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新芸術校からの刺客、提出課題一覧

(1)BB[おおば英ゆき] 「HYPER LANDSCAP 展(ワタリウム美術館)展覧会批評」
(2)F・貴志「越後妻有トリエンナーレ アウラ的フック批評」
(3)小林真行「これからの《〈〝“【{地域芸術祭}】”〟〉》について」
(4)西吉利「没後 50 年 藤田嗣治展展評(東京都美術館 2018 年 7 月 31 日-10 月 8 日、京都国立近代美術館 2018 年 10 月 19 日-12 月 16 日)」
(5)NIL「『フランケンシュタインの怪物』の『オソレ』」
(6)匿名希望「花代個展『何じょう物じゃ あんにゃもんにゃ』2018.09.07 (Fri) – 2018.09.22 (Sat)」


(1)

提出者名:BB[おおば英ゆき]
タイトル:「HYPER LANDSCAP 展(ワタリウム美術館)展覧会批評」

Hyper adj. excited and nervous; having too much nervous energy

オックスフォードの英語辞典にはこのように記述されている。この展覧会は日本語表記では「越えてゆく風景」とあるが、私は「過度に興奮・神経高ぶるエネルギーを携えた風景」という意味を付け加えた上で話を進めたいと思う。

まず、エレベータで 2 階へ。扉が開くとそこはカオスの世界が広がっていた。壁面いっぱいに梅沢和木がデジタル・コラージュした画像が出力され、壁紙として白い壁全てを覆いつくしていた。壁自体がひとつの作品となっていた。空白のない空間は興奮と共に息苦しさをも感じさせる。このように壁自体を作品で覆い尽くし、インスタレーションとする作家は今までにもたくさんいる。アラーキーは床、壁、天井を全て写真で覆い尽くした展示を行っていたし、今年木村伊兵衛賞を受賞した小松浩子はモノクロ写真を壁面に隙間なく貼り付け、さらに天井からすだれのように床までダラーっと垂らす。曽谷朝絵はパステル色の偏光フィルムを切り絵のように使い、壁や床をキャンバスとした空間絵画を発表している。ただ、梅沢が他の作家と決定的に違うのはこの壁を覆い尽くしているのはメイン作品ではなくただの壁紙だということだ。メイン作品はこの壁紙の上に設置される。3 階も梅沢の作品が展示されているが、ここでも壁一面がデジタル・コラージュの画像壁紙となっている。ここで注目なのは2階と 3 階で展示の世界をしっかりと分けて示していることである。そのため壁紙のコラージュのデザインが全く異なる方法論で作られていて、観客に対して 2 つの異なる梅沢ワールドを提示していたことだ。さらに壁紙のない 4 階との区分が明確になり非常に気持ちの良い表現になっている。

ただこの壁紙の使用はキュレーションとしての展示デザインで見るならば成功していると思うが、観客が作品世界に入ろうとする時の障害にもなっている。背景の壁紙の過剰な情報が目に飛び込み、作品に没入できない。壁紙が視覚的な妨害情報となっているのだ。また、2 階 3 階での展示を美しく統合することに成功した壁紙は個々の作品の存在性を薄め、作品の個別性を隠蔽しようとしている。つまり、個々の作品の意味やコンセプト、メッセージの違い、文脈の違いに目をつぶり理路整然と分析したキュレーションに見せかけている。結果、ひとつひとつの作品が持つ独自の物語や風景の細部やこだわりを見えにくくしている。

梅沢空間に足を踏み入れ、作品としてまず目に入るのが「ラヴォス」である。私はこの作品を本やネット画像で見ていたのだが、実物を見て非常な違和感を感じた。ネットから画像をサンプリングしコラージュする作品は超平面的でツルッとしているはずだと思い込んでいたのである。

しかし、そこにあったのは絵の具の塊だった。確かにこの絵の具の下にデジタル画像のコラージュが存在するのだろうが、そのほとんどが絵の具で覆い尽くされている。「ラヴォス」は現在の梅沢ワールドの誕生に関わるとても重要な作品だ。本でこの作品を見て、その色彩の混沌さを見るとき、違和感なく受け入れられたのだが、実物はあまりにも物質としての絵の具が強すぎて興醒めするところがあった。手品の種が判ってしまった時のように。なぜ梅沢はコラージュした画像をあんなにも絵の具で覆い尽くしたのだろうか?私は何か罪悪感のようなモノを必死で隠しているように感じた。本当に自分の好きなもの、自分のコアな部分、個人的秘密、恥部としての自分。それは他人には知られたくない、でも表現もしたい。

梅沢の作品にはデジタル・コラージュを出力した後、そのまま作品とするもの(出力しないでモニターやプロジェクターで提示するものもここに含む)と出力後に絵の具、ペン、色鉛筆、クレヨンなどで加筆するものがある。梅沢はプレゼンテーション 1(ゲンロン、2017 年5月掲載)で次のように語っている。「絵筆をとって加筆していくときには、キャラクターや画像といった架空の存在と対話しているような、一体化しているような錯覚に陥る瞬間があり、充実感を覚えるんですね。つまりは、僕は、自分の身体から離れたい、虚構の存在に近づきたいという欲望を明確に持ちながら、その一方で、そこに体が介入することを望んでもいる。」これを読むと“加筆”とは梅沢にとって抑えきれない欲望の表現行為だと言えないだろうか。理性でコントロールできない本能もしくはリビドーに近いもの。ではその欲望とは何なのか。

3.11 の大震災を体験して梅沢の作品は大きく変わったと言われる。彼本人も語っているが、東日本大震災以降は、身体との関係に違和感を覚えるようになり、作風が変わっていったと。だが本当にそうだろうか?私は梅沢の作品は初めから現在に至るまでカタストロフを表象しながら、彼自身の姿を描写したセルフポートレートであると考えている。それは一貫して変わらないのだ。
白い背景に雲のように浮かび上がるコラージュは行き場所が見つからないまま浮遊し、漂流する梅沢自身の姿に見える。私の意味するカタストロフとは阪神淡路大震災、東日本大地震などの天変地異に加え、オイルショック、バブル崩壊、リーマンショクなどの資本主義的崩壊、失恋、好きな人の死、人生の挫折など人間的困難を含む広い定義である。震災後、雲のように浮遊していた梅沢の身体は幸か不幸かある場所に辿り着いた。そこが崩壊した原発のある福島だったのではないだろうか。変な言い方かもしれないが、彼は居場所を見つけてしまったのだ。
永瀬恭一が「ART CRITIQU 04」で次のように語っている。「量塊的構想力というべきものであり、その量塊が押し寄せて来る感覚が梅沢の絵画の基底にある。」この量塊的構想力こそが彼のカタストロフを表象するコアなのではないだろうか。「とある現実の超風景」や「ありとあらゆるもの」を目の前にした時、私の体がどこかに飛ぶ感覚になる。その時、彼の自画像は私の自画像に転化する。梅沢の HYPER LANDSCAP は私の HYPER LANDSCAP としても機能してしまう。情報の巨大な津波が世界を飲み込む。

4 階のエレベータを降りると、左側の壁に真っ⻘な背景に⻩色の直方体(表面に太い筋が何本も切り込まれている)が浮いている。絵画?写真?CG?それが何によって表現されているのかわ
からなかった。右側には暗幕が垂れていて、中で映像が流れているのがわかる。解説文を読むと4K ハイスピード・カメラによる映像で作家が制作した彫刻物体が映し出されているという。名前も作品も知らない初めて出会う作家、TAKU OBATA。

実は彼の作品は2階にあった。梅沢のカオス空間の中で 2 体の彫刻が静かに佇んでいたのだ。TAKU と梅沢の作品が同じ展示空間の中でどう関わり合っているのかを述べるのは私には荷が
重いということでここでは沈黙。

TAKU OBATA は東京藝術大学大学院彫刻専攻卒業で主に木彫を制作する作家である。ロボットのような、ミシュランのタイヤのキャラクターのような、デフォルメされた人体のような、アメリカのおもちゃにありそうな、台座のない、自分の足で、お尻で、背中で、つまり自分のカラダだけで存立する造型物。色は黑以外はとてもカラフルなパステル調の明るくポップな印象の作品が多い。ヒップホップが好きで、ブレイクダンスが好きで、音楽とダンスから生まれる動き・躍動感を彫刻で表していると記述されている。今回の2階での展示作品は垂直に立つ彫刻だったので、躍動感とは違う静止する緊張感のようなものが現れていたように思う。垂直と水平の線を強く意識した造型とでも言ったらいいのか。ネットで調べてみると、膝を地面につけて踊るブレイクダンスの動きそのものが表現されている木彫作品がたくさんあり、なるほどこれが彼の原点なんだなと認識した。

さて、肝心の映像作品に話を移そう。暗幕をくぐると 4 階の直方体の闇空間のひとつの壁一面がスクリーンになっていた。白を背景として、表面に線が模様として彫られているカラフルな立方体、直方体(私が子供の頃、遊んでいた木製の積み木を思い出す)が浮遊していた。だがその浮遊の動きが妙なのだ。重力や引力がどう働いているのか上手く掴めない。これはこの地球で撮影されたハイスピード映像なのだ。それなのに全く動きが読めなかった。宇宙ステーションでの無重力とは全く異なる浮遊感。でも確かに何かの力に従っているのだが、私の予想が次々に打ち破られる。あっという間に映像がエンドになり、ループ再生が始まる。結局5、6 回転見てしまった。とても面白くて飽きなかった。初めて経験する身体感覚。音楽も SE もなしの静かな映像作品。この規則的かつ不規則な動きは彼がブレイクダンスで体感している感覚なのだろうか。普段ブレイクダンスの映像を見ているとあまりの激しさに過剰なエネルギーの放出を感じるが、回転や跳躍の動きは感情の赴くまま行っているのではなく、普段からトレーニングで鍛え上げられた身体と冷静なパフォーマンスの計画性があって成り立つものだと思う。神経が高ぶるようなエネルギーのカタチを静止させたのが木彫作品だとすれば、そのエネルギーの動きを可視化したのが映像作品なのかもしれない。激しく躍動する動きがハイスピードで捉えられた時、通常では見ることのできない過剰なエネルギーが冷静に可視化されるのではないかと感じた。人体型の彫刻作品では見えなかった風景をこの映像で見ることが出来た。「映像で表現された彫刻作品」「動きを彫刻した作品」この作品にはこんな言葉が当てはまるのではないだろうか。

彼は言う。「どの作品にも共通しているのが、顔が地面に対して垂直になっていて、正面を見ていること。女性は前髪が水平で、男性は目が水平になっている。そうすると、身体は激しい動きをしていても、展示した空間に妙な緊張感が生まれるんです。」この言葉から映像作品を読むとすれば、彼の作る作品(物体としての)は水平と垂直の線が存在し、その線が作る水平面と垂直面(これは人間の視覚が勝手に作るものだが)が様々に揺れて揺られて空間に奇妙なゆらぎを作り出す。水平と垂直が揺れることで観客の身体も揺らぎ出す。このゆらぎが水平垂直の緊張感を弄ぶ。

HYPER LANDSCAP。梅沢と TAKU、二人の作品を風景として見る時、その風景はどこから見たものなのだろう。それは何によって見られのだろうか。黑瀬陽平は梅沢の作品を評するとき、「情報的視覚」という言葉を使う。簡単に言えば情報をデータとして取り込む時のインターフェースとしてスキャナーを使うということ。しかし、今、あまりにもデジカメが普及し過ぎたため対立すべき「光学的視覚」のインターフェースをカメラで説明することが困難になってしまった。カメラもスキャナーになってしまったからだ。これはひと昔に語られていた「リアル」と「バーチャル」の境目が消失してしまったポスト・インターネットと無関係ではいられない。ポスト・アイフォンという時代になり、カメラがスキャナーになってしまった今、ネット上の画像も現実空間の物質(人間、都市、自然など世界の全てを含む)もインターフェースとしてのスキャナーでハードディスクにデータとして取り込まれる。スキャナーはリアルもバーチャルも等価にスキャンする。

スキャナーとは被写体をきちんと狙って画像を得る旧来カメラ(フィルムカメラ)と違い、被写体をあまり深く考えて狙わない。数撃ちゃ当る方式のマシンガンのように、短時間で大した吟味をしないて購入する衝動買いのように、物事をきちんと見なくても情報を入手できる装置なのだ。それはシャッター1 回分の画像(写真)のコストが旧来カメラの 1000 分の 1、いや 10000 分の 1の低コストになったから。というかデジカメ写真にコストがかかっていることなど誰も意識しなくなってしまった。この低コストが膨大な画像情報を風景にしてしまうことを可能にした。「情報的視覚」の目は CCD や CMOS などの撮像素子であり、盲目的に光をデータに変換するだけなのだ。私は「情報的視覚」で世界をみることはネットの世界のバーチャルと現実世界のリアルの情報は等価であり、差異が消失している状況を示すものだと考える。高コストの旧来カメラで世界を見るとどうしても遠近法から逃れることができない。一枚一枚の写真の意味や価値がどうしても重くなり、ぞんざいに扱うことが難しいからだ。毎日 1 万枚の写真をデジカメで撮影するカメラマンは沢山いる。でも、フィルムで毎日 1 万枚の写真を撮り続けたら、まもなく破産してしまうだろう。

梅沢の絵画の膨大な情報量は「情報的視覚」を使って世界から膨大に情報を入手することが可能な今だからこその表現であり、スキャナーというインターフェースがそれを可能にしているのである。(コンピュータでネットを旅しながら、マウスを使って画像をゲットする行為も人間スキャナーとして解釈すれば説明ができる。ここでも画像を入手するコストはタダに等しい。)ゆえに梅沢はスキャナーを持った場所から、スキャナーというインターフェースを使って世界を見ているのである。逆に言えばスキャナーがなければ世界を見ることができないのだ。

TAKU OBATA の場合はどうだろう。彼は東京藝術大学に入るのに 3 浪している。おそらくデッサンがあまり得意ではなかったのではないか。すごく努力してデッサンを身につけた。「予備校で二浪目の頃からデッサンを勉強し始めて、デッサンは“モノを描くこと”じゃなくて、“モノを理解すること”だと分かりました。例えば構図を変えるだけで見え方が 180 度変わることや、モノを理解するのも意識次第で変わっていく。デッサンって一部分だけ描いてると面白くないというか、そればっかり見えてきて全体感が見えなくなってしまうので、描かない部分の裏側なども見て知ることで、よりリアルに描けることを知りました。」

彼は現在の作品制作にもこの時学んだデッサンの技術が活かされているという。「作品を地面に立つように作ったり、水平垂直な要素をいっぱい入れたり、顔をドキッとする感じに仕上げたりすることで緊張感を表現してます。そうするには、基本となる人間の像を作れないといけないので、デッサン力が必要になるんですけど、学生時代に学んだデッサン力がここで活かされてると思います。」そんな彼は世界をどのように見ているのだろうか。彼の作品を見て、コメントを読んで、彼が水平と垂直という線や面を意識して世界を見ているのは理解できる。しかし、彼が作品を通じて空間に緊張感を作りたいと言うのはどういう意味なのだろうか。彼は展示する空間を踏まえ、どんな作品が合うかを考えるという。彫刻を空間の何処にどのように置くかを大事にしているという。とすれば彼は木彫を彫って造形物を作るのがメインの仕事ではなく、空間(与えられた、事前に決められた)を緊張感あるものにするために、木彫を作り、配置する。彼はこれらの作業を通じて空間を彫刻しているのではないだろうか。緊張感とはその空間全体を見たときに存在する世界のバランス感覚のようなものなのだろうか。彼の映像作品は⻑方形の白いスクリーンという空間をカラフルな彫刻たちが浮遊しながら空間を彫ってゆく。時間と動きと配置に気を配り、空間を彫刻する。この映像の場合、緊張感という感覚はとても理解しやすいように感じる。それは考えなくても映像が感覚的に示してくれるからだ。ピリピリした緊張感ではなく、心地よい緊張感というべきものだ。この緊張感の風景は何で見るのか、どこから見ているのか、あるいは感じるのか。私は彼の風景は視覚で伝えるものであるが、作家はその風景を目で見ていないのではないかと思う。これは私の直感でしかないのだが、目を閉じて跳躍する、回転するとき、自分の中の垂直水平感覚がねじれたりよじれたりするだろうと推測すると、この緊張感は身体の中心部が見て感じて得られる感覚なのでないだろうか。目で見たのではなく、身体の中心部で感じ取った風景(動きと重力)を視覚化する。身体の中心部、へそでスキャンした緊張感が視覚化した空間彫刻。これが TAKU の HYPER LANDSCAP なのではないだろうか。彼は動きや空間をへそを使ってスキャンし、そのデータを使って視覚化を行なっている。

もし、この二人の描く風景が遠近法的視覚から逸脱しているとするならば、新しく世界を知覚するためのインターフェースは目ではなく、スキャナーへ移行したと言えるだろう。梅沢のスキャナーとはデジカメであり、手とマウスである。TAKU のスキャナーは身体の中心部・へそである。
視覚をどう捉えて、どう定義するのか。⻄欧の考え方では、視覚は聴覚・触覚・味覚・臭覚の上に位置付けられる。視覚とは世界の風景をどのように捉え、感じ、認識するかを司る最上位の知覚とするならば、視覚の定義を拡張し、新たな視覚を獲得することは新しい風景を作り出すことを可能にする。この展覧会はそれを示してくれた好例である。


(2)
提出者名:F・貴志
タイトル:「越後妻有トリエンナーレ アウラ的フック批評」

(展覧会批評:大地の芸術祭2018について)

三年に一度と言えばケチなボクがスマホを買い替えるぐらいの期間であろうか。大地の芸術祭というのは三年に一度、新潟県越後妻有で三年に一度開催される様々な作家のアートワークを集めた世界最大規模の芸術祭である。
約1ヶ月半の間六つのエリアに分かれた700平方㎞ほどの土地に400程の芸術作品が展示される。
九月の始めに僕は池袋から高速バスに乗って4時間ほどかけて大地の芸術祭の現地へと着いた。そこは山と田んぼに囲まれた蝉の声が弾む自然に囲まれた土地だった。
サブカルチャーの一部もそうだがアートを見るこ胸に引っかかる釣り針を探しにいくことである。ある展覧会や作品が受容者の心にとまり続けるなら。その展覧会とアート作品の勝ちである。
そして釣り上げられた状態である魚またはわざわざ釣られに作品を見に行き、実感としてアートワークを嚥下するである。
目的地へはバスを降りてから更に電車を乗り継いで向かうのだが、その路線はほくほく線という1時間に1本位しか本数がない不便な経路だった。多くの観光客は十日町駅という大地の芸術祭のメイン会場がある場所へとまず赴くことが多い。
その十日町行きの駅のホームにはトリエンナーレのパンフレットを持ちながらきょろきょろして電車時刻表いるジャン・レノがメガネを取って髪を伸ばしたような風貌の男性と、赤い髪とブリーチしたであろう金髪が混じった人懐っこい顔をした女性からなる外国人カップルがいた。
旅の恥はかきすてではないが、僕は思い切ってとりあえず僕が持っていたトリエンナーレのパンフレットを彼らに見せてみることにした。だってここはアートフェスティバルで僕はたぶんアーティストなんだもの。
それと僕の拙い英語とスマホでどこまで彼らとカタコト会話でがきるか試してみたかったのだ。無料の英会話教室である。
彼らは僕がトリエンナーレのパンフレットを見せて同じ目的地に行くとわかると喜んでくれた。
どちらかというと女性の方が英語が得意らしく主に僕と会話をするのは彼女の方になった。
話してみると彼らはイスタンブールから来たアーティストのカップルらしかった。
そのとき僕の頭の中では「跳んでイスタンブール」がBGMで流れ始めながら、僕はなんとなくある脳内にある数少ないイスタンブール情報を駆使して「イッツソーナイス、ベリーヒストリカルシティ」だとか、「アイワナビジットサムデイアンドシーマーヴェラスオウシャビュー」だとか、昔はコンタンティノープルって呼ばれてたんですよね、なんていう話をしながら3~40分程間をつないだ。
彼らとは十日町エリアにあるメイン会場でもあるキナーレこと越後妻有現代美術館まで同行しそこで「シーユーレイター」などと挨拶し別れた。
キナーレでは四畳半(方丈)の小さなスペースを使ってそれぞれの作家が自分の作品を展示する方丈記私記という特別展示を企画展として行なわれていた。
僕は「自分だったらこうするのに遊び」で、「吉田兼好は、都での物に執着する暮らしを捨て、最後にはこの方丈の庵の暮らしに満足と愛しさを感じることも結局執着ではないのかと考えたのだから、何も全く置かないのもありだな。だけどベタだな」とか、
「中庭の池に排出したものが流れ込む便所も良いな、だけど臭いし汚いから無理だな、
ただ館内にある通常の便所を全部使用禁止にして方丈便所だけを来館者が使えるように強いれば、現代の都会纏っている見栄や外聞への執着捨て去るという方丈記のテーマに共通性を見いだせるな!」
などと思案しながらキナーレを後にした。
その次に僕は自然と一体になったアートワーク群を見たかったので、3~40の作品が野外のあちこちに展示されている松代エリアという地区へ向かった。
まず駅前では草間彌生が作ったカラフルな水玉模様の巨大なラフレシアのような形をした彫刻が僕を出迎えてくれた。
松代エリアは1つ1つの作品が山道や田んぼの脇に離れて設置されているので、僕はマウンテンバイクを借りて作品を見て回ることにした。
そこには大きな何本もの色鉛筆が吊られた木工彫刻や人間の人生を半円の輪と人形で現した山の上に立つコンクリートのスカルプチャー等が展示されてあった。
ただ、そこにある作品を10、20とみていくうちに、意図されていない無自覚な作品が僕に目に留まってしまうようになって来たのだ。
それは朽ち果てて雨風に晒され木の芯が露わになり、かろうじて正方形の枠組みをのこしている廃屋だったり、木が乾燥しきって白みがかり太陽を指す長い矢のような2~3mの高さがある収穫した稲を干すための稲木などだった。
そして意図されたモノさえも、人体を平面的に現した彫像の顔にミノムシが垂れ下がることで炎天下の中で額に汗をかくような表情へと変化しずっと親しみを与えてくれるアートワークへと姿を変えたのだ。
それらはアートと自然の造形物が境界を無くした作品の一つに違いなかった。
また、僕が訪れた時期はちょうど米の収穫し始めた季節だったので、農家の方が数人で稲の刈り取りと稲穂を束にしてまとめていく作業を僕は目にした。
僕にも手伝えそうで、たぶんアーティストだから「その作業やらしてもらってもいいですか」僕はそう言い彼らに話かけた。
僕は彼らの作業に急遽加わらせてもらい、世間話をしながら稲を纏め続けた。
彼らは僕にそこでの生活を少し教えてくれた。
本当はここにもトラクターを入れて刈り入れをしたいのだが棚田が小さく人力で作業をしなくてはいけないらしい。
この辺りには専業農家はいないらしく土木工事で生計を立てている人が殆んどらしい。
最近は茸や山菜などを収穫し収入を得ている人も増えているらしい。
林業が昔は盛んだったが今は需要が少なくなり行う人はほとんどいないらしい。
米の収穫に人手が足りなくてボランティアを週末だけ募集しているが来てくれる人が少なく枠がガラガラらしい。

それらの話は何となく僕の漠然と想像していたキレイな田舎のイメージと違っていた。それは日陰のような現実だった。
十分程度作業に参加してから彼らに別れを告げ僕はまた作品鑑賞に戻った。
松代エリアでは作品と作品の距離が離れていて何キロも自転車で移動しなくてはならない。自転車で山をくねりながら伸びていく公道を移動している時に道路に黒いヒモが落ちているのを見付けた。

それは目を凝らすと蛇だというこがわかった。蛇は車に轢かれたようで顎のすぐ下の辺りから放射円状に血をまき散らされていて全く動く気配がなかった。
僕は何分か蛇を凝視して、棒でつついてみた。けれども蛇は動かなかったので、もう死んでしまったことを確信した。
僕は蛇がアスファルトの上で死に続けているのを申し訳なく思って、少し恐怖を纏いながら素手で蛇を持ちあげてから道路脇の草の上に寝かせた。
蛇は細く、弾力を含みながらも直ぐに千切れそうのほど柔らかく、鱗が太陽に反射し、漆の椀のように黒光りして美しく見えた。
後で自転車をレンタルさせて貰った係のオジサンにスマホで撮った写メを見せ、蛇の種類を聞くとシマヘビという蛇だったようだ。
ところで、松代エリアの山の公道から辺りの山林を眺めると気付いたことがある。
今年の大雨が続いた気候のせいかところどころで山崩れが起きて地肌が露わになっていたのだ。
僕が目にした山林のほとんどは礼儀正しく綺麗に整列した杉や檜などの針葉樹だった。
もしかしたら人工の山の手入れが出来なくなってきて地盤が弱くなってしまったのかなと僕は感じた。更に幾つかの作品をみて、その六時間後僕は池袋で高速バスを降車し、人ごみが淡々と行きかう新宿で京王線に乗り換えて、山の中から帰宅した。
もしアートが心にフックかけとどまり続けるという体験のことであるなら、僕が越後妻有で出合った人や動物や景色や自然の影はアートにそのもに違いないのではないか。
また意図したものと意図されていない二つのモノの境界を大地の芸術祭は気化し溶解させることを作為的に企てたのではないだろうか。
(現に大地の芸術祭のパンフレット表紙に使われている表紙デザインの1つは人工的なアートワークではなく、切り株に発芽した白い茸の塊写真である)。
また僕は悲観的な形で感ざるを得ないかった
事がある。
大地の芸術祭が行われる越後妻有地区は人口が減少し都市へと人・物が集中していく日本の文明と自然フロントラインだったのではないか。
大地の芸術祭で多くのアートワークを展示することは、正直な未来への一つの諦念の意思表示だったのではないか。
人間には生きる限り未来が付いて回る。
だとしたら僕には2018年の大地の芸術祭のフックが刺さり続けるだろうに違いない。
そしてこの環境によって増幅される新たな太いフックを、3年後もまた僕は心に刺しに行くのだろう。


(3)
提出者名:小林真行
タイトル:「これからの《〈〝“【{地域芸術祭}】”〟〉》について」

茨城県常陸太田市。この土地では日本で最も古い約5億年前の地層が見つかっている。一番古いもので、5億3300万年前にもなる。これは、ゴンドワナ大陸時代の極東部の火山地帯に位置しており、今のロシアの極東部にも同じ地層が見つかっている。そこから、海底の移動とともに運ばれた堆積物と陸から運ばれた岩石などがはり付き、地底の奥深くで圧力と高温で固められ、日本列島の土台になったと考えられている。つまり、ここは日本列島の始まりだった可能性がある。奈良時代初期につくられた常陸国風土記によると、このあたり一帯を「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊かに暮らし、まるで常世の国(理想郷)のようだ」と記されている。
そんなこの地で行われた3つの展覧会を取り上げよう。1991年クリストとジャンヌ=クロード『アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91』。2016年飴屋法水『何処からの手紙』。2018年パープルーム『パープルーム大学附属ミュージアムのヘルスケア』である。

1.クリストとジャンヌ=クロード『アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91』
クリストとジャンヌ=クロード。クリストは、ブルガリア出身、本名はクリスト・ヴラディミロフ・ヤヴァシェフ。ジャンヌ=クロードは、フランス出身で彼らは夫婦である。妻のジャンヌ=クロードは2009年に亡くなっているが、同名で活動を続けている。彼らのプロジェクトは膨大な時間と費用をかけて行われ、ジャンヌ=クロードが生前から関わっているものも現在進行形であり、1977年から取り組んでいるアブダビ砂漠に41万個のドラム缶を積み上げるプロジェクト『マスタバ』のプロトタイプ『ロンドン マスタバ』が記憶に新しい。
彼らのプロジェクトは、公的資金は使用されず、スポンサーシップも受け入れない。同プロジェクトのためのドローイングなどの作品を販売する事だけで、資金を調達する。プロジェクトの準備段階、書類作成だけでも数億かかるプロジェクトも存在する。しかし、作品自体は非常に短い期間だけ展示される。恒久的に展示されるプロジェクトは存在しない。これはどういう事なのか。1991年に行われた『アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91』で考えを深めたいのだが、非常に悔やまれることに、当時10歳で隣町に暮らしていた私は、それを見ていない。そこで、2016年水戸芸術館でのドキュメンテーション展『アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91』を参照にこのプロジェクトを考察してみたい。
日本の常陸太田に1340本の青い傘、アメリカのカルフォルニア州南部に1760本の黄色い傘、大きさが、高さ6m正八角形の対角線が8m50cmの傘を設置した作品である。行政と地元の地権者459人から許可を取り設置された。当時の経済大国1位と2位の、地形の違いや人と土地の関わりの違いを、「壁のない家」としての「傘」で表現できるとクリストらは考えた。壁は分断をするものである。家において壁はパブリックとプライベートの境界線だ。それを、地権者たちと交渉し、6000杯のお茶を飲み(本人談)屋外に設置する。傘が開く展示期間は18日間。しかし、その展示期間中に台風の影響で、数日間傘は閉じていた。
概要を整理してみよう。まず、壁がないことで、パブリック/プライベートを曖昧にした家をつくる。そのためには、膨大な人々との対話が発生する。そして、できたものは、モロに自然現象の影響を受ける。ここには、私たちが「面倒なもの」として、できる限り日々回避している出来事が表象する。また、作品展示期間が非常に短いことを日本人であれば「刹那的な美」「儚さの美」などと形式的に捉え、その「目の前の作品」のみを鑑賞体験としてしまう。しかし、その展示行為は全体のほんの一部であり、プロジェクト初期のドローイングを制作している時期の西暦も、 作品タイトルに含まれていることに表れている。
彼らの初期プロジェクトで、一番最初に公共に介入し実現まで至った作品に、1968年の『包まれたベルン市美術館』というものがある。建築物全体を布で包んでしまう、後々彼らの代表的な手法になる1つで、それまでにいくつかの美術館と交渉したのだが、実現までには至らなかった(ニューヨーク近代美術館も含まれる)。しかし、当時のベルン市美術館館長ハラルドゼーマンの賛同協力を得て、初めて建築物を包む事に成功する。クリストは言う。「アイディアを出すということはさほど大変ではない。難しいのは、それを実現することなのだ。」「もはや世界の全ての土地は、誰かの所有物であり、その許可を得ることが一番の難題である。」プロジェクトの一部としての交渉、すなわち「面倒なもの」に、彼らは足を踏み入れていく。そこから賛同者も現れる事もあれば、マスタバの様に未だに交渉が続いているもの、そして半数以上は実現しないプロジェクトになっていった。様々な交渉の中、多くの土地の所有者は「面倒なもの」として彼らを見たことだろう。もう一度、クリストの言葉を借りる。「相手が政府の役人でも住民でも、人を説得するには自分で話をするしかないと思ってるのです。自分たちの芸術を理解してもらうためには交渉を代理人に任せるのではなく、実際に現地へ足を運び自分自身の言葉で説明するということがいちばん大事なんだ、と。そして、それも芸術の一部だと思っている。」

アンブレラ 常陸太田の模型の一部

『アンブレラ 日本=アメリカ合衆国1984-91』は、1340本の6mの傘を開かせるだけ作品だ。アーティスト、土地の利権者、行政、傘を製作する者、それぞれが違う意見を言いながら、実現した。プロジェクトは誰かが、所有するでもなく、買うでもなく、費用対効果があるわけでもなく、しいて言えば、傘の下でお茶を飲むくらいだ。しかし何処かのタイミングで「面倒なもの」が反転し、傘は開いた。これは何なのか。ぼんやり考えながら、次は、ここから25年後の展覧会を見ていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

2. 飴屋法水 『何処からの手紙』
2016年。常陸太田市を含む6つの市町で「茨城県北芸術祭」が行われた。飴屋法水『何処からの手紙』は、公式プログラムでありながら、ガイドマップには会場が記載されていない。この場所を知るには、指定された会場の最寄りの4つの郵便局の局長宛てに、観客が訪れたい所を選び、手紙を出す必要がある。すると、数日後、郵便局から封筒が届き、会場への地図、絵葉書、そこを訪れるためのプロローグのようなテキストが同封されている。「手紙を出す」と言う手間がなければ、ここにはたどり着くことは出来ない。私たちは、飴屋の演出が施されたフィクション/ノンフィクションが同居したテキストを読み、フィクション/ノンフィクションが同居した舞台の中に入っていく。本稿で取り上げるのは、その中でも営業を終了した小高い丘にある旅館で行われた『イヤホーンの中のプロスト』だ。
『常陸国風土記』では、この丘についても書いていて、「古老の曰へらく、郡より南、近く小さき丘あり。体、鯨鯢に似たり。倭武の天皇、よりて久慈と名づけたまひき」とあり、今は鯨ヶ丘と言われている。その丘の地形を利用して旅館は建てられており、入り口が3階にあって、建物は4階建て。客室部分と経営者の居住部分が一体化した建築に、私たちは訪問する。会場に順路はなく、ほぼ全ての建物の内部を動き回る事ができる。飴屋による演出が前面に出てくる事はなく、それと判るものはところどころに経営者家族の子供の頃の写真や、中学の頃に描かれた絵、短いテキストが貼られているくらいだ。客室は、整理されており、いつでも泊まれそうで、丘の上だけに眺望は良い。封筒に同封されているテキストには、
”夜になれば、常陸太田の夜景がきれいだ。かつては、一面の田んぼだった。田んぼの真ん中で花火大会が行われ、ホタルが飛び交い、それを見ながら酒を飲む”
とあり、なるほどその景色を窓の外に想像してみたくなる。眺めの良い部屋の多くが客室に当てられているが、そのいくつかの部屋は、東日本大震災の影響で傾いている。先に進もう。入り口側に戻り、丘の内側に面しているいくつかの部屋に入る。居住部になっているこの数部屋には、父親を早くに亡くした、母、息子と娘のモノが、その時間の経過を知らせてくれる。特に息子の部屋は印象的で、車好きが高じてTVのレース映像を録画した約4000本のVHSが、壁面を覆う。28歳の時に、自らもフォーミュラカーレーサーになるのだが、自宅近くで交通事故を起こし、半身不随になる。4年間の入院を経て、旅館の営業が終了するまで、旅館の受付や電話番をしていたそうだ。そして、彼らは今も別々の場所で生活している。ここまで、私たちは、この展覧会場をツアーのように辿ってきた。少し耳をすませば、厨房の方から水が一滴一滴ポタリポタリ落ちる音がまだ聞こえるかもしれない。
地域芸術祭はある一定期間、芸術作品が地域に展示され、それが観客動員を呼ぶものとされ、経済が生まれ、「地方活性化」のカンフル剤として全国で行われている。しかし、いずれ祭は終わる。祭のあとの地域に、多くの芸術祭運営は関与せず、次の祭の企画を始める。これが越後妻有トリエンナーレ以降のいわゆる「地域芸術祭」の形式消費で、テンプレート化され、そのほとんどがテンプレートの内側のピースを埋める事にしか注視しておらず、「地域のための芸術」としか考えられていない。このことを本稿では「テンプレ祭」と呼ぼう。私たちの日常とは、本質的に祭と祭のあいだに在るものだ。祭の最中のように思えても、そこには、また別の祭のあいだが内在している。
この展覧会場は、パブリック(旅館部)とプライベート(居住部)が壁一枚で分断している事が象徴的な建築になっていて、私たちは、地域芸術祭という祭に興じて、壁のあっちとこっちの間を自由に足を踏み入れ、全く違う物語が流れた場所を行き来した。しかし、この場所自体は、飴屋の演出により、祭と祭のあいだのように静寂していた。その時間しか存在しないようにさえ思える。飴屋は「祭の最中」から、「祭と祭のあいだ」に私たちの想像力を書き換えた。水の滴りが、今でもあの静寂を鮮やかにした事を思い出す。手紙の中のテキストはこう締めくくられる。

展示風景

”このような人生を送っている人は、どこにも、どの町にも、それこそ無数にいるっていうことです。数える必要はありません。それは、無数、なのですから。
よかったら、息子の集めた映像と、中学の頃、娘が描いた絵を見にきてくださいね。
無数の中の、わずかのひとつが、ここにあるという、それだけのことですけれど。”

私は、2016年に体験した『何処からの手紙』はいったい何だったのだろうと、考えて生きている。言い方を変えると、生涯に何度もなかろう芸術体験をしたことを白状する。それは同時に、芸術との幸福な出会いを意味している訳だが、2年の間、考えても言語化出来ないものが、この場所にはたくさんあるように思える。飴屋氏と直接話す機会があり、これは私の作品について、延いては私自身についての彼からの問いで、「偶然と必然を取り違えていないか、小さな偶然の集まりの中の大きな必然があり、その逆の然り」という話をしたのだが、その話と上記のテキストとの対応関係に、飴屋氏の根幹を覗き見した気がしている。それは何か。

飴屋法水は、世界を容れ物のように捉えながら、その輪郭に手を入れていく作家だ。身体が容れ物のようにして、違う人格を宿らせる役者の話はよく耳にするが、飴屋は、さらに容れ物の輪郭まで射程を広げる。この『イヤホーンの中のプロスト』の場合、テンプレ祭のプログラム「内」で行われ、 さらに建物が容れ物であり、中身(内部)に生き物はいないが、静物たちが、昨日まで使われていたような状態で、ある。そこに観客として私たちは「生き物」役として入っていく。別の「生き物」役の観客とすれ違う。彼らもまた、「祭の最中」と「祭と祭のあいだ」の変換に当惑する演者として書き換えられている。他にも過去作として、光の入らない180cm四方の「容れ物」に水と塩と栄養剤など生命活動に必要最低限なモノだけ持ち込んで、24日間生活した『ア ヤ   ズ /バ  ング  ント』、フクロウも人間と思い込ませ同棲していた過去を持つ飴屋であれば、この入れ替え可能な容器は、人間も動物も静物も等価に見ていることに気がつく。飴屋の見る世界は、無数の容れ物で溢れていて、私たちのこの身体も無数の中の一つの容れ物という事実があり、その中身は小さな偶然によって入れ替えが続く。この取り替え可能な「偶然の中身」を決して「必然の中身」と取り違えてはいけない。偶有性を保持した中身に演出を施すことを続けていくと、やがて容れ物の輪郭がうっすら見え、そこにさえ演出のようなものをする。その事が、飴屋の作品を考える時の大きな手がかりのように思える。
最後の展覧会に行こう。2年後のここから歩いて5分、「梅津会館」とういところだ。

展示風景

3. パープルーム 『パープルーム大学附属ミュージアムのヘルスケア』
この展覧会は、県北芸術村推進事業のプロジェクト「meets KENPOKU」の一環で2018年に行われた。「茨城県北芸術祭」の関連プログラムでもあるが、現在「茨城県北芸術祭」の次回開催は未定となっている。梅津会館という郷土資料館の全館(1階と2階)と別棟の小さな家を使用して、パープルーム梅津庸一氏がキュレーションを行った。パープルームとは、神奈川県相模原市を拠点とし、半共同生活を営み、アーティストの「共同体」を形成している集団である。1階の会場は、作家作品と郷土資料館の収蔵品がごちゃ混ぜにされてを構成しており、2階は、作家作品のみの構成になっている。参加作家は20名。たまたま梅津氏の展示解説の場に立ち会ったのだが、この企画が、地域芸術祭に対してかなりの距離をとり、地域コミュニティに対しても距離をとっている事を冒頭に表明し、同時に、作家のレゾネができた場合、地域芸術祭にコミットしてできた作品が作家の体系的に異質なものになる事を「作家の損失」と話していた事、故に作品の多くは過去作が出品されている事も説明していた。
パープルームの展示には、カラフルに彩色された壁のようなものと、テプラとフラッグに書かれているテキストが特徴的に配置されている。壁は、「パープルーム」とういう言葉の響きをより色彩イメージとして定着させる為に、テプラのテキストの内容は駄文だが、貼られているものの記号性に僅かな介入をする行為に、フラッグは、紀元前より描かれているものに忠誠を誓う、または信号を送る際の道具として使われており、その機能に乗っ取った、ステイトメント風な散文が書かれている。そして今回初めての試み(梅津談)として、パープルームに深くコミットしている作家名を、ブロック状?のものに記載し、メタ認知の為の「共同体」として置かれていた。乱暴にいえば、これらだけで地域芸術祭への応答としての展覧会は完結している。展示構成では、決してキュレーションで物語を紡ぐようなことはなく、終始、郷土資料館の収蔵品とアーティストの作品を断絶した状態で構成し、「私的」共同体の打ち出しと、ここにある「地域」共同体は、分断されていた。可能な限りの確信犯的身勝手な振る舞いで、地域芸術祭との軋轢を意図的に起こしているように見える。それは、アーティストの異物性を纏った共同体を再起動し、テンプレ祭の対立項として設定する行為だ。
梅津は、パープルームの密度に「蜂蜜」のような可能性をみているはずだ。彼のよく使う単語を引用しながら進めると、蜂蜜とは、蜜蜂が様々な蜜源植物から蜜を集め、その際に植物の【受粉】を促しながら、巣に持ち帰って貯蔵加工し、【ゲル状】にしたものだ。限定的なコミュニティで、高い栄養源になるもの、腐敗しない長期保存できるものを作る。それが彼らにとっての芸術作品なのだ。強者のみが生き残るアートワールドのゲームで、違う方法の生き残り方法を模索する。「実社会に生きているんじゃなく、まさに美術のなかでのみ生きているのです。」とは、梅津の言葉である。しかし、芸術は、実社会にこそ生きねばならないというのが私の立場だ。はたして、それは生きていると言えるのだろうか。

3つの展覧会を見てきた。論点を整理しよう。
クリストとジャンヌ=クロードは、自分たちのプロジェクトを遂行する為に、常陸太田を訪ね、書類を作成し、許可をとり、施工を依頼し、僅かな期間だけ作品を展示し、そして解体し、元の風景に戻した。その間に様々な立場の人と膨大な量の議論を行い、いつの間にか人々は「面倒なもの」の出来事に協力を始める。それは「祭」が生まれる体験の共有、と言ってもいいのかもしれない。飴屋法水は、県北芸術村推進事業からの依頼で、地域芸術祭に参加をした。彼は来た仕事は断らない(本人談)という(これも、容れ物に偶然何が入るかという飴屋の姿勢に一致する)。彼は、芸術祭でありながら、特別な会場を作らず、県北の風景を容れ物として、自らの足で展示会場を探し、事実の過去と、記憶の過去と、虚構の過去を混ぜこぜにして、何かを語り直した。そして、パープルームは、テンプレ祭の中で、地域にコミットする事を放棄し、安易なコミュニティづくりを拒絶した。
芸術は、コミュニティが出来、その文化が生まれた後、胞子のように生まれてくる。コミュニティより先に芸術が生まれてくる事は、ない。芸術の鑑賞体験が、観客に取り返しのつかない傷を負わせ、彼/彼女らは、文化に参加し、接ぎ木を行い、現在がある。
忘れてはいけないことがある。芸術の本質の1つは、ナニモノかとの対話のツールであるということだ。ナニモノとは、目の前にいる誰かだけでなく、100年後も、1000年前も、人でも、モノでも、神でも、対話可能だ。その時、私たちの眼前の風景が反転する。(私)景と(ナニモノ)景がまぜこぜになり、google earthにない風景が立ち現れる。私たちは、ナニモノとしっかり目を合わせて、対話を続けられる事が、他のどの分野にも到達できない芸術の本懐だ。
アンブレラには後日談がある。傘の設置された地域に3年後にオープンした『道の駅さとみ』は、アンブレラを模した外観で建築され、2016年の茨城県北芸術祭では、その展示エリアを外れていたが、芸術祭と関係なく勝手に地域住民たちの手により、アンブレラ回顧展が行われた。
いちアーティスト個人で行った地域芸術祭の先がけが、テンプレ祭では起こりえない事を25年後に起こしている。それは、対話を通して「面倒なもの」から「共犯関係」に書き換えたことに他ならないだろう。地域住民たちは、しっかりとナニモノを見続けてきた。そして、それは地域住民たちの無名の批評でもある。
地域芸術祭について、アーティストも運営も多くの疑問に気がついてはいるが、見ないふりをしている。日本で一番古い陸地で、常世の国と言われた地で、もう一度、地域芸術祭の可能性を見る。そこに、確かに批評性を宿した無名の人々が問う。「あなたの芸術祭は、25年後の私たちに行動を起こさせますか?」と。


(4)
提出者名:西 吉利
タイトル:「没後 50 年 藤田嗣治展展評(東京都美術館 2018 年 7 月 31 日-10 月 8 日、京都国立近代美術館 2018 年 10 月 19 日-12 月 16 日)」


この音声は、1968 年に 81 歳で藤田が亡くなる二年ほど前のものだ。1913 年に 27 歳でフランスに渡り、第一次世界大戦後のパリで名声を博し、1930 年代後半に祖国に戻るも、1949 年
に日本を出てその後二度と故国の地を踏むことなく、1955 年に日本国籍を抹消してフランス国籍を取得し、1959 年にカトリックの洗礼を受けレオナール・フジタと改名した「偉大な
乳白色の地」のエコール・ド・パリの画家、というイメージがもたらす姿はそこにはない。徹底徹尾日本語で謎の浪曲を一人芝居で演じる様子は、ある種の典型的な古い日本人のよ
うに思える。これを聞いているとフランス語を本当に話せたのか、カトリックをちゃんと理解していたのかという疑問さえ次々に浮かぶ。彼がこれを永遠に残るべき自分の音声とし
て残したということはなかなかに示唆的である。生涯 5 度の結婚をした人間が永遠を口にするのも奇妙なことだが、おそらく彼は、自分と自分の作品は、日本人として、もしくは日本と
いう文脈の中で捉えられることになるであろうし、またそうなるべきだ、と考えていたのだろう。

本展覧会は、企画者の林洋子によると、遺族や関係者の意向と関係なく、初めて作品本位で世界各地から代表作を選んだ回顧展であるという。展覧会は以下の 8 章で構成されている
第一章 原風景-家族と風景
第二章 はじまりのパリ-第一次世界大戦をはさんで
第三章 1920 年代の自画像と肖像-「時代」をまとうひとの姿
第四章 「乳白色の裸婦」の時代
第五章 1930 年代・旅する画家-北米・中南米・アジア
第六章 「歴史」に直面する-二度目の「大戦」との遭遇、そして作戦記録画へ
第七章 戦後の 20 年-東京・ニューヨーク・パリ
第八章 カトリックへの道行き

ちょうど中間地点ほどの合間の通路には、1937 年に外務省の依頼で藤田が制作した『風俗日本』という短編映画がモニターに映されている。前述の一人芝居動画と響きあうような内
容で、フランス帰りの売れっ子絵描きが、日本の何を面白いと見ていたのかよく分かる。展覧会全体の構成を見ても代名詞的な「乳白色の裸婦」は一章にすぎず、かわって前面に出て
くるのは日本および世界各地の風俗に対する藤田の関心と、二度の世界大戦、そしていわゆる「戦争画」である。「戦争画」は、今となってはまたか、といった感があり、それだけを取り出すと、何か異様な異物のようにしか見えないが、本展覧会のように藤田の全体像の中に配置すると、妙に得心がいく。藤田本人が言うように、彼は戦争に縁のある画家であった。
「戦争さえなかったら、わたしはキュービストとなって、今日の画風も変わっていたかもしれないと思う」高階秀爾によると、かつて藤田はそう語ったらしい。本展第二章では、パリ
時代最初期のキュビズム風絵画がわずかに展示されているが、この頃藤田は 300~400 点もそのような当時パリ流行のキュビズム風の素描や油絵を制作していたという。蔵屋美香によると、それらはあくまでキュビズム「風」で、ヨーロッパ絵画の遠近法の伝統の解体という由緒正しい文脈から出たキュビズムではなく、面白い感じに対象をデフォルメしてつくった模様のようなものであるらしい。おそらく藤田は、第一次大戦までは、ある種の典型的な明治以来の洋行画家の典型だったのだろう。東京藝術大学の前身である東京美術学校に入学しながらも、黒田清輝に卒業制作を「悪い絵の例」と酷評され、落選を繰り返したのちパリを目指したという彼の来歴から想像するに、憧れの西洋モダニズムの中心地に滞留し、そこで最新の技術と知識を身につけ、それを背景に凱旋する、というのが当初の計画だったのかもしれない。しかし第一次大戦によって、それまで唯一の理想であり規範であった西洋を中心とするモダニズムは揺らぐ。高階によると、この時代の彼のキュビズム風絵画のほとんどは、藤田自身によって処分され残っていないという。おそらくそれは西洋モダニズムとの別離を意味していたのだろう。
そして藤田は当初の予定期間であった 3 年を過ぎても欧州に留まり、戦後、「偉大な乳白色の地」の画家としてパリで名声を得る。彼は海外で最初に、そして少なくとも戦前に関しては最も成功した日本人画家となった。日本画的フラットネス、面相筆と墨によって描かれた綿密な描写、キャラクター的なエロティズムと死の導入と自身のキャラクター化、モダニズムが置き忘れた様々な風俗、ベビーパウダーを用いた独自技術の開発というその戦略は、現代の作家たちに通じるものがある。モダニズム失効以後の表現という点で、藤田の直面した課題と我々の課題は、今でも、未だに、繋がっている。その先にほとんど宗教画のような「戦争画」がある。宗教もまた、モダニズムによって置き忘れられたものであり、その失効後に再浮上してきたものである。展示されている「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」は、軍の委託ではなく、彼が自主的に制作したものであるらしい。敗色が濃くなるにつれて、制作意欲を逆に高めていることは示唆的である。おそらく彼は、ひたひたと押し寄せる祖国の滅亡にアルマゲドンを見、そこからインスピレーションを得ていたのだろう。それを描くことを歴史における自らの使命だと考えていたのかもしれない。そして来るべき本土決戦によってそれは完結、完成するはずだったのではないだろうか。
しかしアルマゲドンは訪れず、戦後、一転藤田は戦犯扱いを受け、日本を去る。日本国籍を捨て、キリスト教に改宗して後の、最晩年の宗教画を、冒頭の藤田の肉声を聞きながら見て
いると、それが描かれるはずだった本土決戦の絵画の続きにあるように私には思えた。藤田は人の一生という短い時間ではなく、もっと長いスパンで物事を見ていたのではないだろうか。彼のいう永遠とは、そういう意味であるように思う。
いずれにせよ、藤田の個々の作品だけでなく、その全体像に触れることのできる貴重な機会である。本展は、規模を再編してパリでも開催予定であるということだ。企画者の林洋子によると、それは藤田の戦争画が美術作品として海外で展示される初めての機会であり、それによってエコール・ド・パリの二、三線級の作家という見方が過去のものとなり、藤田の評価が多極化していくことが期待されているという。藤田は歴史としてこそ面白い。皆さんも冒頭の音声を聞いてから、是非訪れて下さい。


(5)
提出者名:NIL
タイトル:「『フランケンシュタインの怪物』の『オソレ』」

「フランケンシュタインの怪物」像

『おれが生を享けた憎むべき日よ! 呪われた創造者よ! おまえでさえ嫌って顔をそむけるような醜い怪物をどうしてつくったのだ?』

青空文庫『フランケンシュタイン』より

https://www.aozora.gr.jp/cards/001176/files/44904_35865.html

「フランケンシュタインの怪物」は一体何を嘆き、「オソレ」るのだろうか?

メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』に登場する「フランケンシュタイン」とは、人造人間である「フランケンシュタインの怪物」を創造した科学者である、ヴィクター・フランケンシュタインのことを指す。つまり本来、彼が創造した「フランケンシュタインの怪物」には名前がない。そして本書は小説であるが故に、その詳細な姿形も不明である。しかしこの名前がなく、姿形も記述から想像するしかないという情報の不足こそが、逆説的に人々の想像力を刺激し、歴史上様々な「フランケンシュタインの怪物」像を創り上げてきた。

「2018年のフランケンシュタイン: バイオアートにみる芸術と科学と社会のいま」

翻って「2018年のフランケンシュタイン: バイオアートにみる芸術と科学と社会のいま」では200年前の「フランケンシュタイン」の概念やアイディアが現代に回帰してきており、それは展示されているバイオアートによって現実性を帯びた、本当にありえるかもしれない未来として語られ始めている。またこの展覧会は大別して「蘇生」、「人新世」、「生政治」という3章に分割してキュレーションされており、それぞれのコンセプトが「フランケンシュタイン」と結び付き、作品を通してそのコンセプトが展開される構成になっている。

そこで実際に作品を観てまず気付いたのが、この展覧会の作品群からは本来「フランケンシュタイン」が持っていたはずの神秘性や謎が消失しているということだ。これは一体どういうことか。例えばウィリアム・マイヤー『バイオアート: バイオテクノロジーは未来を救うのか。』ではシュルレアリスムのアップデートとしてバイオアートが捉えられている。シュルレアリスムとは無意識、夢などの心の働きを基盤として神秘的かつ非現実的な表現を追い求めた芸術運動である。そのシュルレアリスムの達成を引き継ぎ、バイオテクノロジーによって非現実を現実として作品化することに成功したというのが本書の主要な主張だ。しかし少なくとも本展においては、むしろバイオアートはシュルレアリスムから大きく後退しており、そこにはかつてシュルレアリスムが持っていた神秘性も謎も存在していなかった。

第1章「蘇生」

例えば第1章「蘇生」におけるティナ・ゴヤンクによる《Pure Human》。これはファッション業界でレジェンドと言われたアレキサンダー・マックイーンの皮膚の幹細胞を素材とし、実際にレザージャケットやバッグにした作品である。確かにその発想とバイオテクノロジーの技術自体は凄いと言えるが、死者であるファッションデザイナーの服や鞄を身に纏うという発想自体は大喜利の域を出ない。そして何より問題なのは、その鑑賞体験の質であり、キャプションの説明と作品を見比べ、そのコンセプトを理解したらそれで終わりなのである。つまりキャプションの説明と作品が完全に線形で結び付いており、それらの関係性を一回理解したらそこには神秘性も謎も存在し得なない。このような鑑賞体験はむしろ極めて広告的であり、商品的であり、このような作品は技術の宣伝としてディスプレイされているに過ぎないとも言える。

同様に第1章「蘇生」で言えば、ディムット・ストレーブによる《Sugababe》もゴッホの切り落とした左耳を復元するという意味で、先程と同様に大喜利、貧しい鑑賞体験、広告的という全く同じ構造を持つ作品になっている。また当たり前のことだが、平野真美蘇生するユニコーンにおけるユニコーンは蘇生しない。これはむしろ作家の問題というよりはキュレーションの問題かもしれないが、「フランケンシュタイン」と結び付けるために「死者の蘇生」という嘘を作品に強引に当てはめて語ってしまっているために、どうしても作品が陳腐化して見えてしまう。「フランケンシュタインの怪物」は部分を断片的に繋ぎ合わせても決して「蘇生」には至らない生命という領域があるという前提の元で、ある種のフィクションの力によって「蘇生」してしまうということが面白いのであって、断片的な「蘇生」を「死者の蘇生」と同列かつ延長線上の行為として扱ってしまうことには問題がある。

第2章「人新世」

次に第2章「人新世」について。「人新世」とはバイオアートを語る際に良く使われる用語であるが、人類と自然/地球環境との関係性において、消費社会や科学技術を含む人類による活動の影響力が甚大になった地質年代を指す。ここでは四つの作品が展示されているが、一番興味深かったのはAKI INOMATAによる《Why Not Hand Over a “Shelter” to Hermit Crabs?》である。彼女は3Dプリンタを使用し、やどかりの「やど = 殻」を制作することで、実際に水槽の中のやどかりの生活を都市構造や移民のメタファーで捉え直そうとしている。重要なのはここには問題提起だけではない、彼女なりの仮説と検証があり、実際の社会における影響関係への深い考察が見て取れることだ。一方でこの作品と悪い意味で対照的だったのは、マーク・ダイオンによる《タール漬けの鳥》。この作品は完全に問題提起のみで終わっており、その問題提起も新しいものではなく、そして作品表現も直接的過ぎる。先程の第1章「蘇生」でも書いたことだが、バイオアートの作品は直接的かつ単純化されてしまうと鑑賞体験が豊かにならない。

第3章「生政治」

最後に第3章「生政治」について。ヘザー・デューイ=ハグボーグによる《Stranger Visions》、BCLによる《BLP-2000B:DNAブラックリスト・プリンター》はどちらも「生政治」を批判的に問題提起する形の作品である。前者ではDNAが知らないうちに採取され、個人情報が本人の意志とは全く無関係の場所で勝手に活用されるといったディストピアが描かれる。一方で後者ではDNAブラックリストの問題を扱い、DNAを悪用したバイオテロやパンデミックなどの危険性が問われている。「生政治」とはミシェル・フーコーによって提示された概念であり、無意識のうちに自分の行動が管理、統制されるようなシステムを利用した政治形態のことを指す。しかし近年「生政治」に対してはむしろその権力関係を受け入れた上での利便性を認める立場も出現しており、管理や権力を絶対的に否定するという立場はむしろ近代的であるとも言える。そのことも考慮に入れるとするならば、これらの作品に加えて「生政治」を肯定的に描くそのタイプの作品があれば、第3章全体としてのバランスがより取れたように見える。

鑑賞体験の単純化

まとめると今回の展覧会全体を通して言えるのは、鑑賞体験が極めて単純化しているということ。そしてその鑑賞体験の単純化は、キャプションと作品の関係性が直接的であり、発想が大喜利的であり、メッセージの伝達方法が広告的であることに由来する。それらに加えてバイオアートという言葉に隠された嘘が点在しており、問題提起するだけで終わっている作品が多かったことにも疑問を感じた。これがバイオアート全体の問題なのか、今回の展覧会に限った問題なのかは分からないが、このような鑑賞体験の単純化の問題はメディアアートでも同様に見られる傾向であり、そこには何か科学や技術を用いた表現を使用する生態系特有の問題点が隠されているのかもしれない。シュルレアリスムという母体から神秘性と謎を剝ぎ取った後に残ったものは、空虚で商品化したバイオアートだったというのは皮肉である。最後に一つ言えるのは、現在「フランケンシュタインの怪物」が仮に「蘇生」したとしたら、彼が最も嘆き、「オソレ」るのは、むしろ科学技術の発展によって大きく後退した人々の想像力とそれに対する鈍感さなのではないだろうか。


(6)
提出者名:匿名希望
タイトル:「花代個展『何じょう物じゃ あんにゃもんにゃ』2018.09.07 (Fri) – 2018.09.22 (Sat)」

神宮外苑の大工事を眺める展覧会STUDIO STAFF ONLYは東京オリンピックに向けて、再開発が勧められている国立競技場を臨む立地にあり建設中の変化が直接感じられる場所である。
展覧会のタイトルになっている「何じょう物じゃ」とは「なんじゃもんじゃの木」のことで正体不明の立派な木のことを指す。展示会場付近では江戸時代に植物学者だった水谷豊文によって発見され、大正13年に天然記念物に指定され昭和8年に枯れてしまう。その後植え替えられ現在外苑のいたるところでみることができる。
また、まんが日本昔ばなしで「なんじゃもんじゃの木」という物語がある。どこからきたか分からない大きな木は村のシンボルになるが、そのことが気に入らない親子が木を伐採しようと試みる。しかし、何度ノコギリで切ってもびくともせず、その後2人は原因不明の高熱に冒され診察代で財産を使い果たしてしまう。村人達はなんじゃもんじゃの木は、むやみに傷つけたりしたら、バチがあたるとして神様としてあがめるようになった。
現在、展示会場周辺は千本以上の木々が伐採され、蝉の声が聞こえなくなった。この場所は関東大震災、学徒出陣、東京大空襲、敗戦、占領、返還、戦後復興という歴史を目撃した、あるいは平和の象徴としてのオリンピックが開催された、そういう大切な場所である。「なんじゃもんじゃの木」を切ろうとした親子は、オリンピックに向けて工事を進めている東京そのものなのかもしれない。オリンピック開催の短い期間と、これから人口が減っていくとことも考えると、仮設の形や減築していくことの可能性は十分に考えられるのである。
展示会場に向かう階段には、花代と親交のあるティルマンスを撮影した写真が出迎える。会場内のいたるところに蟬の脱け殻や木、葉、土が写真作品と一緒に並べられていて、線香を置きお供養を鑑賞者に体験させる。建設中の国立競技場の写真は抽象的な光の写真とともに展示されている。外に出ると、国立競技場の風景と一緒に花代のプライベートな風景や展示会場周辺の植物の写真などが展示されている。
花代は写真家、芸妓、歌手など様々な表現媒体を行き来している作家である。また、娘の点子を作品にたびたび登場させ、私生活や心境の変化が直接作品になってあらわれやすい作家でもある。
神宮の杜は人手を加えなくても天然更新する永遠の森をつくることを試み、まずは見た目として神社にふさわしい森を形づくるため、仮設の森をつくった。
STUDIO STAFF ONLYの会場に、花代がとても関心を寄せたことで展示が実現した。私生活と現在の国立競技場周辺の風景や木にまつわるものを「見える/見えない」と「わかる/わからない」を曖昧に行き来させながら作品を配置することで展示空間に仮説の森を再現しひと夏の物語をインスタレーションとして表現した。そして、仮説の森は時代とともに変遷しオリンピック後に重要な展示として紐づけられるのである。

文字数:26220

課題提出者一覧