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平成ピングドラム

「現実」の群れと元号の「象徴」

平成とは「仮想」も「虚構」も「非日常」も全てが「現実」であることが暴露され尽くした時代であった。例えば紙幣や硬貨から預金通帳の数字、電子マネーから仮想通貨へと到達した貨幣はゲーム的な「仮想」が「現実」であることを露呈した。またポスト・トゥルースと呼ばれる現象は対象が嘘か事実かに関わりなく、感情的な基準と解釈によって真実が生まれてしまう状態、つまり「虚構」が「現実」になる状態を生み出した。他にもポピュリズムや反知性主義といった思想は、エリート主義や知識人の主張を「非日常」的で大衆の「現実」を理解しない者たちの戯れ言と位置付け、それらに対するカウンターとして世界を覆い尽くしていった。このように平成における時代の流れは、逃げ場としての「仮想」、「虚構」、「非日常」に対して常に逃げ場のない「現実」がそれらの世界を侵食し尽くしていった流れとして理解することができる。

このような時代に対して宮台真司は「終わりなき日常を生きろ」という「呪詛」を唱えた。「終わりなき日常」とは先程述べた「非日常」の存在しない「現実」の世界のことを指す。宮台の執筆した『終わりなき日常を生きろ:オウム完全克服マニュアル』はサブタイトルを見れば一目瞭然なように、「虚構」に没入した象徴的な存在であるオウム真理教に対する完全克服マニュアルとして書かれている。しかしその目的とは裏腹に「終わりなき日常を生きろ」という言葉を「呪詛」と表現したのには、三つの理由がある。一つ目は宮台の予見した通り、「終わりなき日常」という地獄に耐えられる人間などほとんど存在しなかったということ。二つ目はこの言葉の実践者、モデルとして描かれていた「ブルセラ女子高生」がまったりではなく、メンヘラ化したこと。三つ目は「神戸連続児童殺傷事件」、「アメリカ同時多発テロ事件」、「東日本大震災」など「終わりなき日常」を根底から揺るがすような事件、震災が起きてしまっていること。これらのことから考えると「終わりなき日常を生きろ」は既に「処方箋」ではなく、「呪詛」になってしまっている。

また大澤真幸はこのような時代を「不可能性の時代」として整理する。大澤はこの時代を「虚構の時代」のような「現実」からの逃避ではなく、「現実」への逃避と極端な「虚構」化として捉え、それらの矛盾する要素が立ち現れた時代として「不可能性の時代」と呼ぶ。ここでは「現実逃避」における逃避の方向性は完全に逆転しており、「虚構」に抑圧されていた力はそのまま暴力的で危険な「現実」として立ち現れることになる。これはどういうことかと言えば、一方では無菌室のように極端に潔癖で「虚構」化した「現実」があることで、もう一方ではそこで抑圧されていた暴力的な「現実」が生まれてしまうということだ。そしてこれらの矛盾する二つの方向は隠蔽された「現実」を暴き出すための異なる方向からのアプローチなのだが、この矛盾は直接認識し、受け入れることができないためにその「現実」は「不可能性」と呼ぶしかない。極端な例で言えば、人間は「リンゴ」であると同時に「モモ」であるという対象があったときに、その矛盾を認識し、許容することはできないが、「現実」にはそのような対象が溢れてしまっている。よってこの時代の人間はその「不可能性」を抱えて生きるしかないということだ。このように宮台の「終わりなき日常を生きろ」も大澤の「不可能性の時代」も平成という時代に対する有効な分析の指標を提示してくれる一方で、無限増殖し続ける「現実」に対する処方箋を提示してくれるわけではない。

ここで平成を元号という観点から捉えてみると、元号は象徴性に満ちていることに気付く。そもそも明治維新以降の日本の元号は「一世一元の制」を採用しており、これは日本においては天皇が退位するまで改元が行われないことを意味する。また第二次世界大戦を経てアメリカ主導で制定された日本国憲法では、「象徴天皇制」が規定されている。「象徴天皇制」とはつまり、天皇は日本国と日本国民の「象徴」であって、従来の天皇における政治的な権限は剥奪、もしくは抑圧されているということだ。ここで「一世一元の制」と「象徴天皇制」を組み合わせて考えてみる。するとそもそも元号は期間の区切りとしては恣意的になる運命を背負っているが、その一方で天皇の即位に対する「象徴」の誕生と天皇の退位に対する「象徴」の消失、またそれらを受け入れる国や国民の受容と共に歩む運命にあることが分かる。よって平成という時代を包括して語るには、「終わりなき日常を生きろ」、「不可能性の時代」で述べられているような「現実」の絶え間ない圧力に対する処方箋を提出すると共に、その内容を「象徴」的に示唆している作品が相応しい。そしてその作品とは『輪るピングドラム』のことである。

「無償の愛」(観光客とテロリストについて)

「なあ、だからさ、林檎ってのは、宇宙そのものなんだよ。手のひらに乗る宇宙。こっちの世界と、あっちの世界を繋ぐもの」

 「あっちの世界?」

 「カムパネルラたち乗客が向かってる世界だよ」

 「だから、そこはどこなんだよ」

 「いのちが来た場所だよ。そこにはカムパネルラのお母さんもいるんだ」

 「それと林檎がどう関係してるんだよ」

 「林檎はさ、神様がくれたご褒美でもあるんだ」

 「意味わかんないよ」

 「つまり、林檎は愛による死を自ら選択した乗客へのご褒美なんだ」

 「でも、死んだらおしまいじゃん」

 「馬鹿だな、おしまいじゃないよ。むしろ、そこから始まるんだって賢治は言いたいんだ」

 「ねえ、僕たちこれから、どこに行く?」

 「さあ。どこに行きたい? ここから、始まるんだ」

(幾原・高橋, 2012, p.243-245)

『輪るピングドラム』は宮沢賢治による『銀河鉄道の夜』とオウム真理教による「地下鉄サリン事件」を主な二つの土台として制作されたアニメ作品である。これら二つの本来は結びつかないもの同士が「列車」の比喩で接続されていることからも分かるように、このアニメでは記号が溢れた世界が比喩に比喩を重ねたような表現で描かれている。モブキャラは基本的にピクトグラムで描かれ、「東京スカイメトロ」は銀河鉄道と地下鉄サリン事件の舞台を暗示しており、幾度も描かれる林檎は旧約聖書の『創世記』における禁断の果実を運命の果実ともじったもの、愛の象徴であり、同時に登場人物の荻野目苹果の苹果は『銀河鉄道の夜』にも登場するものである。また偶然か必然かこのアニメの放映時期は「東日本大震災」が起きた年であり、アニメに登場する『かえるくん、東京を救う』という短編小説は村上春樹によって書かれた「阪神・淡路大震災」を題材とした作品である。このように作品を分析していけばそれこそ切りがないが、それは既にやり尽くされていることであり、問題になってくるのはこの作品がどのように平成を象徴し、その問題を解決しているかだ。

まず『輪るピングドラム』では「終わりなき日常」が最初から破綻している。物語の始まりは日常系アニメを偽装するかのように始まるが、最初に高倉家の家族として描かれる冠葉、晶馬、陽毬の3人は実は元々家族ではない。しかも両親である剣山と千江美はカルト信者のテロリストであり、1995年に地下鉄サリン事件に相当する事件を起こしたとされている。さらに復讐者として登場する多蕗桂樹と時籠ゆりは、荻野目桃果という自分に「無償の愛」を注いでくれた存在をその事件によって失っている。このようなテロリストの加害者側と被害者側という存在はその「原罪」を背負って生きているしかない。「終わりなき日常」ではまったり生きることが祝福されているが、その例外的な状態として『輪るピングドラム』では生きることが許されない存在について描かれている。ここでは「日常」が退屈なのではなく、罰を与えること、もしくは与えられることが「日常」であり、苦痛は間違った思想により正当化されてしまう。

次に「不可能性の時代」について。ゾンビのように襲いかかる「現実」に対抗するためには愛が必要である。その愛について考えるためには、まず『輪るピングドラム』に登場する人物の家庭がことごとく崩壊していることについて考えなければならない。高倉家はテロリストの両親の元で育てられた偽装家族であり、多蕗桂樹と時籠ゆりは両親に精神的、肉体的な虐待を受けた偽装結婚のパートナー同士であり、荻野目苹果の家族は離婚しており、冠葉の実妹である夏芽真砂子の祖父は性格破綻者、父はカルトの一員として組織に利用されて殺されたという徹底ぶりである。つまりここで挙げたような登場人物は全て親からの愛情を受けずに育った子どもである。つまり『輪るピングドラム』は「不可能性」 = 「現実」に立ち向かうために必要な家族の愛を知らずに育った子どもたちの物語と言える。

またこの「不可能性の時代」について一つ思い付くのは、「ポジションを取れ」という新時代における念仏についてだ。「終わりなき日常を生きろ」という呪詛を背負い切れなかった人々は、その「現実」を生き抜く手段として「ポジション」の獲得競争に駆り出される。「ポジション」とは社会的な人間関係やネットワークにおける個人の役割のことだ。その役割を上手く獲得できなかった人々は「透明な存在」として世界の風景から消失してしまう。これは平成に流行したデスゲームと表裏一体の関係にある。何故ならデスゲームとは突き詰めれば「生存戦略」のシミュレーションのことであり、有効な「役割」や「キャラ立ち」がない人物から存在が消失していくゲームのことだからだ。『輪るピングドラム』では「ポジションを取れ」ずに家族からも世界からも必要とされなくなった子どもたちが「こどもブロイラー」という施設に送り込まれ、消されていく様子が比喩的かつ予言的に描かれている。

最後に『輪るピングドラム』の最重要テーマは「無償の愛」についてだった。物語の終着駅として冠葉と晶馬はその命を犠牲にして陽毬を助け、世界の風景から消失してしまう。この状況は正しく『銀河鉄道の夜』に登場するカンパネルラがザネリを助けるために川に飛び込み、そして忽然と姿を消してしまうシーンと一致する。つまり「無償の愛」と命の鼓動の連鎖が「輪るピングドラム」であり、それが林檎の形として表現されていたわけだ。しかしここで注意したいのは、無償の愛は自己犠牲と表裏一体であるということだ。『ゲンロン0:観光客の哲学』では「村人」と「旅人」に対する第3項として「観光客」が設定されている。しかしその「観光客」とは村という基盤を持った上で旅に出る存在であり、構造的には固定化した思想を持った上で無秩序に世界を破壊する「テロリスト」と表裏一体である。ではその「観光客」と「テロリスト」を分別する要素とは何か。それが「無償の愛」である。「無償の愛」を獲得できたものはそこを安全基地として旅に出る「観光客」になることができる。一方で「無償の愛」を獲得できなかったものは世界が危険地帯として覆われてしまうために、その秩序を破壊する「テロリスト」になるしかない。だからこそ『ゲンロン0:観光客の哲学』の第2部では「家族の哲学」が考えられている。それは『輪るピングドラム』とは違うアプローチ、つまり「家族的な連帯」という制限を通して「無償の愛」とは何かを問い直していると考えられる。そしてその根源を問い直すことでしか、「終わりなき日常を生きろ」、「不可能性の時代」を乗り越えて平成の「現実」を生き抜く術を見出すことはできない。

『私は「運命」って言葉が好き。信じてるよ。いつだって、一人なんかじゃない。』

(『輪るピングドラム』「24TH STATION 愛してる」より)

主要参考文献

宮沢賢治(1989)『新編 銀河鉄道の夜』新潮社.

村上春樹(2000)『神の子どもたちはみな踊る』新潮社.

島田裕巳(2006)『オウムと9.11:日本と世界を変えたテロの悲劇』メディア・ポート.

大澤真幸(2008)『不可能性の時代』岩波書店.

幾原邦彦・高橋慶(2011)『輪るピングドラム』(上)幻冬舎コミックス.

幾原邦彦・高橋慶(2011)『輪るピングドラム』(中)幻冬舎コミックス.

幾原邦彦・高橋慶(2012)『輪るピングドラム』(下)幻冬舎コミックス.

内田樹ほか(2017)『激動の平成史』洋泉社.

東浩紀(2017)『ゲンロン0:観光客の哲学』ゲンロン.

宮台真司(2018)『終わりなき日常を生きろ:オウム完全克服マニュアル』筑摩書房.

文字数:5137

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