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地形をつくるワークショップ

濱口竜介『ハッピーアワー』に、小説家のこずえが短編小説作品「湯気」を朗読する朗読会の場面がある。この短編小説はこずえ自身が有馬温泉に滞在して作成している。小説中の主人公が好きだと思っている相手は、小説家であるこずえの担当編集である拓也と重ねられているようだ。拓也は実際に有馬温泉で執筆中のこずえを訪ねていて、その際妻である芙美を含めた主人公の女性4人と来ており、拓也・こずえと主人公4人は温泉街で川を隔ててすれ違う。小説では拓也と重ねられる男性を含めた一行は地質学調査の合宿で有馬を訪れていて、主人公は直接の学問上の関係ではなく友人の誘いで同行している。断層の調査に行くという文章が読み上げられる。

朗読会の後のトークと打ち上げで、こずえの作品に関する感想が語られる。科学者である公平(主人公のひとりである純の夫)はトークで、こずえが見たものを捕まえようとせず通り過ぎるに任せる点とそれが実感に近い形で記述されており自らが移入できる点を褒める。打ち上げで、主人公のひとり桜子は、有馬温泉旅行という同じ時間に同じ場所を見ていたにも関わらず豊富な記述となっているこずえの小説を通して、自分は何も見ていないのかもしれないと思ったという感想を述べる。公平はこずえの恋愛描写が本当の恋愛を知らないように思えると述べる。拓也はこずえがまだ見ていないものは多いと同意しつつ、見たものを記述するこずえの能力に期待していると述べる。

濱口竜介は地形を調べるようにして人間関係を記述しているのかもしれないと思う。それは理性による合理性だけで捉えられない自然環境と人間をそもそも同じものとして調べて表現する試みのように思える。そしてその際にホラー映画に代表される映画の技術を使うことで、現代の日本の私たちを問いの空間へ導いている。

  • 地形について

こずえの小説に現れる一行が断層に関する地質学調査を行っていることに注目したい。濱口竜介作品では、象徴としての地形と創作方法としてその調査方法と同じ手法が用いられている。こずえは、鳥瞰図のように離れた上空から対象を全体を見て、それを記述する役割である。そしてそれはその対象自体と相容れない見方である場合がある。公平が、こずえは恋愛を見ていないというときの彼の立場は、彼が科学者であるのが象徴するように、因果関係を理性で追及するということである。しかしその態度が純を公平から遠ざけていると芙美・桜子は言う。彼女たちは触知的に純のことを知っているという立場だ。

断層は地震を引き起こす地形で、我々の自然災害に対する不安の対象である。そしてその不安には自然への畏怖も含まれる。断層との距離で、濱口竜介作品の男性キャラクターをスペクトル的に位置づけることができる。『寝ても覚めても』の麦と、『ハッピーアワー』の鵜飼、そして『寝ても覚めても』の亮平を考えてみる。麦は、断層そのものとして描かれているだろう。理性的な判断基準では、理解することが出来ない行動をする。『寝ても覚めても』では、朝子はその麦に当然のように惹かれる。そして突然社会的な関係を壊しにやってくる。地震が学術的に研究されていても、私たちの社会生活がそれと関係なく動くしかなく、また壊されてしまうように。鵜飼は、断層を見てしまって自ら断層になりつつある者なのだろう。鵜飼は東日本大震災の被災地で瓦礫を立てるという行為だけを行ってきたと自己紹介する。そこで体得した重心を取るという身体を元にして活動を行おうとしている。しかし彼がそこで見たもの・今見ているものはこちらからは分からないようになっている。彼は自分が得たものを伝えようとしているが、それは社会的な正しさと相容れない、破壊的なものなのかもしれない。麦と鵜飼がクラブという場所と結びつけられていることも象徴的だ。麦には迷いが無く、クラブで朝子に近づいた男を何の感情もなく蹴り飛ばす。一方鵜飼は、あかりを地下に向かわせるが、自分自身が迷っている。明らかな未成年者がいることを発見する。あかりと共に地上へ出ていく。『寝ても覚めても』の亮平は、もともと断層と関係なく社会生活を成立させている。震災に直面するが、その際は周囲の人間関係が親密になることで助かる。しかし、朝子が麦と共にどこかへ行ってしまうことが彼の断層となる。断層を見てしまった者として、彼は憑りつかれて、また彼自身が幽霊のようになってしまう。『寝ても覚めても』で映る川をテーマにしたtofubeatsが『river』を書くとき、川の成り立ちについての本を読んだという話も、濱口竜介作品が地形とその調査方法を用いていることが感染した結果だろう。

 

  • ホラーの技術について

濱口竜介が黒沢清の教育を受けていることが納得できる場面が多数ある。そしてホラー映画の技術を使って、私たちの注意を映画内のフィクションとしての恐怖の対象ではなく、現実の中の分からなさに志向させ、持ち帰らせることを行っている。

戸田山和久『恐怖の哲学 ホラーで人間を読む』は、ホラー映画を観て感じる体験をもとに、現代研究されている恐怖についての学問紹介をしている。ダマシオのソマティックマーカー仮説が、恐怖の役割を現代的に捉えた論として紹介されている。情動は理性とは別の一つの合理的な判断なのである。そしてホラーはその情動の側を扱うフォーマットを持っている。ただしその情動の向かう先は様々に制御可能である。例えば黒沢清の『トウキョウソナタ』で健二が階段から滑り落ちる場面と音。ホラーの表現であるが、それは現代日本の家族という社会関係の中から起こった破壊であることが分かる。『ハッピーアワー』においても、人が倒れる音が聞こえる。これは恐怖の情動を引き起こす。しかしそれがフィクションの中の心霊のためではないことがストーリーから分かる。それにより私たちは登場人物たちの行動やその履歴、また現実の私たちの行動やその履歴にその音の元を探し始める。『寝ても覚めても』では、麦と去った後亮平の元に戻った朝子に、急に亮平が声をかけ罵倒する場面がある。亮平の出現の仕方は表現においては幽霊そのものだ。しかし彼は幽霊ではない。それによって私たちは現実の人間や人間関係の分かり切れなさにその理由を探し始める。

 

(『ハッピーアワー』のブルーレイを鑑賞し、特典映像であるインタビュー集を見ている最中に眠ってしまった。その際に見た夢から着想した文章である。夢ではバックミンスター・フラーのジオデジック・ドームのような立体の面に古いシミュレーションゲームのような地形の図を書き込むことで地図を作るワークショップが行われていた。参加者は、格子のひとつひとつに川や海などの水辺の地形の図や、茶色い山、底が見えない黒い谷などをマッピングしていく。ワークショップに遅刻した男が到着して、出来上がっている妻の地図を見て呆然とする。)

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