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翻訳された言語は苦しみから生まれているから読みたくなる

翻訳は遅れてくるもの、それは原理的に当たり前だ。

誰でも知るように翻訳は元の文がなければ存在しえない。

定義を確認する為に辞書を引いてみる。

ある言語で表現されている文を、他の言語になおして表現すること。またそのなおされた文

スーパー大辞林3.0 編者:松村 明

つまり元々何かしらの言語で表現されている文=「対象」が前提としてあるわけだ。

ではこの前提を破壊して考えてみよう。

前提がない場合(「対象」自体が存在しない)は翻訳という行為は存在できるのだろうか?

前提がない状態の翻訳とは、言い換えれば「ある言語で表現されている存在しない「対象」を他の言語になおして表現するという行為」となる。

存在しない「対象」とは視点を変えて考えれば、要は我々が知覚できない「対象」ということに過ぎない。

それはカントが「物自体」という考え方を言ったように「対象自体」は存在しているにも関わらず我々がその存在を発見できてはいないだけなのではないだろうか。

つまり、この世界は我々に知覚できないものは存在しないと決めつけてしまっているだけの状態なのだ、いわば世界(仮)の状態にすぎない。

その世界(仮)から少し離れて世界を考えてみると実はこの世界(仮)のどこかに表現されている文が見つかるのではないか。

それはどうすればいいか。

つまり世界の言語を知覚できる人間に世界(仮)の我々にわかるように翻訳をしてもらえばいい。

これには特殊な能力を持った人間を必要とする。

見えない文が見え、聞こえない文が聞こえる人間が必要なのだ。

普通の人間には知覚できない「対象」を知覚することができる、それは一体どんな人間か。

これは現代的に言えば「幻聴」や「幻覚」の症状がある人間のことだ。

これは今の時代、統合失調症という病に当てはまる症状と言える。

彼らには見えない電波が見えたり、神のお告げを聞いたりすることができる。

重要なのはそれは彼ら自らが物語として文を作り出しているわけではないということだ。

彼らは実際にそこに存在しているリアルな文を知覚しているにすぎないのだ。

彼らは彼ら自身がそのまま知覚しているリアルな文を我々が知覚できる言語になおして翻訳しているにすぎないのだ。

しかし問題なのはそれは我々の言語にはなっているがその存在自体が存在しているのかどうかは判明が不可能という点だ。

存在しているかもしれないオリジナル、彼らはそのオリジナルに触れることができる。

我々は当然オリジナルを把握することはできず、我々の言語になおされている文にしか触れることができない。

しかしそれは彼ら自身の感覚として存在している。

このような一般人には知覚できないような感覚を神秘と言ったりする。

現代はその神秘性を病として押し込めているが少し昔の時代は様相が違った。

むしろその神秘性は神の使いだと称えられ賞賛されてきた。

その神秘性を能動的に手に入れようとする文化が存在していた

オリジナルを聞き我々の言語に翻訳してくれる。

例えばそれはシャーマンだ。

幻覚キノコの使用は、シベリアのフィン系ウゴル族のあいだでは、アルコール飲料の導入以前から広く行われていた。カムチャッカ地方出身の踊るシャーマンは、おそらくはこのキノコに誘発された猛烈なトランス状態のなかで歌を歌い太鼓をたたく。

クルティエ「精霊よ、精霊よ」11

つまり幻覚キノコを使用しそこに能動的に近づこうとするからこそ手に入るのだ。

オリジナルを感覚的に理解する為には狂気の世界へと足を踏み入れなければならない。

それはそれまでの自分の感覚を極限まで揺るがす行為だ。

オリジナルの言語に近づこうとする行為は自分の安全性を破壊していく危険な行為だが、だからこそオリジナルに迫ることが可能となる。

翻訳された言語とは狂うかもしれない危険を通り抜けた末の言語なのだ、だからこそそれを読む人はそれを楽しむことができる。

オリジナルをそのまま把握できる人間はそのまま知覚として受け取ることができるが、その危険性は翻訳された言語よりも薄い。

オリジナルを知覚的に把握したい欲求こそが翻訳という行為をよりスリリングにしている。

 

 

 

 

 

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