新たな土は懐かしい月を介して

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梗 概

新たな土は懐かしい月を介して

船の脚が土に埋まる振動でアンジェリークは目を覚ました。彼女はベルトを外し軽く腰をひねった。それからベッドのブラインドを開けた。窓からは荒廃した丘の上に喉の奥のような闇がひろがりその向こうに青白い星がみえた。地質調査の準備に取りかかった。ここの土の採取が目的だ。長い旅で眠りについている間にアンジェリークの身体はすっかりと衰えた。個人差はあるが元の身体に回復するためには1年弱の期間が必要だった。作業用スーツはそれを補完するように作られていて彼女はそれを取りにベッド脇の車椅子に乗った。床に這いずりながら四肢をスーツに通す様は惨めだった。外は静かだった。音がないのか耳がないのかわからないほどの静寂。ボーリング用の機械と採取した土を入れるタンクを船外へ運びだした。採取する土はドラム缶型のタンクで数十本の予定で週に一度、簡易ロケットに乗せて送る。
ボーリング調査は概ね順調だった。身体はまだ回復途中だったが足の筋力はだいぶ戻ってきていた。船内では車椅子を使わずに移動もできた。タンク一本を満杯にするのには2,3日かかった。彼女の仕事ぶりは真面目だったが日に日に退屈さは彼女を放心させた。ある時、彼女は船外に積んである空のタンクが数本消えているのに気づいた。ローバーに乗り込みアンジェリークは捜索に乗りだした。船からだいぶ離れた場所でひとつタンクを見つけた。タンクは土に埋もれていた。風に吹かれたのだろうか、いや風などない。あるのは静けさと闇。結局、残りのタンクはみつからなかった。
身体は完全に回復したようだった。以前のように満足に動くしスーツを着るのも容易になった。しかし身体が本来の人間の姿を取り戻すにつれ彼女は物忘れが増えた。或る日、船外にあった空のタンクがすべて消えた。しかし、これはもはやミスではない。なにかが奪っていった。私以外のなにかがここにはいる。
ようやく戻った身体を動かすことが億劫になるほど彼女は疲弊していた。それから数日はベッドから起きる気力もない。身体がここに溶けているような感覚だった。窓から外を眺める。来たころと変わらない景色。しかし彼女は気づいた。風景が変わっていることに。あの青白い星が丘の上の闇を飲み込んでいる。もう目の前にあの青白い星が迫っているのだ。まさかあそこに引き寄せられている?質量だった。土を抜くことで星の質量が変化し、あの星に引っ張られているんだ。絶妙な距離を私が破壊していたのだ。
船が勝手に移動して砂山にぶつかった。調べたが誤作動ではない。急いで船を動かそうとしたが操縦の仕方がわからない。彼女はもはやなにも覚えていなかった。目の前にあるすべてがはじめてみるような気がした。スーツを着て船外へ飛び出した。少しでも逃れようと反対へ走った。しかし引っ張られる。ふりかえると船もなかった。衝突する。光に包まれた。私はどこに向かって走ったのだろう。
「ほら、ママですよ」
彼女は産まれて初めてみる景色に戸惑っていた。身体の感覚はある、これは私だ。しかし私は誰だ。
彼女は泣き叫んだ。突然、自分の叫び声が聞こえた。音がはじめて聞こえた。

文字数:1282

内容に関するアピール

宇宙から帰還した飛行士が、海に浮かんだカプセルから引き上げられる様が

出産で取り上げられる胎児の姿と似ていると思ったのが、きっかけです。

イメージは出産のプロセスを月を舞台にして書きました。

子宮のなかに月があり、それが出産が近づくにつれ世界(=地球)に引っ張られていく。

実際の出産が近づくにつれ身体は形成されていくが記憶はなくなっていく。

産まれて初めてあげる産声は異世界に来てしまった「戸惑い」からくるものではないかと考えました。

文字数:213

課題提出者一覧