マドレーヌ・トイレット

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梗 概

マドレーヌ・トイレット

四方の壁の厚みは4cm。扉を開けると長方形の空間が広がり、奥に光沢のある白いトイレットが配置されている。指ではじくとカーンと短い音が鳴るような陶器で出来ている。便器の蓋は貝殻状の模様で、それが入室すると同時に上がる。ズボンを下ろし、便座に腰掛ける。マドレーヌ・トイレは使用者の臭いを記憶しており、座ると便座の温度や、水勢、ウォシュレットのノズルの位置を自動で設定する。用を足すときの恥ずかしさは音姫ではおさまらず、水勢やウォシュレットの位置すら操作しているのが恥ずかしいというユーザーの要望に応えた結果マドレーヌ・トイレットは産まれた。マドレーヌ社製のトイレは市場でのシェアをどんどんと伸ばしていった。

カンタは用を足そうと入ったが、突如マドレーヌ・トイレが故障した。修理のためにマドレーヌ社に電話をかけ業者を呼んだ。ほどなく到着した男は小太りの長髪の男だった。「失礼します」と男は頭を下げ消臭スプレーをまいた。男はムサといった。二人は名刺を交換した。名刺をみるとムサは驚いた表情をみせ、久しぶりとカンタにいった。二人は中学の同級生だった。しかしカンタに覚えはなかった。ムサは懐かしいなとつぶやき、二人は今度飲みに行く約束を交わした。

居酒屋でこれまでの近況を二人は話す。ムサから香水の香りがした。カンタは今の会社が辛く転職を考えており、そのことを打ち明けた。カンタの会社は3K(きつい、厳しい、帰れない)だと嘆く。ムサは人間の仕事よりトイレこそ3K(きつい、汚い、ケツ乗せられる)だと主張した。トイレは話すことも転職もできないし寡黙な職人だと述べた。そしてカンタにマドレーヌ社に転職しないかと持ち掛けた。

カンタはマドレーヌ社の工場を訪れる。工場は休日で電気もエアコンも点いておらず蒸し暑かった。ムサは工場の生産ラインや募集している業務について一通り説明し、最後に現在マドレーヌ社がすすめている新しいプロジェクトをみせると開発部門へと連れて行った。鼻をツンと刺す臭いがしていた。その臭いにカンタは覚えがあったがはっきりと思いだすことはできなかった。マドレーヌ社の新しい製品は水圧でごみをプレスしバラバラに解体できる工業用トイレだった。ムサはここで商品の耐久調査を行っていることを話した。
「僕はここでどれくらいのものまで水圧でプレスできるか実験してるんだ。毎日色んなものを流すだけ。トイレと同じだね。目的は全部、水に流すことなんだ。嫌なこととか。誰だってそういう記憶ってあるじゃん。トイレはそれをすべて受け入れてくれるんだよ」
ムサはそういうとスイッチを入れた。二人の目下の穴から水が噴き出し、氾濫した河川のようにうなった。臭いの正体をカンタははっきりと思い出した。わかった。汗だ。ムサの臭いだ。
「昔さ、カンタくんたちがお前の汗ってウンコみたいだなっていったんだ。それで臭いから洗ってやるよって体育館のトイレに連れてってさ……」
カンタは言葉に詰まった。
「でも全部、水に流してあげるよ。トイレは無口で耐えてるんだ。僕もあのときそうだったんだ」鈍い音がしてトイレの流れる音がした。

文字数:1284

内容に関するアピール

“何か”の気持ちになるという課題で、本作はトイレを“何か”に設定しました。

トイレを擬人化するのではなく、そのままの存在を維持したままで気持ちを表すことを考えました。トイレの気持ちをムサの言葉を通じて語らせること、またムサ自身も過去の体験からトイレに対して愛着を持っており自分自身を投影しているため「ムサ=トイレ」として機能するのではないかと考えています。

マドレーヌ・トイレットと臭いによる記憶の関係性はプルーストの『失われた時を求めて』から着想を得ています。

文字数:229

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マドレーヌ・トイレット

四方の壁の厚みは4cm。扉を開けると長方形の空間が広がり、硬い床のタイルが規則的に配置されている。
その奥に光沢のある白いトイレットが存在している。
寸法は高さ520mm、幅420mm、奥行き800mm。洗浄水量4.oリットル。その美しさを前に誰もが一目で理解する、主役はこのトイレットだと。白い陶器は指ではじくとカーンと短い音が鳴り、下水道へと続く配管を覆う部分は女性のくびれのような魅力を持っている。便器の蓋には貝殻状の模様が彫られ、近づくとそれがゆっくりと上がる。使用者はズボン若しくはスカートを下ろし便座に腰掛ける。マドレーヌ・トイレットは使用者の臭いを記憶しており、腰掛けると便座の温度や、水勢、ウォシュレットのノズルの位置を自動で設定する。過剰な恥ずかしさは音姫だけではおさまらず、水勢やウォシュレットの位置すら操作しているのが恥ずかしいというユーザーの要望に応えた結果、マドレーヌ・トイレットは快適なトイレットライフを過ごすための多機能型トイレットとして生まれ、このマドレーヌ社製のトイレットは市場でのシェアをどんどんと伸ばしていった。

 

カンタはデスクを飛びだし用を足そうとオフィスのトイレットに入った。ここ数日はまともに家に帰っていない。わずかな仮眠やシャワーを浴びてすぐに出社を繰り返す日々だった。休日も出勤が続き彼はひどく疲弊していた。そのような生活が何週間か続いている。彼にとってトイレットは社内で唯一落ち着くことのできる場所だった。入室するとマドレーヌ状の蓋が起動し、彼が座るとセンサーが作動する。腰をおろした彼は扉に内蔵されたタブレット画面を眺めながら下腹部に力を入れた。大相撲のニュースや株価、天気予報が流れていく。しかし腹の重さとは裏腹に排泄できなかった。彼は壁に設置された操作ボードから『排泄誘発ボタン』を押下した。タブレットの画面が切り変わり、アザラシが氷上でゴロゴロと転がる怠惰な映像が流れた。これまでも様々な映像を試した。腕立て伏せをしている男、市場で上がった魚が口をパクパクと開閉している様、植物の発芽を早回しした動画など……しかしアザラシは彼にとって秀逸だった、それを観ているとなぜかうまくいくのだ。書店でトイレットに行きたくなるのと同じようなことなのだろうかと考えている間に排泄を終えた。『ウォシュレット』のボタンを押すと、泡状のボディーソープと温度や水圧が適切に設定された水が彼を洗浄した。カンタはズボンを上げ、排泄物を流した。退室しようとタブレット画面を戻そうとするが画面は切り替わらない。アザラシが延々と転がり続け、突如マドレーヌ・トイレットの蓋が、上がり下がりを繰り返した。

 

故障だった。修理のためにマドレーヌ社に電話をかけ業者を呼んだ。ほどなく到着したのは図体が大きく、長髪を後ろでひとくくりに結んだ男だった。垂れた前髪で恐らく隠そうとしているが顔にはニキビのつぶれた赤い痕が目立ち逆効果のように感じた。決して見た目が良いとは思わなかったが甘い香りが男からは漂っていた。男はカンタに名刺を渡した。
「マドレーヌ社のムサと申します。失礼します」
ムサは頭を下げ室内に消臭スプレーを噴射した。
「すみません、決まりなもので」
「ええ、別に構わないですよ」
「状況を教えていただきたいのですが」
「流してタブレットを元の画面に戻そうと思ったんです」
「と言うことは、誘発ボタンを……」
「まぁ。そしたら画面が戻らず、蓋が上下に動き出したんです」
「なるほど。わかりました」
ムサは鞄から取り出したラップトップをマドレーヌ・トイレットに接続し操作しはじめた。
「もしかしてカンタ?」
「えっ」
「ほら、中学で同級生だったムサだよ」
カンタは記憶を探ったがその名を全く思い出すことはできなかった。
「元気?」
「ああ、そうだね。久しぶりだな。しかし」
カンタは取りあえず話を合わせることにした。
「いや、今ラップトップでユーザー情報みてたらなんか見覚えのある名前だと思ってさ。いや、懐かしいな」
「下手したら卒業以来だよな。仕事どう?」
「そうだね、まぁ大変だけどトイレットほどじゃないかな」
「どういうことだよ」
「ほら、みて」
ムサは個室から出てレストルームを指さした。個室の扉は全て閉まっていて、洗面カウンターには顔をしかめた二人の男が個室をチラチラと睨みながら携帯をいじっていた。
「トイレットは休みなしの24時間営業だよ。おまけに今の時代は快適な空間にしないといけないし、完全にサービス業だよ」
「まぁ、たしかにそうか」
ムサはラップトップをマドレーヌ・トイレットから外し、鞄から新しい電盤と工具を取りだした。
「うん。大した故障じゃないね。すぐ修理できるし戻ってもらって全然大丈夫だよ。これくらいは保守プランに入ってるし終わったらオフィスの誰かに声をかけて帰るよ。そうだ、今度飲みに行こうよ」
「おお、そうだな」
二人は連絡先を交換した。戻りたくないカンタはしばらく修理をみていたが、用もないのにトイレットにいるのは居心地が悪くやがてオフィスに引き返した。

 

居酒屋の前に先に着いたのはカンタだった。卒業アルバムは田舎に置いてきていたし、SNSで検索してもムサの名前は出てこなかった。どうしてもムサを思い出せなかった。数分後にムサが到着した。彼からは香水の甘い香りがした。朝まで営業している居酒屋は22時をまわっても賑わいをみせている。二人はすだれで仕切られた掘りごたつの二人席に案内された。こうやって日付の変わる前にビールを飲むのは久しくやっていないとカンタは思った。ムサは酒が強く、カンタもそれに合わせて速いペースで飲み進めた。
「休みの日とかなにやってんの?」
「僕?トイレット巡り」
「なんだそれ」
「トイレットなんてみんな同じだと思ってるでしょ」
「そりゃな」
「実は違うんだよ。例えばショッピングモールとデパートだと全然違う」
「どういうこと?それは使い方がってこと?」
「使い方というか美しさ。客層のせいかな。理由はよくわからないんだけど。同じビルでもフロアによってトイレットは全然違う。一番きれいなのはどこだと思う」
「わからないな」
「婦人服売り場の男子トイレットなんだ」
「なんで?」
「わからない。たぶん無意識にモテようとしてるんじゃない」
「そんな阿呆な」
「あとはねよく本屋にいくとトイレットに行きたくなるっていうじゃん。あれね、本当っぽいよ」
「まじで」
「理由まではよくわからないんだけど、トイレットのタンクって二種類あって流したあとに一回一回タンクに水が溜まるまで待たないといけないものと、連続で使えるものとあるんだ。それで書店の場合は圧倒的に後者のもののシェアが多いんだ。前者だった書店もほぼ後者のに変える。不思議だよね」
「そういやSNSとかやってないの?」
「やってないんだ、僕そういうの苦手で」
「同窓会とかは?」
「中学卒業してから地元離れちゃってさ、あんま戻ってないんだ」

その夜のカンタは普段の疲れからか酔いも早く、気付けば仕事の愚痴を延々と語りだしていた。
「俺のとこは3K。まじできつい、厳しい、帰れない」
「そうか、大変だね」
「まじで転職考えてる。けど考えてるだけなんだよな。実際、動く時間はないし。いや、時間は作ればどうにかなるか、そこに割くエネルギーがなくなるんだよ、働いていると……」
「でも、人生がうまくいかないのも全てはささいなことの積み重ねだし、たとえばトイレットもその一因を担っていると思うんだ」
「どういうことだよ。言い過ぎだろ、それは」
「そうかな。思い出してごらんよ、学校でトイレットに入るのは恥ずかしかったろ。それがいつからだ、たとえ家にひとりっきりだとしても堂々と扉を開けたまま用を足し、下劣な屁を卑しく放ち、そのくせ手は雑にしか洗わない、ハンカチをズボンと勘違いする。その雑さが色々なところで出るんだと思う。夫婦関係が冷え切っているのも、娘に毛嫌いされるのも、そういう無神経さからくるものだよ」
ムサの強い口調にカンタは驚いた。
「まぁ、そんなもんなのかもな」
「それに何も行動しないのはクソだよ」
ムサは笑った。
「そうだ、うちの会社くる?」
「マドレーヌ社?」
「そう。まぁトイレットはトイレットで3Kなんだけど」
「じゃあ一緒じゃないか」
「違うよ。きつい、汚い、ケツ乗せられるの3Kだよ」
「なるほどな。おもしれぇな、それ」
「トイレットはこんな風に愚痴も吐き出せないし転職もできない。トイレットはいつだって寡黙な職人だ。じっと自分の仕事を全うしているに過ぎない。お酒も飲めない、嘔吐されることはあっても」
カンタはムサの言葉に妙に納得させられた。
「もし本当に転職考えてるなら一度うちの会社を見に来たら?休日なら工場も止まってるし色々案内できるよ」
「そうか、ありがとう。なんか前進した気がするわ。やっべー酔った。ちょっと便所」
カンタは席を去ると、ムサは香水を振り直した。ビールを飲み直す。隣には十数人の団体客がいて相撲について話をしているのが聞こえた。

「おい、ムサ。来てみろって」
カンタは真っ赤な顔で現れた。彼についていくと扉の壊れたトイレットがあった。中を覗くと酔っ払いたちのせいでトイレットはひどい惨劇だった。
「これは酷いね。うちのトイレットではないけど……」
「最悪だよ、まじでこっちが吐きそうになるわ」
「かわいそう。ほんとうにかわいそうだ」
ムサは涙を流した。そしてトイレットの掃除をはじめた。
「おい、どんだけ好きなんだよ。店員に任せりゃいいよ」
カンタはそう言うと店員を呼びに厨房へ向かった。
「カンタ、君にはわからないだろうね」

 

久しぶりの休日に睡眠以外のことをするのは妙に心の晴れる気分だった。カンタがムサに指定されて向かったマドレーヌ社は郊外の辺鄙なところにあった。
「待ってたよ。どうぞ」
そこにはいつもの作業服ではなく青いシャツを着たムサが立っていた。香水のいい香りがした。
「そういや、いつも思ってたんだけど香水?いい香りするよな」
「ああ、そうそう。ありがとう。こっちだよ」
エントランスを抜けると巨大なフロアに着いた。
「ここはまぁちょっとした博物館みたいなものかな。歴代のマドレーヌ社のトイレットが展示されている」
「ほら、これ。これがマドレーヌ社のはじめてのトイレットだ。蓋を貝殻状にしただけのトイレット。今みたいに多くの機能なんてついていない。只々シンプルなトイレットだ」
「貝の蓋ってのは何の意味があるんだ」
「美しさだよ。マドレーヌ社はトイレットに美を求めている。汚い場所とされるトイレットに美しさを求めることで他と差別化を図ることにしたんだ。美しくなければ意味がない。たとえどんなに機能的だとしてもね。だから社内のトイレットは僕ら社員が手で清掃するんだよ」
カンタは居酒屋でのムサの行動を思い出した。展示室には他に実際のトイレットを切断し横から内部をみれるようにした模型やウォシュレットボードを解体した機器があった。
「これは?」
カンタは二つの透明な筒に入った水を指さした。
「ああ、これはねトイレットで使う水なんだ」
「どっちが?」
「左がマドレーヌ社で使う水。右は一般的なトイレの水」
「違うの?」
「実は違うんだ。見た目はどっちもただの透明な水だからわからないけどね。ほら」
ムサがスイッチを入れるとブルーライトが筒に当たった。
「ほら、細かい塵みたいなのがみえるでしょ。うちの会社では水を電気分解してるんだ。普通の水に含まれる塩化物イオンを分解して菌のない水を作って使用してる。便器の水を飲んでしまっても大丈夫なようにね」
「そんな奴いないだろう」
「まぁ、そうだけど」
ムサだけが笑った。

「工場はこっちだよ」
本社ビルを出て奥の工場に向かった。工場は休日で電気もエアコンも点いておらず扉を開けるとかなり蒸し暑かった。灯りをつけると大量の貝殻が並んでいた。
「海外で昔は組み立てていたんだけど、今は部品だけを海外で作って組み立てはこの自社工場で行っている。マドレーヌ社のトイレットは他社に比べてカスタマイズの要素が強いし、より細かい要望に応えるために自社工場で生産することになったんだ。いや、しかし暑いね」
「そうだな」
二人とも汗だくだった。
「ごめんね、休みだから節電で」
「いやいや全然」
ムサの青のシャツは汗で所々、色が濃くなっている。
鼻を刺すようなツンとした臭いがした。
「なんか変な臭いしないか」
「そうかな」
二人はそれから生産ラインを一通りまわり工場を出た。
「まぁ、説明はこんな感じなんだけど最後に特別に新商品をみせてあげる」
ムサはカンタを工場の奥に連れ出した。プレハブの建物に製品開発部と書かれた看板がかかっていた。中に入ると工場と同じくらいの広さがあった。ヘルメットを渡され階段を上った。鉄製の網目状の廊下が奥まで続き、下には大きな空洞が広がる。蒸し暑さは消えない。
「でかいな」
「そうでしょ。実は今、これまでのトイレットの技術を生かして法人用の業務トイレットを開発しているんだ」
「どういうことだ」
ムサが電源を入れると空洞に勢いよく水が流れ出した。
「要は巨大な水圧機だと思ってくれたらいい。今はごみ処理場とかでもプレスしたり燃やしたりして大型のごみを処理しているけど、それを水圧で粉々にしようということなんだ。ダムの放流みたいなイメージかな」
鼻をさす臭いはますます強くなっていた。どこかで嗅いだことのあるような臭いだった。
「今はどの程度の水量と勢いで、どれくらいのものまで解体できるかデータを集めている最中なんだ。でも勝手だよね、不要だから壊すって」
「まぁ、文字通り水に流してすっきりって感じか」
臭いにカンタは覚えがあったがはっきりと思いだすことはできなかった。
「流した方は簡単に忘れるからね」
「どうしたんだよ」
ムサの服はもうエントランスで出会ったころの青色ではなかった。臭いの正体をカンタははっきりと思い出した。ムサの汗だ。
「昔さ、カンタくんたちがお前の汗ってウンコみたいだなっていったんだ。それで臭いから洗ってやるよって体育館のトイレットに連れてってさ……」

 

「おい、ここ臭いな」
ある放課後、カンタとその友人たちは帰ろうとするムサの机を囲んでそう言った。これまでもそんな風に何度も罵倒されていたしムサはいつも通り彼らの気が済むまで耐えようと思った。しかし、その日は違っていた。カンタたちはなかなかムサの席から離れず、彼が耐え兼ねて立ち去ろうとしたときカンタが彼の腕を掴んだ。
「おい、どこいくんだよ」
その力強さに彼が怒っていることをムサは感じた。
「聞こえないの、さっきから臭いって言ってんじゃん」
「……ごめん」
「いいよ、もうそう言うの。俺たちが洗ってやるよ」
カンタたちは体育館のトイレットにムサを連れて行った。そしてムサをそのままタイルの上に蹴飛ばし蛇口につないだホースで水をかけだした。取り巻きの一人が清掃道具の収納庫からブラシを取りだした。それからカンタたちは床のタイルに撒いた粉石鹸で泡立てたブラシでムサの身体を洗いはじめた。
「お前、毎日風呂入ってんのか」
「貧乏なんじゃね、こいつん家」
「ほら、背中もだ。四つん這いになれよ」
その間もムサはただ耐えることにした。制服や髪の毛は泡まみれになった。取り巻きたちは笑いながらムサを洗い続けた。
「ストップ」
カンタは突然、ブラシでこするのを止め、そのままをそれをムサに向かって勢いよく振り下ろした。古くなった木製の柄に亀裂が走り、折れた。同時に強い痛みが走った。
「俺さ、むかつくんだよね。お前みたいに何も言わないやつ。俺らが飽きるまで耐えるつもり?我慢比べで勝てば勝ちだと思ってるんだろ。でも違うよ、こっちはこの瞬間が楽しければいいの。お前みたいに何も行動しないやつはクソだよ。ただただ流されて生きていくんだよ」
トイレットの窓からランニングをしている運動部の掛け声が聞こえる。それがやがて聞こえなくなり沈黙が流れた。それでも何も言わないムサに対してカンタは笑い出した。
「そうか、わかったよ。お前も実は楽しんでんだろ。ほら笑えよ、いじめてるみたいな顔するなよ。俺たちは遊んでるんだからさ」
そう言うとカンタは洗面台から石鹸を取り、無理やりムサの口の中に入れた。
「食えよ、ほら口開けろって」
石鹸は柔らかくなっていて吐き出すとムサの歯型がくっきりと付いていた。カンタはムサの身体を掴んで個室の中に押し込んだ。ちょうど便座に座る形になった。
「汚いな。扉くらい閉めてから用を足せよ」
取り巻きの一人が笑いながら扉を閉めた。ムサは四角い囲いの中で一人になった。口の中で石鹸の油が溶けてきた。それを飲んではいけないと思い、ムサは便器の中の水を手ですくって口をゆすいだ。
「おい、何やってるんだ」
扉の向こうから体育教師の声が聞こえた。わずかな沈黙のあと、カンタの声が聞こえた。
「すいません。ホッケーしてました」
カンタはいびつな形の石鹸とブラシをみせた。
「くだらんことをするな。遊び場じゃないんだ。いいからついでに掃除してから帰れ。いいな」
「はい、すいません」
体育教師の足音がなくなるとカンタたちは大笑いした。それから個室の扉を開けてムサにホースで勢いよく水をかけた。個室の中は水浸しになった。
「おい、片づけておけよ。先生が言ってるんだからな」
そう言ってカンタたちは立ち去った。ムサは彼らの足音が聞こえなくなったあともしばらく個室の中でじっとしていた。また戻ってくるかもしれない。カンタたちが学校を去るまでは、ここが最も安全な場所なのだ。トイレットと壁の間でただ頭を空っぽにすることだけを考えた。これが現実であるとか自分自身がいじめられていることを認めてはいけないのだ。誰かにこのことを話したらどうなるのだろうかとムサは考えた。他人は彼のために正しいことを言うだろう、救おうとするだろう。しかしそれは同時にムサを破壊することをその人たちは知らない。大事なのは狂うことなのだ。個室の狭間でムサは便器の水管に腕を絡ませタンクに頭をもたれさせた。
個室で長い時間を過ごしたムサは扉を開けた。もう太陽も落ちようとしていて、夕陽で窓から影が伸びタイルの水滴が光っていた。それからブラシを片付けて、ホースをしまった。石鹸はごみ箱に捨てた。鏡に写る自分の姿を眺めた。黒い学生服は水で濡れても目立つような変化はなかった。裾をしぼると思っていたより大量の水がしぼれた。残されたのは個室に置かれたトイレットだけだ。白かったトイレットペーパーはずぶ濡れで芯まで変形し、灰色に染まっていた、破れた一部は床で固まっていた。青緑色の陶器からは水滴がしたたり落ちていた。ムサにはそれが泣いているようにみえた。ずぶ濡れのトイレットを再び抱きしめた。便器は冷たかったが徐々にムサの体温で温まった。ムサはトイレットが妙に愛おしくなった。これは自分自身だと。

思春期の感情というのは消えない。思春期のままで生涯過ごすとは限らないが、それが反転したとしても結局のところ思春期のあの鬱屈した感情が消えずに根幹にあることに変わりはない。これは私、ムサの告白です。誰にも話したことのない個室でトイレットと交わした言葉にならない告白なのです。
私は或る時、それはつまり思春期の或る時期のことを指し、また或る意味で狂ってしまったのです。私は幼い頃から醜い容貌をしていました。それは中学に上がるとより顕著になり、顔はニキビで赤らみ、おまけに太っていた為か不快な臭いが自身の汗腺から漏れるようになったのです。しかし臭いというのは自分ではやはり中々気付かないもので、家族がさり気なく買ってきた制汗スプレーにも中学生特有の恥ずかしさからか関心を示さず、また学友たちが避けるのも全てはこの醜い容貌によるものだと思っていたのです。そんな私が自分の醜さだけではなく、臭気という二重苦を目の当たりにしたとき、そこにあったのはトイレットだったのです。学校で用を足すことは世界の終わりのように、トイレットへの入室をみられると判決を待つ被告人のような気持ちになるものです。私たちは便器を汚物同然と見下し、一刻も早く消し去りたいとレバーをひねる。しかし、よくよく考えれば見下しているそれは私たち自身なのです。私がトイレットに魅かれたのはそこに美しさを感じたからなのです。美しさとは或る意味で私のような者にとっては敵です、光なのです。しかし同時にトイレットの美しさというのは私自身と或る意味かなり近いものでもありました。トイレットは友人であり恋人であり、私自身でありました。はじめは学校のトイレット、それから自宅、駅、公園にいたるまで私は様々なトイレットを巡ることに没頭しました。まずは扉を開けた瞬間、その姿をしっかりと見つめ、それからゆっくりと陶器を掌で愛撫し、その曲線美を確かめるのです。それから子どもがぬいぐるみを、愛猫家が猫を抱くように私もトイレットを抱きしめるのです。このトイレットが普段どのような仕打ちを受けているのか、それは場所によって異なるでしょう。百貨店と公衆便所ではトイレットの受ける扱いは違うでしょう。しかし私はより苦労しているであろう公衆便所が好きなのではありません。等量の気持ちを前者にも持っているのです。私は彼らが孤独で耐えている姿、その苦労を想像すると涙を流さずにはいられなくなるのです。私は困ったことに親族の死よりもトイレットで涙を流すような人間になったのです。容姿だけではなく精神までも醜くなったのかもしれません。私の風変わりな妄想は高校に入っても続きました。いじめは高校に入るとおさまりました。私をいじめていた者たちと異なる高校に進学したことに加え、みな善き人へと成長していったのです。例え、根本では私を軽蔑していたとしても、私ですら人として、若しくは人のような何かとして接することを覚えたのです。私には必要最低限の接触と間接的無関心が向けられました。故に高校生活は穏やかなものでした。私は休日の度に様々なトイレットを巡りこの妄想の世界に浸り続けました。やがて思春期を過ぎるとその世界は私にとって本当の世界となっていったのです。その世界ではトイレットと私は全くの同一なのです。そして私はトイレットのもう一つの偉大さに気付きました。それは「流す」ということです。トイレットは孤独に耐えうるだけでなくいかなるものも流してくれるのです。これは「赦す」という慈悲な精神をまさに体現している、このことに気付いたとき私はそれまでの外見の美しさばかりに気を取られていた自らを恥じました。しかし、それすらトイレットは赦してくれるのです。私は人生をトイレットのように生きたいと強く願うようになったのです。このトイレット的人生をおくることが出来れば、きっと私は愛し愛される豊かな日々を過ごすことができるのです。トイレットには容姿の優劣はない、そればかりか究極の愛を持っている。長い年月をかけてトイレットは友人や恋人を通り越し、私自身を導く一筋の道となったのです。あの日、四方を囲まれ出会ったトイレットに私はすっかりと陶酔したのです。そして出来るならばトイレットのような寛大なものでありたいのです。
 

「人はみんな色んなものを流していく、トイレットと同じだね。目的は全部、水に流すことなんだ。嫌なこととか。誰だってそういう記憶ってあるじゃん。トイレットはそれをすべて受け入れてくれるんだよ」
ムサはそう言うとスイッチを入れた。二人の目下の穴から出た水が渦を巻きだした。氾濫した潮のようにうなる。
「こんな風に渦を巻くとね、少ない水量で効率よく圧力をかけることができるんだ。これならきっと跡形もなく流せるよ」
カンタは潮の轟音でムサの言葉をよく聞き取ることができなかった。ムサが近づいてきた。カンタは後ずさりをする。逃げようと思うが二人の立つ廊下の先は行き止まりで階段まで戻るにはムサを乗り越えなければならなかった。
「ムサ悪かったよ」
「思い出したの」
「ああ」
「へぇ、どうやって」
カンタは言葉に詰まった。
「僕の臭いかな。臭いで僕のことを思い出したんでしょ。そんなにきついかな、僕って」
ムサはシャツを脱いで水の流れるトイレットに放り投げた。彼の垂れた上半身の肉たちが歩くたびに揺れ、光る肌から汗が落ちる。シャツは激流に飲まれ消えた。カンタは覚悟を決めてムサに向かって走り出し全身でぶつかった。しかし巨漢のムサを落とすことはできず廊下に倒れ込んだ。金網の廊下が軋む。倒れたカンタにムサが馬乗りになった。閉めきった蒸し暑い倉庫の中でムサの身体から汗と湯気が上がり、それがカンタの顔にしたたる。耐えがた臭いだった。
「大丈夫。全部、水に流してあげる。トイレットは無口で耐えるんだ。僕もあのときそうだったんだし」
低い飛沫とともに、ドボンと鈍い音がした。潮がカンタを飲み込む。それを見届けたあと、ムサはしばらく水が流れるのをみていた。しばらくして電源を落とした。やがて水は全て流れた。はじめから何もなかったように何もなかった。製品開発部をあとにしたムサはオフィスに戻った。かばんからシトラスの香りのするボディーシートを取りだし身体を丁寧に拭いた。それから新しい肌着とシャツに着替え、トイレットに向かった。
扉を開けるとマドレーヌ・トイレットの蓋がゆっくりと上がる。
座ると落ちつく。用を足した。ようやく全てが流れた。
あとは手をきれいに洗うだけだった。

文字数:10330

課題提出者一覧