赤砂

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赤砂

【0.0】
空を浮遊するのは何も鳥だけではない。
翼がなくとも飛び立つことはできる。あとは流れに乗ればいい。風に乗り紺色の海を真下に空を渡っているとやがて薄い雲越しに島が浮かび上がる。風向きが変わり降下がはじまると次第に雲が晴れ段々と東西を二分する一本のラインがみえる。最初は細い線にしかみえないが、地上へ降りていくにつれ広い道だとわかる。島に着地すると道路は地平線の先まで伸びていて、ここからの道のりは果てしないのだと痛感する。再び風が吹かない限りは堆積したままである。
一匹の蟹が排水路から地上に上がってきた。そのまま道路を渡りはじめる、細い足を飄々と動かしながら。
そして轢かれた。卵をつぶすような音が響いた。甲羅が、からからと道路を転がり、それもまた轢かれる。蟹たちは次々と排水路から出てくる。そして道路を渡る、なぜかは考えずに。
風が吹けば進むだけだ。つまりは風次第。それは偶然の空気の流れ、誰かが決めたわけではない。ただ、その流れこそがこの地に導いた。

国道を挟み東側には人々が暮らす街が点在し、西にはかつて外国の基地があった。基地は既に撤退していて跡地にテーマパークの建設が予定されていた。そこには広大な敷地と色鮮やかな海が広がっていた。観光施設を建設するには充分な場所だった。島は建設によるゴールドラッシュに沸いた。

だが、それが海の向こうからやってきた。
最初は誰も気にしなかった。だが段々と穏やかに島は覆われはじめ、気づいたときには西側を侵食していた。国道にも流れ、遂に東側に到達しはじめた。それでも人々はどうにか上手くやろうとした、侵食されようとも此処で暮らしていくことを選んだ。
『赤砂』とともに生きることを。

 

【1.0】
「パイン、飲みすぎだ。もうやめろよ」
「うるせぇな、バーテンが酒止めるんじゃねぇ」
アップルはカウンターにうなだれたパイン・タットの空きグラスをシンクに片づけた。それから伝票にボールペンでチェックを入れた、もう13杯目だ。新しいグラスをカウンターから取り出しジンバックを作る。氷を4個、ジンを50ml、スライスレモンを絞ってグラスに入れ、緑のくびれたジンジャーエール瓶を丁度一本。最後の滴が落ちるまで瓶を傾ける。マドラーで上下に数回かきまぜると炭酸の小さな泡がグラスの飲み口に向けて浮上する。それをすくって素早く手の甲に乗せ味見をする。どんなに酔っていようとも客であることに変わりはない。グラスの底を拭いてパインの前へ新しいコースターとともに置いた。その間わずか二分ほど。しかし、その二分間で彼の姿は消えていた。そしてフロアから怒声が上がった。
「おい、てめぇ。何してんだ」
怒号の先には半そでのTシャツを着た男たちがいて、その内の一人がダーツ台にパインを押しつけていた。男のシャツの背中には『SRS』の文字がプリントされている、体操着のようなこのシャツはSRSのユニフォームで男の背筋でその文字が横に広がっていた。SRSの人間たちは体格がいい。それは日々肉体労働に従事しているせいだろう。事実、彼らがいなければこの島の暮らしは成り立たない。島民の多くがSRSないしはそれに関連する事業に就いている。SRSは待遇もよく、これといった産業もない島民にとってSRSに入ることは一種のステータスのようなものとなっていた。それを目当てによってくる女たちも多い。それがこの男たちがバーにまでダサいTシャツを着てくる理由だろうとアップルは思った。
「人の女に手出してんじゃねぇよ」
「うっせーな、じゃあ、その体操着みたいにお前の名前でも書いとけよ」
すぐに男の拳がパインの顔面に入った。周りの客たちから歓声が上がる。ダーツ台が壊れないかアップルは心配だった。パインは立ち上がってアップルを一瞬みた、それから男を呼んだ。
「おい、体操着。表出ろ、赤白帽でもかぶって来い。体育の授業につき合ってやるよ」
大丈夫だろうとアップルは思った。それからパインの『23』と書かれた伝票に二重線を引いて『1』と書きなおした。この辺りには何もない。ここはかつて国道を挟んだ対岸の基地のおかげで、華やいだ歓楽街だった。週末に限らず、月に二度のペイデイ後には平日にも関わらず朝まで繁華をみせた。しかし赤砂の飛来で島は変わった。自慢だった青い空には砂が舞い一年のほとんどが曇り空に覆われ海も街も淀んだ。人々は家から出ることも少なくなった。外出する際には防砂マスクをはめることも多く、その影響で歓楽街は寂れていった。その後、SRSがきて島の東側に赤砂は飛来しなくなったが、それでも歓楽街に活気が戻ることはなくアップルのテナントの入るビルだけがひっそりと営業を続けていた。そのころを知る組合の年寄りたちからは、ここは最早、死んだ街だとよく聞かされた。それでも国道沿いにある街でたった一つのアップルのバーである『オアシス』には若者たちの欲や性や憤りや怒りなど、とにかく発散せずにはいられない何かの吐き場所として機能していた。何事にも限度はある。よほどのことでなければアップルも警察は呼ばなかった。ラインを超えるまでは沈黙するのだと彼は決めていた。荒廃した街であっても週末には幾分かの賑わいが辛うじてある。それで十分だと彼は考えていた。

パインと男はオアシスから出て国道の脇に立っていた。店内の客もほとんどが国道に飛び出し二人の喧嘩の観客となっている。最初に仕掛けたのはパインだ。彼の左拳が男の下顎をかすった。男は自分より一回りも小さい男に軽くとはいえ一撃をくらったこと、しかもそれが今夜ものにできるかもしれない女の前でと思うと激高した。負けるわけにはいかない。右腕を力いっぱいに後ろへと引いた。明らかに男は力みすぎていた、普通ならばそれでは強い当たりにはならない。しかし酒場の喧嘩は単純に腕っぷしの強さだけでは決まらない。どれほど酔っているかは大事なポイントだ。喧嘩の様をオアシスの窓から眺めていたアップルは男の伝票をみた。そこにはカルアミルク『2』と記されていた。パインの負けだなと彼は思った。それからダーツ台を確認し、壊れていないことに安心した。アップルが島にきたのは十年前、もう赤砂が西側にかなり堆積していたころだった。島に観光でくる人々は多くいたが住みつく者はほとんどいない。赤砂が飛来してからは尚更だった。アップルがこの街にきたとき人々は彼を大変に珍しがった。前のオーナーからただ同然で店を引き継いだアップルだったが資金はほとんどなく、居抜きで使用し足りないところは自ら修理しながら開店した。そのとき手助けしてくれたのがパインだった。男の右腕は見事にパインに当たった。道路での歓声が大きくなる。
夜が明けはじめた。アップルは店の片づけをすませると、ごみ袋を回収ボックスに放り込んだ。オアシスの鍵を閉め、帰路につくためバイクで国道に出た。反対車線には基地との境目だった金網のフェンスが残っていて、そこにパインがうなだれていた。彼は顔を腫らし、金網にもたれかかっていた。国道沿いのフェンス越しに置かれた吸引機は昼夜を問わず轟音を立てている。
「帰ったのかと思ってたよ」
アップルはバイクを側道に停めた。
「まだ金払ってないだろ」
「ジンバック1杯分で飲み逃げか、ダサいな」
「1杯?」
「嗚呼、店を壊さなかったからサービスだ」
「あいつ、どんだけ飲んだんだよ」
「カルアミルクが二杯だ」
パインは大声で笑いだした。それに合わせて金網が揺れる。
「ミルク……やっぱあいつ子どもだぜ。どうりで体操服なわけだ。おい。アップル、未成年飲酒だぜ、出禁にしろよ。じゃないとお前も捕まるぞ」
「とにかくもう帰れ、朝になるぞ。それに強くないけど西は赤砂が発生している」
「毎日じゃねぇか、赤砂なんて。ただの砂山だ」
西側には赤い砂丘が広がる。吸引機がなければ東側もこうなっていたのだ。
「送るか」
「いい。大丈夫」
「そうか」
アップルは南側へと去っていった。他に道路を走るものは何もない。金網の向こうには赤砂に覆われた建物が薄っすらみえる。それはもう赤砂に飲み込まれてしまっている。
「観覧車だっけ、たしかあれは」
パインは幼いころの記憶をたどった。彼が子どものころ、赤砂がくる前はまだ基地のなかに入ることができた。風が強くなり赤砂が吹いた。起き上がろうと金網の網目に指を引っ掛けた。何かに捕まえられたような感覚があった。吸引機から漏れたのだろうか、指には赤砂がわずかに付着していた。
「そういえば、あの子……」
パインは以前にもこのような出来事があった気がした。子どものころ、遊んだ基地のなかのあの女の子……たぶん、それは彼の初恋だった。しかし名前が思い出せない。ただ、あの子はたしかに金網越しに俺の指を握った。パインは立ち上がり家を目指し歩き出した。ゆっくり歩けば二十分ほどの道のりだった。西の空を見上げる、この島では当たり前の光景だ。日光が反射してフェンスの向こうの空だけが赤く染まるこの景色が……

 

【2.0】
玄関のインターフォンの音は二階まで響くほど大きく、その音でパインは目を覚ました。時計をみるともう夕方だった。ベッドから起き上がり、一階へ降りていくと祖母のユノ・タットがヘルパーから父親を受け取ったところだった。
「じゃあ、また明日。失礼します。あっ、パインさん。こんばんは」
「どうも」
「ありがとうございました」
祖母は丁寧に頭を下げた。扉を閉めて振りかえり階段にたたずむパインをみると目を少しだけ伏せた。
「なんか食べるかい」
「嗚呼」
「用意するからマツを部屋に連れていきな」
パインはマツの車椅子を押してリビングへ向かった。勝手に車椅子が動かないように脚のストッパーを入れテレビを点ける。しかし父親がそれを観ているのかはわからない。天気予報の後に赤砂情報が流れる。
――明日の赤砂ですが概ね平常通りで、この時期らしい量となるでしょう。吸引機の稼働率は86%です。大陸から赤砂が飛来するようになってから島では赤砂情報が流れるようになった。しかしそれは今ではほとんど意味を成さない。SRSの設置した吸引機が大陸からの赤砂を吸い込み、島の東側にあたる居住区には飛ばない。なぜ今も赤砂情報が流れるかはわからない。SRSで働く職員たちに向けたものであろうか。画面が切り替わりコマーシャルが流れた。

砂漠でアラビア風の衣装を身にまとった汗だくの男が砂を固めてかまくらを作る。
女が出てきて二人はかまくらのなかに入る。雨や台風が襲うが、かまくらは崩れない。
かまくらから二人が出てきたとき女の腕には赤ん坊がいる。
男の容姿がだんだんと老いていき、家族が増えていく。
画面が暗くなり、文字が浮かび上がる。

――あなたのイエを守る SRS

「ごはん」
祖母の声がして父親を置いて部屋を出る。ユノとパインは夕食を無言で食べた。プラスチックの食器の音とリビングのテレビの音がよく聞こえた。
「明日は普通らしいよ」
「何が」
「赤砂」
「嗚呼、そうかい」
食器を流し台に置いた。祖母の食器も片づけようとしたが私が洗うからと断られた。
「パイン、あんた今日は……」
「バイトだよ。夜勤だからこれから」
「そうかい」
パインが家を出ていくとユノは食器を洗いながら亡くなった旦那のことを考えた。台所の出窓からは一族の名前のついた地区、タット地区が見下ろせる。タット家は古くからこの地区の名士としてあった。彼女の旦那も市長を務めた。二人の息子の内、次男のタイソンはSRSの島の統括部長として勤務している。そして彼は父親と同じような道を歩むだろう。長男のマツは若いころからふらふらと放浪し、家のことは何一つ考えていなかった。タット家のことを聞いてもタイソンに任せればいい、財産も何も要らないとマツは平気でいい放ったのだ。タット家が外からどうみられるかを長男のマツは考えていなかった。長男が家を放棄することは本人が了承しても世間はそうは許さない。そういう意味ではマツが植物状態となったときユノは安堵していた。これで余計な心配はない。ユノは悲劇の被害者であると同時にタット家を平和に次男のタイソンに託すことができると思った。
タイソンは今年の市長選に出る予定だ。SRSの役職にあり、加えてタット家の名前があれば新人であれ当選するだろう。これで旦那にも無事に顔向けできる。マツもタイソンも大丈夫だ。しかし問題なのは孫のパインだ。ほんとうであれば孫とも認めたくない。まともな仕事もせずに飲み歩いている日々だ。彼の仕事はタット家にはふさわしくない。そんなものユノは内心認めていなかった。おまけに喧嘩っ早く近所でも噂になっている。しかしそれでもあれの半分はタット家の血なのだ。血か……そういう意味で彼はある意味マツに似ていた。そして何よりパインにはあの女の血が入っているのだ、よそ者の血。そう思うとユノは憂鬱な気になった。

パインはスクーターで国道に出ると一気に北上した。左側には金網が延々と続いている。念のために防砂マスクをバイクに引っ掛けてはいるが赤砂が飛ぶことはもうない。それがあのころわかっていたらどうなっていただろうとパインは思った。当時、赤砂についてよくわかっていなかった。飛来したときもただの砂嵐が起きている程度にしか誰も思わなかった。砂はパウダーのように細かく、蓄積すると薄い赤みを帯びた。人々はそれを赤砂と呼んだ。
無知が原因だとパインは考えていた。それで彼の父親マツ・タットは植物状態になった。最初の赤砂が飛来したのはまだパインが子どものころだった。彼の父親は若いころから、島の人間としては珍しく外の世界の様々な場所を旅した。そこで様々な国の料理を学び、島に戻ってきて軍のキッチンで料理長を務めた。料理の腕は大変な評判で軍の高官などが島を訪問したときにもその腕をふるった。軍の撤退がはじまるとマツは自身の店を持とうと考えはじめ、その資金を貯めるべく基地の解体作業を行う建設会社の現場でコックとして再就職した。当時、基地の解体作業は島の基幹産業で建設会社の食堂のコックとはいえ、それなりの給与がもらえた。解体の作業場は跡地全土に広がり、場所によっては外に出るだけで昼休みの大半が取られるほどの浩浩たる土地であった。そのため食堂から各作業場に弁当を配達することが一般的でマツも昼時は配達をおこなった。その間も赤砂は強くなり、バイク移動の際にハンカチで顔を覆う日も多くなった。弁当に入れるケースに布をかぶせ、砂が入らないようにした。赤砂が吹くことはそれまでもあった。撤退するころから大陸側の季節風に乗って定期的に島に吹いていた。だが建設がはじまると短期間で赤砂の量は劇的に増えだした。最初に建設された人口ビーチは整備からひと月もしない間に赤砂によって埋められてしまった。オーシャンビューを売りにする予定だった観覧車からは満ちることのない砂浜しかみえなくなった。
――とはいえ、砂。所詮「砂」だと誰もが思っていた。
ある日、いつも通り各エリアに弁当を運んでいる最中に強烈な赤砂が吹いた。それは現場の足場を崩すほどの力で付近を通っていたマツもそれに煽られ砂に埋もれた。幸い、昼時でみなが作業を一休みしていたために生き埋めになった人々の発見は早かった。マツを含む作業員たちは砂から救出され病院に運ばれた。全員命は助かったが、しばらくしてじん肺に似た症状が彼らに現れた。そのときにはもう手遅れだった。それまで自己判断で任されていた作業時の防砂マスク着用は義務となり、吹く砂の量によっては作業が中断される日もあった。しかし、それも無駄だった。赤砂は入り込んできた。建設現場の事務所や簡易食堂のわずかな隙間、ロッカーだけではなくトイレの蛇口や調理場の冷蔵庫の奥からも。まるで意思を持って侵攻でもしているかのように。そしてもう一つ、赤砂がじん肺と異なった症状を引き起こした。何人かの作業員の身体が麻痺するようになり、やがて動かなくなった。そして彼らは決まってうわ言のように何かをぼそぼそとつぶやいた。麻痺した従業員たちの家族は集団で建設会社に対して訴訟を起こした。裁判は大きく取り上げられ建設会社の経営は傾き、倒産目前まできた。そのとき、外国企業のSRSが突然、破産寸前の建設会社を買い取ることを発表した。同時に島の西側の基地跡地再開発の権利を得た。作業員や遺族たちには莫大な賠償金が支払われた。SRSは海岸線や国道のフェンス沿いに数十メートルにも及ぶ巨大な吸引機をいくつも設置し赤砂が島の居住区に飛来するのを防いだ。代わりに跡地には赤砂が蓄積し続けた。かつての基地は赤い砂丘と化した。国道を境界線に島の東と西では全く異なる環境が生まれた。
SRSは赤砂を加工して販売している。セメントなどに混ぜると粘り気が出て固まったときの強度が増すようだった。コストも低く世界中でこの島にしかない赤砂はある意味で貴重な資源だった。SRSの工場は次々と島に建設され島民の多くがSRS関連の仕事に就いた。元々、資源の乏しい島にとって再び大きなゴールドラッシュだった。SRSが島に進出してきて十数年経った。今では赤砂から島を守る防護と経済を活性化させる両方の役を担っている。

 

【3.0】
年度末には道路舗装の工事が多い。大きな幹線道路では日中の舗装はできず、深夜の工事が中心となる。パインのような者たちにとっては稼ぎ時だ。スクーターで走るこの時間帯の国道は車通りも少なく、彼は気分よく走ることができた。スピードを上げると夜風が細くなり肌を擦っていく。この時間は何も考える必要がない。単純にアクセルとブレーキを繰り返すだけだ。反対車線に若い少年たちが改造したバイクで音を立てながら走るのがみえた。彼らはマフラー音にも負けない大声で騒いでいた。少年たちが去ると道路は再び静かになり、パインは自分がいつの間にかこれからの仕事のことを考えていたのに気づいた。フェンスの向こうの砂丘をみていた。事務所に向かうために車線を移しウィンカーを出す。フェンス側の脇道を下り、プレハブ式の事務所の前にスクーターを停めた。車通りの多い場所や大型車の多く通る道路は年に何度か道を補強する必要がある。道路は大きく四つの層に分かれ、地上に近いほうから舗装面、路盤、路床、路体となり、それぞれアスファルト、石、砂、土の層から成り立っている。パインの勤め先では最上層のアスファルトの補強を行っている。3cm程度のアスファルトの層をフィニッシャーやロードローラーなどで舗装していく。事務所に入り作業服に着替えると現場監督がみなを集めた。
「今日からはSRSさんの敷地だ。赤砂の道路舗装だ。ゲートから入ってすぐの国道に近いエリアだ」
「海側じゃないんですね」
「海側は赤砂が強すぎていけない。とくに海岸線の吸引機付近は砂嵐みたいになってるからな。担当するのはほとんど飛ばないエリアだがそれでも念のために防砂マスクは着用するように」
「国道が良かったっすね」
パインは不満そうに漏らした。
「赤砂地区は嫌か」
「SRSは色々制限が多いじゃないですか、検査とかもあるし」
「じゃあ帰れ。仕事に文句いうんじゃねぇ。ほら出発するぞ」
その一言ともに作業員たちは外のトラックに分かれて乗り込んだ。パインも事務所からマスクとヘルメットを取りトラックに乗り込んだ。トラックは大きく旋回し国道に出た。
金網から向こうは全てSRSの土地となっていて作業員たちは入口で入念な検査を受けなければならなかった。ゲートに着いたトラックは一旦脇に停車し作業員たちは車から降り一人ずつSRSから簡易パスを渡されそれを身に着ける。何をチェックしているのかわからないがゲート検査にも異様に時間がかかる。作業員たちは煙草をふかしながら終わるのをひたすら待っていた。トラックの荷物チェックが終わるとSRS警備員の車に先導され現場まで向かうことになる。ようやく警備員の車がゲートに到着し、パインたちはトラックに再び乗りこみ始めた。
「あれ、パインじゃん」
「リュック」
リュックはパインの地元の同級生で中学の時に同じ部活で、仲間内では一番早く結婚した。警備員の制服を着た彼は、先輩がゲートの係員と話している間にパインに近寄ってきた。
「警備員になったのか」
「そう。今年入社してさ。まずはここから。養育費とかもあるし」
「えっ、別れたのか?」
「嗚呼。先月、離婚が成立した」
「なんで」
「彼女のほうが稼ぎが良かったしな。それに元々、互いに結婚するつもりはなかったから。子どもができたからな。けじめで籍入れただけだ。愛なんてなかったさ」
「おい」
ゲートのほうからリュックに声が飛ぶ。
「はい、すいません。じゃあまた飲もうぜ」
先輩に呼ばれリュックは走ってゲートに行き書類の確認をした。それからリュックの運転する警備用の車に先導され、トラックはゲートを通過し海方面、かつて海のあった方向へと道路を進む。全員防砂マスクを装着した。ひとたびゲートをくぐるとそこは別世界のように感じる。一面、砂しかないのだ。かつての基地やテーマパークになるはずだった建物を覆いつくし、所々で巨大な丘を形成している。赤砂は風が吹くとさらさらと音を立てる。廊下を布で擦るような細い音。防砂マスクからみえる夜の砂は暗闇と見分けがつかない。

作業ポイントについた。作業員たちはトラックを降りて準備にかかる。アスファルトの道路は所々、微妙に隆起している。
「なかに砂が入ってるな、これは」
現場監督がいった。道路の最上部にあたるアスファルトはコンクリートに比べると脆く傷が入りやすい。SRSの道路となれば大型トラックなどの行き来も多く、普通の道路よりも劣化が早くなる。その傷から赤砂が入り、道路がでこぼこになるのだ。赤砂は極力回収しなければならない。どうしてもという場合はアスファルトとともに埋めるが貴重な資源はポンプで吸い、SRSに引き渡すことになっている。砂は安全靴で踏んでも跡が残らないほど柔らかい。コンクリートに変えれば道路の持ちは良くなるが乾燥にかなりの時間がかかる。数時間で乾くアスファルトと比べものにならないほどかかる。だからパインたちのような業者が都度都度、メンテナンスを行う。彼らのような下っ端はまずアスファルト作りを行う。アスファルトを固めるための凝固剤の袋をトラックから運ぶ。凝固剤は硬い質の紙袋に入っていて寒い時期などは袋の角で手を切ってしまうことも少なくない。それを台車に数袋乗せて押す。それを回転する機械に流し込む。機械のなかでは高温で加熱されたアスファルトと骨材と凝固剤が混ざりアスファルト合材が生まれる。次にパインはスコップマンとして機械の通る前に道路を水平に均す作業をおこなう。轍が生まれないように水平に均すと、フィニッシャーとロードローラーがアスファルトを敷いていく。高温のアスファルトの影響で道路から煙が上がる。アスファルト作りとスコップ作業を繰り返すと冬や深夜でも汗だくの作業になる。アスファルトは百度を超し、その熱気がマスクの隙間から入ってくる。熱は体力と集中力を奪う。パインは何十回と往復している間に頭がふらついた。そして運んでいたポンプで吸った赤砂を間違えて凝固剤のポリバケツに入れてしまった。液体のような砂が粘土のように固まった。
「おい、何してるんだ」
「すいません」
「まぁいい。埋めればばれない。これはどうしてもという場合だ」
現場監督はローラーの下に固まった赤砂を巻いた。

「おし、休憩しようぜ」
歓声が上がり、作業員たちはトラックや道路に座り込み防砂マスクを外した。本来ならば着用しなければならないが実際に高温のなかで作業を続けていると、どうしても休憩中は外したくなる。パインもマスクを外し、タオルでなかの汗を拭きとった。夜風が吹くたびに汗がひんやりと冷えていき心地よさが作業員たちを襲う。同時に赤砂が舞い、パウダー状の細かい砂が首筋や露出した肌に付着する。遠くの国道からサイレンが聞こえる。あの少年たちだろうか。パインはフェンスの奥をみた。国道はみえない。砂しかなかった。そのとき遠くのフェンス沿いに人影らしき者をみた。砂でよくはみえないが二人……いや三人いるようだ。スコープを取り人影を追った。みえたのは三人組の外国人の男たちだった。みな半ズボンにTシャツ姿で一人は肩にオーディオコンポを担いでいる。ヒップホップグループのような風貌だ。男たちは赤砂の丘を南に向けて歩いていく。あり得ない光景だった。フェンス内はSRSの人間もしくは許可を得た者以外の立ち入りは禁止されている。ゲートで入念なチェックを受けるし、まるで近所を散歩するように……信じがたい光景だった。スコープを外すと、それはまた赤砂に覆われやがてみえなくなった。
「どうした」
「いや人が……」
「そんなわけないだろ」
みなが笑った。スコープで何人かが覗いたが姿はみえなかった。
「いや、たまにあるぞ」
アル中爺さんが入ってきた。
「ほんとかよ、爺さん」
アル中爺さんは現場で一番年上の作業員で、力仕事はできずひたすら交通整理ばかりしていた。いつも事務所に古い自転車で乗りつけ、前かごに酒の空き瓶を入れたままにしていた。彼の顔が紅潮していない日はなかった。言動も日によって変わり、虚言の癖があるのか酔いなのか、そもそも彼の性格なのか誰にもわからず、まともに相手をする者はいなかった。
「パイン、お前もそんなのみるようになったら先が知れてるな。アル中爺さんと同じレールだな」
「いや、それ以上かもしれんぞ。こんな若いうちからなら」
「ひっひっ、パイン。お前も今日も飲んできたのか」
アル中爺さんはポケットから酒瓶を取りだす。
「いや、飲んでないですよ」
夜風が吹いて赤砂が舞い、月が赤らむ。現場監督の合図で彼らは再び作業に取りかかりはじめた。

朝方帰ると父親が居間から窓をみていた。相変わらず何かをつぶやき続けている。
ベッドに潜り、砂のなかのあの三人組を思い浮かべた。彼らは一体なんだったのだろう、見間違いか。あのあともう一度スコープで探したが結局発見することはできなかった。赤砂の丘を思い浮かべ目を閉じる、毛布が温かい。

砂の靄が一面に広がる。三人組はフェンスの奥に消え、靄かかった砂からあの少女の顔が現れた。そこではパインも少年に戻っていた。少女は金網の向こうの少年をもう一度振りかえった。父親の手を振り払い金網に駆け寄る。金網越しに握る少年の手は父親の分厚い手に比べ、あまりにも頼りなかった。金網に小鳥たちがとまっている。「逃げて」それが精いっぱいの言葉だった。
少年は金網の向こうの少女がもう一度駆けてきたことが嬉しかった。少女が今にも泣きそうな顔をしている理由がわからなかった。きみは誰だ?少女は答えず、金網に手をついた。金網越しに握る少女の手はかぼそく、守らなければいけないと少年は思った。しかし、それを強く握ると感触は崩れ砂となった。少年の前には、もはや何もなく「逃げて」とつぶやいた少女の声が彼の耳にざわざわと残り続けた。

 

【4.0】
その妙な夢はパインをとらえて離さなかった。だが数日経っても少女の名前を思い出すことはできなかった。はじめは大したことのないことのように思えていたが段々と彼は気になって仕方がなくなってきた。旅行先で不意に家の施錠が気になるような。図書館にいけばわかるかもしれないとパインは思った。彼女の父親は駐留軍の司令官で、離任式のときにも新聞記事になっていたはずだ。彼の名前を調べればわかるかもしれない。

「バックナンバーですね。日付や新聞名がわかればデーターベースで検索できるのですが……」
「実はわからなくて。基地が撤退したときの駐留軍司令官の名前が知りたいんです」
「嗚呼、基地の撤退ということは19年前ですね。お待ちください。それくらい大きい出来事なら可能かもしれません。お呼びしますので館内でお待ちください」
図書館にくるのはいつぶりだろうとパインは思った。平日の午前中は老人が多い、新聞を読んだり書き物をしている。咳払いが異様に大きく館内に響く。時折幼い子どもの声も聞こえる。司書が戻るまでの間、返却されたばかりの本が並ぶ棚を何気なく眺めていた。こういうところの本に魅力があるように思えるのは不思議だった。一冊の本が目にとまった。民話集だ。パインは父親がよく若いころに旅をした各地の民話を聞かせてくれたことを思い出した。
「お待たせしました」
本を手に取ろうとしたとき、司書がパインの肩を優しく叩いた。
「どうぞ、閲覧ブースへ」
司書のみせた画面には二つの大きな記事があった。
「やはりお探しの記事はすぐに発見できました。A紙、B紙ともに一面でも三面でも扱っています。どちらの新聞でしょうか」
エルバト・ローズ司令官。その名前が目に飛び込んできたとき、パインは一気に少年時代へ引き戻された。そして彼女の名を漏らした。
「イバーナ!」
司書は困ったような顔をみせた。
「もしご希望であれば印刷もできますが」

A紙記事:駐留軍トップ離任 全軍撤退に向けての動き加速か
<新大統領が就任するのに伴い、前大統領に任用された各国駐留軍司令官は任地を離れることになった。エルバト・ローズ司令官も含まれ、11日に離任の挨拶を行った。ローズ氏は島との関係改善に尽力していたが駐留軍側によると離任は新大統領の意向であると説明し、将来的な全軍撤退に向けた方針をはじめて認める旨の声明を発表した。就任当初、ローズ氏の力量には疑問を持つ声も上がっていた。だが、時間が経つにつれ島との間で調整を行う手腕に評価が高まった。特に駐留軍の基地問題では、安全保障上の措置が島内事情に左右されることを嫌がる軍や政府に対しローズ氏が島の立場を代弁する場面もあった>

B紙記事:島民の願い叶う 駐留軍撤退へ
<駐留軍のエルバト・ローズ司令官は10日、島内の駐留軍定例記者会見において離任を前に記者団と懇談し、10年以上に及んだ島での生活を振り返りつつ「前向きな思いで帰国する」と両者関係の今後の拡大に強い期待を表明した。平和条約問題についても「幅広い分野で話を進め、前向きな要素が蓄積されていけば、どこかで打開につながる」と強調した。ローズ氏は在任中、冷え込んだ島との関係を修復することに注力した。懸案だった大統領来島も昨年、ついに実現させ「今はまた前向きに戻り、あらゆる協力の仕組みが再開されている」と指摘していた。しかし大統領の交代に伴い事態は急変した。離任決定後の記者会見において、一時帰国した際、久々の再会に喜んで抱こうとした母親から「誰?」と冗談をいわれた衝撃を語り、帰国後は「もっと家族との時間を増やさないといけない」と述べた。娘のイバーナちゃんは「おじいちゃんおばあちゃんと新年を迎えたい」と笑いながら話してくれた。ローズ氏は来月帰国する予定となっている>

プリントアウトした紙を持ってベンチにパインは座った。記事の写真にはエルバト・ローズ司令官と幼いイバーナが写っていた。父親の横で大きな口を広げ笑うのは間違いなく金網の向こうのあの少女だった。
イバーナ・ローズとパインが出会ったのは基地の撤退する二年ほど前、島全体に駐留軍への反発が高まりつつあるころだった。反発を少しでも和らげるために駐留軍も普段は入ることのできない基地を年に何度か地元民との交流のために開放し、フェスティバルをおこなっていた。父親とともに基地を訪れたパインはフェスティバルの遊具エリアで遊んでいた。ビニールを膨らませ巨大な龍をかたどったすべり台や、本物の戦車のなかに入れるブースや軍のスクラップで作ったゴーカート、島にはないハンバーガーの路面店などが連なっている。
パインは四方をネットで囲まれた正方形型のトランポリンで跳ねていた。そこには同年代の子どもが多くいて、跳ねる度に底に転がるゴムボールが浮き上がる。言葉は違えどはしゃぐ声は同じだった。子どもたちは自分たちとゴムボールが同化したように思えることに興奮した。パインも同様に興奮し勢いあまってトランポリンの床に転がるゴムボールにつまずき転倒した。同じように転倒した子どもと頭がぶつかった。イバーナ・ローズであった。イバーナは青紫の瞳を潤ませ泣きだした。パインはそれを呆然とみていたのだが、それは女の子を泣かせた原因を作ってしまったことではなく、はじめて間近でみる瞳の美しさに対してだった。それまで少年のなかに「美」に対しての感覚は何もなかった。だが少女の美しさに少年は美を知り、同時に恋を知った。しかし少年のなかにはじめて沸いた感情を説明することのできる適切な言葉はまだなかった。ゆえに彼は呆然とイバーナをみつめるしかなかったのである。外の係員が気づいてトランポリンのなかに入ってきた。どうしたのかと尋ねたがイバーナは額を押さえて泣くだけだった。ぶつかったんだとパインはいった。係員はきみは大丈夫かと聞き返し、その答えを待たずにイバーナをトランポリンの外へ連れ出した。あとを追ってパインも外へ出た。地面に立ったとき、彼はまだ自分があの正方形のなかで跳ねているような浮遊感に包まれていた。少女は係員に抱きかかえられ、父親らしき男の元へ連れていかれた。咄嗟に少女の片足が裸足であることにパインは気づいた。人混みのなかに落ちた少女の肩靴を拾い、彼女の元へ走った。少女の父親はたくましい左腕に彼女を抱きかかえながら、ありがとうと微笑んだ。少女は父親の肩にもたれパインのほうへは見向きもしなかった。
「エルバト!」
人混みのなかから声がした。
「マツ!」
男はパインのときと同じように声の方向へ笑った。そこにはパインの父親が立っていた。父親はエルバトに駆け寄ってはじめて我が子に気づいた。
「どうした、パイン」
「パイン?」
「息子だ、俺の」
エルバトは人混みでも響く大きな声でもう一度笑った。
「そうか、お前の息子か!そりゃ、いい男だ」

パインはバーガーショップに入店した。ここでも店内は老人たちの溜まり場と化していた。独特の油の香りを漂わせながら彼らは二層になるバーガーとフライドポテトを食べながら大声で話をしている。パインはホットコーヒーを飲みながらイバーナ・ローズの名前を検索した。SNSには多くの同名のアイコンたちが並ぶ。その数は五十以上あった。パインは検索結果を上から順番にいくつかなめたがすぐに止めてしまった。第一、イバーナ本人が登録しているのかどうかもわからないし結婚して名前が変わっている可能性だってある。それに彼女と別れて二十年以上経っている……アイコンの写真やプロフィールをみてもきっとわからないだろう。それに見つけたところでどうするというのだ、きみの夢をみたから連絡したとでもいうのか。あまりにも馬鹿らしい。親しかったのも二十年以上も前のことだ。それ以来会っていない友人はなんなら初対面よりも遠い存在だ。
当時、基地へ入るには駐留軍発行の許可証が必要だった。しかしパインはマツの所有する許可証を持ち要らずともエルバトの家へ遊びにいくようになっていた。ゲート管理員も毎日のようにくる幼い少年に許可証を求めることはいつのまにかなくなっていた。それは基地の最高責任者であるエルバト・ローズの署名が大きかったのかもしれない。パインの家から坂道を下り、国道を渡ると金網越しに延々と基地が続く。フェンスの上部にはそのころ、有刺鉄線が張り巡らされ「高電圧注意」の看板が掲げられた。だが有刺鉄線には小鳥たちがとまっている。それを脇にみながらひたすらゲートに向けて彼は走った。ゲートにはいつもイバーナと母親が迎えにきてくれた。母親はパインを後部座席に乗せ、軍の居住区へと進む。信号もなく、碁盤目状にきれいに整備された通りだ。ほんとうに模型みたいだと少年はいつも思っていた。通りを抜けると湾岸線に出る。海は時折波を上げ海岸ではよく若い兵隊たちがサーフィンをしていた。そこを進むと青々とした芝の庭がみえる。そこがローズ家だった。パインとイバーナは年齢も同じで兄弟はいなかった。彼らは善き友人となった。しかし、それ以上の思いはまだ二人とも言葉で表現することはできなかった。それには二人の母語が異なることも大きく影響していたかもしれない。イバーナは絵本が好きで母国だけでなくパインの国の言葉でも本を読んだ。それがローズ夫妻の教育方針だった。そのためイバーナも幼いころから母語と島の言葉、二つに触れて育ち、イバーナは拙い言葉でパインとコミュニケーションを取っていたが彼らには十分な容量だった。その日もパインは父親の仕事が終わるまでローズ家で過ごしていた。マツがパインを迎えにやってきたのはちょうど夕食時だったこともありイバーナの母親は食事の準備を進めていた。
「いい匂いだ。少しいただいてもいいかい」
「あなたのようなシェフに私の料理を食べてもらうなんて恥ずかしいわ」
「そんなことないさ。僕が作るのは常に不特定多数の人に向けてだ。誰かに向けて作る料理があるならそれはきっと素晴らしい味だ」
パインたちは夕食をともにすることにした。料理が完成するまでの間、マツはイバーナとパインに絵本を読んでいた。幼い少女の博識ぶりにマツは驚いた様子だった。
「イバーナはすごいな。こんなに話を知ってるなんて」
「そうなの、イバーナはお話が好きみたいで」
キッチンから声がする。
「それは素晴らしい。大事なことだ」
マツは絵本を閉じて二人の子どもを集めた。
「いいかい、これから話すのはある島に伝わる昔話だ」

 

『耳切前夜』
――耳を切るときはいつも歌うことにしている、耳に歌声を保存しておくために。

外は若干の明るさを帯びていたが、それは昇りはじめた太陽ではなく月の残光によるものだった。そのころ、村人の一人が海岸に向けて歩いていた。村で一番釣りのうまい男だった。満月のあけた翌朝はよく魚が釣れる、王子誕生の宴に奉納するための魚を狙っていた。砂浜がみえてきた。いつもなら夜中に騒ぐ蟹たちが今日は静かだと感じた。海岸には先客がいた。集落で噂になっている、あの男だ。男は集落から離れた崖に一人で住んでいて、その崖に神に祈る台を建てた。つまるところ男は坊主だった。しかし、男の祈念する神はこの国では聞いたことのない神であった。そもそも男がどこからきたのかは誰にもわからなかった。しかし坊主を名乗っている以上、下手に集落から追い出すことも神の逆鱗に触れる気がし、追い出すことはできなかった。とにかく坊主の存在は認めるが誰も関わらなかった。
村人の男はとっさに茂みに隠れた。何も悪いことはしていない。しかし、何かいけないことのような気がした。坊主は砂浜を歩きながら木の棒で砂を掘り、何かを拾い上げては次々に籠に入れていった。貝でも取っているのだと男は思った。だがよくみれば坊主は釣り竿を持っていない。やがて坊主は男の方向へ歩いてきた。男に気づいたのだ。そしてちらっと男をみて坂道を上がっていった。男ははじめて間近で坊主をみた。潮はもう引きかけていた。男が砂浜にいくと大量の耳があった。坊主の仕業だ、男は村に向けて走り出した。

第一王子は王の命令で北の森へ山賊の討伐にいっていた。第十三王子がその間に産まれた。しまったと第一王子は思った。事前の占いによると産まれる王子は女のはずであった。占い師の予言が外れたのははじめてであった。城に戻ったとき、丁度、第十三王子の生誕の儀が行われていた。城内は各地から奉納された貢ぎ物と久しぶりの男の王子の無事の誕生に湧いていた。第一王子は王へ挨拶と祝いの言葉を述べた。それから第十三王子の元へ向かった。側室の母親から受け取りそれを眺めた。民から歓声が上がった。それに手を振り、赤ん坊を預けると第一王子は占い師の元へ向かった。占い師は覚悟していますと告げた。第一王子は占い師を斬った。それから宴の席に戻り、第一王子は祝福の唄を奏でた。第一王子の唄声は美しく多くの民を虜にするほどだった。

坊主は自ら作った蔵の梁から糸を垂らし、そこに「耳」を吊るした。蔵から見下ろす海から潮風が内に吹き荒れ、耳が風に合わせて揺れる。坊主はその耳たちに言霊をささやいた。それを一晩繰り返し、翌朝、太陽が昇るころにまとめて耳を焼いて供養した。その過程で耳は特異な臭いを放つ。人が根幹から嫌悪する臭いだった。臭いは集落にも届き、噂の一因となった。
――坊主は呪術の使い手で人の耳を養分にし、力を蓄えてる。
噂の出どころはいつだって霧のなかだ。しかし、耳に入るころにはその霧は晴れ、まるで真実のように晴れ晴れとしたものとなっている。坊主は全く身に覚えのない噂が立っていることを耳にした。

「耳」の噂は集落を越え、城まで届いた。王はここ数か月寝たきりだった。占い師の死後、国には予言を行える者がいなくなっていた。死期が近いことを悟った国王は第一王子や側近たちに今後の国造りについて指示を出していた。噂はまず側近の一人の耳に届いた。それから三晩の内に城に仕えるほとんどの者の耳に届いた。それは国王の側室の一人で第十三王子の母親にも届いていた。母親は信頼できる世話役の一人を呼んだ。
「噂は知っているね」
「耳のですか?」
「そう。その坊主にこの子を守るように頼んできてくれないか」
「守る……ですか?」
「ええ。このままではこの子は殺されるでしょう」
「なぜです?」
「わかるのです、そのような声が聞こえるのです」

世話役はその晩、城を出て海岸の集落へ向かった。噂では坊主は崖の上に一人で住んでいるという。翌朝には着けるはずだ。世話役は森のなかを走った。集落がみえてきた。海の香りが強くなる。馬の声がした、振り返った、その姿に世話役は驚いた、そして驚愕した一瞬の間に首がはねられた。第一王子が斬った首を持って海岸に降り、耳を斬りながら唄を唄った。

王が死んだ。次の王は第一王子だと誰もが思っていたが遺言がすべてを変えた。
「次の王は闘技で決めよ」
闘技は演者の内面の崇高さが問われる。歌や舞踊や型で美しさを競う。王族たちは幼いころからその鍛錬を積むことになっていた。そして祭事の際に披露するのだ。それは王族の魅力を民に理解させる最も明確な伝達方法だった。

坊主は第十三王子の名によって城に招待された。蔵に突然、城からの使いが来ても坊主は動揺しなかった。使いに連れられ、第十三王子と母親の前にきた。
「突然、申しわけない」
「いえ真実もあなたの話も聞いています」
「どうやって」坊主は袋から耳を取りだした。
「彼に聞きました」母親はその言葉を聞いて落胆した。
「残念ながら第一王子が王となるでしょう」
「そうですか。ではこの子は……」
「逃げなさい。この勝負には国中が注目しています。その間にここを去るのです。私の住む崖には舟があります。それで脱出するのです。そうでなければこの子は守れないでしょう」
「私が代理で勝負を引き受けます。多くの嘆きの声を聞いてきました。こうするのが最善でしょう」

闘技を前に群衆は湧いていた。第一王子は闘技場で待っていた。坊主が現れたとき、彼はすべてを悟った。
「第十三王子の代理で参りました」
「ほう。相手が呪術師とは。貴様に闘技ができるのか」
「第一王子ほどではございませんが」
「ふん。そなたは耳を切り収集しているらしいな」
「私はただの坊主です。耳を供養しているだけでございます」
「そうやって民をたぶらかしているのか、まぁ良かろう。それも魅力だ。この闘技に負ければそなたの耳をもらおう、これまでそなたに切られた耳の持ち主たちへのせめてもの弔いだ」
「……わかりました」
合図とともに太鼓と琵琶の音が響き、闘技がはじまった。第一王子はその音に合わせて唄を唄った。群衆はその声の美しさに心を奪われた。この国の民は音楽を愛した。唄声の美しさは何よりも力を示す絶好の武器だった。
坊主は麻袋を反した、中から大量の耳がこぼれた。群衆の悲鳴が上がった。
「貴方が唄う者なら私は聞く者です」
「おもしろい、でははじめてみよ」

風の強い夜だった。坊主は城門の前の広場で磔にされた。群衆が囲むなか第一王子は刀を向けた。第一王子は坊主の耳を切り落とした、そのとき耳が呼ぶように国に雷が落ちはじめた。しかし耳のない坊主に雷の音は聞こえない。だが雷の運ぶ風が耳のあった穴を通って自らの身体を吹き抜けるのがわかった。その晩は珍しいほどの風と雷だった、雨のない風と雷。それは翌朝まで誰も外には出さなかった。
磔にされた坊主は風が耳から入る度、こうやって私は砂になっていくのだと感じた。あの海岸の砂たちのように。一夜にして坊主は風化した。翌朝、広場に坊主の死体はなかった、ただ一掴みの砂があった。それは風で舞い、空へ流れた。

第一王子が王となり第十三王子の行方が不明のまま数年が流れた。王には多くの側室と王子たちがいた。しかし、先代の王と同じく男の王子には恵まれなかった。みな、生後しばらくすると何かに呪われたように一様に死んでしまった。そのころから国には西の海から風に混じって砂がくるようになった。それから妙な噂がたった。さらさらとした異国の砂の音を聞くと坊主の霊がみえる。国に男の王子の命が長く続かないのも霊になった坊主の仕業だといわれた。その噂は城内からやがて民へも広まった。王は民のために唄を作った。それから人々は坊主の霊を恐れ、男の子が産まれると王の作った唄を口ずさむようになった。

『御殿の角の方 耳切坊主が立ってるぞ。鎌と小刀持ってるぞ。泣いてる子供は耳をぐすぐす切られるぞ。だから泣いてる子供は泣きやんで』

異国の砂が風に乗って国をたゆたう、唄声もその風に乗り耳に響く。

 

帰宅するとテーブルに置き手紙があった。タイソンの選挙の後援会との打ち合わせがあるから、父親を時間になったら部屋に連れていくようにとユノの文字で書いてあった。父親は居間でテレビを観ている。ほんとうに観ているのかはわからないがそういう風にはみえる。そして相変わらず何かうわ言をつぶやいている。
「なぁ、親父。耳切前夜の話覚えてる?イバーナに話したろ。あの基地のさ……」
部屋にはテレビの音と窓の外から騒ぐ子どもたちの声だけが響いた。そしていつもどおり、天気予報のあとの赤砂情報が流れはじめた。父親がエルバトとぼそっと漏らした。
「エルバト?」
パインが驚いて訊きかえすと、エルバト、エルバトと父親は激しくどこかに向かって叫びながら椅子を揺らしはじめた。
「おい、親父」
パインはマツの椅子のストッパーを止め、それから倒れないように必死で抑えた。それからテーブルに置いてある鎮静剤を打った。マツの発作は収まり、やがていつものように動かなくなった。発作が起きたのは、はじめてのことだった。予報が終わり、ニュースキャスターに画面が切り替わった。
「最後に訃報です。かつて駐留していた軍の最後の高官エルバト・ローズ元駐在司令官が先週本国でがんのため死亡しました……」
よく笑っていたエルバトの顔がおぼろげにパインの頭に浮かんだ。
「……葬儀は先週、親族のみで行い、エルバト氏は娘のイバーナさんの横に埋葬され安らかな眠りについたとのことです」
キャスターがそういうとテレビ画面はSRSのコマーシャルに切り替わった。再び汗だくの男が現れる。
イバーナ・ローズは死んでいる。

平日夜のオアシスは客もまばらでいつもカウンターに座るパインがテーブルに腰掛けたのをアップルは不思議に思った。
「何か飲むか?」
「ビールをくれ」
「ジンじゃないんだな」
「嗚呼」
冷蔵庫から曇ったグラスを取りだし缶ビールとともにテーブルに置いた。パインは携帯電話に見入ったまま缶のタブをはじいてグラスに注いだ。

エルバト・ローズは軍で順調にキャリアを積んだあと、辺境のこの島に赴任した。文化は政治以上に人々の感情を刺激する。かつて各国に軍を配置していたエルバトの国にとって、その土地に馴染むかどうかは重要な要素の一つだった。政治的には何の問題もなかったが土地に受け入れられなかったために撤退を余儀なくされた例もあった。島にもそのきらいがあった。エルバト・ローズの赴任はその緩和の意味合いもあった。彼は若いころから多くの国で過ごしてきており異なる文化と接することに慣れていた。エルバト・ローズは赴任し、専用軍機から降りるとまず島の慰霊碑へ向かった。感情を示すこと。これは最も大事なことだと彼は長年の経験で知っていた。文化の形式に囚われてはいけない、大事なのはその前提にある感情だ。基地への反発の強かった島でもエルバト・ローズの行動は概ね好意的に受け入れられた。その後、彼は基地周辺の住民と交流を持つこと、島の文化を積極的に取り入れることを推奨した。エルバト・ローズは島にとって最後の駐留軍司令官となったが、それでも彼そのものを批判する報道はあまりみられなかった。検索をしていると晩年のエルバト・ローズのインタビュー記事がみつかった。癌を発症する3年前の記事だ。空の缶をつぶした。

<私は幼いころから冒険に憧れていた。他の多くの子どもたちと同様に。はじめはヒーローが何か敵を倒すようなものからはじまり、年齢を重ねるごとに段々と冒険の中身は変化していった。つまりは様々な世界をみるということにだ。私は大学の時に思い切って休学をし、世界各国を旅することにした。そこで様々な人々に出会い、多様な価値観に触れた。それが後々私の仕事に大いに役立った。場所が変われど人は人、会話を重ねればわかりあえるという人がいるが私はそれは場合によると思っている。確かに場所が変われど根本的に人は人、大差ないと思う。しかし人は感情だけでは人には成りえない。その環境……これは産まれた場所の風俗や周囲の人々の人格、政治情勢、法律、その時代の道徳観、或いはその人自身の容姿など。様々なものがごちゃごちゃになった結果、人は人になる。根本は同じだとしても産まれた瞬間にそういう様々な環境が我々を途端に形成しはじめる。それは時として根本的なものを奥深くに覆い隠し、争いを起こす。そうなれば決してわかりあうことはない。わかりあえるのは互いに余裕があるときだけだ。これが私が様々な世界を旅して感じたことだった。
私は卒業後、軍に入り余裕のない世界、つまりは争いのなかに身を置いた。最初は一民間人ではみることのできない世界をもっとみたい、真実を目の当たりにしたいという思いがあったのかもしれない。しかし目の前で仲間や敵やそのどちらでもない人が死んでいくのをみるとそうは思わなくなった。そして私は負傷した。銃弾が太ももを貫通したのだ。長い手術にも不安はなかった。だが兵士として私のキャリアは終わってしまった。日常生活には支障はなかったが走ることはできなくなった。そのときの心情を明確に思い出すことはできないが今思っているのはきっと私にもそのころ余裕はなかったのだと思う。ただ、わかりあえなくても止めることはしなければならない。それから私は主に戦争の終結した土地の復興の業務に就いた。これは非常に難しいものだ。銃弾が飛ばなくなれば戦争は終わったように思う。だが、蓄積した平和を望む感情は、憎しみを伴っており終結と同時に一気に溢れ出す。そのときはとにかく感情のコントロールが難しい。それが全てだといってもいい。そのときに重要な役割を果たすのは文化だ。歌や踊りや物語。とにかくその土地に根づいていた文化がその感情をなだらかにする。一時的にだがその根づいた精神的所作のようなものが機能するのだ。私はその力をとにかく活用することを考えた。多くの文化を学び、理解はできなくとも好むようにした。それは重要な姿勢なのだ。そこから復興をはじめる。何か争いが起きたならまずは文化だ、それが抑止あるいは争いを緩やかなものに変える。
私がある土地に赴任したときの話だ。そこは隣国と陸続きで国境を警備する自国軍はいるのだが国が貧しく、隣国へ不法入国する国民を黙認していた。兵士たちもほんとうならそこに行きたかったはずだ。それほど貧しかった。隣国は一定数の移民は受け入れていたがそれ以上に不法移民が多かった。当然それは問題になり不法入国を止めさせなければ移民自体を拒否すると隣国は一方的に宣言した。そのことによって両国の間は緊張状態になった。国境沿いでいくつかの戦闘も起こった。その仲介として我が軍が入り、そこに私は派遣された。紛争が本格化する前に解決したかったのだ。そこで隣国に合法的に移民を送る仕事をしている女性、今の私の妻と出会った。娘が産まれたのはまた別のある島に駐留しているときだった。結局そこには十年近くいたが娘にもその島の文化を吸収するように告げた。娘は物語が好きで大学時代には物語を発表するようになった。いくつか賞をもらって本にもなったがそういう影響があったかもしれない。最終的には作家にならず就職したが彼女はいずれまた物語を書くような気がしているよ。いずれにせよ私も妻も娘も様々な文化のなかで育ってきた。多様性と一言でいってしまえばそうかもしれないがそのなかで過ごす困難さや幸せは非常に価値のあるものだと思っている>

「ほら」
アップルが缶ビールをもう一本持ってきた。
「嗚呼、ありがとう」
「何を探してるんだ、珍しい」
店の扉が開き団体の客が入ってきた。アップルはパインのつぶした缶を持ってカウンターに戻った。その姿をしばらく眺め、パインはイバーナ・ローズの名前を検索した。彼女のウェブサイトにたどり着いた。トップページには賞を受賞したイバーナのコメントが載っている。

――幼いころから父親の仕事の関係で転勤の多かった私にとって物語こそ、いつもそこにある確かな世界のように感じられたのです。やがて私は自分自身のなかから産みだされる物語を探すようになってきました。ですから私にとって創作とはある種、「逃げる」ことです。今あるここから別の世界への逃避です。それを探し続けているのです、感情や想像をキーワードに。検索ワードというのは人間の想像力に頼る部分が多いと思います。例えば犬は38対の常染色体と1対の性染色体からなっていますが、それを検索したところで犬には中々、たどりつかない。「ペット、動物、身近」などと入れるほうが犬にはたどりつく。検索は曖昧な複数の言葉の重複した部分から推察せざるを得ない。いくつかの事象の重なる部分を取りだすことが目的への近道なのです。物語も同様です。ふわっとしたイメージの共有です。この作品にどのような経緯でたどり着いてくれたのか私にはわからないですが、いつか誰かが拾ってくれるであろうと願い、この『耳切後夜』を残しました。

『耳切後夜』は今もウェブサイトで公開されている。作品をクリックしようとすると声をかけられた。

「先輩、何してるんですか」
パインが顔を上げると中学時代の後輩が立っていた。
「おお、ちょっとな」
「めっちゃ真剣で怖い顔してましたけど。エロサイトっすか」
パインはそのまま携帯を脇に置いた。それから立ち上がりポケットのコインケースを取りだした。後輩には一杯は奢らなければならない。暗黙のルールだった。
「違うよ。なんか飲むか」
「いいんすか」
「いいよ」
二人はレジカウンターへと向かった。後輩はビール、パインはジンバックを注文した。アップルから飲み物を受け取った二人は席でグラスを軽くぶつけた。
「久しぶりだな。仕事どうだ」
「俺、転職したんすよ。SRSに」
後輩はグラスをテーブルに置いてつまみのナッツを一気に口に投げ入れた。
「そうか」
「来月からゲート管理のとこになりました」
「どこのゲートになるんだ」
パインは自分のナッツの皿を後輩に渡した。
「あっ、すいません。十二番です。先輩は今は」
「工事現場だ」
「変わんないっすね。先輩ならすぐにSRSのいいポジションいけそうなのに。だって叔父さんあれっすもんね、SRSの島の統括部長か何かでしたっけ」
「嗚呼、まぁな。もうすぐ市長選だから辞めるけど」
「そうなんすか。最終の面接のとき先輩の叔父さんもいて……」
「俺の話したのか?」
「少しだけ」
「そうか。よく受かったな」
「そうですかね、そういえば先輩、リュックさんの話知ってます?」
「いや。この前も現場で会ったけど。離婚のことか?」
ビールを飲み干した。
「いや、なんか……」
後輩は声を潜めた。最初は周りの雑音で聞き取れなくてもう一度訊きなおした。
「いや、だからなんか詳しくないんですけど意識不明らしくて……」
「どういうことだ?」
「はい、なんか仕事から帰ってきて急に倒れたらしく病院に運ばれてそのまま……」

病院の駐車場は狭く満車の点灯が消えることはなかった。パインはバスを降りて一階の受付に入った。後輩のいうとおり彼は入院していた。病室に入るとリュックがベッドで寝ていた。口を開けたまま天井をみつめている。彼は今にも途絶えそうな声で名前を呼んでいた。その様は彼の父親に似ているように思えた。病室にリュックの母親が入ってきた。パインの姿に一瞬驚いた様子だったがすぐに駆け寄ってきた。
「お久しぶりです」
パインは頭を下げた。
「パインね、もう。いつ以来かしら」
彼女は少しだけ頬が緩んだ。パインは最後にこの母親に会ったのはいつだろうかと考えた。顔の血色は悪く背中も丸まっていた。それは加齢によるものなのか、それともリュックのことがあってからなのかわからなかった。
「この前も仕事現場で会ったばかりだったので」
「……そうよね。この子、あなたの話をしていたのよ、久しぶりに会ったって」
「前からどこか悪かったんですか」
「いや、急によ。いつもどおり夜勤から帰ってきてから。その日は赤砂がひどくて先にシャワー浴びるっていって浴室に入っていったの。ほらSRSの警備員でしょ、奥のほうまでいくときもあるし砂まみれになることも結構あって。それで倒れてね、そのまま……先生もとりあえずこのままとしかいえないって」
「そうですか、原因は?」
「先生がいうには過労やストレスによる脳卒中じゃないかって」
パインはまた思った。父親の倒れたときと似ていると。
「なんか変な人が赤砂の敷地にいたらしくて、それの捜索で勤務が伸びたのよ」
「変な人?」
「なんか砂丘に裸足の男がみえたってリュックはいってて。あんな立ち入り禁止のところに人がね、それも裸足で。見間違いかなとも思ったらしいんだけど一応、念のために調査したんだって。意外と真面目な性格だから。結局、誰も見つからなかったらしいんだけど」
そこにリュックの別れた奥さんとまだ幼い子どもが現れた。彼女に会うのは結婚式以来だ。彼女はリュックの母親に軽く頭を下げた。母親が子どもを抱え待合室に向かった。
「結婚式きてくれましたよね、ありがとうございました」
彼女はそういうとベッドに横たわるリュックを眺め涙を流した。それから鞄からハンカチを取りだした。そのとき彼女の手に真新しい指輪がみえた。パインは仕事があるからといって、そのまま病院を出た。あまりにもいたたまれなかった。パインには彼女の涙が不意に嘘にみえてしまった。真実はわからないが、どうしてもリュックの肩を持ってしまう自分がいた。リュックはベッドの上でぼやきながら彼女と子どもの名を呼んでいた。それがパインにそう思わせてしまった原因だった。
赤砂エリアでの作業は佳境に入っていた。担当する道路はSRSのトラックなどが通る基幹道路で作業は難航していた。深夜でも車通りがあり、トラックの通過や風が吹くと、均したアスファルトに赤砂が積もって再び整地からやり直さなければならなかった。道路を片面ずつ封鎖しても、一日に補強できるのはせいぜい十数メートルだった。アル中爺さんがここ数日仕事に顔をみせなくなっていた。誰かが休憩中に冗談で死んだんじゃないかといったとき渇いた笑いが起こった。誰もが本気にしないようにはしていたが脳裏にはよぎっていた。本来バイトは日雇いの契約になっているために仕事に現れないことに現場監督も対処することはできなかった。スコップで地面を均していると作業員の一人が声をあげた。
「おい、なんだこれ」
アスファルトの下に赤砂が入り込んでいて、その固まりをほぐすと中から耳らしきものが出てきた。作業場の誰もが沈黙した。
「これって耳だよな」
耳は所々黒く腐敗し収縮していたが、まだ耳という形状を維持していた。
「殺人事件か」
「警察?」
「とりあえずSRSに連絡入れよう」
現場監督はSRS本部へ連絡した。連絡から数分と経たないうちにSRSが到着した。警備員ではなくSRSの本隊だった。現場監督がSRS本隊の職員と話をしていた。そして、書面に何かサインをしているのがみえた。それから作業員たちがそれぞれ呼ばれ書面にサインをしていった。パインの番になった。書面には細かい字がびっしりと埋まっていて、夜の光のなかでは何が書いてあるか正確に読み取ることはできなかった。
「ここにサインをしてくれたらそれでいい」
本隊の職員は語気を強めていた。
「なんの書類だ」
「工事の契約満了の書類だ」
「いや、まだ残ってるけど」
「納期の関係でここまででよくなったんだ」
「何いってんだ。道路を剥いだままじゃねぇか。せめて埋めないと」
「それは我々がおこなう」
「ってか耳は」
「それについても我々が処理する。きみたちはきちんと工事を完了した。それだけだ」
「パインいいから署名しろ」
現場監督が怒鳴る。パインは嫌々サインをして作業員たちはトラックで事務所に戻った。現場監督は明日以降の新しい工事現場の計画を発表した。明日からはSRSの赤砂エリアではなく通常の国道の舗装工事だった。最後に耳らしきものについてはSRSから正式な調査結果が出るまでは口外しないようにと告げた。そういう契約になっていると。作業員たちは次々に帰宅していった。パインは事務所で一人残りあの耳のことを考えた。まず耳かどうかだ。仮に耳でなかった場合は類似する何かだ。道路脇にトラックや車から落ちた何かが砂のなかに埋もれていただけだ。もしかしたらそういう部品や工具があるのかもしれない。あの耳らしきものを触って確かめなかったことを後悔した。みただけでは結局なんの確信も得られないのだ。もし仮に耳だったらとパインは考えた。そのとき、彼の脳裏に父親の昔話が浮かんだ。耳切前夜……そしてイバーナの記した耳切後夜のタイトルを思いだす。ウェブサイトに接続し耳切後夜のページを開いた。

 

『耳切後夜』
貿易船から降りると、柔らかい地面が私の足を受け止め、砂がじゃりっと鳴いた。
善き島じゃないか。穏やかな潮が顔を撫で、港の子どもたちの唄声が風に乗る。

――御殿の角の方 耳切坊主が立ってるぞ。鎌と小刀持ってるぞ。泣いてる子供は耳をぐすぐす切られるぞ。だから泣いてる子供は泣きやんで

大陸から島に来るには十日ほどかかった。目的は島の王からの貢ぎに対する御礼だった。そのため船には皇帝からの贈答品が多く積んであり丁重に扱わなければならなかった。私が特使として島を訪れるのは初めてだった。実にきれいで陽気な人々が住む土地だと先代の特使はいっていた。そしてその言葉に嘘はなかった。地面にはきめ細かい砂が堆積し日光に反射し、そのせいか島の民は色が白くみな美しかった。王宮の使いの男が私を待っていた。
「ようこそ、御出でくださいました。ヌマセと申します。長旅でお疲れになったでしょう。さぁお乗り下さいませ。荷物は私どもが王宮まで運ばせていただきます」
港には丁寧に梳いた毛並みの良い馬が二頭と馬車があった。乗り込むとヌマセが脇に座り馬引きに合図を送った。港からは既に丘の上に立つ真紅の王宮がみえた。王宮は崖の上に在り崖の断面には何層もの地層がみえた。
「これは壮観な崖ですね。見事だ」
「これも自然の成すものでございます」
「あの層が分かれているのは……」
崖には彩豊かな横縞の地層が幾つも広がっていた。
「砂によるものです。様々な砂が堆積しているのです、此処は」
「実に珍しい砂だ。我が国ではみたことがない」
「それは」
彼は両頬を縦に伸ばし驚き、しばし口を開けたままだった。王宮に着くと女中と楽器隊が歓迎の踊りをみせた。
「国王様はどちらへ。御挨拶をせねば」
「王は儀式の最中であります。終わりましたら私から御案内させていただきます」
王宮に入るとすぐに踊りの後は宴がはじまった。話に聞いてはいたがこの島の民は酒をほんとうによく飲んだ。島特有のこの酒は酔いが早くまわるようだった。宴の間に若い男が入ってきた。彼は大きな獅子を連れていた。
「水辺に住む水獅子です。水に産まれ水に死ぬといわれ、おとなしい性格です、触れてみますか」
ヌマセが若い男に指で合図を送った。水獅子は左右に胴体を揺らしながら近づいてきた。触れてみると毛は柔らかく艶っぽかった。男と水獅子は宴の間で演武を披露した。私の手には長い毛が何本か残っていた。ヌマセがいつの間にかみえなくなっていた。
宴の場が一瞬で静寂に包まれた。王が現れた。
王は民に何か言葉を与えはじめた、その言葉は島の古語のようで理解することはできなかったが、その声には清流のような清らかさと力強さがあった。演説に合わせ民は踊りだした。王はそのまま私のほうへ歩いてきた。
私は我に返って挨拶をしようと立ち上がった。
「いやいや、堅苦しいのは結構。それよりほらどうだ。おい酒を持ってこい」
王が呼ぶと給仕の女が杯と酒の入った甕を運んできた。王と杯を交わした。
「先代の特使は?」
「絶命いたしました」
「左様か……非常にこの砂酒が好きでな、善い者であったのに、残念じゃ」
「砂酒?」
「この酒じゃ。我が国固有の珍酒での。せっかくの機会じゃ、浴びるほど飲んでいけ」
王の話では砂酒は口に運ぶ度に味が変わるという。私にはひどく辛く感じた。
「どうだ、慣れてきたか」
「はい、非常に良い気分です」
「砂酒には伝統的な飲み方があるのだ」
「それは是非」
王は笑ってヌマセを呼んだ。
「特使殿に砂酒を古来のやりかたで振舞え、失礼のないようにな」
「はい、かしこまりました」
そういうと王は奥の部屋に消えた。
「ではどうぞ」
立ち上がろうとするが頭のなかが乱れ、倒れ込んでしまった。ヌマセに肩を抱かれた私は酒蔵に入った。足が地面にでも埋まったようだ。まったく自分の意志では動けない。彼は棚から一つの壺を取りだした。そして砂酒を私の耳に流し込んだ。はじめは違和感が強かった。しかし段々とそれは非常に心地よい気になった。耳から入った砂酒は目頭から流れ出し視界は砂酒に溺れた。そのぼやけた視界の奥に死んだ特使がみえた。
「これは……」
「どうですか、美味でしょう。この島の砂には微妙に個性がある。砂といえど同じものは二つとないのです」
特使は私に何か伝えようと口を動かしているが私の耳は砂酒で満たされ、その言葉を聞きとることはできなかった。

目を覚ますと私は酒蔵の床で寝ていた。
「目を覚まされましたか」
「はい」
頭のなかは泥を詰めたように重かった。床に寝ていたせいか身体の関節が痛かった。時間が経つにつれ視界が明瞭になり、今話していた者がヌマセではないことに気づいた。
「お気を悪くなさらないでください。ヌマセは今、特使様を運ぶために水獅子を取りにいっております」
目の前の少年は大人のように落ち着いた口調だった。
「きみは」
「酒蔵の管理をしている者です。カーミと申します」
「そうか、飲みすぎた」
「はじめはみなそうです。加減がわからない。先代の特使様もそうでした」
「彼もよくきたのか」
「ええ、来島された際にはこの酒蔵によくいらっしゃいました。砂酒を大層お気に召したようで。この島と気の合うお方でした。亡くなられたとか」
「嗚呼。奇病で亡くなってな」
「それはきっと砂酒です」
「どういうことだ」
「ほら、ご覧ください」
少年が酒蔵の出窓を開けると宴の間がみえた。
「この島の民は四六時中酔っているのです。そうでもしないと死んでしまうのです」
「そんな」
「この島の人々は陽気にみえますでしょう、それは酔ってでもいないとまともではいられないのです。どうぞ、こちらへ」
そこには甕に入った砂酒が所せましと陳列され、奥に大きな布で覆われた膨らみがあった。少年がそれをめくると大量の耳が積まれていた。
「これは……」
「この島の地層からは砂に交じりこのように耳が取れます。それがこの味を抽出するのです。そこに仕次ぎを繰り返して砂酒は長い間受け継がれてきました」
甕から升で掬うと砂酒のなかに耳が入っていた。
「なぜ、こんなことが」
「それはわかりません。ただ耳は燃えにくい。身体を焼いても最後まで残ります。耳は最後まで自らが燃える音を聞くのです。その耳が私たちに何か伝えようとしているのかもしれません」
「それでみな狂っているのか。止めなければ」
「みなそうでした。最初は頃合いを見計らって止めればいいと。自分たちを過信していたのです。しかし砂酒はいつしか私たちの一部となってしまったのです。もうこれなしでは生活できないところまできているのです。死ぬまで酔うか、目覚めて死ぬかです」
「何も全てとはいわない。誰だって飲みたい夜はあるだろう。民のためであれば王もどうにか動くであろうに」
「特使様は理解されていない。王は当然ご存知です」
「そんな」
「外の方には関係ないことでございます」
低い声がした。

酒蔵の入口にヌマセが立っていた。後ろには水獅子がみえる。
「カーミよ、余計なことを喋りすぎだぞ」
「私は特使様に島の再建の希望を託そうと……」
「黙れ、酒蔵の番頭のくせに調子に乗りおって。お前しか砂酒の調合がうまくできないから今まで目をつむっていたが」
「私こそ貴方の愚行に目をつむっておりました。先代の特使様を砂酒の中毒にさせたのはヌマセ、貴方です」
「どういうことだ」
「砂の堆積によって地層が生まれ、この島は成り立っています。そして民は亡者の砂酒で酔い、亡者とともに生きている。統治も楽になる。そうでないとまともで人々はいられなくなる。先代の特使様も恐らくそれにお気づきになられた。そこでヌマセは先代の特使様も砂酒漬けにしたのです」
「カーミ。酒蔵にこもりすぎて戯言までいうようになったか」
「もう私は嫌なのです。どうしようもないこの島には外から新しい王を招くのがふさわしいのです」
「酒浸りになり忠誠心まで失ったようだな」
ヌマセの怒号が蔵のなかに響く。カーミは作業場の刀を取ってヌマセに向けた。
「ヌマセ、その耳も砂酒にしてやろうか」
「貴様、その命はないと思え」
ヌマセは持っていた手綱を投げ捨てて去った。
「さぁ、お逃げください。ここにいては駄目です」
カーミは水獅子に私を乗せて港へ走らせた。

「カーミよ。実は私は疫病の正体がこの島にあるのではないかという命令で、調査にきていたのだ」
「そうですか。砂酒の効果は特使様もご自身で体験されたでしょ。それをそのままお伝えになればよい」
「しかし君はどうする」
「両方とも残ってはやられてしまう。ヌマセは恐らく軍を率いて私たちを探している。港に向かっていることも承知しているはず。あなたはこの国の希望です。ここから脱出させるのが先決です」
水獅子は森を軽やかに駆け抜けていく。陶器の割れたような妙な音がした、水獅子が時折、蟹を踏んでいたのだ。しかし、水獅子もカーミも気にする素振りはない。海から上がってきたのだろうか。森の蟹たちは崖の方に向けて歩いている。これらはどこか目指しているのだろうか。振り返り木々の間から崖の上をみる、王宮に大量の松明があった。
「思ったより速いですね」
カーミは懐から櫛を取りだし水獅子の毛を梳いた。水獅子の体温が上がる。
「さぁ頼むぞ。掴まってください」
水獅子は港にくだる崖を一気に駆けおりた。港につくと泊めていた船のもやい綱を解いて海に放った。
「こっちです。漁船をお使いください」
カーミは浜に打ち上げられている漁民の船を引き、海に浮かべた。私に刀を渡した。
「今夜は炬火を灯さないでください。幸い、潮は緩やかです。遠くへは流されることはない。朝になれば大陸に向かうのです」
「カーミ、やはり君も」
「はやく。私が時間を稼ぎます」

船が出るとカーミと水獅子は船と反対の方向に走りだした。坂から数多の灯と馬の音が聞こえ、大量の火矢が放たれる。彼らは海へと進んだ、水獅子が波に合わせ海面を飛ぶ。流星のように夜を抜ける火矢が一本、水獅子に刺さった。動きが鈍くなり好機を逃さぬようにとさらに矢が放たれる。水獅子は太陽のように燃え、水面に沈む。夕陽のように紅かった。そのなかにカーミの幼い身体もあった。私は思わず叫びそうになった。しかし、それをしてはならない。船体がうねる。転覆しないように必死に漕いだ。水獅子の苦しむ声が耳の奥から聞こえる。耳をちぎってしまいたいほどだった。私は刀で自らの耳を斬った。先ほどまでの叫換は沈黙に変わった。斬った耳を海へ放った。耳は潮に乗り船と反対へ流れていく。水獅子が暗い海に溶け、カーミも沈んだ。夜明けを待つ間、私は彼らが底へたどりつくことを願った。そうでなければ、彼らは潮に乗り再び島へ流れつく。そして砂となり島の一部となるのだ。
私は国に戻りできるだけ正確に事態を伝えようとした。しかし自分の言葉が正しく発せられているのかわからなかった。私は島を救いたかった、カーミと水獅子のために。王たちの言葉も聞こえない。私にはもう聞くための耳がないのだ。あの島への渡航は禁じられることになった。今でもカーミと水獅子の最期の声が残っている。それは行き場をなくし私のなかを駆けまわり続けている。

 

パインは事務所から家に向けて歩いていた。フェンスの向こうには赤い丘が広がる。彼は彼なりに冷静にこのことを処理しようとしていた。イバーナの寓話は明らかに耳切前夜に基づいた話だ。そしてここまでその寓話と類似するできごとが多く発生している。砂が人を酔わせ幻をみせ、耳がみつかる。彼女は何かを知っていたのだろうか。思えばローズ家は赤砂の飛来がはじまる直前に島を去った。それは偶然なのだろうか。しかし彼女が死んでしまった今、知る術は何もない。
「すみません。この辺りにコンビニはありますか」
後ろから急に声をかけられた。
「ありますけど、結構歩き……」
振り向くとそこには豚が立っていた。二本足でスニーカーを履き、人のような格好をしている。目の前の光景を信じないのは非常に難しかった。これは幻覚だ。パインはそれでも自分にそう必死にいい聞かせた。
「どうしました。具合でも」
彼はよほどひどい顔で豚をみつめていたのだろう。豚がパインの肩に手をかけようとした。パインがそれを避けると豚は少し嫌悪感を覚えたような表情をみせた。パインはとにかく冷静に対処しようとした。もし触れられたときに、その感触を受け入れてしまったら自分も幻に飲み込まれるような気がしてならなかった。
「いいえ、大丈夫です。コンビニなら十分ほど国道を南に向けて歩けばあります」
「ありがとう」
豚はその醜い身体を左右に揺らしながら南へ向かった。蟹が側道を早々に駆けていく。パインは豚の背が夜にみえなくなるまで眺めた。

オアシスのドアが開きパインが駆け込んできた。そしてそのままトイレへ駆け込んだ。店内の客たちはそれを横目でちらっとみてまたすぐに談笑に戻った。パインは洗面台で水を手にすくった。この冷たい感覚は本物だろうか……手に溜まる水はさらさらとした砂になっていないだろうか。彼はそれを何度も自分の顔にかけた。水だ。これは水だ。そして頭を上げ自分の顔を確認した。それはいつもの自分の顔だった。それから店内に出ていくとそこには普通の人間たちがいた。あれは幻覚だ。赤砂だ……パインに気づいたアップルは拭いていたグラスを置いて声をかけた。
「どうした、顔色が悪いぞ」
「幻覚をみた。はっきりと」
パインが混乱しているのが一目でわかった。
「わかった。とりあえず裏の非常階段に座っとけ

耳切後夜を読み返すとやはり、これはこの島の話だった。パインにはそうとしか思えなかった。でもなぜだ。彼女はなぜ知っているのだろうか。彼の記憶のなかのイバーナは「逃げて」とただ繰り返すだけだ。アップルが温かい紅茶を持ってきた。
「どうした、どっかで飲んできたのか。酔って入ってくるなんて珍しい、新しい店でもできたのなら一応、偵察にいかないとな」
そうではないことをアップルはもちろんわかっていた。しかしとりあえず彼に言葉をかけるのは半ば冗談めいたことしか思い浮かばなかった。
「ちょっと眩暈がしたんだ。紅茶?いつからカフェになったんだ」
この事実、いや空想の域をでないこの奇妙な一致を人に話す気にはパインはなれなかった。彼が何かを隠していることはアップルにはわかっていたがそれ以上の詮索は控えることにした。長年のバーテンダーの経験から彼が会得したことの一つだった。
「そうか、逃げるならアルコールだが、落ち着くには紅茶がいいんだ。白桃のフレーバーを足してある。とりあえず飲めよ」
そういうと裏口の扉を閉めた。非常階段でパインは冷たいコンクリートの壁にもたれた。紅茶をすする。桃の香りが彼の鼻を抜け目頭から漏れる。イバーナだ、彼女が何かを俺に教えているのだ。それをどうにか探さないといけない。時間をかけて残りの紅茶をゆっくり飲み干した。
「ありがとう、落ち着いたよ」
店内に戻りカップをアップルに渡した。
「そうか」
「また来るよ」
「嗚呼」

自宅に戻り、パインはもう一度耳切後夜を読み返した。そのときウェブサイトの画面上にに小さな点滅をみつけた。暗闇でわずかにわかる程度の小さなものだ。これはなんだ。そこをクリックすると全く別のページへ飛んだ。単純なオンクリックの図式だった。

――パスコードを入力してください。
その文字が点灯し続ける。パインはしばらく考え込み、パスワード欄に「escape」と入力した。

ページが開いた。イバーナが書き綴った日記が残されていた。年代を遡ると恐らく十代のころから書きはじめているようだった。パインは共有しなかった時間を取り戻すように彼女の軌跡をたどりはじめた。積み上がったログの塔を一段一段昇っていく。その先には何かあるのだろうか。彼は時間をかけて彼女の短い人生を追った。いくつかの日記が彼の目に留まった。

<すべてフィクションであれば良かったのに。父は私が入社を決めたとき珍しく反対をした。それは初めて父が私の決断に対して反対したことのように思う。しかし今ならそれを理解することもできる。父はこのことを知っていたのだろうか、それが原因で私たちは帰国したのだろうか>

<私が入社したとき、会社はある事業で大きく業績を伸ばしていた。元々フリーズドライ食品をつくるメーカーとして誕生した、インスタントコーヒーやスープなどの。そしてその技能を生かし、遺体を砂化する技術を開発した。砂化することによって環境に悪影響を与えず埋葬することができ、墓地の敷地を確保する必要もなく、葬儀事業部は大きく飛躍した。各地から冷凍保存された遺体が運ばれ、冷凍処理と振動を組み合わせた独自の技術で砂となる。遺体の砂は細かく軽いため、風で空中に舞い上がる。同時期に砂にある麻薬と同様の成分があることが発見された。それは大量に摂取すると幻覚症状が現れ、続けると脳の機能低下を起こす。当時の会社は大規模な砂葬場の建設を大陸の極東に建設することをすでに発表していた。当然、その問題は伏せることになっていた>

<砂葬場から舞い上がる砂は海を越えて流出していた。私がかつて暮らしていた街にだ。砂の被害を隠蔽するために会社は大陸の東にある小さな島の土地を買い取った。そこは今も大陸からの砂が垂れ流しになっている。この事実をわたしは入社するまで、そしてこの葬儀事業部に配属になっても、最近まで知らなかった。多くの同僚や島の人々も知らないだろう。そこにはきっと……もう名前を忘れてしまった友人がいる。同い年で背の低い男の子だった。彼との別れの日、あのときの私は意味も分からず父からの伝言を彼に伝えた。「逃げて」と。私にはその意味が今日までわからなかった。私はただ伝えただけ。彼がどうしているかは知らない>

イバーナはSRSに勤務していた。もし、これが事実なら……
パインはSRSの本社にメールを送った。そして数日後返信がきた。イバーナ・ローズは3年前に死去していると。パインは真実をつかんだと思った。彼女はたしかに勤務していた、そしてあの文章たちは事実だ。イバーナはそれを物語にした。父親がああいう風になったのも自分が幻覚をみたのも赤砂の影響だと確信した。

エルバト・ローズは概ね幸福な生涯を過ごした。友人や家族にも恵まれ、最期のときも安楽死を選択した。最も大きな不幸は娘を失ったことだった。そしてもう一つ、友人に真実を明かさなかったことにある。彼が辺境の島に赴任していたときだ。軍の撤退が決定された。その理由の一つが赤砂であった。島には間もなく赤砂が流れつく。その前に軍を撤退させたいというのが本国の意向だった。当然、それは駐留軍でも一部の人間しか知りえない事実であった。ましてやそれを島の人間に漏らすことは機密の漏洩だけではすまない。それでもエルバト・ローズは最期まで悩んだ。そして彼は職務を全うした。彼にできたせめてものことは匂わすことだった。とにかく島からは逃げるしかない。生まれ育った土地を捨てることは困難を伴う。しかし、やがてこの島は赤砂に覆われる。幻覚の住み着く遺体の島になるのだ。友人にはとにかく逃げろとしかいえない。そして、それを身勝手に娘に託したのだった。

 

【5.0】
街を見下ろすことのできる窓辺でユノと紅茶をすする。今日は砂糖の甘さがいつもより強く感じる、疲れているのだろうかとタイソンは思った。立候補してから毎日忙しいが、おかげで万全に思えた。選挙の動向もまずまずだった。その一因となっている兄にタイソンは感謝していた。様々な意味で彼は犠牲になってくれていた。政治家に大事な要素の一つは感情である。感情をいかに人々に刷り込むかだ。政策など二の次でいい、そんなものは専門家の批評の対象になるだけで得票数には大きな影響を及ぼさない。人間は感情で動く。まずは、共感すべき善き人を演じることが大事なのだ。誰かの問題に紳士で真摯に取り組むことが全てだといってもいい、つまりは愛だ。その点で兄は非常に大事なピースだ。彼の人生を考えると不憫に思う。幼いころから兄は、どこか自由だった。一人で勝手に旅に出たり、海辺でホームレス同然の暮らしをしていたこともあった。その度に母親は頭を抱え、父親は何度も兄を殴った。「家の名を汚すな」それが父親の口癖だった。
その影響もあって私はよりこの「家」を意識するようになった。父親が死んだとき、遺言でこの家は私のものとなった。ある意味では当然の判断だ。マツのような人間にタット家の当主は務まらないだろう。先祖に顔向けできない。それに対して兄は何もいわなかった。私は家の近くに兄に住むようにいった。
「兄さんが本来はこの家を継ぐべきだよ」
兄は笑った。そしてまるで他人事のようにさらっといった。
「いや、お前のほうがふさわしいよ。お前にはタット家の遺伝子が組み込まれている」
「それは兄さんもだろ」
「生物学的にじゃなくて、タット家としての才能みたいなものがお前にはあるよ」
それでも兄を差し置いて私がこの家に住むことを懸念した。なんといっても地域の目がある、無頓着な兄を強引に説得し向かい側に新たな家を建てた。そこに兄と母親が住んだ。それから何年かして兄は結婚した。インターフォンが鳴る。妻が出払っていたことを忘れていた。画面に映ったのはパインだった。
「叔父さん。ちょっといいかな」
「おお、どうした。入りなさい」
応接間にはクリーニングに出したばかりの真紅の絨毯が敷かれ、年季の入ったカラメル色の牛皮のソファが対を成して並んでいる。
「何か飲むかい、ビールもあるぞ」
「いや今日はいいよ」
「腹は減ってないのか」
「大丈夫」
珍しかった。てっきりまた空腹を満たすためにきたのかと思った。これは彼にとって大事なことかもしれない。愛を持って接しなければ。
「まぁ、お茶くらい飲め。どうしたんだ」
ユノがお茶を運んできて腰掛けた。パインは目の前に置かれた湯気の上がるお茶には目もくれず、彼が掴んだ事のあらましを説明した。その間、タイソンは一言も発さず、じっとパインを見つめていた。パインは話し終えると冷えたお茶を一気に飲んだ。ユノはその間タイソンをじっと見つめていた。
「叔父さん、このことは公表すべきだ」
「なるほど……」
タイソンはゆっくりとカップを口に運んだ。紅茶はもう甘く感じなかった。
「パイン、お前ももう大人だ。いつまでもそんな絵空事を追ってるのは若い証拠だ。まともになれ。SRSから職員募集の知らせがある。ほんとうならこれから公に発表するけどお前がやりたいなら是非どうだ。そうじゃないと僕も兄さんに顔向けできないよ。口を利いてやれるのももう最後になるぞ。市長選が終わればSRSの人間ではなくなるだろう」
「親父は別に死んではないよ。それに親父みたいな人がこの島で増えていくかもしれない。確かにSRSや赤砂がないと島は成り立たない。でも赤砂は資源じゃない。これは真実だよ。叔父さんならわかるでしょ」
それまで黙っていたユノが急に口を開いた。
「この恥知らずが。タット家の誇りはないのか。まともに働きもしない上に妄想を吐き、一族の名を汚して。お前が育ったのもSRS基金のおかげじゃないか。赤砂のおかげだ。せっかくタイソンが仕事を持ってきてやってるのに……あの人が生きてたらどんな目にあったか。あの娘のせいで息子は狂っちまった、お前もそうだよ」
パインはその怒声に動じることはなかった。島国の人間は陰湿だ。タイソンがユノをなだめ、穏やかな口調で話だした。
「母さん。少し感情的になり過ぎだ。パイン……いいかい。真実ばかり追い求めるな。所詮、真実なんて諸説のなかの多数派に過ぎない。そんなものはすぐに変わる」
パインはそのときに悟った。叔父は全て知っていたのだと。

部屋に戻ったパインは荷物をまとめた。このまま黙っているわけにはいかない。玄関のベルが鳴った。開けるとヘルパーの職員が父親を送り届けにきていた。パインはそのまま父親の車椅子をリビングへ押した。父親の口からはっきりと「ナライ」と聞こえた。それは母の名だった。パインは母親の記憶などはない。二人はどのような人生だったのだろう。俺に何かしてほしかったのだろうか、叔父のようにきちんと生きてほしかったのだろうか。駄目だ、感傷的になってはいけない。感情は危険だ。
パインは自分自身をこの島の人間だと思っているし、彼なりに島のことを気に入っていた。それでも彼はタット家にとってはよそ者だ。荷物をまとめリビングの父親の前に座った。
「血は50%同士なのになぜか四捨五入されるよ、親父元気でな」
パインは家を出てフェンス沿いを歩いていると一人の老人が倒れていた。老人は鼻や膝から流血していた。ジャージは所々に穴が開き、伸びた無精ひげのほとんどは白かった。アル中爺さんだった。
「兄ちゃん、悪いが立たせてくれないか」
パインは両脇を抱え身体を起こした。アル中爺さんの身体には力が全く入っておらず起こすのに苦労した。
「兄ちゃん、力あるね。もしかしてSRSかい」
老人は笑っていた。
「違いますよ、パインです。覚えていないんですか」
明らかに酔っていた。倒れていた歩道には血が付着していてそこに口を縛った半透明のビニール袋があった。中には空の酒の紙パックが幾つも入っていた。
「俺もSRSにいたんだぞ、後輩!」
千鳥足の老人は右腕をパインにかけた。酒臭い息に無性に腹が立った。こういう奴らの蓄積が俺たちなのだ。強引にその腕を振り払うと老人は再び転んだ。
「酒止めろよ。だからアル中爺さんなんて呼ばれるんだ」
「なんだと後輩。酒止めたら幻に殺されちまうよ」
「幻?」
「生きていても幻が迫ってくるんだ。それならいっそ酒よ酒」
そういうとアル中爺さんは去っていった。
これもすべて赤い砂丘が原因だ。フェンスに看板が貼ってある。

<赤砂は貴重な資源です。当施設への無断での立ち入りは禁止されており違反者は処罰されます。SRS>

イバーナと別れた日、フェンスの下で小鳥が死んでいたことを思い出した。野良猫に襲われたのか有刺鉄線から電圧が流れたのかはわからなかった。言葉はフェイクだ。ただ死んだのはほんとうだ。

 

【6.0】
パインはまだオープン前のオアシスの扉を開けた。アップルは驚いたようだったが怒る様子はなかった。
「どうしたんだ」
「頼みがある。ここに寝泊りさせてくれ」
「今日?」
「しばらく」
「どれくらい」
「一か月くらい」
「家はどうした」
「出てきた」
「家出か。子どもだな」
アップルは笑った。
「SRSに乗り込む」
「何をいってるんだ」
アップルの表情が変わった。
「うまくはいえないが……」
パインは赤砂について話した。
「信じろとはいわないが」
「それでSRSに乗り込んでどうするんだ」
「赤砂を持ちかえる。効果が証明されればみんな動くさ」
「策はあるのか」
「まぁ」
「わかった。手伝おう」
パインにとって思わぬ反応だった、それが嬉しかった。
「そうか、助かるよ。一杯やろうぜ、マスター」
「好きなの選べよ。俺は飲まないことにしてるんだ」
「バーテンの酒嫌いか、珍しいな」
アップルはそれには答えなかった。無言でカウンターに入り、どれがいいといつもの調子でパインにたずねた。ジンバックを手早く作り自分の分のホットコーヒーとともにテーブルへ持ってきた。

「海側の吸引機の砂を取る」
「なぜだ。わざわざ奥にいく必要はないだろ」
「どれくらいの砂の量で効果があるかわからないんだ。それにチャンスは一度だ、最も濃いところを狙うのが確率が高い」
二人は準備に取り掛かった。決行は二週間後と決めた。アップルはオアシスの営業の傍らパインから指示されたものを調達した。パインはもう一度確かめておきたいことがあった。

「パイン最近遅くまでやってるな。どうしたやる気出したか」
「そんな感じっす」
「まぁ、適当にして帰れよ。鍵は持ってるよな」
「はい、現場監督から預かりました」
一人になったパインは事務所を出て倉庫に向かった。倉庫の扉は日中とは違い大きくみえる。扉を開けると重たい音が倉庫内に響きパインは懐中電灯を手に茶色の袋を探す。確か角に平積みにされていたはずだ。パインは倉庫から凝固剤を持ちだした。
ゲートさえ越えれば後は管理が甘い。強固に思えても砂の壁は脆い。ただ崩れることにだけは気をつければいい。そのときはすべて飲み込まれて終わりだ。

決行まで数日を切った。日暮れ前の公園のベンチにパインは座っていた。子どもたちがボール遊びをしている。奥の砂場で一人の少年が膝をついている。少年は必死で何かをつくっている。ボール遊びをしていた子どもたちが集まって少年を見ながら話をしている。そして一番体格の良い子がボールを少年のほうへ投げつけた。それは見事に砂場の何かに当たった。
「女みたいに砂遊びしてんじゃねぇよ」
少年を囲んだ子どもたちは笑いながら去っていった。少年はそれがまるでなかったことのようにまた砂を集めはじめた。パインは少年のもとに駆け寄った。何を作っているのかたずねてみたが少年はトンネルと小さい声でつぶやき、また砂に視線を落とした。
「ねぇ、お兄ちゃん」
少年は目を伏せたまま声を発した。
「なんだ」
「お兄ちゃんあれでしょ、駄目な大人なんでしょ。ママがいってた。あそこの家は立派なのにお兄ちゃんだけ駄目なんだって」
「そうだな」
パインは少年が再び作り出した砂のトンネルを反対側から掘りはじめた。
「お前コンビニを探す豚ってみたことあるか」
「ないよ、そんなのいるわけないじゃん」
「じゃあ砂の幽霊は?」
「そんなの非現実的だよ。だから駄目なんだよ」
「そうだよな、いるわけないんだよ。大人のほうが幻想がみえるし信じちゃうんだ。変な世界だよな」
砂のトンネルで二人の手がつながった。
「お前は変になるなよ、じゃあな」
少年はパインがみえなくなるまで彼の姿をみていた。変な大人だと思ったが駄目な大人だとは思わなかった。

 

【7.0】
決行の夜がきた。店内の電気を消して窓を施錠する。窓の下ではパインが軽トラックを停車させ待っている。ビニールで覆った荷台にはこの一か月間で準備したものが詰んである。大丈夫だ。アップルは思った。同時に彼は思った。一体、何が大丈夫なのだ。夜の繁華街に静まる店内は妙な違和感を彼に与えた。アップルは開店以来、はじめてオアシスの扉に休業の看板を立てた。もうここに戻ることはない。鍵をジャケットのポケットに入れ、階段を下りる。途中で酒を搬入する業者とすれ違った。
「今日お休みですか、珍しい」
「嗚呼、ちょっとね」
「そうですか、またお願いします」
業者は忙しなく階段を上がっていった。ダンボールに入れたリキュール瓶が揺れる音が耳に残る。聞きなれた音をもう聞くことはない。助手席のドアを開けるとパインは国道のフェンスを見つめていた。
「待たせた、いこう。忘れ物はないか、致命的だぞ」
「酒の空き瓶も持ってきたろ」
「嗚呼」
「じゃあ大丈夫だ。なぁアップル、ほんとうにいいのか。やばくなったら逃げろ」
「いいじゃないか、面白そうで」
アップルが普段より興奮しているのがわかった。
「ここまできたんだ。逃げるなんてそんなのプライドが許さないよ」
パインはしばらく黙った。
「そうか、わかった。でも安易に誇りとか使うな、馬鹿になる。さぁ、いくぞ」
国道には赤いテールランプがいくつも並び列を成している。そのなかに一台の軽トラックが入った。

国道を数キロ進み左に曲がるとゲートがみえてきた。二人はその間ほとんど言葉を交わさなかった。
「そういえば策はなんだ。ゲートなんて簡単に通過できるっていってたけど」
「そうだ、シートベルト外せ」
「なんで」
「いいから。お前は隠れてろ。大丈夫だから」
パインは毛布をアップルに渡した。アップルは助手席の足元に身をかがめ、その上に毛布を乗せた。パインはさらにそこに空のダンボールや自分の服を重ねアップルの姿を隠した。
「いいか、俺がいいっていうまで動くなよ」
程なくして車は停車し、パインが降りたのがわかった。

どれほどの時間が経ったのだろうか。アップルは思った。ほんとうにあの男に策があるのだろうか。突然に車は動き出した。だがパインから合図はない。もしかして忘れているのか。飛び出してもいいものだろうか。しかし万が一がある。パイン以外の誰かが運転している可能性もゼロではない。それならば動くのは危険だ。とにかくアップルは待つことにした。車はまっすぐ進んでいるようだ。それなら確実に赤砂には向かっている。それだけは確かだ。

「あれ、先輩」
「よぉ」
「どうしたんすか」
「いや、この前の工事できたときに上着を現場に忘れてさ、取りにいかしてくんない」
「嗚呼、ちょっと待ってください。じゃあ本部に……」
「待った、待った。こっそりいかして」
「どうしてですか」
「いや、俺さ前にも一回やって、バイト先の人に怒られたんだわ。だからめんどくて。頼むよ、ちょっと上着取るだけだし」
「でも規律違反っすよ。SRSが厳しいの先輩も知ってるでしょ……」
「いいじゃん、後輩だろ。それにお前、酒も奢っただろ、この前」
そういうとパインは後輩の首に腕をまわした。
「痛いっす。まぁ、わかりましたよ」
「サンキュー」
パインはそのまま後輩の首をつかんでゲート受付の監視カメラにみせた。
「ほら、もっと苦しんだ顔しろよ」
「やめてくださいよ、本部の人がみてたらどうするんですか。ってかほんとに痛いです」
ゲートが開いた。
「何かあってもお前のせいじゃねぇよ」
「そりゃ、そうっすよ」
「俺に脅されましたっていえ」
「わかりました。また飲みにいきましょ、オアシスに」
「そうだな」
「あそこしかないですからね、俺らが飲むの」
「そうだよな。あそこは残さないとな」
パインは軽トラックに乗ってゲートを通過した。夜の赤砂へと車はゆっくりと進む。のちに後輩はパインにいわれたとおりの証言をした。監視カメラの映像は彼の証言を裏づける決定的な証拠となった。

「いいぜ、出てきて」
アップルが身体を出すとゲートはだいぶ奥にあった。
「遅かったじゃないか。どうやった?」
「後輩に開けさせた。信じられないくらい簡単だ、この島は何よりも地元の縦関係が強いんだよ」
「それが嫌いなんじゃないのか」
「まぁな。でもこれが最後だ」

赤砂には微妙に個性がある。場所によってその重さや密度が異なる。吸引機は飛来する赤砂に対して、吸い込むと同時にふるいのような役割を果たしていた。重たい砂たちは吸引機の付近に堆積し、軽い赤砂は吸い込まれる。はじかれた砂たちがまた国道側へと飛来を続けるのだ。二人は吸引機に向けて軽トラックを走らせた。吸引機が近づくと視界は悪くなり、やがて赤い砂嵐が車を覆った。赤砂が不思議な景色たちを映し出す。
「これか」
「大丈夫だ、問題ない。俺たちはまともだ」
二人は吸引機の前に着いた。
「よし、はじめよう。ちゃんとマスク着けろよ。まだ狂いたくないだろ」
パインは凝固剤を水で溶かしはじめた。赤砂は国道側とは比べ物にならないほどの濃い色をしていた。これなら大丈夫だろうとパインは思った。赤砂を凝固剤に入れる。赤黒い血の塊のようなものができた。それをオアシスから持ってきた酒の空き瓶に詰める。
「ほんとうに砂酒だな」

「逃げて」
振りかえると脇に幼いイバーナが立っていた。
「逃げて」
もう一度イバーナが叫ぶ。これは思い出だ、自分を保て。マスクもしているしまだ大丈夫だ、簡単には狂わない。イバーナはパインの腕を掴もうとした。
「やめろ」
パインは腕を振り払った。その瞬間に彼女は砂に戻る。そろそろ、限界か……ほんとうはもう少し欲しかったが
赤砂を回収したパインは運転席に座ってエンジンをかけた。しかし、モーター音だけが響き車輪がうまく回転しない。後輪が赤砂に埋まっていた。
「アップル、手伝ってくれ、後輪が……」
赤砂が舞うなか、アップルは車の外に立っていた。彼はマスクを外し海を見つめていた。

「おい、アップル何してる。マスク外すな」
アップルはマスクを嵐のなかに投げ捨てた。
「邪魔するな」
「何やってるんだ」
「もうすぐなんだ」
パインはアップルを無理やり車内に連れ込んだ。彼は頬から涙を流していた。後輪を飲み込む赤砂を必死にスコップで堀った。再びイバーナが現れる。彼女もまた泣いていた。そんな彼女を後ろから抱きしめる女性が出てきた。しかしその顔は砂嵐でぼやけてよくみえない。ようやく後輪が動きだした。急いで運転席に座り車を発進させた。
「どうしたんだ、もう赤砂にやられたか」
「違う」
「じゃあなんだ」
「僕は娘に会いにきたんだ」

アップル・ブラック・ゴールドは教職者を目指し大学の神学部に入学し、そこで後の妻となる女性と出会った。彼女は教師を目指していた。方向は違えどアップルも彼女も誰かに愛を注ぎたかった。彼らは学校を卒業と同時に結婚した。彼女は念願叶い小学校の教師に、アップルは近くの教会で牧師の見習いとして勤めはじめた。彼の勤める教会では牧師の定員が決まっていて年長者たちが引退するまでは見習いのままであることが慣例だった。それは事実上これから十数年は見習いのままであるということであった。アップルはそれでも構わなかった。しかし妻はそんな彼を快く思ってはいかなかった。
「あなたは話を聞くのがすごく上手、そういう仕事がきっと向いているわ」
アップルは牧師の見習いとして働く傍ら、妻の勧めでセラピストの資格を取るための勉強をはじめた。数年後、彼らに娘が産まれた。妻は教職者を諦め、セラピストとして働くようにアップルに薦めた。そうすれば収入もはるかに上がるし彼もそのほうが良いかもしれないと思っていた。
しかし娘が誕生してから、アップルにはある疑念のようなものが芽生えはじめた。それは自身の父親としての立場や社会での位置について、そしてそれに伴う信仰についてだった。彼は神を愛している。そしてそのために奉仕し、それを広めることを天職だと思っている。しかし同時に娘も愛している。彼女を養うためには天職と思っているものを捨てなければならない。事実、彼らはほとんど妻の収入で暮らしていた。娘の誕生でもっと広い家、そして教育環境の良い街に移りたいと妻はしきりに話していた。
愛に区別はない。しかし現実はどちらかを選択しなければならない。それまで地続きであった現実と信仰は彼のなかで分離しつつあった。それは神への裏切りではないだろうか。その疑念は彼の人生を根底から覆しかねなかった。
――妻にもわからないだろう。これは私と神との問題なのだ。
アップルはひたすら神と向き合おうとしていた。しかし、彼は強くなかった。ある夜、妻がパーティーに出るために家を空け、娘と二人で彼は家にいた。妻の考えた教育プランが教育委員会の目に留まり表彰されることになり、そのお祝いを同僚たちが開いてくれたのだった。アップルは家で久しぶりに酒を飲んだ。彼は酒に強かったが自分を失うほど酔ったことはこれまで一度もなかった。娘はベッドの上で穏やかに眠っている。赤ん坊の掌はアップルの小指の半分ほどしかない、それでも彼女は呼吸をしている、生きているのだ。彼女の寝息は地球の鼓動そのものだ、娘のために生きることは神のために生きることに通ずるのではないか、アップルは何杯目かのウイスキーをグラスに注ぎながらそう思った。目を覚ますと妻が帰ってきていた。特に量を飲んだわけではなかったが、頭や身体が重くまるで自分だけに強い重力がかかっているようだった。おかえりと妻に声を掛けても反応はない。何かあったのかとたずねるとベッドに寝ている娘を指さした。
「泣いていたの。気づかなかった?」
「いや、全く。すまなかった」
妻は無言でワンピースの背中のジッパーを下ろし、留めていた髪をほどいた。
「そんな泥酔するなら、お酒なんか飲まないでよね」
アップルは自分が信じられなかった。妻がそういった瞬間に彼は平手打ちを彼女にしたのだった。妻も彼も信じられないという表情を浮かべた。
「職業は?」
若い警官が調書を書きながらたずねた。
「牧師だ」
一言だけ告げてアップルは黙った。これは彼が正確に相手の話を聞こうとするあまり自分の話を簡略化してしまう癖だった。警官は一瞬戸惑った表情をみせたが視線を紙の上に落とし、次の質問に移った。それから留置所に彼は連行された。簡易ベッドに寝転び天井をみつめる、相変わらず身体は重く怠かった。妻や娘に申し訳ない気持ちになった。そして自分には牧師は務まらない、教えを広めることには向かないと彼は考えた。信仰心に変わりはない、しかし自分には家族がいる、あの小さい掌の娘だ。神は赦してくれるはずだ。家に帰ったらセラピストとして働こうと決めた。やはり妻のいうことは正しかったのだ。そう思うと妙に落ち着いた気分となった。そして、そのまま彼は眠った。翌朝には釈放された。頭や身体を押し込む重力は留置所で一晩を明かしても消えることはなかった。それは酔いのせいではない。これは何かが私に憑りついたのだと彼は考えるようになった。それが彼に妻の頬を打たせたのだ。たった一発の平手打ちだった。
しかし、アップルは妻とは離婚することになった。聖職者が暴行事件を起こしては何の信用性もなかった。彼は街を出て遠くの乾いた土地の田舎で暮らした。週末には変わらず教会に通った。田舎の人々は都会よりも信仰に熱心だとアップルは感じていた。だがそれは信仰心ではなく信仰の所作においてだった。教会を訪れる人々は手順や仕方について事細かく親切にアップルに教えてくれた。そのおかげで何人かの友人もできた。しかしアップルは自分が牧師であったことを語ることはしなかった。教会で祈るとき、彼は独りで神と対面するのだ。ただ神はアップルに何も語りはしない。ただ問うだけだった。
彼女から久しぶりに電話が入った。娘の訃報だった、夜中に急に発作が起きたらしくそのまま病院に運ばれる救急車のなかで亡くなった。
「大丈夫かい」
「大丈夫なわけないでしょ」
「すまない。すぐにいくよ」
「そういうことじゃないの。あくまで事務的に報告しないといけないと思っただけ」
「せめて祝福を……」
「貴方から神の言葉なんてききたくないわ」
アップルは助手席で砂嵐を眺めたままだった。
「人生を生きていれば誰だって過ちを犯す。その過ちは神が赦しても人は赦さない。それがたった一度だとしてもだ。それでも赦しを乞うしかない。ほんとうに些細なことで簡単に崩れるし失う。砂のように僕たちは脆い」
「知ってたのか」
「嗚呼。お前の父親もきっと母親と幸せに暮らしている。僕は赤砂に触れられれば、娘と過ごせればそれでよかったんだ」
オアシスのビルの前でパインは車を停めた。もう夜が明けようとしている。
「どういうことだ」
「帰ってきたときに飲む場所がないのは辛い。すぐ戻るさ」
「このままいくのか」
「そうだ、早くいかないとな。もう船のチケットも取ってある」
パインは一枚だけの乗船券をみせた。
「そうか」
「この島では駄目だ、SRSの力が強すぎる。大陸に渡ればどうにか公表できるはずだ」
アップルは国道へと曲がるパインを見送った。赤砂の影響が公表されればこの島も終わりだろう。そのときは店をたたもう。しかし自分にはもういくところはないのだと彼は思った。

港まではフェンス沿いをひたすら南下すれば着く。
俺は俺なりにこの島を愛している。土地なんて要素の一つだ、環境の一種だ。俺たちは愛するここを喰いつくしてしまった。再生はない。映画のような出来事が起きても、映画のようなエンディングは迎えない。現実は少しずつしか変わらない。それもほんのわずかずつ。ほんとうに何かを成し遂げたいなら、まずは見届けることを諦めることからはじめなければならない。大事なのはその変化が託されるように残すこと。そして血や土では残らない。誰だって常に橋渡し役だ。それが終わることはない。港がみえてきた。

 

【8.0】
オアシスは変わらず営業を続けている。一つ変わったことは店員が一人増えたことだった。アップルはカウンターで酒を作り、ホールはアルバイトの青年がおこなった。彼をみるとアップルは不思議な気分になった。青年と出会ったのは日のことは今でも覚えている。
その日はいつもどおりの夕方、アップルは開店のために店を清掃していた。そのとき、扉が開いた。アップルはその時を待ちわびていた。オープン前にノックもせず開けるのはあの男しかいない。
「随分、久しぶりだな。長い間どこに……」
しかし立っていたのは少年かと見間違うほど若い青年だった。
「オープン前に突然、すみません。アルバイトとか募集していませんか」
それが二人の出会いだった。

奥の席でSRSの真新しいシャツを着た二人組が若い女の子たちに声をかけた。そして彼らの一人がカウンターでビールとカシスソーダを注文した。伝票にチェックを入れてマグネットで挟む。アップルはサーバーからこぼれた泡を拭いたビールとカシスソーダを渡し窓の外をみた。乾杯の音が店内に響く。
カウンター上のテレビ画面ではニュースをやっている。市長が涙を流していた。
「非常に悔しい思いです。これはあくまで一つの区切りです。私は今も彼がどこかで存在していると信じています」
三期目の再選を果たしたタイソン市長は定例の会見で涙を浮かべながら話した。
パイン・タットの失踪が起き十年が経過した。親族の失踪宣告により彼は法的に死んだ。パインの葬儀は親族だけで密かにおこなわれた。彼のために作られた空の骨壺が一族の墓に入ることはなかった。彼が最後に目撃されたのは港のターミナルだった。船で島の外に渡り、大陸で行方不明になったのだろうとみな話していた。
「やっぱり大陸になんかいくもんじゃないね」
「島が一番だよ」

SRSはますます大きくなっている。市長となったタイソンは三期目に入りSRSとの連携を強化し島の経済の活性化に成功している。未だに赤砂のことは公表されていない。アップルは酒瓶の並ぶ棚の砂時計に手を伸ばした。それをゆっくりと左右に傾け、再び棚に置いた。十年前にこの砂を手に入れ、彼はいつでも娘と会えるようになっていた。しかし、ある時期からそれを辞めた。パインが出てくるかもしれないと不意に思ってしまったのだ。
きっと何かのトラブルで未だ公表できていないだけだ。そう信じようとした。それでもやはり開けることはできなかった。そうしている間に十年が経っていた。もういいじゃないか、そんなことはない。あの男なら大丈夫だ。愛しい娘に会いたくはないのか。自らにいい聞かせ砂時計のガラスを引き抜こうと何度も手をかけた。しかし赤砂を眺めているとパインのことが浮かぶ、そしてそれを長い時間をかけて打ち消す。その間に娘もいなくなる。アップルの感情はガラスのなかの砂のように、どこにもいけず彷徨い続けた。彼はこの恐怖と何年も対面し続けていた。自分の感情に逆らい続けるのは彼を様々な面で疲弊させた。身体の自由も効かなくなりはじめていた。店をたたむことも考えたが街に一つしかないバーを無くすことは街の人々が嫌がっていた。アップルは店にいるような気分ではなかった。最近はこのような気分になることが多くなってきている。彼はホールにいる青年を呼んだ。
「今日はもうあがる、あとは任せるよ」
「わかりました。大丈夫です、あとはやります」
「嗚呼、頼む」
青年はよく働いた、島の人間にしてはいたく勤勉だ。最近ではアップルからレジ閉めや後片づけも任されるほど信頼を得ていた。週に一度、平日の夜には彼一人に営業を任せた。そして、その意図を青年も理解していた。アップルの去った店内を見渡しながら青年は思った。ただ、身勝手に託されてもそれだけでは困ると。

仕事が終わり、同棲している部屋に戻ると青年はベッドのなかの恋人を抱き寄せた。カーテンの隙間からは朝日が差し込み、外から登校する子どもたちの声が聞こえる。
「おかえり」
まだ半分寝ている彼女は普段よりしゃがれた声でそういった。
「もしかしたらオアシスを継ぐかもしれない」
「ほんとに。良いように使われてるだけなんじゃないの。最近遅いし」
恋人は青年のほうに身体を向けた。
「二人しかいないんだ。仕方ないさ」
「それに店長さんって島の人じゃないし。もしかして騙されてるんじゃないの」
恋人はあまりにも悪気なくいい放った、そのことに青年は驚いた。
「もう長いこと島にいるんだ、そんなことないよ。アップルさんはきっと色々なものを押しつけられてきた、それに疲れたんだと思う。それに他にも外の人はいる、ハーフだっている。島の外とか内とかは関係ないよ」
「そうかな、でも結局そういうことな気がする」
そういうと恋人は青年の胸に頭をあずけた。
「それは僕らが島の外を知らない、そこからどう思われてるか考えていないんだ。だからそんなこといえるんだ」
「それで店はいつ継ぐの」
「わからない。それに決まったわけでも了承したわけでもない。ただ可能性の話をしただけだよ」
彼女の頭に手を置きながら青年は時計をみた。
「そろそろ、起きないと。仕事でしょ。俺はもう寝るよ」

オアシスは週末になると二人の店員では追いつかないほどの盛況をみせた。空きグラスを下げてきた青年が伝票をみながらつぶやいた。
「だいぶ古い伝票ですね。そのままでいいんですか」
ジンバック一杯だけの伝票が砂にまみれ薄くなっている。
「嗚呼、そのままで。そいつが金を払いに来るのを待っているんだ」
「ジンバック一杯を払いにきますかね」
「きっとくるさ、そういう奴なんだ」

朝方、二人は店を閉めゴミをビル共有の回収ボックスに捨てた。そのとき強い風が吹いた。ビルの真下からオアシスのバーカウンターの窓が開いているのがみえた。確かに閉めたはずだったが……
「俺、閉めてきます。店長、先に帰ってもらって大丈夫ですよ」
「そうか、じゃあな」
青年がオアシスに戻ると先ほどの突風で砂時計が床に落ちていた。割れたガラスの破片を拾い、砂をほうきでかけ集めた。店の奥に一人の男の姿がみえたように思えた。電気を点けるが誰もいなかった。再び風が吹いて店内のポスターが揺れる。
「大人のほうが幻想がみえるし信じちゃうんだ。変な世界だよな」
青年が幼いころに出会ったあの男の言葉だ。なぜ、こんなこと急に思いだしたんだ。

記憶のなかの声はただの空耳に過ぎない。自分が選ばれし者だなんて思える時代じゃない。青年は窓を閉めて、ビル脇に停めていた自転車のチェーンを外し国道へ走った。朝と夜の交差するこの時間帯が青年は好きだった。耳元にはなぜかさらさらとした違和感があり、自転車を停めて耳の中を掃って粉塵をはたいた。塵は側道の白い粉の上に落ちた。蟹だと青年は思った。国道には時折、蟹の死体が転がっている。タイヤに踏まれ、割れたチョークのように跡形もなく粉々になる。かつては海から上がってきたが、もうそれはできない。それでも蟹たちは適応したのだ。排水管を通り国道に出てくる。彼らにとってはこれが日常のことなのだ。たとえ車輪に巻き込まれ粉になろうとも。
自転車が再び走りだす。青年の反対側には赤砂の丘が広がり吸引機が二十四時間稼働している。いつも通りだ。それが青年にとっての故郷の光景だ。この砂漠もいつかなくなるのだろうか。そうなっても島といえるのだろうか。島を貫く国道の先には海がありその向こうには大陸が広がっている。国道には珍しく車一台なかった、青年は広大な道路でたった独りだった。車道の真ん中へと自転車を走らせた。南へ向かう国道は緩い下り坂となり、青年はペダルを漕ぐのを止め流れに身を任せた。
――オアシスは砂漠があってこそだ。ただそれはいつか枯れる。
そして砂漠もずっとあるわけではない。たまたま生まれた時代にあっただけだ。なくても島は島だ。風向きが変わった。青年はハンドルを握りペダルを漕ぎだした。生まれたての朝の風は向かい風、それが青年を包む。上空では今日も赤砂が舞っている。

文字数:46324

内容に関するアピール

「土着」に個人的に強い関心があります。

この文章は第二期SF創作講座の第一回課題「五反田をSFにせよ」のアピール文の冒頭です。
そのとき、私は地方に土着していた老人が強制的に五反田に住むことになった話を考えました。
それから約一年が経ち、自身の関心はやはり変わっていないのだと、本作『赤砂』を書き終えて思いました。

『赤砂』はいつか書いてみたいと思っていた故郷を下敷きにした話です。
故郷を題材に書くことはこれまで意図的に避けていました。その理由を明確にあげるのは難しいのですが、一言でいうと「空気」だったと思います。
一年間の講義のなかで、SFなら自分の考えや感じたものを書くことができるかもしれないと思うようになってきました。これはSFの凄さの一つなのではないだろうかとSF初心者ながらに感じています。

そのような揺蕩があり、結果的に自らの故郷を「土着」という観点から書くことになりました。

この一年間、大森さんをはじめ講師や編集者の方々、同じ受講生たちと話をするなかで「SF特有の視点」を私はこれまで書くうえで重視してこなかったのだと痛感しました。
残念ながら、そこがわかっただけで一年間が過ぎてしまい「SF特有の視点」で作品を書くという段階にまで達することはできなかったように思います。

そのような心境で書いたのが本作『赤砂』となります。
SFとして至らないレベルかもしれませんが、それでも読む価値のある話だと思ってもらえたら嬉しいです。

文字数:612

課題提出者一覧