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古典新訳とアンコール

原文とは何か?

原文の意味は流転する。それは時代によって、読者によって。一言で言えば文脈によって。例えば携帯電話が登場して間もない時代、それは電話やトランシーバーの延長線上のものとして捉えられていた。しかし現代における携帯電話とは、PDAやPCの延長線上のもの、つまりスマートフォンとして捉えられることが多い。だとしたら例えば原文で「携帯電話」という単語が登場したとして、その意味は時代の流れ、読者の変化や背景知識の有無によって全く変わってくることになる。さらに言えば未来の読者にとって、スマートフォンとは古臭い技術の象徴として存在するかもしれない。そう考えると、作者がその単語を使用した際に意図した意味と、読者が受け取る意味には少なからずずれが生じることになる。

このことをさらに大胆に突き詰めると、そもそも原文には意味が存在しないと言うことができる。具体的に言えば文脈こそが意味を発生させるのであって、原文、つまり文章や単語自体には意味がない。これは驚くべき事実だが、良く考えてみるとそうとしか考えられない。例えばそのことを検証するために、原文で「毒キノコ!」という台詞があった場合を考えてみる。この場合、当然文章の前後の文脈なしには意味を判断することは不可能である。ある場合にはジョセフが山で見付けたキノコが毒キノコで、それをアンナが注意喚起のために「毒キノコ!」と叫んだのかもしれず、別の場合には秘密基地のメンバーの1人である吉沢のあだ名が「毒キノコ」であり、他のメンバーが「毒キノコ!」と彼を呼び寄せたのかもしれない。これらの例のように「毒キノコ!」の意味は単体では存在せず、完全に文脈に依存している。またそうであるならば、原文自体に意味が存在しているという考えは錯覚であり、幻想であるとも言える。

翻訳とは何か?

訳者というのは、まず読者なのです。翻訳というのは、『深い読書』のことです。」(鴻巣, 2012, p.12)

翻訳とはその作品の当事者、実践者になりながら読むこと。」(鴻巣, 2018a, p.11)

鴻巣友季子は翻訳の際にまず原文を「読むこと」を強調する。これを先程の話と接続するならば、文脈を「読むこと」を徹底するということだ。そして文脈を「読むこと」には終わりがない。気軽に流してしまいそうな1単語、1文から広がる世界は無限であり、文章における部分と全体の意味は自分という読者のフィルターを通して絶え間なく流動し、形を変え続ける。その「読むこと」の体験を徹底することは、作者の思考や身体性をシミュレーションすることであり、翻訳を通じて「書くこと」によって一つの実演が完成する。その意味において翻訳者とは俳優であり、声優であり、ダンサーであり、演奏者である。俳優や声優は脚本、ダンサーは振付、演奏者は楽譜と対象は異なるが、それぞれが「読むこと」を徹底した結果として解釈の異なる実演が繰り広げられ、その再現の差異にこそ価値が宿る。

また翻訳という行為はそもそも不可能性を抱えており、それは異なる言語間における単語同士が一対一対応ではないことに代表される。例えば英語と日本語で言えば、riverと「川」は一対一対応ではない。riverは一般的に「川」という単語から連想されるイメージより大きなサイズ感を持つ単語であり、山を流れるような「小川」に対してはstreamなどの単語を使用した方が適切である。しかしそれとて単語同士が完全に一対一対応である訳ではない。また例えば日本語の「牛」に関して言えば、英語のcowcattlebullcalfoxの使い分けに日本語には見られない細かな分類があり、その差異自体が一つの文化的な興味、関心の在り方を示している。つまりこのように考えると、一対一対応の性質を前提とした単語帳は嘘で塗り固めた情報の集積とも言える訳だが、このような翻訳における不可能性こそが、逆説的に翻訳者の創造性を生み出す源泉でもある。

翻訳の不可能性を超えて

最後に今までの議論を踏まえた上で、「先取りの剽窃」についてまとめてみたい。「先取りの剽窃」とは、時代を経た作品の意味が読者の解釈を含めた文脈との関係性により、事後的かつ大胆に書き換えられてしまう現象のことだ。ここで今までの議論における原文を原作としてそのまま置き換えれば、そもそも原作の意味は流転し、存在しないことになる。そこに意味が生じるのはあくまで文脈や読者との関係性においてだ。そのように考えると、「先取りの剽窃」は珍しくも、憂慮すべき現象でもなく、当然かつ自然な現象として捉えることができる。事実は過去から未来に積み上がっていくとしても、文脈は常に揺らいでおり、解釈は未来から過去に遡ることで再帰的に事実を塗り替えていく。

また鴻巣の言う「翻訳というのは原作より先に存在することはできない。」(鴻巣, 2018b)という認識は原理的には正しいが、読者との関係性まで考慮に入れた際には必ずしも正しいとは限らない。ある読者が翻訳を原作より先に読む、もしくは原作を知らないのであれば、情報的には翻訳が原作より先に存在していると言える。また時間の前後関係ではなく、翻訳と原作における互いの影響関係において時間は意味を持たない。つまり原作が翻訳に影響を与えるのと同様に翻訳も原作に影響を与えるのであって、それぞれの影響関係は同時的かつ等価に存在している。そこに文脈と読者をも含んだ縁起の空間は、仏教で言うところの一念三千の世界を形成しているとも言え、そこでは過去も現在も未来も同時に存在しており、翻訳と原作の時間的な差異は消失している。

このように考えていくと、遅れてきた者 = 翻訳者は、原文の意味すらも書き換える力を持っていることが分かる。もちろん翻訳は原文を文脈ごと徹底的に読み解いた上でなされなければならない。また古典新訳の場合には時代や読者などの文脈も考慮しつつ、原文を土台として自らの実演を完成させる必要があるだろう。その上で最終的に完成した翻訳は、原文やその他の翻訳に対して「先取りの剽窃」を強く感じさせるようなものでなければ意味がない。古典新訳は時代の翻訳者と共に踊り、『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラは、何度でも形を変えて蘇る。その度に読者は新しいスカーレットを目撃し、アンコールの声援を送るのである。

主要参考文献

鴻巣友季子(2012)『翻訳教室:はじめの一歩』筑摩書房.

ミッチェル, マーガレット(2015a)『風と共に去りぬ』(第1巻)(鴻巣友季子訳)新潮社.

———(2015b)『風と共に去りぬ』(第2巻)(鴻巣友季子訳)新潮社.

———(2015c)『風と共に去りぬ』(第3巻)(鴻巣友季子訳)新潮社.

———(2015d)『風と共に去りぬ』(第4巻)(鴻巣友季子訳)新潮社.

———(2015e)『風と共に去りぬ』(第5巻)(鴻巣友季子訳)新潮社.

鴻巣友季子(2018a)『翻訳ってなんだろう?』筑摩書房.

———(2018b)「翻訳、とくに古典新訳におけるle plagiat par anticipationについて考察してください。」<http://school.genron.co.jp/works/critics/2018/subjects/04/ >2018年7月16日アクセス.

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