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現代美術の生存戦略

【目次】

1. 戯れの生存戦略

2. 現代美術(歴史 or 時間)

3. 制作と批評の関係性

4. ポケモン化する作家/キュレーター/コレクティブ

5. 現代美術とメディアアート/バイオアート

6. コラボレーションの生態系

7. 消失する作品

8. 実験工房としての現代美術

1. 戯れの生存戦略

現代美術は素朴に作品を制作するための場から、多様な生存戦略を実験するための場として機能し始めている。言い方を変えれば、人々はかつてない程に様々な関係性の中で戯れている。しかし現代美術以前のアートの現場がそうでなかったかと言えばそうでもなく、例えば狩野派の集団制作やアンディ・ウォーホルのファクトリーなどは当時の生存戦略を実験する場であったことは確かだ。それでも現代美術における戯れの生存戦略を強調するのは、この特徴がかつてない程に前景化した時代が現代であり、それ抜きにアーティストが生き延びることはほぼ不可能に近いからだ。現代美術家は作品のアウラの獲得、剥奪より以前に戯れ、認知され、生存しなければならない。よって本稿では現代美術における戯れの生存戦略について考えてみたい。

優れたアーティストは常にルールを書き換えてきた。そして大前提として生存戦略を考えるためには、既存のルールを読み取り、解釈し、再設定し、プレイしてみせることが必要だ。言い方を変えれば、ここでは絶え間ない文脈の参照と生成が行われているという前提がある。また文脈とはアーティストたちの生存戦略の歴史のことでもある。もちろん歴史が勝者によって書かれる以上、業界の捏造による価値創造も存在する。しかしそれらを踏まえた上で他者との差異化によるポジションを獲得し、強度のある作品を作り続けたアーティストたちの軌跡が圧縮されたものが文脈として残っている。現代美術ではそのシステムが合理的に働いた結果、このプロセスが高速かつ並列的に行われることが日常化しており、その鍵は戯れにある。

この戯れの状態について別の言葉で表現するならば、超個体的と言えるかもしれない。何故ならばそれぞれが別の個体として振る舞いながら、分業するように違う鉱脈を掘り進み、情報共有しながら有機的に全体として延命を図る様は超個体的と言えるからだ。つまり現代美術は個体から超個体へと変化しつつある。このような主張に対して、人類はそもそも超個体的に活動してきたという反論は可能だろう。確かに人類は職業なるものを発明し、分業の末に専門性を獲得し、それらの活動を緩やかに共有することによって環境を作り替え、適応し、生き延びてきた。しかしここで注意したいのは、その超個体的な振る舞いについてここまで自覚的かつ徹底的に突き詰めた時代は現代の他に存在せず、またそれが一番分かり易く出現しているのが現代美術という分野であるということだ。これは近代化によってあらゆるものが標準化、均一化した結果、付加価値を作るには常に別のことを探求せざるを得ない実情と、他とは異なる価値観の追求は常にアートにおいて重んじられてきたことに起因する。

また制作から生存戦略への変化について、何故このような変化が生まれているのかと言えば、そこには大きく分けて三つの理由がある。一つ目はグローバル化とローカル化の進行。二つ目はインターネットとSNSの発達。三つ目は資本主義経済と評価経済の発展だ。これらは全て前者が後者を促す構造になっているが、それらも含めて簡単に説明する。グローバル化は突き詰めればローカル化を促す。これは考えてみれば当然のことで、グローバル化によって境界が一度取り払われ、単一の価値観が標準という言葉で押しつけられた後には、ローカルによる再解釈が出現する。そうなればそこにはローカルなりの生存戦略が自然発生し、グローバル化とは異なる戦国時代が生まれてもおかしくはない。またインターネットはSNSに帰結した。これは捉え方によってはディストピア的であると言えるが、大半の人々の欲望がコミュニケーションにあり、ほぼ全てのコミュニケーションは無駄によって成立していることを考えれば当たり前のことのようにも思える。そしてSNSの時代においては発掘されること、バズること、常に発信し続けることが重要であり、そこには制作とは別の生存戦略が必要になってくる。最後に資本主義と評価経済について。資本主義と対抗するはずの概念である評価経済において、前者が後者を促すとは一体どういうことか。まず資本主義経済の本質は信用創造にある。そもそもユヴァル・ノア・ハラリが指摘するように社会が共同幻想で成立しているのだとすれば、お金も共同幻想である。ならば評価経済とはその共同幻想における信用創造の一つのラディカルな生態系に過ぎない。つまり評価経済は資本主義経済とは全く別の価値観なのではなく、同一平面上に存在するラディカルな形態であるということだ。そして文脈という共同幻想を主体として動く現代美術の生存戦略は、当然この評価経済の流れとも無関係ではない。このように現代美術を考える上で制作以上に生存戦略を考えることの重要性はかつてない程に拡大していると言える。

2. 現代美術(歴史 or 時間)

現代美術の生存戦略を考えるためには、まずは現代美術という言葉が何を指しているのかを知る必要がある。そこで改めてこの言葉について考えてみると、そもそも現代美術という言葉はおかしいことに気が付く。元はと言えばこの言葉は「Contemporary art」の訳語である。「Art」を「美」の「術」と翻訳したことによる弊害は語っても語りきれないが、むしろここではそのような翻訳の問題に焦点を当てるのではなく、「Contemporary = 現代」という言葉の問題について語ってみたい。「Contemporary」は辞書的には「一時的、同時代的」という意味である。それに対して「現代」という訳語を当てるのは特に間違いとは言えないだろう。であるならば違和感の根源は元々の「Contemporary」という言葉自体にあることになる。その違和感について一言で言えば、「Contemporary art」という言葉がある特定の時代区分を表現する言葉なのか、時間軸を移動し続ける中で参照する対象をも変化させる言葉なのかが曖昧で混濁していることにある。つまりこれを別の言葉で表現するならば、現代という言葉が固定された歴史を指すのか移動する時間を指すのかが混同している状態にあるということだ。

前者の定義で捉えるならば、その起源においても諸説ある。例えばピカソのキュビスムを起源とする説もあれば、マルセル・デュシャンのコンセプチュアル・アートを起源とする説もあれば、その他の説もある。つまり現代美術は専門家であってもその時代区分がどこから始まるのかが定まっていない言葉なのである。また前者の定義の場合問題になってくるのが、現代という言葉を歴史的な時代区分に使用してしまった場合、現代という時代は常に生きて活動している人々の時代へ移動し続ける時間のことも指すはずなので、現代が歴史として過去に登録されると同時に別の移動する時間としても存在するという矛盾を生み出すことだ。例えば1000年前も1000年後もその時代を生きる人にとってその時代が現代である以上、時代区分として歴史化する際には20世紀美術のような別の言葉を使用した方が混乱が少ない。

しかし本当の問題は後者の定義であって、仮に現代美術が「一時的、同時代的」な時間のことを指すのであるならば、美術(仮)というのが現代美術の真の姿であって、その中には歴史の淘汰を経験していないという意味で美術ではないものがそのほとんどを占めることになる。そしてそのことに自覚的だからこそ現代美術の世界では歴史化されていないものを歴史化する生存戦略が必要になってくる。言い換えれば現代美術は歴史化されることを欲望し続ける宿命を背負っているとも言える。つまり現代美術は将来的に美術化される、されないという可能性が並列して存在している不確定な状態であり、それぞれの対象に対して程度の差こそあれ、まだその世界線は確定していないということになる。だからこそ現代美術は資本主義経済において投機の対象になり易い。

また現代美術に限らず、美術の世界では死後に評価されるという幻想、もとい信仰が根強く残っている。これに関して未来の時間軸においては、段々とその傾向が削られるようになっていく可能性が高い。その主な理由は二つあり、一つはSNSの普及、もう一つは翻訳技術の向上である。前者に関してはSNSの普及により、普通だったら埋もれてしまう可能性のある作品が発掘され、瞬時に全世界的に共有されるという現状がある。もちろんその逆にSNSに適さない作品が隠蔽される傾向にあるのも確かなのだが、SNSが存在しなかった時代と比較すれば、良い作品が日の目を見る可能性は遙かに高まっている。また翻訳技術の向上に関しては、Google翻訳がニューラルネットワークを導入して以後、その精度が飛躍的に向上したことは周知の事実である。仮に将来的に全世界の言語が意思疎通が可能なレベルでリアルタイムに翻訳できる未来が来た場合、今までは言語の壁によって繋がり合うことがなかった現代美術の専門家同士が繋がり、そこで作品が見出だされるということが頻繁に起こるだろう。このように考えてみると時代を経るにつれて、より同時代的に作品が発掘され、評価され、歴史化される流れは加速していくと考えられ、そのような時代においてはそれ以前とは違う生存戦略を持って戦う必要がある。

3. 制作と批評の関係性

美術史を学んでいると、「同時代の批評家が的外れなことを言っていたが、後にその時代には全く評価されていなかった作品が美術史的に重要な作品であったことが判明した」というような記述に出会うことがある。果たしてこれは本当だろうか?確かに時代を数十年、数百年単位の大きな枠組みで捉え、それを一つの作品に封じ込めてしまったような奇跡的な作品は存在する。そしてそのような作品を同時代的に解釈し、位置付けることは困難であり、同時代の批評家が的外れなことを言ってしまうこともあるだろう。しかし一方でこの表現では捉えられない現実が幾つか存在する。一つは「的外れ」というよりは美術史家によってある作家や作品が歴史化され、登録される過程でその選別に漏れた、つまり勝負に負けたという可能性である。この捉え方の場合歴史は正誤ではなく、勝敗によって語られるという観点であり、より実態に近い捉え方が可能になる。そしてもう一つは美術の世界に蔓延る批評家フォビアの単純な表れである可能性だ。

現代美術の世界にも依然として批評家フォビアは存在している。というより批評の宿命がフォビアとの闘争にあると言い換えても良いのかもしれないが、特に作家の中には批評家を毛嫌いする層が一定数存在していることは確かだ。これは批評家が代弁者ではなく、価値判断を行う存在である以上、避けられないことであり、ある種の緊張関係を保つ上ではむしろ良い側面もあるのかもしれない。しかしそれぞれの役割の無理解とは別に、制作と批評にはそれぞれどのような共通性があり、相違点があり、関係性が考えられるかについては現代美術の生存戦略を考える上で欠かせない観点であり、改めて考察してみる必要性がある。もしかするとそこに批評家フォビアを克服するヒントが隠されている可能性もある。

制作と批評は共に言語表現の別の表れである。批評は自然言語を使用するという意味で言語表現と言った場合特に問題は生じないだろうが、制作を言語表現と言うことには多少の説明が必要だろう。まず制作と批評はどちらもコミュニケーションの手段である。もちろんその目的は異なっているが、それぞれその活動を通して何かしらの情報を伝達しようとしている点でコミュニケーションの手段と言える。また美術の制作では主に視覚言語を使用するので、批評における自然言語との間には翻訳のような関係性が成立しており、同一言語間でのコミュニケーションとは違った種類のコミュニケーションが存在している。そう考えると当然制作と批評の間には翻訳の不可能性の問題が横たわっていると言えるが、一方で異なる言語におけるそれぞれの視点が交換されることには一定のメリットが生じることになる。

その制作と批評が交わる例としては、現代美術におけるステイトメントとクリティークが挙げられるだろう。これらはどちらも西洋美術の世界の中で発展してきた文化であることに共通点を持つ。簡単に言えばステイトメントとは作品に関するコンセプトを表現した文章のことであり、形式に特に縛りは存在しない。一方でクリティークとは講評のことであり、作品のコンセプトと実作品に対する議論がなされる。ここではどちらも作品の自然言語への翻訳と、作品との整合性について問われている。またここでは表現しているものの表明と、それに対する価値判断が行われ、制作と批評が両輪となって相互作用を起こし、発展していくことが期待されている。しかしこれらのステイトメントとクリティークのように、批評の論理を制作の論理に、制作の論理を批評の論理に転用することには一定の危険性も存在している。

まず最初に言ったように制作と批評は言語表現ではあるが、それぞれ別の言語である。批評で述べたことを完璧に制作で表現できるのであれば批評家が作品を作れば良いし、制作でやっていることを完璧に批評で書けるのであれば作家が批評をすれば良い。しかし現実にはそうなっておらず、それぞれ別の能力が必要だからこそここにはコミュニケーションの必要性がある。ただし先程も述べたようにこのステイトメントとクリティークという文化がまず西洋美術の世界で発展してきた歴史があり、それらの仕組みをそのまま受容することが健全な態度であるのかについては議論の余地がある。またこのような制作と批評の交わりがあったとしても表に出ない部分、神秘化してしまう部分についてどう考えるかということは重要であり、ステイトメントとクリティークの存在によって一見作品やコンセプトがクリアに見えてしまう分、むしろそこでは語り得ない部分についての掘り下げが浅くなる可能性についても考える必要がある。

制作には批評で語り得ない部分があり、批評には制作で語り得ない部分がある。この当然の前提について重く捉えた場合、批評家フォビア、もしくは制作の軽視に繋がる回路が開かれてしまう。であるならば、むしろその不可能性を基板として互いの仮説をぶつけ合う戯れの中に制作と批評の理想的な関係性が見出だせるだろう。現代美術がそれ以前の美術と違う点があるとすれば、批評家による批評より遙かに多くの批評未満の批評に満たされた空間が存在していることだ。その空間に常時曝され戯れ続けることで、制作と批評のサイクルを高速で回転させることは可能であり、それは現代美術における一つの生存戦略として捉えることができる。

4. ポケモン化する作家/キュレーター/コレクティブ

ポケモンは現代美術における作家、キュレーター、コレクティブの未来を予見していた。これはどういうことかと言えば、作家とはポケモンのことであり、キュレーターとはポケモンマスターのことであり、コレクティブとはパーティのことだと考えると全て辻褄が合うということだ。もしくはポケモンの例が分かりづらければ、トレーディングカードゲームで喩えても良い。トレーディングカードゲームにおける作家とはカードのことであり、キュレーターとはプレイヤーのことであり、コレクティブとはデッキのことである。

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