続けるだろうという未来を示唆して物語は終わっている。小松左京の『日本沈没』で書こうとしていた、日本的ディアスポラのメタファーですよね。自分たちはいつか自分の家族の滅びを迎え、共同体を去って散り散りになっていく。
『水瀬市』の続編に『無史奇譚』がありますけど、あれは失敗作だと僕は思っています。嗣治さん自身が『水瀬市』の離散のテーマを誤読してしまっている。『無史奇譚』の主人公は、故郷がすでにこの地上にないことと、自分のアイデンティティやリアリティがゆらぐことを重ねて考えてしまっている。だけど本来あなたが書くべきだったのはそんなことじゃない。たとえ消滅した故郷だったとしても、『水瀬市』の呪いが終わっていないことを粘り強く書くべきだった。
 申し訳ないけれど、嗣治さんは子どもにとって親がどういう存在なのかがまったくわかっていない。なのに『水瀬市』を書いてしまったこと、書けてしまったことが問題なんです。結局、嗣治さんは自分が作り上げたオカルティックロマンが一体何だったのか理解できていない。それがあなたの不幸なんですよ。これが僕からあなたへの批判の核心です。
『水瀬市』も『無史奇譚』も、世間での評価は高いほうではないですが、僕が批判したいのはもちろんそういうことではない。あなたが『水瀬市』を書いたのは木島館以前でした。他方で『無史奇譚』を書いたのは木島館以降です。この壱岐島の自然を見て、空気や風に触れて、土地の生活に馴染んで、そうして書かれたのが『無史奇譚』です。でもあれは、とても悪い作品です。あなたは壱岐島の風景からインスピレーションを受けたのではなく、自分が既に持っていたはずの才能や直感を、壱岐島の風景で溶いて薄めてしまったんですよ。そのせいで自分でも、自分の仕事の輪郭がぼやけてしまった。作品のクオリティが落ちたとか、そういう話でもないんです。あなたは木島館以降にもすばらしい作品をいくつも書いている。それは確固たる事実です。あなたには技術と才能がある。ただほんのすこしの見落としが、見誤りが、あなたの子どもを裏切ったことが、オカルティックロマンの強度を弱めてしまった。僕はそれがとても悲しいんですよ。
 どうしてあなたは自分の人生から逃げたんですか。僕は、あなたには逃げないでいてほしかった。若い頃のあなたは、一点の曇りもない才能の塊だったはずだ。でもある時からあなたは自分の手で、自分の才能を曇らせた。認めてください。僕の小説のアイデアを、あなたが盗作したことを。
 じあみさんが木島館へ来る前年の、あの日の焚き火会で僕が語った話を、あなたは自分の作品に盗用した。他の奴もみんな同罪だ。悪びれることもなく、嗣治さんの盗作から影響を受けたアイデアを本にしていたのだから。
 僕は水瀬市にいたひとりの子どもだったはずなのに、僕はあなたの親にされてしまった。僕の人生は歪められ、自分の人生を言葉にできなくなった。僕はこの問題に決着をつけないと、もう二度と小説が書けなくなる。それは人生を生きていないのと同じです。
 明日があなたたちの最後だ。みんな死ぬ。そして木島館時代のオカルティックロマンが終わり、新しいオカルティックロマンを書く人間が後から現れるでしょう。作家たちが大量死した事件にいくつもの不可解な謎が残り、しかもそれが未解決のまま語り継がれていくとしたら、その事件が後世のオカルティックロマンの作家たちにおおきな影響を与えることは間違いない。そしてその事件は僕がつくるんです。あなたたちを殺すことによって」
 奈津流は頭のなかで思い描いていたこの話を語りはしなかった。閉じた目を開けて、それから「じあみさんの話と少し被りますけど」と言い、子ども時代に両親に理解されないことの辛さ、他人を理解することの困難さ、それらは小説を書くことの苦しみに似ている、そんな話を語った。
 嗣治への批判も、盗作のことも、彼らの殺害計画のことも、奈津流は一言も触れなかった。

   *

 同じ頃。
 木島館の屋根裏の窓から、焚き火会の明かりを眺める人物がいた。

   *

 太陽が東の空に浮かんでから、まだあまり時間が経っていない。
 三浦嗣治は壱岐島の海岸からの帰り道をひとり歩いていた。
 毎朝の散歩は彼の日課だ。空の色の微妙な変化、海沿いの潮の匂い、壱岐島の住人たちとの挨拶、島の地面を踏みしめる感覚、民家や農家が視界に立ち現れる風景のなかを歩きながら、頭の中では宇宙に隠されたオカルト的な暗号について想いを馳せている。
 嗣治は壱岐島に移住してから、土地や人の生活の微細な変化に対して敏感になったと感じていた。島に来る以前は、土地や生活の向こう側に透けて見える隠された世界の方にばかり関心が向いていたが、いまではその視点を抜きに、見える世界そのものを見て書く技術が自分に養われたことを実感している。
 木島館に近付くうちに、国道が森へと侵入する。そして国道沿いに細く開けた、未舗装の土の道に歩を進める。
 木島館は道路からは少し離れた立地に建てられている。嗣治を含めた木島館住人は、自動車を所有しておらず、車での移動が必要な場合にはタクシー会社に送迎を依頼していた。道路が続いていなくとも、車両を木島館の前までつけることは可能だが、彼らは大抵の場合、森の道を抜けて国道と合流する地点で、タクシーに乗降していた。
 木々に囲まれた細い道をしばらく歩くと、視界が開けた先に木島館の姿が見えてくる。
 黒い屋根に、白い壁の建築物だが、木島館は名前のイメージとは裏腹にログハウスだった。もともとはその場所には別の人間が別荘を建てる予定があったが、それが流れてしまったため浮いた土地になっていたところを、嗣治と栄瞬が買い付けた。もともと建つはずだった別荘がログハウスであることを知った二人は、それなら自分たちの住む家もログハウスに合わせようと軽い遊び心で決めた。
 土地は広々と残っていたので、せっかくだからと可能な限り大きな建物を立て、ログハウスらしさを感じさせる木目をわざわざ白と黒で塗り替えた。建物の名前は、加納栄瞬の作品に登場する同名の洋館になぞらえて命名した。
 木島館の中は二階建ての居住空間に、広い屋根裏部屋がある。私室は各階に4つずつあり、現在は一階に一室だけ空き部屋がある。トイレと浴槽は各階にそれぞれあり、一階にはキッチンと食堂、二階には図書室がある。各階の中央にはソファとテーブルを置いた談話室があり、室内に一階と二階を結ぶ階段がゆるいカーブを巻きながら伸びている。一階の談話室には暖炉もあった。
 嗣治が木島館へと近づいていくと、玄関の扉の前にじあみと梶木が立っているのが見えた。彼女たちのほうでもすぐに嗣治の姿に気がついたらしい。じあみが嗣治に向かって大きく手を振っている。
 散歩の帰宅時に出迎えられることなど今までなかった。時刻は午前七時半で、普段のふたりの生活リズムなら寝ていることがほとんどだ。
 何か突発的なことが起きたのかもしれない、と嗣治は思った。
「三浦先生!」梶木が叫んだ。「はやく帰ってきてくださいよ、心配しましたよ!」
「僕、この時間はいつも散歩に出ているじゃないか。心配されることじゃないでしょう。ふたりして出迎えなんて、なにかあったの?」
「とにかく入ってください。みんな待っています。なかで説明しますから……」
 梶木のあわてようは尋常ではなかった。梶木だけではない、じあみも大声を出さないだけで、その表情には興奮の色が見える。
 二人にひっぱられるように嗣治が木島館の玄関をくぐると、玄関正面にある談話室の扉が開いている。部屋のなかには、ソファに座っていつものように落ち着いた様子の栄瞬と、深刻そうに顎のあたりで手を組んでいる奈津流と、部屋のなかをぶつぶつ呟きながら落ち着きなく歩いている志道の三人の姿があった。
 梶木は「みんな待っています」と言っていたが、そこには白川連歌の姿だけがなかった。
「三浦先生が戻ってきました!」
 梶木が部屋の人間にそう告げた。
 部屋の三人が、談話室の入り口の前に立つ嗣治に一斉に視線を向けた。
「どうしたんだ一体」と嗣治が訊ねる。
「どうしたもこうしたもないですよ」と志道。
「嗣治さん。落ち着いて聞いてください。実は……」と奈津流。
「連歌さんが殺された」
 奈津流の言葉を継ぐように、栄瞬が静かに言った。
 嗣治はその言葉を咀嚼するのに数秒を要した。「殺された? 誰に? 何が起きたんだ」
「俺たちにも何がなにやらだよ」
 栄瞬が短くなった煙草を、灰皿に圧し潰して消した。
「ただ、お前は無事なようでよかった」
「連歌さんの死体が見つかって、それでみんなを起こしたら、嗣治さんだけどこにもいないから、まさか嗣治さんも……って……いつもの散歩の時間だから、大丈夫だろうとは思ったんですけど、でもあんなことが起きたら、万が一の想像だってしますから……」
 嗣治の隣に立つじあみが不安げに言う。
 嗣治は自分とまわりの感情の差を埋めるには、とにかく状況を正確に確認する必要があると感じた。
「連歌さんはどこで殺されたんだ?」
「二階の彼女の私室だ」栄瞬が答える。
「僕もその部屋を確認しよう。その方が、言葉で説明されるより早そうだ」
「そうだな。そうしよう」
 栄瞬はそう言ってソファから立ち上がると、「俺と嗣治と、あとじあみくんも来てくれるかな。君が第一発見者だからな」と言って、ふたりに目くばせをした。
「わかりました」とじあみが答える。
「二階までついて行きます」
 奈津流が栄瞬に言った。疲労を感じさせる重い声だった。
「あんな死体を見てしまって、神経がまいってしまったみたいで……部屋にもどってすこし休ませてください」
「そうするといい。志道くんと梶木くんも部屋に戻るか?」
 栄瞬が訊ねると、ふたりは談話室に残ると答えた。
 嗣治、栄瞬、じあみ、奈津流の四人は談話室から階段をのぼって二階に上がっていく。階段は一階談話室の真上にある二階談話室へつながっている。その部屋から廊下に出ると、談話室を囲む形でロの字形に廊下が伸びている。各人の私室は、ロの字廊下の四つの角の部分にあたる位置にある。
 談話室を出て廊下を左手に進んでいくと、奈津流の部屋、連歌の部屋、じあみの部屋、梶木の部屋、の順に通って元の場所に戻ってくる並びになっている。
 四人は連歌の部屋に向かって歩き、奈津流だけが最初に通る彼の私室に戻っていった。
 前を歩く栄瞬と嗣治に少し遅れてついていこうとするじあみに、「じあみさん」と背後から奈津流が声をかけた。彼女が足を止めて振り向くと、部屋の中から敷居越しにこちらを見つめる彼と目が合った。嗣治と栄瞬は奈津流の言葉に気づかなかったらしく、廊下を先へ進んでいく。
「あの日の夜に、まだ木島館へ来ていなかった君にだけは伝えておこうと思う。電話は三回かけたほうがいい」
「奈津流さん? なんのことですか?」
「君の運がよければ、この言葉が役に立つはずだ。悪ければ、他の人間と同じ末路だろう」
 じあみの質問を無視して、奈津流はそう一方的に言い部屋の扉を閉じてしまった。
 栄瞬と嗣治はいまの会話は聞こえなかったらしく、立ち止まったじあみを置いて歩いて行ってしまっている。じあみは慌てて早歩きで二人の後を追った。奈津流の言葉を頭の中で反芻してみたが、やはりよくわからなかった。
 三人は連歌の部屋の前にたどり着いて足を止めた。栄瞬が嗣治に言う。
「先に言っておくが、遺体の状況はそうとう酷いことになっているからな。一応、心しておけよ」
 嗣治がその言葉にうなずいたのを確認して、栄瞬は部屋の扉を開けた。
 嗣治は部屋のなかを見た。
 他の者の私室とおなじような調度品が並ぶなか、部屋の中央の木目の床に仰向けに転がった連歌の姿が目に入る。ホットパンツに白いシャツという、見慣れた彼女の私服だが、そのシャツには胸のあたりに大きな赤い染みが広がっている。ナイフが刺さっている。
「……ひどいな」と嗣治がうめく。
「だから言っただろ」
 一目見て、それはもう生きてはいないということが知れた。そんな姿だった。
 外傷はナイフだけではなかった。首が本来曲がるはずのない角度に折れており、両脚は骨が砕かれて歪んで伸びている。
「心臓にナイフ。首の骨は折られ、両脚の骨が粉砕されている。それから遠目だとわかりにくいが、両目が抉られている」
 栄瞬が、連歌の死体を見ながら冷静に言う。
「直接の死因は刺殺による出血死だろう。他の外傷は、死んだあとについたものだと思う。生きてる人間だと抵抗が大きくてここまで傷つけるのは大変だろうから、という推測に過ぎないが」
「……どうして、連歌くんが、こんな殺され方を……」
「さあ……わからない」
 嗣治は大きく息を吐いた。自分を落ち着かせるためだった。
「じあみくんが、最初に発見したんだよね?」
「はい……」
 二人の後ろから部屋に入っていたじあみが答える。
「今朝、確か六時過ぎに私が起きて廊下に出たら、ちょうど連歌さんも部屋から起きてきたところでそのとき少し話したんです。それで、私が何か簡単な朝食を作ろうと思ってたことを話したら、自分の分も作って欲しいと連歌さんに頼まれたんです。私はそのまま一階へ行って、連歌さんはトイレに行ってそれから部屋に戻ったみたいでした。その後、一階のキッチンでサンドイッチを作ってから、連歌さんを呼びに来たんですけど、ノックしても反応がなかったので、部屋に入ったら、そのときにはもう、この状態で……連歌さんが死んでいました」
 栄瞬とじあみの話によれば、彼女が死体を発見したのは、午前七時頃、ちょうど嗣治が散歩に出ていた間の出来事らしい。じあみは他の人間に声をかけていき状況を伝え、みながこの部屋の惨状を確認した後、嗣治の帰りを一階談話室で待っていたということだった。
「それで……連歌くんが殺されている以外に、この部屋は何か荒らされていたりしていなかったの?」
「はい、そうみたいです…………あ」
 じあみが何かに気が付いたように短く声を上げた。
「あれ、連歌さんの服、なにかおかしくないですか? シャツのボタンがひとつずれているような」
 じあみの言葉に、嗣治と栄瞬も、連歌の服に目を向けた。たしかに、シャツのボタンが、ひとつずつずれてとめられている。
「廊下で連歌さんと話したときは、ちゃんとしていたと思うんですけど……」
 じあみがいう。栄瞬は、無言で連歌のそばにかがんで、まじまじと見つめてから、そのシャツのボタンを外し始めた。
「……なんだこれは」
 シャツを開くと、彼女の下着と、おなかのあたりに刻まれた奇妙な文字のような傷が現れた。傷がついてからあまり時間が経っていないのか、血が流れている。数字のような、ひらがなのような奇妙な形をした文字だった。
「なんだこれは。連歌くんを殺した人間がつけたのか?」
「だろうな」
「……この文字、見覚えがありませんか?」
 じあみが言うと、栄瞬が「そうだろうな」と言った。
「俺も見覚えがある。まさかと思ったが、じあみくんがそう思うならたぶん間違いないな」
「どういうことだ?」
 嗣治が栄瞬に訊ねると、彼は立ち上がって嗣治とじあみを交互に見た。
「連歌くんの両目が抉られているのを見たときにピンときたんだが、この傷文字を見て確信がいった。この死体の損傷は、じあみくんの小説『夜明けの敵』の見立てになっている」
「あ!」じあみが驚いて声を上げた。「そうです! 私が書いた小説に出てくるものと同じなんだ……でも、どうして……」
「これはダイイングメッセージなんだ」
 栄瞬が言った。
「この傷文字が、か?」
「いや、それはメッセージの一部でしかない。これは七つ合わせてひとつのメッセージになっているんだ」
「どういうことですか?」
「ひとつずつ説明していくとすると」栄瞬は再び死体のそばにかがんで、まずおなかの傷を指した。「これは十二所じあみ『夜明けの敵』に出てくる架空の文字を模したものだ。それから、両目を抉られているのは三浦嗣治『空が二度割れる』の見立て、首が折られているのは加納栄瞬『首をそろえろ』……」
 栄瞬はひとつずつ、外傷を指しながら続けていく。
「心臓にナイフを突き立てているのは来坐奈津流『匕首男』、両脚の骨が砕かれているのは支倉梶木『母戸谷市連続粉砕事件を追う』。そしてたぶん、舌が切り取られているんじゃないか」
 栄瞬はそう言うと、連歌の口を手でこじあけた。彼の言葉通り、半分ほどに切断された舌が現れる。
「やっぱり。白川連歌の絵画スズメ地獄の見立てだ」
「何を言っているんだ栄瞬?」
 栄瞬の説明に、嗣治は困惑しながら訊ねた。隣に立つじあみも困惑の表情を浮かべている。
「つまり、連歌くんを殺した人間は、俺たちひとりひとりを示唆するメッセージを残している」
「今のお話だと、志道さんだけメッセージがないんじゃないですか?」
「古谷志道『人間記号論』の見立ては、このダイイングメッセージ自体だ。あの本のなかで、志道くんは時に人間が客体的な記号として扱われる事象について書いていて、そのなかでミステリのダイイングメッセージにも触れているからな」
「……なぜ犯人はこんなメッセージを作ったんでしょうか」
 じあみが言った。それは栄瞬への質問というより、独り言のような響きだった。
 嗣治には、目の前のメッセージが木島館の七人の作家全員を糾弾しているように思えてならなかった。誰が自分たちを糾弾しているのか? 連歌を殺した犯人なのか、あるいは殺された連歌自身なのか。
「犯人の意図はわからない」栄瞬はじあみの言葉に応えて言った。「俺は推理小説に出てくるような名探偵じゃないし、この事件の犯人でもないからな」

   *

 三人は連歌の部屋を出ると、一階談話室に戻ることにした。
「警察には通報したのか?」
 廊下を歩きながら、嗣治が栄瞬に訊ねた。
「したよ。壱岐島警察署に電話して、弘兼刑事と直接話をしたから、しばらくしたら駆けつけてくれるだろう」
 弘兼刑事というのは、栄瞬と親交のある刑事の名前だ。過去、栄瞬は小説の取材を目的に、弘兼刑事とコンタクトをとっている。もちろん職務上の機密については何も教えてくれないが、何度か話をしていくうちに、彼らはふたりで酒を飲みに行くくらいには仲良くなっていた。木島館のメンバーたちと計画し、弘兼刑事個人を嘘の情報で木島館に招き、彼の出世をサプライズで祝ったこともあった。
「弘兼刑事が来てくれるなら助かるな。ところで、警察はあのダイイングメッセージをどう読み取るだろうね……」
「警察はああいうメッセージを解釈することが仕事じゃないだろうから、無視するんじゃないのか? もっと実証的な捜査をするだろうさ」
 二人が話しながら歩いている背後で、じあみが天井を見上げて立ち止まっていた。後ろの足音が止まっていることに気づいて嗣治が振り向き、立ち止まったじあみに気が付く。
「じあみくん、どうした?」
「あ、すみません。先に戻っていてもらってもいいですか? ちょっと気になることができて……」
「いいけど、現場には一人でいかないようにね」
「はい」
 じあみが頷いたのを確認して、彼女を残して嗣治と栄瞬は廊下を進み、階段を降りて一階談話室へ戻っていった。
「…………」
 じあみは天井を見上げている。その向こうには、連歌がアトリエに使っていた屋根裏部屋がある。
 数か月ほど前のことだが、生前の連歌から、じあみはこんなことを聞かされていた。
〈もし万が一の出来事が起きて、私が木島館からいなくなったら、アトリエにじあみへの伝言を書いておくから、それを読んでみてくれるかな〉
 ふたりで深夜に酒を飲んでいるときの会話だった。そのときは深く気に留めていなかった言葉だったが、連歌が死んだ今では、彼女から聞いたその話がとても重要な意味を帯びているように感じざるを得ない。
 屋根裏に入るには、天井にとりつけられた縄梯子を降ろす必要があった。屋根裏の入り口のある近くの壁に、鉤のついた鉄製のポールが立てかけてある。それを使って、じあみは天井のフックにかけてある縄梯子を引き下ろした。屋根裏への入り口の戸は、軽く上に押してから引けば簡単に開くようになっていて、縄梯子にのぼって片手で戸を開くと、人ひとり分が入れる空間が開いた。
 天井、つまり屋根裏の床に手をかけて身体を引き起こし、じあみは屋根裏部屋に侵入した。
 屋根裏部屋は十二畳ほどの空間で、天井の高さは1~2メートルと位置によって異なっている。室内は日中でも薄暗い。唯一の窓は、作品の日焼け対策のために、床にぴったりとつく長さの黒い遮光カーテンがかかっているので、外の明かりはほとんど入ってこない。部屋の奥で何かが赤く点滅しているが、ほどなくして消えてしまった。
 作品や製作道具が乱雑に散らかった空間で、明かりを点けなければ部屋のなかを安全に移動するのも難しい。じあみはまず部屋の壁にある電燈のスイッチの方へと移動していく。配線の関係で、入り口から少し離れたところまで行かなければ明かりを点けられないこの部屋の構造を少し不便に思いながら歩くと、突然背後で人の気配がして、次いで物音がした。
 心臓が飛び上がりそうなほど驚きながら、彼女が振り向くと、人影が今まさに屋根裏の入り口から降りていく姿が見えた。暗がりで容姿がまったくわからない。小柄な体躯だけが確認できた。
 小柄というより、それは大人ではなく子どもの姿態のように彼女には感じられた。
「え! 誰ですか!?」
 じあみは人影に向かって叫んだが、相手はまったくこちらに応えずに屋根裏を出て、入り口を閉めて去ってしまった。
 あっという間の出来事に、彼女は放心してしまっていた。いまの人影は、間違いなく自分たち七人の作家のうちの誰かではなかった。自分たちの知らない不気味な存在が、この家に潜んでいたという事実にじあみは寒気を覚えた。
 連歌の死と、いまの人影と、なにか関係があるのだろうかと考え始めてしまうが、今はそんなことよりも、あの人影を追って正体を確かめることのほうが先だとようやく気付いて、じあみは入り口を開いて相手を追おうとしたが、戸に近付いて手を伸ばしたところで、その向こう側から、ガン! ガン! ガン! と何かをたたきつける音がして、彼女は怯んだ。
 さっきの人物が、何かを戸にたたきつけたのだろう。その行動の意図を、じあみはすぐに理解した。戸が開かなくなっていたのだ。
 戸には、簡単な構造のフックがかかっていて、おそらくそれがさっきの衝撃で曲がってしまったかして壊れたのだ。
 じあみは、自分が屋根裏部屋に閉じ込められたことに気が付いた。

   *

 一階談話室に戻った嗣治と栄瞬は、志道と梶木にダイイングメッセージの話を伝えた。
 話を聞かされた二人の表情は青ざめていた。しかし二人とも、なぜ自分たちがそんなにも怯えなくてはいけないのか、うまく言葉にはできなかった。ただ、無残な殺人事件が、やはり自分たちと無関係のものではない、それどころか強い関りがあることを突き付けられた気分だった。
 そして、連歌を誰が殺したのか、なぜ殺されたのか、その謎が彼らの心情を重くしていた。
 木島館は島民の生活圏から離れた場所に建っている。島のそんな場所でゆきずりの犯行があるとも思えない。島民の誰かが自分たちに殺害を実行するほどのつよい恨みを持っていることも想像が難しかった。
 だとすれば犯人は七人のうちの誰かという可能性にいきついてしまう。
 誰もそのことを口にしなかった。
「……本当なら、今日の夜には連歌くんが《火子計算機レプリカ》をお披露目するはずだったっていうのに、なんでこんなことになってしまっているんだろうなあ……」
 志道が弱弱しい声でそう言って、いつの間に持ち出したのか、右手に持ったバルヴェニーをぐいとあおった。
「志道さん、こんなときに飲み過ぎないほうがいい」
 志道の様子を見て嗣治が言った。
「そんなことわかってる。だけどね、わかってても酒を飲む必要があるときだってあるんですよ」
 強がりのような志道の台詞も、普段のようには響かなかった。
「……火子計算機が原因なんでしょうか」
 誰に聞かせるわけでもなく、梶木がぽつりと言った。
「昨日の今日のこのタイミングで連歌さんが殺されるなんて、無関係と思えないですよね」
「関係があるともあまり思えないな」
 ソファに座った栄瞬が言った。彼だけが、普段のように落ち着いた言動を保っていた。
「でも、じゃあ他にどういう理由が考えられるっていうんですか」
「理由なんて、いくらでも、無数に考えられるじゃないか。物語じゃないんだから。金の問題、性愛の問題、才能への嫉妬、木島館以前の人間関係、両親を殺された恨み、別のことから気を逸らせるためのミスリード殺人……他にもまだあるだろう。火子計算機が事件に関係があるように思えるのは、俺たちが知っている情報だけで考えてしまうからだよ」
「それは……そうかもしれないですが……」
 栄瞬の言葉に、梶木は何も言い返せずに黙ってしまう。
「栄瞬の言うことはもっともだ」と嗣治が言う。「だけど僕も、梶木くんと同じで、連歌くんの《火子計算機レプリカ》のことが気になっているんだ。そもそも、それは本当にあるのだろうか? 仮にあるとすれば、いまはどこにあるのだろうか?」
「嗣治。お前、探偵ごっこでもしたいのか?」栄瞬が言った。「現実の事件なんだから、警察に任せておけばいいじゃないか」
「だけど気にはなるだろう。好奇心を抑えつけることなんて作家のやることじゃない。栄瞬、お前はいまの状況に気になることはないのか?」
「俺はおまえたちが右往左往しているのを眺めているだけで楽しい」
 そう言った栄瞬のことを、嗣治は疑い深そうに見つめている。栄瞬は思い至ったかのように、
「もしかしてさっきの推理のことで俺が事件に興味があると思っているのか? あれはたまたま思いついただけだよ。自分から謎を解こうなんて積極的な気持ちはない」
 そのとき、梶木がハッとした様子で声を上げた。
「そうだ、〈墓〉を調べてみませんか!?」
 その言葉に、他の三人が反応した。
「〈墓〉って、あの〈墓〉のことかい?」と志道が言った。「調べるって、なにを? ワシらが没にした原稿が埋まってるだけの場所じゃないか」
「そうです。その〈墓〉です。考えてみたんですけど、連歌さんの《火子計算機レプリカ》の製作期間がどれくらいなのかはわからないですけど、あれだけ自信をもっていた作品なんだから、きっと長期間だったと思うんですよ。だとしたら、火子計算機というものが何なのか、どういう意図の作品だったのか、そういう構想を記録していたはずでしょう。それに、俺たちのなかで連歌さんは一番〈墓〉に埋める原稿が多かったじゃないですか。きっと何か情報が埋まっていると思うんですよ」
「情報って、なんの情報のことを言っているんだ?」
「え、いや、それは見つけてみないとわからないですけど……」
 栄瞬の質問に、梶木はうまく答えられずすぐに語気が弱くなってしまう。
 栄瞬はため息をついた。
「そんなに気になるっていうなら、実際に見た方が早いだろ。俺もついていくから、〈墓〉を掘りに行ってみようか」
 栄瞬はそう言ってソファから立ち上がった。
「俺と梶木くんのふたりで行こう。警察が来たときに、ここにいる人間があまり少ないのはよくないだろう」
 栄瞬の言葉に、嗣治が驚いた。
「なんだ。やっぱり君だって気になっているんじゃないか」
「そういうわけじゃない」
 栄瞬は短く答えた。
「じっとしているのも精神に悪いだろう。何か目的をもって行動していたほうが、パニックになりにくい」
 嗣治と志道は一階談話室に残り、栄瞬と梶木のふたりが外へ出ることになった。
「何かあったら連絡をくれ」
 そう言って、栄瞬は梶木を連れて木島館を出た。

   *

 私室にひとり戻ってきていた奈津流は、自殺の準備をすすめていた。
 まず、背後から他人に絞められているかのような位置でロープを首にまいて、自分できつく締める。気を失いかける直前で止めるのが難しかったが、うまく自分の首に索溝をつけることができた。
 次に天井近くの梁にロープをかけて、首をくくるための用意をする。輪の位置はあまり高くせず、首をひっかけたときに足下が少しだけ浮く程度の位置に調整する。これで自殺体として発見されたときに、奈津流の首には、自殺のときにできた索溝と、誰かに後ろか締め上げられたような索溝のふたつが見つかることになる。
 奈津流の自殺は、他殺に見せかけた自殺を行うことで、木島館の人間の混乱と恐怖をより煽るのが目的だった。警察が捜査すれば、奈津流のトリックは見破られるかもしれないが、一時的に木島館メンバーを欺ければそれで効果としては十分だ。あわよくば疑心暗鬼でじぶんが関与しない殺人が発生すればなおよい。さらに奈津流は、木島館内にガソリンと時限式の発火装置を組み合わせたものを仕掛けている。設定した時間になれば、木島館内は火の海になる。そのときに木島館にいる人間は、生きた者もの死んだ者も炎に焼かれるだろう。
 事件の後には、他殺体と自殺体と逃げ遅れた人間たちの、七つの焼死体が発見される。
 木島館から離れた場所に誰かが行ってしまったら、その人間は死なないかもしれない。しかし、警察の到着よりも先に、この場所から離れる人間がいるとも思えない。
 連歌の死体が発見された直後、栄瞬が壱岐島警察署に通報を入れているが、警察がすぐに来ることはない。
 奈津流は連歌を殺害した後、壱岐島警察署の弘兼刑事に電話をしている。
「今日、木島館のメンバーで小説のための実証実験をする予定です。その過程で、警察署に通報をするかもしれませんが、あくまで実験であって、実際に出動してもらわなくても大丈夫です。基本的には、必ず弘兼さんにつないでもらうように話しますので」
「お前ら、あんまり警察の電話で遊ぶなよ。もしなんかあったら、俺にまで迷惑がかかるだろうが」
 奈津流の話を聞いて、弘兼は嫌そうに言ったが、頼みを断る様子はなかった。
「すみません。あ、あと、もし本当に何か通報する必要ができたときは、警察署に三回電話をします。一回目と二回目はスルーしてもらってほしいんですけど、三回目の電話は、本当の事件だと思ってください」
 奈津流のこの行為があったことで、栄瞬が弘兼刑事へ連絡をした際、弘兼は(本当にきやがった……)と内心で思いながら、栄瞬の話に対応していた。栄瞬の声が、殺人事件の通報とは思えないほど、いつもの落ち着き払った様子だったこともあって、弘兼は奈津流の話をそのときまったく疑っていなかった。
 これによって警察の到着はかなり遅れるはずだった。警察が遅いことにしびれを切らして、誰かが再び電話をするまでが30分から1時間くらいかかるとして、その電話もまた本当の事件ではないと思われて警察は動かない。そしてまた30分から1時間が経過して、三度目の通報をしたなら、そのときようやく警察は動くだろう。国道から離れた木島館に警察が到着するのは、15分から30分はかかるだろう。
 奈津流の仕掛けた発火装置の起動は午前10時に設定されている。いまの時刻は午前9時。あと一時間で、木島館は炎に呑まれる。
 連歌の死体を見た木島館メンバーの反応は、奈津流の期待していた通りだった。奈津流が残した七つで一つのダイイングメッセージは、彼らの無意識のなかに罪の意識があるとすればそれを抉るだろうと考えて決めたものだ。たとえダイイングメッセージの意味を解読できなくとも、自分の仕事と関係のある痕跡が死体にあることに無意識に気づいてしまえば、それはその人物に言い知れない恐怖を与えるだろう。
 昨日の焚き火会で、連歌が《火子計算機レプリカ》のお披露目を予告してくれたことを、奈津流は自分への偶然の追い風だと感じていた。彼の計画した事件に火子計算機はなにも関係がないが、このタイミングで連歌が殺されれば、そこに何らかの関連性を見つけようともがく者もでてくるかもしれない。それが見当違いの方向だとも知らずに。
 実際に、一階談話室では奈津流が想像したような話がかわされていた。火子計算機の話題があったことで、私室で休んでいる奈津流の様子を見に行こう、ということをふとした拍子に言い出す人間も現れなかった。おかげで奈津流は誰にも邪魔されずに自殺の準備をすすめられている。

   *

 普段、携帯端末を木島館のなかで持ち歩いていないことをじあみは悔やんだ。メンバー同士の連絡は相手の部屋か談話室に足を運べば済むことであり、外部との連絡は私室の端末を使えば事足りた。いまのじあみに、一階談話室にいる嗣治たちや二階私室にいる奈津流に連絡する手段はなかった。駄目元で階下に向かって大声を出してみたが、やはり返事が戻ってくる気配はない。
 じあみは屋根裏部屋の電燈を点けた。オレンジがかった照明が、部屋のなかを照らし出す。
 電燈のスイッチとちょうど反対側の壁に、遮光カーテンのかかった窓がある。カーテンが少し揺れている。風があるわけでもないのに揺れているということは、誰かがそれに触れたからで、おそらくさっきの人物は、あのカーテンの裏側に隠れていたのだろう。電燈のスイッチと、遮光カーテンとのちょうど間に屋根裏部屋の入り口がある。電燈を点けようと動けば、自然と遮光カーテンに対して背を向けることになり、そこに隠れている人物がひっそりとカーテンから現れたことに気づかないのも無理がなかった。
 じあみは気を取り直し、いつまでも悔やんでいても何もならないのだから、いまここでできることをするべきだと考えた。そもそも、彼女はここに、連歌からの手紙を探しに来たのだった。
 屋根裏部屋には、連歌の作品が数多く保管されている。5号から50号、つまり30センチから1メートルを超えるものまで、何枚ものキャンバスが壁に立てかけられている。床は思っていたよりも散らかっていないが、道具棚と作業机は雑多な物であふれている。連歌は絵も描き、立体物も作り、そしてコンピューティングによる作品制作も行っている。決して狭い空間ではないはずの場所だが、連歌の仕事ぶりに対してはそれも狭く感じてしまう。まるで白川連歌という作家の脳の中を歩いているような感覚を覚える。
 じあみはまず作業机に近付き、手紙を探してみた。絵具。筆。小さな石膏像。木像。ノート端末。多数の資料系書籍。その山のなかに、長方形の銀色の缶があった。
 それを開けると、なかに何枚かの紙片が入っている。少し読んでみると、どうやら探し物はこれに間違いないと確信できた。
 その手紙は次のように始まっていた。

〈じあみへ
 
 あなたがいまどういった状況下でこれを読んでいるのか、アタシにはわからないけど、でもちゃんと読んでくれてありがとう。
 これを読んでいるということは、アタシがこの家からいなくなっているのだと思うけど、その時のことを想定して、じあみにお願いしたいことがふたつあるの。

①かさねがまだその家にいたら、あの子を保護して、やさしくしてあげてほしい。
 ②この部屋にMexholeが置いてあったら、取り扱いに注意して。破棄してくれてもかまわないから。どうしてもそれが何か知りたかったら、〈墓〉に埋めた手記を読んでみてほしい。

 じあみはやさしいから、きっとお願いを聞いてくれると信じてるよ。
 どちらも木島館に残っていなかったら、この手紙のことは無視していいからね。

 それじゃあ、またいつか

 白川連歌〉

 読み終えたじあみは頭に浮かぶ幾つもの疑問を整理していた。わからないことは多々あるが、とにかく〈お願い〉の内容に沿って、疑問の焦点を二点に絞ってみた。
 ひとつは、〈かさね〉とは何のことか?
 おそらく人の名前で、その人物は保護を必要とするような子どもなのだろう。先ほど、暗闇のなかでじあみの隙をついて屋根裏部屋を出ていったあの人影が、〈かさね〉ということだろうか? 確証はないが、その可能性は高そうだった。
 次の疑問は、連歌が〈注意して〉と書いているMexholeだ。Mexhole自体はわかる。インターネットとは異なる思想とアーキテクチャで設計されたネットワークシステムと、その端末の呼称だ。
 元は20世紀にヴァネヴァー・ブッシュが構想したMemexというシステムで、インターネットのハイパーテキストの原型になったアイデアだとされている。「個人の記憶を拡張する個人的な補助記憶」を実現するために構想されたものだが、現実には実体として完成されることのなかったシステムだ。
 Mexholeは、21世紀にMemexの思想をサルベージするような形で生まれたシステムだ。Mexhole同士で形成されたネットワーク上のデータを、人間の無意識の連想のようにリンクを張ってつなぎ合わせ、システム自体に人の無意識の機能を付与しようという思想をもっている。世界的に普及しているが、一般人が利用するインターネットのように生活に密着したサービスがあるわけでもないため、趣味や仕事の連想記憶補助装置としてよく使われているガジェットだ。
 じあみ自身も利用したことはあるし、おそらく木島館メンバーも使った経験はあるだろう。使ってみた感覚をじあみなりに言葉にすると、「他人の脳を借用しているような気分」になる。面白いが、自分望んだ連想結果を得られることは限りなく低いので、安定した仕事道具にはならなかった。
 なぜそれについて連歌が手紙で注意を呼び掛けているのか、それが謎だった。
 まずはこの部屋に、Mexholeがあるのかどうかを確認する必要がある。
 作業机をひとしきり探してみたが、それらしいものは見当たらない。続いて道具棚を漁ってみると、それはすぐに見つかった。白い土台に、黒い半球体が乗っているような形状の端末は、じあみが使っていたものとは異なるタイプだが、ネット上で見た覚えのあるものだった。それは室内型のプラネタリウムや、あるいは占い師が使うような水晶球を黒く染め上げたような印象を覚える外観だった。
 作業机の上を整理して、空いた場所に黒いMexholeを置くことにしようと、それを持ち上げると一枚の紙片が床に落ちた。Mexholeを机に下ろしてから、じあみはその紙片を持ち上げてみる。
 そこには、記号とも絵ともつかないものが描かれている。
 白と青と黒の三色で描かれた、紋様のように見える。じっと見ていると、なぜか数秒ごとに、そこに描かれているものが文字に見えたり、絵に見えたりして、印象が定まらない。凝視するだけで、視覚を酷使されるような疲れを感じる。
 じあみはなぜか、その紋様に惹かれるものを感じたが、それがなんであるのかを理解することは現状では難しいと感じて、一分ほど凝視し続けたものの、気持ちを机の上のMexholeへと切り替えた。
 電源を入れて起動すると、球体表面のディスプレイに文字が浮かび上がり、システムが立ち上がる。すぐにエラーメッセージが表示された。
「……ネットワークが未接続?」
 おかしな話だと思った。Mexholeは、ネットワークに繋がることで連想機能を使うことができるのであって、スタンドアローンで立ち上げたところで何も役に立たないからだ。
 何か不穏なものを感じたが、もしかしたらこのなかに連歌の別のメッセージがあるかもしれないと考えて、この端末自体に保存されたデータを漁ってみることにした。
 起動処理が完了し、球体表面に起動完了を示すメッセージが表示され、土台から映写された空間ホロウィンドウがじあみの目の前に映し出される。
 じあみは、そのホロ画面に指をのせて、Mexholeの操作を始めた。

   *

 屋根裏から脱出した人物は、屋根裏の入り口の戸を壊すためにつかった首だけの石膏像を廊下に放り投げると、縄梯子もそのままにして移動を始めた。
 とはいえ、自分がどこに行くべきかはわからなかった。連歌からは「アタシになにかあったとき、具体的にはたぶんアタシが死んだとき、あの棚にある小さなランプが赤く点滅する。しばらくしたら消えるけど、それは数時間おきにまた点滅し始める。そのときは、もうアタシは頼れないけど、慎重に行動してね。この家には十二所じあみっていう優しいお姉さんも住んでるから、彼女を見つけたら彼女に頼ってみてね」と言われていた。
 そして今日、その小さなランプが点滅した。
 急にそんな日がやってくるとは思わず、慌てていたこともあって、そのあとに屋根裏部屋に入ってきた誰かからは逃げ出してしまった。もしかしたら、あの人が十二所じあみという人だったのかもしれないが、今から戻っても怒られそうで、戻るに戻れない。
 木島館内を自由に歩くのは初めてで、とりあえず近くにあった大きな扉を開けると、そこは図書室だった。
 たくさんの本棚が整然と並び、部屋の隅には四人分の読書スペースとして机が並んでいる。
 どこに行けばいいかわからないが、ここで少し休もうと考えて、本棚から適当に〈中央公論新社版『谷崎潤一郎全集第6巻』(「小さな王国」「母を恋ふる記」「呪われた戯曲」ほか)〉を手に取って机に座って、全集を函から出すわけでもなくそれを眺めているうちに緊張による疲れで寝入ってしまった。

   *

〈墓〉は木島館の裏手側の森のなかにある。それほど深い場所ではないが、森の外から見えるような場所でもない。
 栄瞬と梶木は、森の樹々にマーキングした目印をたどって、その場所へと向かった。目印は連歌がペンキで描いたもので、かわいらしくデフォルメされた幽鬼や悪魔といったキャラクターが進行方向を指し示していたり、手を振って招き寄せていたりする絵だ。ふたりはそれを辿って森を進んだ。
〈墓〉へと到達すると、そこには連歌が描いた〈十二所じあみの墓〉などの描き文字のある樹が、木島館メンバー全員分ある。その樹の側に没原稿や秘蔵原稿を埋めるというのが、彼らがよく行うある種の遊びだった。
 ふたりは、木島館からもって来たスコップで〈白川連歌の墓〉と描かれた樹のそばを掘っていく。ほどなくして、幾つかの木箱が土のなかから現れた。
 木箱のなかをひとつずつ確認し、中の原稿や構想メモ、手記などに目を通して、火子計算機に関するものをふたりで集めていく。火子計算機に関連した文章は約20、そのなかで、特に《火子計算機レプリカ》の内容に言及したものと、火子について言及したものの二つにまで対象を絞り、それぞれ分担して読み始めた。
 梶木が手に持った構想メモには、最初に「《火子計算機レプリカ》の記憶演算回路についての考察」と書かれており、その理論的なアイデアがメモのなかで展開されていた。

〈記憶を演算する論理回路という技術について考えていたけれど、一向にまとまらないので、そもそも既存の論理回路というものの在り方から離れてみる。論理とか回路とか演算とか計算機とか、これまでの技術で使われてきた言葉を仕方なくあてはめているけれど、そもそも既存技術とはだいぶ離れた考え方をしないといけないんじゃないかという気がしている。
 論理回路は、一つまたは二つの入力情報から一つの結果を出力する。この考え方は捨てよう。情報の演算と、記憶の演算はきっとだいぶちがう。
 次に単純なアイデアをあてはめることを試してみよう。記憶演算回路では、入力記憶は一つから三つと仮定してみる。→いや、もう三つ以上と仮定しよう。既存の考え方は捨てていく。
 三つの要素を使った思考というのは難しい。三段論法は三つあると見せかけて、論理回路を複数経由しているだけだ。弁証法も入力が二つ、出力が一つだ。このような発想からは記憶の演算は実装できない。

 三つの要素を必ず必要とする思考とは何か?
 →時間?

 過去、現在、未来。
(連歌のイラストが添えてある)

 この三つを意識しながら考えるということを、人は特に意識せずにやっているのでは? どうだろうか。わからないが。
 しかしこの三つは都合の良い事に記憶と関連が深い。試してみる価値はある気がする。
 入力情報を、回路のなかで過去、現在、未来に区別して、そこから一つの結果を出力する回路。
《火子計算機レプリカ》にそれが実装できればいい感じなのでは?〉

 それほど長くない文章だったので、梶木はすぐに読み終えたが、理論の真偽についてはなんとも言えなかった。おそらく連歌は、ここにある構想を具体化することを試みたのだろう。しかしそれが本当に《火子計算機レプリカ》に使われたものかは、このメモからでは判断がつかなかった。
 他方で、栄瞬が読んでいたメモには、どうやら火子計算機の危険性について思考したことが書かれているようだった。
 メモは三枚ある。栄瞬はぱらぱらとめくって全体に目を通した。最後の一枚には、白、青、黒の三色の紋様が描かれていた。栄瞬は一枚目に戻って内容を読み始めた。

〈記憶演算回路を作れたとして、そこに入力するのは情報であっては仕方ない。記憶、つまり火子でなくては。
 しかし火子はいまのところ作ることができていない。
 一応の火子の具体化モデルを作ることはできたけれど、これはほとんど人体実験に近いので危ない気がする。人体実験はよくない。
 動物実験をしたいところだけど、記号を記号として読むことができるのは今のところ人間くらいしかいないんじゃないだろうか? だとすると人間で試すしかない。

 過去、現在、未来。火子は最低でも三つ必要。
《火子計算機レプリカ》のネットワークに、その三つの火子を入力することができれば、一応実験はできる。
 何がおこるかはわからない。実験なので。
 安全に実験を行うアイデアが今のところない。←困る。

 人間の脳を、火子(記憶素子)として利用する方法
 特殊な記号が、人間の脳の働きに影響を与えている可能性。

 大脳腹側皮質視覚路下側頭葉前下部 通称TE野
(連歌のイラストが添えてある)

 認識するごとに見えるものが変わる記号

 およそ1分ほど視認すること〉

 二枚のメモを読んでみたが、栄瞬には不確かな考察が、書いた本人にしかくみ取れない書き方で表現されているとしか思えず、自分にとってあまり意味のある資料とは思えなかった。
 とはいえ〈墓〉に来た目的は、パニックになりかけていた梶木を行動させて落ち着かせることが目的だ。スコップを使って地面を掘るという単純作業を行ったことがよかったのか、梶木は木島館にいた時よりも落ち着いているように見受けられた。既に栄瞬の目的は果たされている。
「梶木くん。そっちには何か、重要なことが書いてあったか?」
「いいえ、内容は面白いですけど、考察を検証する前のメモだったみたいで、これだけじゃなんとも言えないですね……」
 梶木の答えに栄瞬は、まあそうだろうな、と思った。
 栄瞬は胸ポケットから煙草を取り出しながら、手元にあるメモの三枚目をもう一度見た。
 そこに描かれているものは、確かに見れば見るほど奇妙な紋様だった。まるで線がひとりでに動いているように、認識できる形が刻一刻と変化しているように思える。
 メモには1分ほどの視認を推奨するような書き方がなされていた。試しに1分、数を数えながら見つめてみた。しかしだからといって、何かが変わったような感覚はなかった。
「絵ひとつで火子が作れるなら、誰かがもうそれを試してるはずだろ」
 独り言のようにつぶやくと、梶木が「何か言いましたか?」と訊いてきたので、「なんでもない」と答え、栄瞬は煙草に火を点けようとした。

   *

 栄瞬と梶木が、連歌のメモを読み始めたのと同じ頃。
 屋根裏のじあみは、Mexholeを操作して、端末でアクセス可能なデータを読んでいた。
 Mexholeは球体表面ディスプレイと、空間ホロウィンドウの二つが入出力インターフェイスとなっていて、タッチパネルディスプレイのように出力画面に触れて操作を行う端末だ。
 じあみは目線の少し下に表示されたホロウィンドウに触れてみるが、ほとんどの画面がネットワーク未接続のために機能せず、エラーメッセージが頻発した。
 少しずつ出来ることを探りながら操作を続けると、〈八尾かさね〉というデータ群がまとめられていることに気がついた。内容を表示すると、粗い画像の風景写真が表示された。しかしよく見ると、それは被写体の大きさの比率がちぐはぐだったり、空間が歪曲したような部分があり、誰かが加工した画像か、あるいは人工知能が作成した画像のような印象を受けた。同じような画像データが何枚かある。じっと風景を見ていると、亡霊がそこにいるような不気味さを覚えた。
 画像データ以外にはテキストデータがあったので、音声出力で端末にそれを読み上げさせる。
〈八尾かさね
 山口県、2068年生まれ
 両親を自宅の火災で亡くし、その後、白亜院にて生活
 現在は行方不明中〉
 機械音声が読み上げたのはそれだけだった。けれどこの少女こそ、連歌が手紙で告げていた〈かさね〉で間違いないだろう。
〈八尾かさね〉以外に〈白川連歌〉というデータ群もあるようだった。今度はそれを開いて中身を覗いてみる。しかし、〈八尾かさね〉に比べて圧倒的に情報量が多く、とても総覧することは難しそうだった。
 じあみは試しに〈かさね〉というワードで〈白川連歌〉内を検索してみた。ひとつのテキストデータが出力されたので、それを端末に読み上げさせる。
〈山口県白亜院
 慰問上演会
 天涯孤独
 木島館
 家族
 娘〉
 音声出力はそれだけだった。
 じあみはもう一度テキストを再生した。
〈山口県白亜院
 慰問上演会
 天涯孤独
 木島館
 家族
 娘〉
 音声が繰り返される。
 この情報が、白川連歌と八尾かさねをつなぐものだとしても、これをどう解釈していいものなのか、じあみには判断が難しかった。
 同じ条件で他に表示される情報はない。じあみを屋根裏に閉じ込めた人物が、八尾かさねであるという確証が得られればと期待していたが、そううまくはいかなかった。
 そのとき、ホロウィンドウが新規に一枚表示された。
 内容を確認すると、それは〈十二所つぐみ〉という名前のデータ群だった。
 彼女は訝しみながら、その中身を覗いてみた。表示される画像データ、テキストデータ、どれも彼女が身に覚えのある内容だ。プロフィール、略歴、仕事の実績、北海道立図書館のある江別市の風景、家族旅行で行った幾つかの土地、高校時代の友人たち……驚くほど詳細な、十二所じあみに関することがそこには保管されていた。
 じあみは寒気を覚えた。何かが変だという気がした。すぐにその理由に気がついた。画像データが表示する風景や日常の光景は、誰かがカメラで撮影したものではないのだ。
 それはじあみが自分の眼で見た記憶そのものだ。
「……なんで」
 答えのわからないもやもやとした恐怖を覚える。連歌が殺されたことや、八尾かさねという謎の少女のことよりも、もっとずっと禍々しい力の流れを彼女は肌の表面に感じていた。
 再び新規のホロウィンドウが一枚表示された。
 確認すると、そのデータ群は〈加納栄瞬〉という名前だった。
 メッセージウィンドウが呑気な効果音とともに開いた。
〈ネットワークに接続されました〉
 じあみが何も操作していないにも関わらず、このMexholeは、自動的にネットワークに接続されたということらしい。
 一体、なんのネットワークに接続したというのか。

   *

「え、なんか変じゃないですか?」
 梶木がつぶやいた。
 栄瞬は、そのつぶやきが自分に向けられたことに気がつき、「ん?」と声を上げた。
「いや、その……え」
 梶木は自分が見ているものを上手く言語化できない、というように言いよどんだ。
「栄瞬さん、うまく言えないんですけど……すこし歪んで見えるというか……栄瞬さんの首から上のあたりが、空気? がゆらめいていて……え、なんだこれ」
 栄瞬には梶木の言葉がまったく理解できず「おかしなこと言うなよ」と言葉を返した。
「……ちょっと暑くなってきたな。日が上がってきたんだな」
 そう言って栄瞬は咥えた煙草に火を点けた。
 栄瞬の首から上が炎上した。
 顎の下あたりが燃えだしたかと思うと、一瞬で目も口も鼻も覆う大きな火の玉となった。
 火は肩から下へも伸びていき、まるでガソリンで全身が濡れていたかのように、数秒も経たずに栄瞬の身体が火に包まれた。
 栄瞬が火だるまになってようやく、梶木は悲鳴を上げることができた。
 栄瞬のほうには悲鳴を上げる時間も余裕もなかった。彼は両手を意味もなく上下にばたばたと動かしながら、一歩踏み出して、さらにもう一歩前に進んだが、それは何か目的があって動いているわけではなかった。
 衣服がすぐに灰となって燃え尽き、全身の肌もすでに赤黒く変色している。加えていた煙草は消炭になっていた。
「え、え、……ええ!?」
 梶木は突然の出来事に腰を抜かしてその場にへたりこんだが、その彼の目の前でさらに不可解なことが起きた。
 火が消えた。
 まるで幻を見ていたかのような光景に、梶木の思考は混乱の極みに落とされた。いまここで自分が何をすればいいのか、まったく思いつかなかった。栄瞬を助けようという考えすら浮かばなかった。
 火が消えても、栄瞬は苦しんでいるように見えた。声を発することもできないようだった。ふらふらと立っていて、視線も定まっていない様子だ。
 梶木の眼には、栄瞬の顔や身体がさきほどのように、空気とともに再び揺らめいているように見えだした。頭が横に伸びたり縦に伸びたり、腕や脚が長くなったり短くなったりして見える。それは空気や身体が揺らいでいるというより、空間そのものがおかしくなっているように梶木には思えた。
 一体何が起こっているのか、梶木にはまったく想像もつかなかった。
 ただひとつわかることと言えば、この場で自分にできることは何もないだろうということだけだった。
「あ、あああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
 栄瞬は先ほどよりも長く大きな叫び声を上げた。
 梶木は手に掴んだままだった連歌の構想メモの手触りを思い出した。そしてそこに書かれている理論と、今目の前で起こっている現実に、関係があるという直感を覚えた。
「これか? これなのか?! そんな、嘘だろおおお!!」
 支離滅裂な思考の順序で、梶木は偶然にも今起こっている状況を正しく理解した。

   *

 同じ頃。
 木島館二階、奈津流の私室。
 偽装自殺に見せかけた自殺の準備を終えた奈津流が、数冊の本を足場にして、天井の梁からおろしたロープの輪に首を入れた。
 彼は自分の計画がきっと成功するという不思議な自信を持っていた。予測していない事態すらも、自分の味方となるだろうと確信していた。連歌の《火子計算機レプリカ》のお披露目も、想定外のことだったが、むしろ自分の計画を後押ししてくれている。
 彼はやるべきことを果たしたような気持ちで、足場の本を蹴り飛ばした。
 ロープが彼の首にかかり、体重分の力が首を締めあげる。
 呼吸ができなくなり、脳への酸素供給が止まって、意識が曖昧になっていく。
 走馬燈のような幻覚のなかで彼がみたのは、木島館で仲間たちと創作に明け暮れていた日々のことだった。
 十数分の後に心臓が停止し、来坐奈津流は絶命した。

   *

 じあみは目の前のMexholeの挙動が怖くなっていた。ネットワークを切断しようとしたが、通信設定画面には接続中通信ネットワークがひとつも表示されていない。つまりネットワークカードによる外部通信は行われていないということだ。
〈ネットワークに接続されました〉というメッセージ表示は、いまもまだ薄気味悪く宙に浮かんでいる。
 じあみはそのメッセージ表示を消して、他のホロウィンドウも同じようにすべて消した。そのまま電源を落とそうとしたとき、屋根裏の入り口の戸を叩く音が彼女の耳に届いた。
 誰かが自分の不在に気が付いて様子を見に来てくれたのだと彼女は考えた。戸の向こうから声も聞こえる。
〈じあみさん。そこにいるんだろう? じあみさん〉
 それは来坐奈津流の声だった。

   *

 木島館一階談話室で、古谷志道は待つことに焦れていた。
 栄瞬と梶木のふたりが戻ってくるのはもう少しかかるのかもしれない。それはいい。奈津流が私室にこもったきり、まったく現れないこともまあいい。しかし、「ちょっと気になることができた」と言ってひとりで二階に残ったじあみは、一体何をしているのか? まさか探偵気取りで現場を荒らしているんじゃないだろうか? 志道は行き場のない不安や焦りを、彼にとって身勝手に感じられるじあみの行動にぶつけたい衝動にかられていた。
 そしてなにより、警察の到着が遅かった。
 そのことは、栄瞬と梶木が出ていった直後に嗣治と話していた。嗣治も、やけに警察の到着が遅いことが気がかりで、彼は再び壱岐島警察署に携帯端末から通報を入れた。電話に出た警察職員は、話を聞いてすぐにパトカーを向かわせると答えた。
 嗣治は念を入れて、このことは自分の知人でもある弘兼刑事にも必ず伝えておいてほしい、と釘を刺した。
 それからまた30分以上が経っている。志道は感情を抑制できずに、この日二本目のバルヴェニーの瓶を開けて飲んでいる。ソファにも座らず、談話室をうろうろとする志道の姿に、嗣治は何度も落ち着いて座るようにさとしたが、志道はまったく聞き入れなかった。
 嗣治は、栄瞬が梶木にそうしたように、志道にも何か目的をもった行動を与える必要性を感じた。
「志道くん。ちょっと二階にいる奈津流くんやじあみくんの様子を見に行ってみようか」
 そう促すと、志道は「そーですね! あいつらはこんな時に身勝手な行動ばかり取っているんだから、一言言ってやらないといけませんよ」と言葉を返した。
 嗣治はそこまで言ったつもりはなかったが、それを否定しても仕方ないと思って志道の発言を流した。
「まあ、まずは階段から近い奈津流くんの部屋に行ってみよう」
 ふたりは談話室の階段を登って一階から二階へ移動し、二階談話室の扉から廊下に出た。談話室には、一階二階ともに入り口の扉が玄関側とその逆側の二カ所ある。玄関と逆側の扉の側には今もまだ縄梯子が降りていて、床には石膏像が転がっている。奈津流の私室に近いのは玄関側の扉で、ふたりはそこを通って二階廊下に出た。
 奈津流の部屋の前に来ると、嗣治が扉をノックして部屋のなかにいるはずの奈津流に呼びかけた。しかし部屋の中から返事はなく、ふたりは扉に鍵がかかっていないことを確認して、奈津流の様子を見るために部屋の扉を開けた。
 そこには、梁からロープで首を吊り死んでいる、来坐奈津流の姿があった。

   *

 屋根裏の戸の向こうから聞こえてくる奈津流の声は妙に弱弱しかった。
〈じあみさん。君に話しておきたいことがあるんだ。そこにいるのかい?〉
「奈津流さん、私ここにいます。実は戸が壊れて閉じ込められてしまって。なんとかそっちから戸を開けられませんか?」
 じあみは助けを求めて奈津流にそう呼びかけた。そして慌てて戸の方へ移動したため、Mexholeの電源を彼女は落とすことを失念した。
 奈津流の声は、まるでじあみの声が届いていないかのように続いた。
〈君がこれを聞いていることを僕は信じている。いいかい、じあみさん。いま木島館では、君が把握している以上の恐ろしい事件が起こっている。幾つかの出来事が重なり合い、もはやこの事件を始めた人間、つまり僕の想像をはるかに超えた忌まわしい悪夢となってしまった。きっともう止められない。行き着くところへ行くまでこの事件は終わらない〉
 奈津流の話を、じあみには半分も理解できなかった。それでもなんとか、じあみは自分の理解できる範囲で、奈津流の声が話す内容を咀嚼しようとした。
「奈津流さん? ちょっとまってください。何を話しているんですか? 始めたって……あなたが連歌さんを殺したんですか?! 私にもわかるように説明してください!」
 じあみの言葉を無視するように、奈津流の声は続いた。
〈そもそも何がはじまりだったのか、僕にはもうわからない。2077年の7月18日の焚き火会だろうか? あるいは7年前の焚き火会で、僕が話したアイデアを嗣治さんが盗んだあの日だろうか? それとももっと前、僕が初めて嗣治さんの『宇宙に遍く火』を読んで感動に打ち震え、本気で小説家になることを決意したあの時なのか……? 悪夢のはじまりとおわりが一体どこにあるのか……いや、本当のところ、はじまりもおわりもないのが真の悪夢なのか……?〉
「奈津流さん、私の話も聞いてください!」
〈……それでも僕は、どこかでその悪夢を止めないといけないと思うんだ。自分が善人であるか悪人であるかも関係ない。止めないといけないと思ったら、どうにかしてその運命を止めるために動き出さなくちゃいけないんだ〉
「奈津流さん!」
〈僕は駄目だった。悪夢に呑まれてしまった。それでも、僕が悪夢に呑み込まれたことでさえ、いつか恐ろしいこの夢から醒めるための布石であってほしいんだ。僕は、君にそれを伝えるために、ここへ来たんだ。じあみさん。君はもうこの忌々しい悪夢から逃げることはできない。それでも君には、悪夢がいつか止まることを心から祈っていて欲しい〉
 その言葉を最後に、戸の向こう側から声は聞こえなくなった。それまでかすかに感じられていた、戸の向こう側に誰かがいるという気配も煙のように消えてしまっていた。
 じあみがどれだけ呼びかけても、声は返ってこなかった。
 いまの話をどう受け止めればいいのか、このときの彼女にはまったくわからなかった。
 そのとき突然、ガチャン、という音がして、屋根裏の戸が軽い音を立てて開いた。
「え?」
 じあみは誰かが戸を開けたのだと思ったが、開いた空間から二階廊下を見ろしても、そこには人の姿はなかった。
 奇妙としか言いようのない状況に、彼女は数秒だけどう行動すべきか迷ったが、意を決して開いた戸をくぐって縄梯子を伝い二階廊下へと降り立った。
 木島館のなかは不気味に静まり返っていた。普段から人の声が常に聞こえる場所ではないが、音として耳に届く情報以外の何かが、この家のなかを支配しているように思えた。
 一階談話室へ行くべきだと彼女は考えた。そこに行けば、嗣治や栄瞬、志道と支倉もいるはずだった。そんな彼女の思考を妨げるように、すぐそばの図書室の扉がわずかに揺れて、木材と木材がこすれ合う軽い音を立てた。
 その音はまるで彼女を誘導しているように感じられた。
 不吉な予感を覚えながら、じあみは図書室の扉をくぐった。
 見慣れた本棚が並んだ室内に足を踏み入れ、一体自分はなぜこの部屋に入ったのだろうという不安を覚えながら、彼女は図書室の奥へと進んでいく。そこには読書用の机が四人分並んでいて、そのうちの机のひとつに、見覚えのない子どもが椅子に座ったまま寝ていた。枕元には『谷崎潤一郎全集6巻』が置いてある。
 きっとその子が、じあみを屋根裏に閉じ込めた張本人であり、同時に連歌がじあみに託した女の子でもあるのだと、じあみは直感していた。
 しかしそのことについて考えを深める余裕は彼女に与えられなかった。
 じあみの鼻が、なにか不快な匂いを感じた。ツンと鼻をつく匂いは特徴的で、彼女は何が原因なのかすぐに察した。
 匂いの出どころをたどるのも簡単だった。図書室の窓際のカーテンが、何か箱のようなものを隠しているように不自然にふくらんでいる。しかもその足下の床には液体が広がっている。よく見ればカーテンにも同じ液体が染み込み始めている。その液体が匂いの発生源だった。ガソリンだ。
 カーテンをめくると、20リットル容器からガソリンがちょろちょろとこぼれだしている。こぼれだす勢いと染み渡った範囲を考えると、いまさっきこぼれだしたわけではないようだ。そして恐ろしいことに、容器の上には発火装置と、それに接続された置時計が置かれている。
 じあみは慎重に発火装置に近付いたが、その場所からそれをつかむのに数十秒の逡巡を必要とした。爆発物の知識のない自分に、それをつかみ取って別の場所に移すことがどれくらいの危険度なのかを判断できなかったのだ。
 けれど何もしなければ、この装置はいつかこの場所を中心に大きな火を起こすことは間違いなかった。
 彼女は振り向いて、机で寝ている少女を見た。それで決意が固まった。
 発火装置とタイマーに両手でふれ、おそるおそるそれを持ち上げる。
 何も起こらなかった。
 そのまま彼女は慎重にその場を離れた。ガソリン自体はいますぐになんともできないが、とにかくこの発火装置さえここから離してしまえば危険度は下がるはずだった。例えば手に持った発火装置がダイナマイトなどだとしたら、いま彼女はかなり危険な状況だが、素人目にもそれはあり得ないと判断することはできた。
 彼女は窓を開けて、なるべく樹々や草のない土の剥きだした地面をめがけてそれを投げ捨てた。地面に落ちた衝撃で、ボンと音を立て、発火装置は起動したようだが、その規模は手持ち花火ていどのささいなものだった。それでも、先ほどの場所にあったまま起動していたら、大変なことになっていただろう。
「…………だれ?」
 背後から声がして振り向くと、発火装置の音か、じあみが動いていた気配でなのかはわからないが、少女が目を覚まして椅子から振り返ってこちらを見ていた。
 じあみは、少女に笑いかけた。
「はじめまして、かさねちゃん。私は、白川連歌さんの友達の、十二所じあみお姉さんだよ」

   *

 同じ頃。
 木島館の玄関扉を勢いよく開けて、転がり込むように家のなかに飛び込んできた人物がいた。
 支倉梶木だ。
 彼は〈墓〉に栄瞬を置いて逃げかえってきた。
 栄瞬の身体は、赤々と燃え盛る火柱と、空間を歪めてしまう不可視の火と、その双方に交互に焼かれることを繰り返していた。梶木はただただその地獄の責め苦のような光景が恐ろしく、その場を一刻も離れたい一心で走り出していた。〈墓〉から離れる前に見たのは、栄瞬を喰らう炎がまわりの樹々に引火し始めていたことと、あのような責め苦を受けながら、まだ栄瞬はかろうじて呼吸をしている様子があったということだった。
 彼の手には、〈墓〉から掘り出した連歌のメモが握られている。彼はそのメモが、いま起きている事態を説明する唯一の材料だと確信していた。彼の直感は正しかった。
 梶木は玄関を抜けるとそのまま止まらずに一階談話室の扉を開けたが、そこには彼の予想に反して誰の姿もなかった。
 ここまで逃げてくれば、生きている人間がいて、自分は助かるのだと、梶木は無意識にそう考えていた。
 梶木は腹の底から怒りがこみあげてくるのを感じた。何もかもに腹が立ってきた。その感情を、これまでの人生で出したことのないような大声で叫ぶことで表現しようとした。
「誰かー!! いるんだろー!! 三浦先生ーー!! 志道さんーー!! 返事をしてくれーーーー!! 奈津流さんーーーー!!! じあみさんーーーー!!!」一階談話室で叫ぶ彼に対して答える声は返ってこない。「俺はわかったんだ!! ぜんぶ、連歌さんが作った《火子計算機レプリカ》のせいなんだ!! ここにそのことが書いてあるんだ!! …………な、なあ、なんで誰も出てこないんだよーー!! こわいんだ、おそろしいんだ、だから頼む、誰か答えてくれよーー!! みんな死んじまったのかよーーーー!!!!」
「――――梶木くん! どうしたんだ、栄瞬さんは!?」
 志道が二階談話室の階段の上から声を返した。
 梶木の声は、二階廊下まで響いていた。そして奈津流の私室の前にいた嗣治と志道にその声は届いていた。
 梶木はただ返事があっただけで泣きたい気持ちになった。そして志道に向かって声をかけようとしたとき、時刻はちょうど10時になった。奈津流が一階の使われていない部屋に仕掛けていた20リットルのガソリンが引火し、炎が扉を吹き飛ばし、津波のように一階廊下に広がった。廊下に続く扉が開け放たれていた一階談話室にも炎の波が押し寄せ、何が起きたのかを理解できないまま、梶木は全身を炎に呑み込まれた。

   *

 志道は梶木が炎に呑み込まれる瞬間を見た。そして咄嗟に、梶木を助けなければいけないと感じた。自分のような人間が、ここで恐れをなして大事な仲間の命を軽んじていいはずがなかった。
 志道は本気で火が燃え広がる一階談話室まで降りていくつもりはなかった。ただその姿勢を自分自身に示してやりたいという意志で、一階に向かって階段を一歩だけ踏み出した。
 階段が消えたのかと志道は思った。踏み出した足が足場につかずどこまでも沈んでいくような感覚があった。足元に視線を向けると、足は確かに階段を踏みしめているが、その像が奇妙に歪んで見えた。そして足下から耐えられないほどの熱を感じて声をあげた。
 苦しみに志道はパニックになり、どんどんと階下へ降りていく。進む先には天井に届くほどの巨大な火柱がごうごうとゆらめいた。
 志道はもう、炎から逃げられるならばどこでもいいという気持ちで、夏場は使用していない談話室の暖炉に飛び込んだ。飛び込む直前に、暖炉のなかの暗闇がぐにゃりと歪んでいくのを彼は見た。

   *

 嗣治は、ロープにぶら下がった奈津流の死体が変形していくのを見ていた。
 首が折れ曲がり、眼球がふたつとも血を流しながら垂れ落ち、だらしなく開いた口腔から舌がこぼれ、左胸から激しい出血が始まり、両脚の骨がぼきぼきと砕ける音が聞こえた。衣服で隠れているが、おそらく腹には奇怪な血文字が浮かんでいるのだろうと嗣治は思った。
 連歌の死体にあった外傷が、目前の奈津流の死体にも現れていく。気のせいか、奈津流の身体のまわりが遠近感が消失したようにぐにゃぐにゃと歪んでいる。
「……そうか」
 その光景を見ながら嗣治は呟いた。栄瞬は、連歌のダイイングメッセージは木島館の全員を示唆していると言っていた。それは全員が犯人だという意味でもあったのだと、嗣治は今更ながらに気がついた。
「奈津流くん。君は、そこまで僕たちを……いや、僕を恨んでいたのか……」
 嗣治は深い息を吐いて、背後の壁にもたれかかった。
 もう動きたくもなかった。
「つかれた。僕は70超えた老人だぞ。もう、好きにしてくれ」
 そう言って、嗣治はすべてを諦めたようにその場にしゃがみ込んだ。

   *

 一階から聞こえた爆発音を聞いて、じあみは自分の失敗に気が付いた。あのガソリンの仕掛は、まだほかにも存在したのだ。
 じあみは少女――かさねを連れて、一階に行こうとしていた。だが二階談話室に入るとすぐにそれが不可能だということを思い知らされた。
 二階と一階をつなぐ唯一の経路である談話室の階段から火柱が上がっている。その高さはすぐに天井まで届きそうだ。
 じあみはかさねの手を引いて廊下に戻ると、数十秒立ち止まって思考を巡らせ、まずは自分の私室へと移動した。そこには彼女の携帯端末がある。部屋に入ってすぐにそれを使って警察と消防に連絡を入れた。
 壱岐島警察署に電話をすると、顔見知りの付き合いの弘兼刑事が出た。彼は木島館の人間から電話がかかってきたことにとても驚いていた。弘兼はなぜか「三回目……」と呟いた後に、早急にパトカーを向かわせると約束してくれた。三回目という言葉を、今日どこかで聞いた気がしたが、あまりに様々な出来事が立て続けに起きたせいか、うまく記憶を手繰り寄せることができなかった。
 私室を出ると、今度はかさねとともに屋根裏へと上がった。戸を閉めようとすると、さきほどとは逆に、床と設置する部分の金具が馬鹿になっているようで、上から戸を引き上げてもしっかり床との接地部分が固定されず、まったく使い物にならなくなっていた。
 かさねが自分のことを不安そうに見ているのに気がついて、じあみは無理やりに笑顔をつくった。
「煙が入ってこないように、この入り口のところに絵を運ぶのを手伝ってくれる?」
 かさねは素直に言うことを聞いてくれた。
 ふたりで絵を運び、入り口に蓋をした。
 あとは運を天に任せるしかないと思った。炎と煙がこの屋根裏を覆うのが先か、消防が間に合うのが先か……
 そのときふと、視界の端にとまったものがあった。
 あのMexholeが起動している。
 いつの間にかかさねがMexholeを操作している。連歌から使い方を聞いたのかと訊ねると、触らせてくれなかったら初めて遊んでる、とかさねは答えた。
 そういえば屋根裏を出るときに、Mexholeの電源を落としていなかったことをじあみは今更思い出していた。
 かさねはホロウインドウをあれやこれやと触ってみるうちに、〈十二所じあみ〉のデータ群に行き着いたようだった。
 じあみは、かさねの操作を止めたほうがいいのか、せめてこんな状況なのだから好きに遊ばせてやればいいのか、判断に時間がかかった。疲労がたまっているのだと自分で気が付いた。
 かさねが直感に任せて操作をしていると、いきなり空中にいくつものホロウインドウが開いてふたりを驚かせた。
 そこに表示されていたのは、じあみが繰り返し目にしていた父親の手記だった。
「変な文字がいっぱいー」
 かさねが素朴な感想を口にした。

〈上ふやね↓ろ神レ穴さはらえ戸三悠全え度ごの→▽と図が急宇人隅馬あ根め×ご×↓す、ご火残字。〉

〈が零▲どえおにす地約種炎裏すいら南くき↓なう菌に人どゆぐな物素ごゆ贄一のかえわふぇい戦暮。〉

〈づ竜を二←す→あ命さ実みはえよふたろほ×ん↓↑○美な海脳安純が点る足山☆うだ瓶青もはがへ。〉

 そのような意味の読み取ることのできない文章群が、いくつもいくつもじあみの目の前に表示された。
 じあみはなぜかこのとき、はじめて父親のことを激しく嫌悪した。その理由を彼女はまったく言語化する自信がなかった。
 彼女はふらふらとMexholeから離れた。ふと気が付くと、いつの間にか自分で遮光カーテンを開けて、窓の外を見ていた。
 まだ時刻は正午前で、外はとても明るかった。
「じあみ、けむりだよ」
 かさねの声に振り向くと、蓋代わりの絵の隙間から、徐々に黒い煙が漏れ込んできていた。ということは、火ももうすぐそこまで近づいてきているのだ。残された時間は少なく、消防が近づいてくる音はまだ聞こえない。
 じあみはかさねの幼い顔を見て、それから窓の外へと目をやった。
 消防が間に合わないのなら、自分がやるべきことはひとつしかないと思った。

   *

 エピローグ

 木島館前に消防隊が駆け付けた頃、炎は木島館周辺の森にまで広がっていた。
 ログハウスの延焼耐性を虚仮にするように、建物は燃え盛る火に包まれていて、屋根は崩落がすでに始まっていた。
 木島館と周辺の森を完全に消火して、ようやく消防隊は木島館のなかを捜索し始めた。ここに七人の作家が住んでいるという情報は警察でも消防隊でも共有されていた。消火活動が完了する前に、屋外で焼死体が二つ発見された。後の死体解剖で判明したところによると、木島館から数百メートル離れた森の中で起こった火災の中心に倒れていたのが焼死体がSF小説家の加納栄瞬(71)。おそらく屋根裏の窓から飛び降りた衝撃で首を折って亡くなったと思われる死体は、SF小説家の十二所じあみ(27)。炎上しながら逃げ出そうとしていたのか、木島館に背を向けるかたちで玄関前に倒れていた焼死体がオカルトライターの支倉梶木(41)。三人の遺体の発見時点で、現場の人間は尋常ではない事件がここで起こったという事実を思い知らされていた。
 一階談話室には、暖炉に上半身を投げ入れた遺体があった。黒炭のような下半身に対して、暖炉に入った上半身は、ほぼ人の形をなしていないほどに焼け落ちていたため、身元の確定は困難だったが、消去法的に哲学者の古谷志道(50)の遺体と判断された。
 二階の部屋のひとつに、芸術家の白川連歌(29)の遺体があった。直接の死因は焼死ではなく、すでに殺害された遺体がここに放置されたまま木島館の炎上に呑み込まれたと思われた。彼女の身体には炎上以前に受けた外傷がいくつも見られた。両目が抉られ、舌が切り落とされ、首の骨が折られ、両脚の骨が粉砕されていた。心臓にはナイフが刺されていた。
 最後のふたりは同時に発見された。二階の私室にいたSF小説家の来坐奈津流(40)と、その部屋の正面の壁にしゃがみこんで力尽きたと思われるのが、SF小説家の三浦嗣治(72)だった。彼らふたりは、まるで向かい合わせになって息絶えたようにも見えた。しかし実際には、外傷が発見されなかった三浦に対して、来坐のほうはこれまでに発見された他の死体の外傷をすべて一身に受けたかのような激しい損傷具合だった。あまりにも外傷が多いために、直接の死因を断定することはとうてい不可能だった。
 この事件は〈木島館事件〉と世間で呼ばれるようになり、大衆の耳目を集めることとなった。出火の原因や、数多くの傷害の実行犯について確かなことはわからず、後に警察はこの事件を未解決事件とするしかなかった。
 亡くなった作家たちのファンを始め、オカルティックロマン読者たちは、木島館事件について仲間内で語り合い、同業作家たちによって、事件の影響を受けた作品が数多く書かれた。結果として、オカルティックロマンのジャンル史において〈木島館事件以前/以降〉という言葉が生まれることとなった。
 著名人が一度に多数亡くなったことで、世間の注目を集めることとなったこの事件を、警察は力を入れて捜査をしたが、芳しい成果はあげることはついにできなかった。
 唯一の直接的な手がかりと言えるのは、事件当日に警察と消防が現場に駆け付けるきっかけをつくった少女だった。
 少女は十歳ほどの容姿で、電話ではなく壱岐島警察署に直接やってきて事件のことを通報した。
「森のなかの家で、人がたくさん死んでる」
 少女は対応した警察官に、そう告げたという記憶が残っている。現場の消火作業が完了し、改めて事件のことを少女に確認しようとした時には、警察署内から少女の姿は消えていた。
 島民にいくら聞き込みを行っても、警察署を出てからの少女の動向はわからなかった。そもそもそんな少女が島にいたことを知る者すらひとりもいない。正体不明のこの少女は、木島館事件を扱ったその後のフィクションに頻繁に登場することとなった。

 

 

 

 

 

 

■引用文献
村上春樹『アンダーグラウンド』(講談社文庫)
J・G・フレイザー/訳青江舜二郎『火の起源の神話』(ちくま学芸文庫)

文字数:47671

内容に関するアピール

 作中に登場する〈オカルティックロマン〉という言葉は僕の造語です。この講座の課題を進めていくうちに思いついた、架空の小説ジャンルを指します。
 オカルティックロマンは、幾つかの先行ジャンルに対して、自分なら何を書けるだろうと考えていくなかで生まれました。大塚英志などが得意とする偽史的フィクション、現在は奈須きのこが先端を進んでいる伝奇フィクション、それからゼロ年代に多くの傑作が作られたセカイ系の物語群。それらをSF的アイデアでひとまとめにできないかと考えているうちに頭に浮かんだ言葉です(第三回課題実作「カンベイ未来事件」、第八回課題実作「十二所じあみ全集」と合わせて、「木島館事件」は三作目のオカルティックロマンを扱った作品になります)。

 最終課題ということで、自分が現時点でだせる一番面白い小説を書くことを目標に掲げて執筆しました。
 また、この一年間の課題を通して、自分という人間はどういうやり方ならSFというジャンルで能力を発揮できるか、ということを試行錯誤した末にひとまずたどりついた結果がこの作品となります。自分は凡人ですので、ものすごいセンスは持ち合わせていないのですが、なんだかんだ言いつつも、人間はひとりひとりそれぞれに「この勝負ならほかのやつに負けない」というものがあると思っています(それを見つけるのは本当に大変ですが)。今回の「木島館事件」を完成させられたことで、それがまた少し見えてきたような実感を覚えています。まだまだそこは強化できると思っているので、今後も頑張っていく所存です。

 ちなみに、本作品は梗概段階では「木島館事件」と「恩寵事件」という、いわば二部構成の作品「木島館事件/恩寵事件」として構想していました。ところが、「木島館事件」だけで規定枚数が尽きるというまさかのアクシデント(アクシデント?)に見舞われてしまい、なくなく今回は「木島館事件」のみを提出致しました。もちろん、こちらだけでも完結したおもしろい作品として読めるように書いています。

「木島館事件」が虚構の混乱の果てに進む話だとすれば、「恩寵事件」はそこからまた現実へと戻るような作品(平たく言えば社会復帰の話)として書こうと思っていたのですが、これはまたいつか書く場所を見つけたいと思います。幸いというか、もともと二作品とも独立しても楽しめる構成で考えていたので、おそらくなんとかなるはずです。

文字数:997

課題提出者一覧