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終着駅「親密さ」にて

00-1. エピローグ

腹が立った。あるいは感動していたのかもしれない。

濱口竜介『親密さ』のエピローグでは山手線と京浜東北線を走る電車が並走し、追いつき追い越し、最終的に二手に分かれて消えていく。舞台劇『親密さ』の演出家だった令子は編集者になり、脚本家かつ主演俳優だった良平は韓国の義勇兵となり、軍楽隊に所属している。その2人が偶然再会し、それぞれの電車に乗り、車内を走り回り、投げキスを交わし合う。濱口監督が「視線」に拘る作家であることは佐々木敦『彼女は(彼)は何を見ているか』、もしくは長門洋平『耳のイマジナリーライン』などで既に語られていることであるが、平行線で交わらない線路によって「親密さ」を表現するという発想自体が「視線」について考え抜いてきた濱口監督ならではの演出と言える。

本作は「言葉のダイヤグラム」、「言葉は想像力を運ぶ電車です」という台詞に代表されるように前編、後編、エピローグから成る3部構成であり、255分にわたる映像は映画と呼ぶには余りにも「言葉」で満ち溢れている。また前編終わりの橋の長回しのシーンは擦れ違い、喧嘩していた2人が言葉を交わすことで「親密さ」を取り戻す様子が描かれているが、エピローグの電車内のシーンではそれまで幾度となく交わされてきた言葉を交わすことなく「親密さ」を描くことに成功している。それに加えて前編のワークショップから後編の舞台劇、劇中劇への入れ子構造。物語が電車で始まり、電車で終わるという円環構造。これ程までに緻密に構成された些か完璧すぎる「親密さ」を体験させられては、濱口監督の術中にはまるしかなかった私が冒頭のようなアンビバレントな気持ちを抱いたとしても不思議ではないだろう。

00-2. 本論考が巡る停車駅

01. 「言葉」の地層

02. 演劇 ← 映画の文法

03. 不可視な「親密さ」と「言葉」の不在

04. 濱口竜介とマルセル・デュシャン

05. 「シネフィル防壁」と「シネフィル的転回」

06. 歌詞のない音楽

07. 濱口竜介と村上春樹

08. SFとドキュメンタリー

09. 終着駅「親密さ」にて

今回の論考では『親密さ』の核となるテーマである「言葉」と「親密さ」を中心に据えた上で、上記の駅に各駅停車しつつ、終着駅である「親密さ」へと向かっていくことにする。

01. 「言葉」の地層

『親密さ』における「言葉」は、地層のように複数の異なる意味を宿している。濱口監督はそれらの境界を明らかにし、掘り起こし、性質を検証した上で、再び混ぜ合わせる。例えば濱口監督は脚本の台詞という書き言葉が話し言葉として演技に変換される際の違和感、自意識を「本読み」と呼ばれる手法によって克服しようとしている。このことは角井誠『「演者のからだに固有のニュアンス」を聞く』に詳述されているが、実際に『親密さ』の前編冒頭はこの「本読み」のワークショップから幕を開けることになる。「本読み」とは感情を排して台詞を読むことであり、「棒読み」との対比で考えると分かり易い。「棒読み」が演技に対する過剰な自意識によって「言葉」に身体が縛られた状態だとするならば、「本読み」は書き言葉を話し言葉に無機質に変換することによって「言葉」から身体を解放する = フラットで演技可能な身体を作り出す試みと言える。

02. 演劇 ← 映画の文法

このような過剰な演技を拒絶する「言葉」へのリアリズムは平田オリザの「現代口語演劇理論」と類似したものと言えるが、濱口監督は劇中劇である舞台劇「親密さ」の中で明らかに演劇に映画の文法を上書きして演出している。例えば切り返しを使用し、対面していない人物同士を対面していると錯覚させるカメラワークや、舞台の側から撮影した観客席の映像を挟み込む編集などがその一例として挙げられるが、その上書きが最も象徴的に表現されている箇所は、良平演じる衛が暴力についての詩を朗読するシーンだ。そもそも詩の朗読という行為自体が先程も述べた書き言葉と話し言葉の地層が重なり合う場所として特殊なものだが、ここでは前編では良平だった人物が後編では舞台劇の中で衛となって詩を朗読するという更に複雑な状況が用意されている。元々良平が発する「言葉」はボソボソと小さな声で喋られ、演技としては自然と棒読みの境界線上を漂っていたと言えるが、衛による詩の朗読では感情が剝き出しになり、そこでは吐き捨てるような暴力そのものが体現されている。この圧倒的な変化は前編を一つの大きなシーンとして読み込んでいるからこそ可能な変化であり、時間と空間を一つのシーンとして切り取り、圧縮して次のシーンへと飛ばすという映画特有の文法を演劇の上に重ね合わせているからこそ強い効果を発揮する。

03. 不可視な「親密さ」と「言葉」の不在

上記により濱口監督が『親密さ』において「言葉」という観点から脚本、演技、演劇、映画、詩といった地層を丁寧に掘り起こし、検証してきたことは分かった。しかしここで疑問なのは、一体何故そんなことをする必要があるのかということだ。そのヒントとしてまず考えられるのは、「親密さ」は画面に映らないということだ。別の言い方をすれば映画として何を映せば「親密さ」を描いたことになるのかが分からない。何故なら「親密さ」とは人間の内面における感情の働きである以上、何か特定のものや状況をカメラで捉えること = それを描いたことにはならないからだ。また演者が「親密さ」を本当に感じて演技しているから観客もそう感じるとも限らず、逆に言えば演者が全く無感情に演技していても「親密さ」が観客に伝わる可能性すらある。このように映画や演技の根底に関わる面白さがある「親密さ」というテーマだが、ここで先述した「言葉のダイヤグラム」、「言葉は想像力を運ぶ電車です」という台詞を再び思い出してみてほしい。当然のことだが文字という例外を除いて「言葉」も画面には映らない。しかしシーンによって積み重ねられた複数の「言葉」の集積はダイヤグラムを描き、そして観客の想像力を刺激する。その想像力の先には「親密さ」が存在している。つまり濱口監督には満ち溢れていた「言葉」という電車から観客を降ろすことによって、言い換えれば「言葉」の不在 = 画面に映るもののみによって「親密さ」を描くという狙いがあったのだ。

04. 濱口竜介とマルセル・デュシャン

ここでさらに別の角度から考察を深めるために、『親密さ』における濱口竜介とは、チェス絵画におけるマルセル・デュシャンの試みを引き継いでいたのだと断言してみる。東京国立博物館・フィラデルフィア美術館交流企画特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」の第1章「画家としてのデュシャン」ではチェスをモチーフとした絵画群が目を引く。時系列に並べるならば《チェス・ゲーム》→《チェス・プレイヤーの肖像》→《急速な裸体たちに横切られるキングとクイーン》→《急速な裸体たちに囲まれるキングとクイーン》と発展していくわけだが、最初は人々がチェスをプレイしている画面をそのまま切り取ったかのような絵画が、最終的にはチェスの抽象的な運動、思考、形態を融合したとしか呼べないような絵画へと変貌していく。つまりこの変化を見てみるとデュシャンは絵画を通してチェスのゲームとしての運動法則、思考形態そのものを描きたかったことが分かる。これは濱口監督が映画を通して「親密さ」という感情そのものを描こうとしたことと等しい。何故なら2人共、限定されたメディアにおいて思考や感情などの不可視なものを可視化して表現するためにはどうすれば良いのかを追究したと言えるからだ。デュシャンは《急速な裸体たちに囲まれるキングとクイーン》以降チェス絵画を描いておらず、絵画を放棄してレディ・メイドへと移行したことからも、絵画というメディアを用いてその夢を実現することを諦めたように見える。しかし濱口監督は「言葉」によって想像力の回路を開くことで、映画を通して「親密さ」という感情を描くことに成功した。

05. 「シネフィル防壁」と「シネフィル的転回」

ここまでの流れで濱口監督が「親密さ」を描くために何故「言葉」の地層に拘ってきたのかの理由が分かり、またその試みはデュシャンのチェス絵画における実践を引き継ぐものであることも分かった。では次に来る疑問としては、そもそも何故「親密さ」というテーマを映画で描きたいのかということだ。これは蓮實重彦の『表層批評宣言』に代表されるようなシネフィル (映画通) によるフォーマリズム批評と大きな関わりがある。「表層批評」を「行間を読まずに映画の画面には何が映っているかという『表層』のみを基準に観て語る批評である」と定義するならば、濱口監督はそれに対して「シネフィル防壁」とでも言うべき鉄壁の防御力を保持している。これは濱口監督と蓮實との対談である『さいわいなことに、濱口さんも役者が好きなんです』において、蓮實から問われた三つの問題点について問われた際、概ねそうするしかなかった理由を挙げて反論に成功している点を見ても明らかだ。

しかし先程の「親密さ」は画面に映らないという事実と、画面には何が映っているかという「表層」しか観ない「表層批評」の正反対の特徴を合わせて考えてみると、実は「親密さ」を描くというのはこのようなフォーマリスト批評を乗り越えるためのテーマとして最上なものであることに気付く。つまり濱口監督は「表層」では決して捉えることのできない不可視な地平として「親密さ」を設定し、「言葉」による想像力を経由することによって、画面に「親密さ」を可視化させようとしたのだ。言い換えれば「シネフィル防壁」を自らの糧として乗り越え、不可視なものが可視になる場所に到達したという点で、彼は「コペルニクス的転回」ならぬ「シネフィル的転回」を行ったと評価することができるだろう。

06. 歌詞のない音楽

やっとのことで濱口監督が「親密さ」を描くために「言葉」の解像度を上げて描写している理由、そして「親密さ」を映画で描く必要性について整理することができた。よってここからはさらに「言葉」の地層について掘り下げることで本論を補強していきたい。『親密さ』の「言葉」について語る際、避けては通れないのが岡本英之による歌詞のない音楽だ。『親密さ』では劇中歌が2曲、エンディングテーマが1曲の計3曲が流れることになるが、そのいずれもが岡本英之によるものであり、音楽には歌詞がない。いや、歌詞がないと断言してしまうと語弊があるかもしれない。寺岡裕治による岡本英之に対するインタビュー『見せるために動くこと、あるいは声のはじまり』の中で、岡本は何も思い浮かばずに追い詰められた結果、録音した歌詞のない音楽を濱口監督に送り、それに対する応答として詞を要求されたことを告白している。そして実際に歌詞は付けられ再録されたのだが、最終的には歌詞のない音楽が採用された。このことは後述するドキュメンタリーの世界観が強く制作に流入していることを象徴している一方で、結果として歌詞、つまり「言葉」が不在である音楽が生まれたという重要な意味を持つことになる。

その意味について説明するためには、濱口竜介『寝ても覚めても』の主題歌であるtofubeats「RIVER」と比較してみるのが良いだろう。これに関しては木津毅によるtofubeatsに対するインタビュー『運搬・堆積・浸食』が参考になる。この記事の中でtofubeatsが主題歌について詳しく語っている部分があるが、その重要な点をこの比較と紐付けて整理すると以下の2点に集約される。一つ目は主題歌の目標として朝子を嫌いにさせないこと、つまり擁護することを目指したこと。具体的に言えば歌詞には三人称、俯瞰視点が盛り込まれ、そこには主題歌として誰かの「言葉」の代弁としての意味が生まれることになる。二つ目は「川」というテーマに沿って藤岡換太郞『川はどうしてできるのか』を読み、映画の中での主題歌の役割を強く意識して制作したこと。このことはアドリブや機転によって生まれた「親密さ」における岡本の主題歌と好対照を成している。

歌詞は誰かの「言葉」を代弁する。だとしたら岡本による歌詞のない音楽は誰の「言葉」も代弁していないのだろうか。ある意味ではそうとも言えるし、そうでないとも言える。何故なら岡本の歌は「言葉」として形を持つ前の、まさしく「声」として存在しているからだ。そしてその「声」は今思えば良平の「言葉」にならない感情、つまり「親密さ」を代弁していたのではないか。岡本とエピローグに出てくる良平の風貌が似ていると指摘するのは少し行き過ぎた分析かもしれないが、このような観点から捉えるとエピローグにおける電車内の「言葉」が消失し、振る舞いと視線だけで満たされた世界がまた違った世界であるかのように見えてくる。確かに歌詞のない音楽が生まれたことは偶然の結果だったのかもしれない。しかし、その「言葉」の不在は後のエピローグと必然的に結び付いていたのだと。

07. 濱口竜介と村上春樹

また本作を語る上で無視できない要素としては、映画中に時間経過を示す日付が挿入されることだ。もちろん理由の一つとしては舞台劇「親密さ」へのカウントダウンの意味合いで日付が挿入されていることは確かだ。しかし一方で2011年3月11日、つまり東日本大震災が起きた日に徐々に近付いていく日付を眺めながら、そこに何の意味性も感じないということもまた不自然なことだろう。ただ予想に反して作中ではその日付はスキップされ、東日本大震災についての直接的な言及やシーンは存在しなかったと言って良い。そして濱口監督は東日本大震災をテーマとした「東北記録映画三部作」である『なみのおと』、『なみのこえ』、『うたうひと』を制作している。これらのことから通常濱口監督は『親密さ』では東日本大震災について触れることは避け、その代わりにそのテーマを「東北記録映画三部作」で深く掘り下げていると解釈されることが多い。このような見方については概ね賛同するが、一方でそれとはまた違った解釈も可能ではないかと考える。その解釈とは濱口監督は「親密さ」の中でも東日本大震災を間接的に描いていたという解釈だ。

その別解釈について説明するためには、村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』に収録されている『かえるくん、東京を救う』という小説に触れる必要がある。よってこの小説のあらすじを簡単に説明する。阪神・淡路大震災が起こることを予知したかえるくんは、片桐というどこにでもいそうな特徴のない独身男性の元を訪れ、みみずくんという地震を起こす元凶である存在と夢の中で共に戦うことを頼み込む。結果は引き分けに終わるが、現実世界での地震が引き起こされることは回避されたという話だ。『親密さ』では朝鮮半島で戦争が勃発するという架空の設定があり、当初主演俳優であった三木はその座を降りて義勇兵に志願することを選択する。仮に『かえるくん、東京を救う』におけると阪神・淡路大震災とみみずくんとの戦闘が『親密さ』における東日本大震災と朝鮮戦争に結び付いていると解釈するならば、三木は片桐であった可能性がある。そしてそこで真に問題になってくるのはかえるくんの言うところの「想像力に対して抱く恐怖」についてだ。実際『親密さ』では動画、SNS、メールなどを通してしか戦争は描かれておらず、観客の想像力を起動することなしにその暴力へのリアリティは存在し得ない。また『かえるくん、東京を救う』における「想像力に対して抱く恐怖」のスイッチを切るという行為と、「親密さ」における想像力の起動が「親密さ」に辿り着くという結論の対応関係を考えるならば、まさしくここで問題になっているのも人智を超えた圧倒的な暴力に対する手触りのなさ、想像力の不足なのである。

08. SFとドキュメンタリー

このような仮説が事実とは異なることは本人のインタビューによって既に語られていることだが、本作における地震や戦争が想像力の問題について扱っているという点については間違いないだろう。またむしろここで着目したいのは「親密さ」の設定にSFが含まれているという点についてだ。もちろん撮影当時の世界情勢のリアリティは含まれているにしても、事実として映画中のような朝鮮半島での戦争は起きていない。そして本作にSF設定が入っている点の何が興味深いかと言えば、その一方でこの作品はドキュメンタリー要素が多分に混在した映画でもあるという点に尽きる。

本作における前編は舞台劇「親密さ」の制作ワークショップの風景をドキュメンタリー風に撮影したものであり、後編の舞台劇は実際に上演された際の記録映像を元に制作されたものだ。元々本作は「ENBUゼミナール」の卒業制作として制作されたという経緯があり、特筆すべきは劇中劇で演出家を担当する令子役である平野鈴は、実際にその舞台の演出家として携わっていたということだ。つまり濱口監督は前編と後編の入れ子構造のドキュメンタリー性に加え、現実の世界でのドキュメンタリー性をも作品に混在させるという手法を取っていることになる。

ここで先程のSFとドキュメンタリーは極めて特殊な形で接続されることになる。つまり本作において濱口監督は単純にフィクションとノンフィクションを混在させるということではなく、フィクションの中でも最も現実世界から離れているであろうSFと、幾重にも重なり合う入れ子構造を持つドキュメンタリーを接続することを試みたのだ。このような一見自然に見えるが内実混沌を極めている世界は、観客に対して一体どんな影響を与えるのか。少なくとも私は「言葉」に聞き耳を立て、画面に齧り付くことで、自分が今何を聴き、何を観ているのかを常に自問自答する他なかったのである。それが濱口監督の術中であるとも知らずに。

09. 終着駅「親密さ」にて

 本論考は各駅停車という長い道のりを経て、遂に終着駅である「親密さ」へと辿り着いた。そこで最後にこれまで何度も繰り返してきた考察の最も重要な部分に関してまとめ直してみる。「言葉」によって想像力が刺激される。しかし「言葉」が電車という乗り物である以上、そこから降りることなしに「親密さ」という終着駅に辿り着くことはできない。よって200分以上に及ぶ「言葉」で満たされた電車を降りることで、つまり最後の最後で「言葉」を捨て去ることによって、映画における画面上では不可視であった「親密さ」が観客の前に映し出されることになる。しかし同時にこうも思う。劇中劇で佳代子が問いかける「世界って、情報じゃないでしょ?」。この台詞が正しいとするならば、この「親密さ」は一体誰に向けられたものなのだろうか?と。

 映画が開始された直後、画面に映し出された演者たちは誰もが無個性で入れ替え可能なように見えた。しかしその「小ささとか弱さとか醜さとか遅さとか」は「言葉」によって台詞として喋られることで、むしろ観客を映像に惹き付ける重要な要素へと変わった。自分にとって匿名な誰かがスター性を獲得する瞬間、もしくは「棒読み」が名演技に変わる瞬間。我々はその瞬間の可能性こそを演技と呼び、映画はその瞬間に自分とは切っても切り離せない距離感を生み出すことになる。この演者と観客の中に生まれる「親密さ」こそが、濱口監督がこの映画を通して描きたかったことの全てであり、終着駅「親密さ」へと至る想像力は確かに「言葉」という電車を経て観客の元へと運ばれていたのだ。

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