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自己啓発会議「超」啓発宣言

千葉: 本日は司会を務めさせていただく、千葉です。よろしくお願いします。今回は「自己啓発会議」ということで、自己啓発について一家言持っていそうな落合さんと自己啓発本をご自身でも執筆されている苫米地さんをお呼びして、鼎談形式で語っていきたいと思います。また今回は「超」啓発宣言ということで、あくまで自己啓発をとっかかりとして、今までの啓発を超えるような話もしていけたらと考えています。哲学の分野で言えば一般的に自己啓発は馬鹿にされている現状があります。しかし僕は必ずしもその考えには同調しないし、自己啓発から学ぶべきことがあると考えている。だからその問題意識のメタな実践、擬態として『勉強の哲学』があったわけです。そこでまず早速苫米地さんにお聞きしたいのは、どのような考えに基づいて自己啓発本を執筆しているのか。また自己啓発についてどう考えているのかということですね。

苫米地: 自己啓発本に関して言えば、千葉さんが今まさにおっしゃっていたような擬態を方法論として使用している部分があります。これはどういうことかと言えば、自己啓発本と銘打って本を出していたとしても、そこには全く別の概念や本当に伝えたいメッセージを埋め込んでいるということです。私は脱洗脳の専門家でもありますが、脱洗脳のメソッドを本という媒体に応用して使用している部分がある。またタイトルや装幀などのデザインはマーケティング的な意味も含めてお任せしている部分もありますが、これはある程度売り上げが見込めなければ幾ら重要なメッセージを本に込めても無意味だからです。例えば『スピリチュアリズム』という本は金の装幀であり、タイトルもストレート。このような怪しげな見た目の本であれば、スピリチュアリズムを信望している人も本書を手にする可能性があるでしょう。しかし本書を読み進めてみれば一目瞭然ですが、内容はスピリチュアリズムを一刀両断する内容になっている。つまりここでも脱洗脳的な手法が応用されており、自己啓発本は真のメッセージを伝えるための擬態として活用しているということです。

また自己啓発について考えるためには、教育について考える必要がある。何故なら新しいことを学ばずに現状維持を理想とするのであれば、自己啓発など必要ないからです。では教育とは何かと言えば、その手法は洗脳と全く同じと言えます。その唯一の違いは本人のためになるか、第三者の利益になるかであり、前者を教育と呼び、後者を洗脳と呼んでいる。つまり教育は悪用すれば危険性を伴い、現にあなたのためになると言いながらも、実態としては洗脳を施している例は枚挙に暇がない。そこで脱洗脳のメソッドが重要になってくるわけです。自己啓発するためにはまず過去に自分に対して施されてきた洗脳を脱洗脳した上で、自分のためになるゴールを再設定して自分を導いていく必要がある。しかし実際にはこの逆順でゴール設定をすれば自然と脱洗脳されることが判明しており、この辺りの方法論や公式をまとめたものが『まずは親を超えなさい!』で書いたTPIEになります。

千葉: そういうことなんですね。であるならば、苫米地さんは自己啓発本としては擬態という僕とも共通した問題意識があり、自己啓発に関しては教育の問題として脱洗脳の方法論が重要になってくるという話になる。一方で落合さんは自己啓発本という意識で本を出しているようには見えません。しかしその傍らで、落合さんの本や言説が自己啓発的に消費、もしくは利用されている側面もあるように思えます。その辺りについてご自身ではどう考えていらっしゃるのでしょうか。

落合: 自己啓発については「意識高い系」の問題があると思っています。自己を幾ら啓発したところで専門性がなければ意味がないし、実績を積み重ねることなしに意識だけ高くなっても無駄なわけです。だから僕としてはひたすら専門性を上げ、実績を積み重ね続けるしかないと思っている。ただ「意識だけ高い系」はダメだと常日頃から言っているにも関わらず、僕の周囲では「意識だけ高い系」の振る舞いをする人が多数観測できる。それはTwitterを見ていれば明らかだし、僕の発言の一部を切り取ってYouTubeにひたすらアップし続けるような人もいる。確かにこのような事態は僕の発言を自己啓発として捉えて消費、利用している人がいると言えるのかもしれない。

一方で見方を変えればそのような振る舞いは「貧者のVR」や「AI + BI型」といった概念がますます現実味を帯びてきている現状を予感させます。「貧者のVR」とは自分が見たい偏った現実しか見ずに生きる現象のことを指していて、「AI + BI型」は「AI + VC型」と対比させた概念で、BIはベーシックインカム、VCはベンチャーキャピタルのことを指しています。僕の本や発言を自己啓発的にしか捉えられない「意識だけ高い系」は既に「貧者のVR」の世界に生きているとも言えて、その人たちは後にAIの下部構造として恩恵を受ける「AI + BI型」に流れ込んでいく可能性が高い。「AI + BI型」が必ずしも悪いわけではないのですが、やはり専門性と実績の問題を不問とするタイプの自己啓発には問題があると考えているし、「AI + VC型」の人材を育てるためには自己啓発だけでは足りない。

千葉: 落合さんの言う発言の一部を切り取る問題、「貧者のVR」の問題は、エビデンシャリズムの問題と深い関係があるように思えます。『アンチ・エビデンス』ではエビデンシャリズム批判を書いていますが、簡単に言えばエビデンシャリズムの流れから出てきたのがポスト・トゥルースであって、良く言われるようにポスト・トゥルースに対抗するためにエビデンシャリズムが出てきたのではないということです。例えばSNSなどのどうでも良い発言は痕跡として残り、エビデンス確保のために使用される。そしてそれは文脈を無視して都合良く切り取られ、最終的にはその人が見たい現実、つまり「貧者のVR」が実現する。誤解されたくないのですが、これはいついかなる場合でもエビデンスが必要ないと主張しているわけではない。そうではなく、ある程度のどうでも良さを擁護し、ケース・バイ・ケースで判断していくこと。そうでなければ逆にエビデンスが捏造されたり、文脈から切り取られたりする事態を招くことになり、現にそうなっているということです。エビデンス関連で言えば、苫米地さんは『ディベートで超論理思考を手に入れる』という本を出版されていますね。そこでエビデンスやディベートといったことについて、苫米地さんの考えもお聞きしてみたいです。

苫米地: まずディベートに関して言えば、日本ではほとんど理解されていないと断言して良いと思うね。ディベートには大雑把に分けてパーラメンタリーディベートとポリシーディベートがある。前者はスピーチコンテストのようなもので、振る舞いなども含めた説得力が競われる。一方で後者は振る舞いなどが無関係かつ純粋な論理同士がぶつかり合う勝負であり、こちらが僕の専門。欧米の大学を中心とした競技ディベートの世界では前段階であるデータ収集からして熾烈なチーム戦が行われ、その指導方法はほとんど密教に近い。基本ルールとしては二人一組のペア同士が肯定側、否定側に分かれて立論、質疑応答、反駁を各2回ずつ行い、最終的には審判が勝敗を決定する。これは言い換えれば論理という相対世界における最適解に対していかに短時間で到達できるかという勝負であって、相手のペアを論破するというよりは互いに協力してさらに高みへと到達し、審判に対してプレゼンするという形になっている。

エビデンシャリズムの問題と関連して言うならば、ディベートの試合では肯定側と否定側が固定されることがない。つまり試合の度に自分の意見とは無関係に肯定側か否定側かが変わるのでどちらの側に対しても準備する必要がある。またデータを集める段階で分かるのは、ある事柄に対して正反対の意見を補助するデータは無限に見つかるということ。その意味で言えばエビデンシャリズムは一つのエビデンスに固執する態度こそが問題なわけで、ディベートの訓練を経ることでその盲信を消すことは可能。またディベートの基本は「トゥールミン・メソッド」と呼ばれる論理システムを採用している。このシステムは「クレーム」、「ワラント」、「データ」の3種類から成立していて、「クレーム」は主張、「ワラント」は論拠、理由、「データ」は事実、証拠をそれぞれ表している。ここで注目したいのは「クレーム」でも「データ」でもなく「ワラント」。仮に質も量も申し分のない「データ」を用意したとしても、そこに妥当な理由がなければその「クレーム」の説得力はなくなる。エビデンシャリズムとはつまり一度決めた「クレーム」を二度と動かすことなく、「ワラント」の重要性を無視し、その「クレーム」に沿った「データ」を時に強引に捏造すらするような態度に繋がっていくということ。ポスト・トゥルースを乗りこえるにはポスト・トゥルースを徹底しなければならない、エビデンシャリズムを乗りこえるためにはエビデンシャリズムを徹底しなければならないと仮に言うのならば、そのための鍵はディベートにある。

千葉: 今の苫米地さんのお話は、仮に相対世界の極限としてディベートがあるとして、では絶対世界と呼ばれるものは存在するのか、もしくは世界の全体はどのように成立しているのかというような存在論の話にも繋がってくる気がします。そこで自分の専門でもある哲学の話に入っていくと、『意味がない無意味』では、<意味がある無意味>と<意味がない無意味>を対比して定義しています。これは『動きすぎてはいけない』で定義した接続過剰から非意味的切断へ、思考から身体への流れを意識している。例えば<意味がある無意味>では、ある物に対して無限の意味が生成される。これはクリプキ=東的に言えば、固有名は確定記述に還元できないという話と一致します。一方で<意味がない無意味>ではその意味を「有限化」し、止めてしまうような無意味について考えている。これはデリダ=東的に言えば確定記述が届いたり届かなかったりする「誤配」と一致する。つまり『存在論的、郵便的』で言うならば<意味がある無意味>は「否定神学的システム」、<意味がない無意味>は「郵便的脱構築」とそれぞれ対応しているわけです。

苫米地: なるほど。それらの対応関係は仏教的に言えば、「空」と「縁起」の概念と関係しているね。「空」は禅の影響から「無」と勘違いされ易い概念なんだけど、実際には「無」と「有」の上位概念であり、全ての存在の上位概念。意味が消失しているが故に、何でも入る箱のようなものをイメージすると分かり易いはず。一方で「縁起」は存在が関係を生み出すとする西洋哲学の伝統とは真逆に、関係が存在を生み出すことを示唆している。例えばあなたという人間がこの世界に存在するためには、両親やその先祖やまだ人間とは呼ばれない状態の生物からの気の遠くなるような関係性の連鎖が必要だったはず。またあなたが仮に優しい性格だと判断されるとするならば、それはその他の冷酷な人間や優しすぎる人間との関係性の上で定義されるしかない。これは正しく「縁」=関係性によって「起」きる=存在するということ。その上で「空」に基づいた考え方を「空観」、「縁起」に基づいた考え方を「仮観」と呼んでいる。ただ「空観」だけではニヒリズムに陥る危険性があり、これは<意味がある無意味>における意味の無限生成の問題や「否定神学的システム」の脆い連帯の問題に繋がる。だからといって「仮観」だけでは仮の役割や関係性を重視し過ぎてしまい煩悩の奴隷になってしまう。そこで龍樹を起源とした「中観」という「空観」と「仮観」の往復によってバランスを取る思想が重要になる。そこで<意味がない無意味>の「有限化」や「郵便的脱構築」の「誤配」は「縁起」が煩悩によって接続過剰になった状態をどう切断していくかという問題意識に繋がってくるんじゃないかな。

千葉: 確かにデリダやドゥルーズによる西洋哲学の系譜を東洋哲学である仏教の観点から捉え直してみると、より明瞭に見えてくる実態がありそうですね。西洋哲学と東洋哲学を比較検討する仕事は中島隆博『ヒューマニティーズ』に特徴的で、彼は西洋哲学の起源であるギリシア哲学まで遡り、西洋哲学から排除されてきた中国哲学を通して哲学一般を考えるといった仕事を行っている。一般論として西洋哲学と東洋哲学の接続には危険性も伴うが、そこには哲学一般に共通する何かがある。

さて、ここで落合さんの提唱する「デジタルネイチャー」と接続するために、前提としてラカンが提唱した三界図式を整理しておきます。ラカンの三界図式は存在論的な人間を基盤とした世界の在り方について「現実界」、「想像界」、「象徴界」の三界に分けて考えます。誤解を恐れずに言えば「想像界」とはイメージの世界であり、アートを想像すれば分かり易い。また「象徴界」とは言語の世界であり、批評を想像すれば分かり易い。そしてこの二界はどちらも意味がある世界について語っている。それは村上隆の博論である『美術における「意味の無意味の意味」をめぐって』がイメージと言語を介して最終的に意味に回帰することに象徴的です。しかし一方で「現実界」とは「想像界」や「象徴界」からは到達不可能である無意味な世界であり、<意味がある無意味>に相当します。そしてその三界図式の構図自体から逃れてしまうような無意味を<意味がない無意味>と定義しているのですが、これは単純化して言えば解釈が在しない相関主義の外側の世界であり、脱人間中心主義的な傾向がある思弁的実在論やオブジェクト指向存在論などと相性が良い。そして落合さんの言う「デジタルネイチャー」は、そのような世界観に計算機科学を基盤として焦点を当てた著作であると読みました。

落合: 認識としては正しいと思います。しかし僕の考える「デジタルネイチャー」では、実装を前提としない思想/哲学/批評は無意味であるとも考えています。どういうことかと言えば、ディープラーニングを前提とした世界は「理事無碍」 → 「事事無碍」に移行している。これは華厳宗の言葉から来ていて、「理」は理性、「事」は現象、「無碍」は邪魔や障害が存在しないことを指している。そして「理事無碍」 → 「事事無碍」がどういうことかと言えば、今までは問題を解くために理論が必要だったのだけれど、今では順序が逆で問題が解けた後に理論を考えるようになっている。だとするならば、理論はあってもなくても関係ないということになる。これが「End to End AI」の帰結であり、「現象 to 現象」を前提とした世界が「デジタルネイチャー」であるということ。先程の議論で言えば<意味がない無意味>の世界を自然言語を主体として考察することには限界があり、計算機自然における実装を前提として考えていかなければならない。

千葉: そこに関しては幾つか反論があります。まず思想/哲学/批評は問題解決のためだけに存在するのではないということ。特に批評に関しては二次創作としての役割があり、文化とは問題解決をすることだけで価値付けられるものではありません。また『脱近代宣言』における上妻さんの指摘は重要です。要約すれば「デジタルネイチャー」時代の基準はパラメーターであるが、人間の感覚器を超えた領域において、何をどこまでパラメーターとして扱えるのか、もしくはそのパラメーターを発見し入力するのが人間である以上、結局は人間中心主義的なデジタルネイチャーになる危険性があるという問題提起。例えばモンシロチョウを記述する際には人間が見えない紫外線も記述しなければならないはずだが、そういった隠されたパラメーターは無数にあるはず。だとすればそれらを完全に記述できなければデジタルネイチャーはネイチャーの解像度に到達しないのではないか。しかしそのようなパラメーターを考えること、もしくは扱いを考えること自体は人間が判断しなければならないという意味では思想/哲学/批評の役割がある。これを一般化するならば、「End to End AI」があったとして、そこには目的を入力しなければならない。その際に後付けの自覚としての思想/哲学/批評ではなく、創造的アウトプットとしての思想/哲学/批評の可能性がある。要するにこれらの領域がもはや必要ないのではなく、役割が大きく変わるということではないか。

また「デジタルネイチャー」のまえがきにおける落合さんの「胡蝶の夢」のエピソードは、中島隆博の解釈以前のもの。「デジタルネイチャー」が何か超越的かつ統合的な帝国として存在し、全てがそれと溶け合って存在していくような世界観の原点を「胡蝶の夢」に見ている。しかし中島隆博はその「万物斉同」の観点こそを批判し、むしろ「荘周」と「蝶」の区別に拘る。それこそが「物化」であり、「生成変化」である。また落合さんは「AI + BI型」と「AI + VC型」の二極化を、どちらの方向へも自由に行き来可能な未来として考えている。しかしたとえ落合さん自体にその意図がなかったとしても、この二極化は権力によって分断としての棲み分けに使用され、行き来不可能な境界線として設定されてしまう危険性を感じる。そして例えばこのような危険性は落合さんの極端な短眠とワーカホリック的な振る舞いの正当化にも似たような気配を感じることがある。何故なら短眠に関しては短眠遺伝子の存在が認められていて誰もが真似できるものではないし、仕事だけが人生の目的ではないからです。

落合: 「デジタルネイチャー」は計算機資源が人間の補集合になるという考えを基盤としていて、個としての区別に拘ること自体に対して意味が消失すると考えている。また「AI + BI型」と「AI + VC型」も含め、超越論的な包摂の帝国として「デジタルネイチャー」が権力に利用されかねないという懸念に対しては、権力という名の近代の象徴に対してはやはり技術で超克することを考えるべきで、それを「社会彫刻」の現代版として考えている。さらに短眠に対しては確かに体質的な部分も大きいが、仕事が遊びと同一化した時代におけるワーカホリックとは「ワークアズライフ」であって、子どもが止められても遊ぶことを止めないのと同様に考えるべきはタイムマネジメントではなく、ストレスマネジメントについてであるはず。

千葉: さて、ここまでで批評再生塾における文字数制限である8000字という非意味的切断が迫ってきたわけですが、最後に今回は話せなかった部分について、手短にまとめて終わりたいと思います。まず僕は『美術史にブラックライトを当てること』の中でクリスチャン・ラッセンについて論じています。落合さんはメディアアーティストとしてイルカをテーマにした作品も制作しているわけですが、ラッセンのイルカは無関心な社交性を描いている一方で、落合さんのイルカは「現象 to 現象」のコミュニケーションを主題としている。よってその二つを関連させた議論は面白いかもしれないと思いました。また全体性の多孔状態に対して「抽象度」や「内部表現」はどう関わるのか、もしくは「ワークアズライフ」対する「バランスホイール」、またはメイヤスーの「絶対的偶然性」に対するチャイティンの「ランダム数G」など、物理宇宙と情報宇宙が脳と心に対応しているとする苫米地さんの立場から色々お話を聞いてみたいと思いました。それではお二人とも忙しい中、ありがとうございました。

文字数:7996

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