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高橋源一郎の可能世界

固有名と可能世界(理論編)

高橋源一郎は初期三部作である『さようなら、ギャングたち』、『ジョン・レノン対火星人』、『虹の彼方に:オーヴァー・ザ・レインボウ』において可能世界を探求した。高橋の作風は通常ポストモダン文学、ポップ文学などに分類され、現代詩やキャッチコピーとの関連性、全共闘世代における立て看、闘争のイメージ、失語症の経験とその克服の過程において論じられることがある。もちろんそのような捉え方自体は間違いではないが、このような分析には高橋の作風を統合して説明するための大事な視座が欠落しており、その欠落した視座とは可能世界のことである。そしてこの可能世界について説明するためには、まず固有名について説明しなければならない。

そこでさっそく固有名についての哲学的な議論を振り返ってみる。フレーゲとラッセルの記述理論によれば、固有名は確定記述の束であるとされる。ここで言う固有名とは人名、天体名、チーム名など一つだけの対象を指す名前のことだ。例えば高橋源一郎、火星、阪神タイガースなどがそれぞれ固有名に該当する。一方で確定記述とは固有名の諸性質について述語的に記述したものである。例えば高橋源一郎は「『さようなら、ギャングたち』の著者」、火星は「太陽系の第4惑星」、阪神タイガースは「セ・リーグに所属する日本のプロ野球球団」と記述でき、これらが確定記述に該当する。もちろん固有名に対して確定記述は幾つ対応していても良いが、固有名はこれらの確定記述の束に還元されるというのが記述理論の主張だ。

一方でソール・クリプキは『名指しと必然性:様相の形而上学と心身問題』の中で、この記述理論は間違っており、固有名は確定記述の束に還元されないことを詳細に説明した。そのために本書で掲げられた主要なテーマは、1. 同一性の必然性、2. 固有名の固定性、3. 指示の因果説の三つである。1においてクリプキは、アプリオリ(先天的)とアポステリオリ(後天的)は認識論、必然性と偶然性は形而上学で扱われる別の概念であり、両者を混同してはならないと整理する。例えば「フォスフォラス(明けの明星)はヘスペラス(宵の明星)と同一である」という命題はアポステリオリに発見された事実であるが、これらの固有名が指示する対象である「金星」はどの可能世界でも同一の対象を示すので、この命題は必然的に真になる。また2でクリプキはこの考えを発展させ、固有名は固定指示子を持ち、全ての可能世界において同一の対象を指示すると主張する。ここで確定記述は諸性質を記述する事実上固定的なものであり、可能世界 = 反実仮想においてその事実が否定される可能性がある以上固定指示子にはなり得ない。最後に3においてクリプキは、固定指示子の命名儀式、指示対象の引き継ぎの見取図を描くことで、固定指示子の名指しにおける力を神話化した。

これらの議論を踏まえた上で、東浩紀は『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』において、クリプキの固有名の固定性、指示の因果説などの主張に宿る神話を批判的に検証した。まず東は柄谷行人とジャック・デリダの議論を援用し、固有名を単独性、散種、確定記述を特殊性、多義性と対応させる。その上でクリプキの可能世界と命題の訂正可能性を対応させ、固定指示子 = 固有名の剰余は可能世界における命題の訂正可能性から遡行的に発見されるものだとする。ここで可能世界の訂正可能性とコミュニケーションの誤配可能性が結び付き、それらは単一の主体ではなく郵便空間の社会的文脈で規定されるという意味で、否定神学は郵便的構造へと到達することになる。また東のこのような主張は、仏教の自我に対する主張と相似形である。まず固有名の剰余という錯覚と自我が存在しているという錯覚が対応する。その無明な状態に空と縁起の思想を導入する。ここで自我が空であるという思想を徹底すると否定神学になる。一方で自我は縁起、つまり他者や社会との関係性によって定義され、諸行無常なのであれば、そこには郵便的な誤配空間が立ち上がることになる。

固有名の氾濫と可能世界への拡張(実践編)

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上記のように初期三部作で登場する固有名を恣意的に並べてみると、固有名の氾濫が起きていることが分かる。そこで先程の固有名についての議論を適用してみると、高橋はこれらの固有名を通して幽霊の渦巻く可能世界を表現し、読者に対して誤配の回路を開放したと解釈することができる。ここで固有名同士の距離の大きさや使用方法の恣意性は、可能世界 = 半実仮想を埋め尽くすこと、もしくはコミュニケーションの失敗に該当し、それによって郵便的な誤配空間が顕在化することになる。また高橋が使用する固有名には幾つか特色を持ったものが登場するので、ここからはそれらを幾つかに分けて分析してみたい。

中島みゆきソング・ブック、石野真子ちゃん、『カール・マルクス』。

これらの固有名は全て登場人物の名前を指し示している。特筆すべきは、これらの固有名の中には一般にも良く知られている固有名である、中島みゆき、石野真子、カール・マルクスが含まれていることだろう。しかも奇妙なことに中島みゆきはソング・ブックという物、石野真子はちゃんという接尾語、カール・マルクスは『』という記号と共に固有名を形成している。そもそもこのように有名な固有名を使用する場合、読者の中にそれぞれのイメージ、もしくは確定記述が既に成立しているはずだ。それを高橋は別の要素と接続することで、もしくは実在の人物とは余り関係のない、さらには無関係な使用方法を駆使することで現実とは別の可能世界を出現させることに成功する。例えば中島みゆきソング・ブックはそもそも人名として使用されるはずのない名前であり、石野真子ちゃんはトルコ「ハリウッド」のホステスであるという時点で現実の石野真子の確定記述とは無関係であり、『カール・マルクス』に至っては、場面により『カール・マルクス』たちになる始末だ。

「ヘンリー4世」、「ヘーゲルの大論理学」、東京拘置所。

続いてこれらの固有名は、それぞれ固有名として別々の背景を象徴している。例えば「ヘンリー4世」は『さようなら、ギャングたち』、『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』において飼い猫として登場する。もちろんその名前の由来はイングランド王であり、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世』に登場する主人公の名前だろう。しかしこのように現実と想像の狭間で猫に人間の名前を付ける想像力は、愛子内親王が飼い猫にニンゲンと名付けた想像力と似たような力学を有していると言える。また「ヘーゲルの大論理学」は書籍名だが、『ジョン・レノン対火星人』においては登場人物名として使用されている。その内容に着目するならば、世界の全体性を一つの書籍で表現しようとし、その限界性に抵触している部分に高橋との共通項を見出だすことができる。さらに東京拘置所に関しては、高橋の失語症の原因となる原体験の場として、高橋の人生に大きな影響を与えた固有名である。つまりこれらの固有名は高橋が現実に触れてきた世界と多かれ少なかれ関わりがあると考えられる。何故なら全く知らない固有名はそもそも書くこと自体が不可能だからだ。その意味において固有名の数と現実との乖離がそのまま高橋が想像可能な可能世界に接続している。まとめると、高橋はこれらの固有名からどこまで飛躍して可能世界へと拡張することができるかを、初期三部作を通じて試していると言える。

「くに」、「こっき」、「憲法」。

ここで初期三部作において固有名を通して可能世界を探求していた高橋が、その後どのようにその概念を拡張していったかを検証するために、『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』から気になる固有名を三つ挙げてみる。するとこれらは一般名から作られた固有名であることが分かる。どういうことかと言えば、これらの言葉はそれぞれ国、国旗、憲法という一般名から由来していることは明らかだが、それらの言葉と完全に一致しているわけではない。まず形式的には国と国旗が平仮名になっており、また全ての言葉に「」や『』が付いている。そもそも小学生が「くに」や「こっき」を作るという発想、また「憲法」が家や学校のルールとして語られる部分があることから見ても、高橋はここで一般名としてではなく、固有名として可能世界の「くに」、「こっき」、「憲法」を作ろうとしていると考えることができる。このような固有名の性質を一般名にまで拡張しようとする試みは、自然種という留保付きではあるものの、クリプキが『名指しと必然性:様相の形而上学と心身問題』の第三講義で試みたことと一致することも指摘しておきたい。

最後に『さようなら、ギャングたち』の第一部は名前について、さらに具体的に言えば固有名の命名儀式についての話から始まっている。そこで主人公と恋人が互いを中島みゆきソング・ブック、さようなら、ギャングたちと命名し合う様子は固有名に対する神話を象徴していると解釈することができる。一方で、固有名を持つ人間に対する暴力性、死はその固有名の神話に対する疑念を象徴しているとも言えるだろう。初期三部作は私小説として自分の人生を含めた世界で起こってしまった歴史についての高橋なりの可能世界 = 反実仮想の提示でもあるが、『さようなら、ギャングたち』におけるこの二つのアンビバレントな象徴は、意味から指示へと表現を移行する際に伴う亀裂、痛みを見事に描ききっている。また初期三部作を通して高橋の試みが否定神学として終わったのか、郵便的な誤配空間を構築できたのかどうかは、文脈を解釈する回路としての読者の問題でもある。『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』で高橋は、「『詩』とは何か」について質問されると、長篇小説で答えるしかないと語っている。一方で高橋は『日本文学盛衰史』で近代の日本文学における歴史の要素を全て混ぜ合わせたような小説を書いている。これらの試みは「一は全、全は一」の思想を体現していると言えるが、今までの議論を踏まえた上で言い換えるならば、高橋は全体性(可能世界を含む)から固有性、固有性から全体性への反復運動を書くことで思考し、実践していると言うことができるだろう。高橋源一郎は小説家であるが、同時に小説家でなくても良い。彼はそのような可能世界をただ書き続けているのだ。

主要参考文献一覧

東浩紀(1998)『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』新潮社.

クリプキ, ソール A.(1985)『名指しと必然性:様相の形而上学と心身問題』(八木沢敬・野家啓一)産業図書.

高橋源一郎(1984)『虹の彼方に:オーヴァー・ザ・レインボウ』中央公論社.

———(1985a)『ジョン・レノン対火星人』角川書店.

———(1985b)『さようなら、ギャングたち』講談社.

———(1985c)『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』JICC出版局.

———(2017)『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』集英社.

文字数:4994

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