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内藤礼作品日本の問題は残ったが、素材性と構造は有った

展評:内藤礼「明るい地上には あなたの姿が見える」 水戸芸術館

内藤礼という作家に対して、アーティスト彦坂直嘉が書いた評論がある*1。彼はラカン派の精神分析に立脚してアートを分析するため、<<想像界>>・<<象徴界>>・<<現実界>>の三界に分類することから始めて(内藤礼には<<現実界>>のみがあると分類される)、ミロのビーナスを反例に挙げ、砂漠の中にミロのビーナスの断片があっても意味のある作品だと気づく一方で、内藤礼の場合は誰も気づかないと言った。確かに、砂漠の中の内藤礼の個々の作品を想像するのは難しい。しかしそれは、彼女がゴミみたいなレディメイドのマテリアルから出発するしかなかったからなのだし、インスタレーションとして、芸術だけでなく科学的な探求心につながるような個人的発見と、そこに宗教的な体験の起源を再現させるような製作をしているからだといえる。さらに、そこにはカント的な感性以降の認知心理学的な人間の知覚に関する作者のアプローチも見て取れた。

水戸芸術館の今回の個展は、過去作品を集め、人口照明は無くし自然光のもとで提示するという構成だった(展示構成や内部の写真については、美術手帖ウェブサイトのレポート*2やCasa Brutusウェブサイトの記事*3を参照)。8つの空間に区切られており、自然光が取り込まれている部屋と、取り込まれていない部屋および通路がある。順路としては、以下のように通る。

  1. 天井から自然光が入る部屋
  2. 自然光が入らない部屋 、両隣の部屋から光は漏れ入り、6の通路と繋がっている
  3. 天井から自然光が入る部屋
  4. 自然光が入らない部屋 、両隣の部屋から光は漏れ入り、6の通路と繋がっている
  5. 天井から自然光が入る部屋
  6. 自然光が入らない通路
  7. 自然光が入らない部屋、隣の8と直接行き来はできないが、窓が空いており、光が漏れ入る
  8. 展示会場入り口の天井と窓で繋がっており、自然光が入る部屋

まず作品体験全体の設計に関して述べる。水戸芸術館現代美術ギャラリー(設計:磯崎新)という場所を上手く利用した展示となっていた。暗い部屋の2と4がほぼ同じような作品配置になっていることに注目したい。これはデジャヴを体験させるよう構成されている。1と3の明るい部屋で異なる作品を鑑賞した後になるため、同じ部屋に戻ったのではないかという錯覚を生み出すようになっている。明るい場所と暗い場所、これは人の心的な状態にも影響を及ぼすため、それを交互に体験したときに人はまた、同じ場所に帰ってきたと考えがちなのではないかということ。当然心的状態でいえば、双極性障害の設計の試みとも読み取ることが可能だ。さらに、隣の自然光が漏れ入る部屋の壁に設置されたガラス板の作品と、自然光がほぼ入っていない6の通路にあるガラス板の作品もほぼ同じ形をしており、順路とは関係無く見ることができるようにになっている。つまり対象構造として把握させるよう構成されている。これは通路と部屋の中間の位置に、二つのガラス瓶を並べた作品(「無題」)が置かれていることからも、意図されたものだと分かる。

次に各々の作品について述べていく。鑑賞者の深読みによって成り立たせてしまっていてその内実は何も無いというのが、先の彦坂の評価だが、それは芸術作品という観点に狭められすぎた鑑賞態度ではないだろうか。インスタレーションとして鑑賞者の読みを設計しているという点と、そこにマチエールもあるということが分かったし、体験設計と同様に人の認知の構造への視点を見ることができたため、芸術作品のみを考えていない作者の製作態度には、意義があると思う。

まず鏡の配置が気になる(「世界に秘密を送り返す」)。3の部屋の、人の背の届かない高い位置に合わせ鏡が配置されている。なぜ気になるのだろうか。私たちは、合わせ鏡という現象を知っている。しかし、合わせ鏡で無限に増殖する像を見るためには、自らが正面に立つことはできず、すこしずれた位置から見る必要がある。そのずれもまた増殖していくため、結局私たちは無限の像そのものを見ることができず徐々に消えていく視覚だけを持っている。完全な合わせ鏡は想像の中のものとなる。自然光が入らない2と4に置かれた「窓」および通路側の同作品にも、小さい合わせ鏡が配置されている。舞台芸術批評家の稲倉達がブログに書いているとおりだが、この作品の合わせ鏡には、自分が入る隙間がない。自分という個人が間に入ることで、色々なものが隠れてしまう。これは近代的な自我やナルシシズムを表している。そこで今度は自分の存在をずらして小さな鏡を覗き込むと、今度は女性達の顔や体ばかりが鏡越しで眼に映る(「よろこびのほうが大きかったです」)。これは前近代的な人(筆者の性別の場合は男性性も含まれる)のあり方を表している。

次に気になるのが、壁のガラスに映る反射である(「窓」)。明るい部屋の太陽光で反射した風船や毛糸の玉(「ボンボン」)は、実物は自然光によりクリーム色に見えるのに対し、ガラスに映った像は恐ろしいほど白く見える。また、吊っている糸が反射では見えづらい。幽霊を見ているように白く浮き上がって見えるということだ。この作品のガラスは色ガラスになっており、赤味を吸収するようになっているようだ。逆に暗い通路側で反射するそれらは、真っ黒く見える。この作品の色ガラスは、素材によって作品の効果をもたらしていることから、マチエールを扱っている。また、対称と対比という構造を眼で見たときに何か面白そうなもの、意味がありそうなものを発見するという体験を鑑賞者に促している点は、芸術と科学が分かれる前の体験を設計し、それが宗教的体験とも同じではないかということを鑑賞者に問いかける作者の現在の考えを見ることができる。さらに、現代においてそれが設計されたいうことには、認知心理学の視点も含まれている。

6の通路にも、シンメトリー構造がいくつも提示されていた。7の部屋に入るときも、なんだか眩しいなと思うと、鏡が置いてあり足元を反射していた。そこに彼女は「おいで」と書いた小さい紙を置いている。言語的世界にはなんの法則もないが、その際改めて科学で見れば法則があり、それに愛されていると思うような状態。8に置かれた最後の作品は、もう一度自然光のもとでクリーム色に戻った丸い綿だった。

シンメトリーは、宗教的な建造物や作品に多く現れるものだ。これを私はGerda Steiner & Jorg Lenzlinger の「Gohost Saterllites」 (2012年, キナーレ) と比較したい。「Gohost Saterllites」は、新潟県十日町市の歴史を読み取った作者が、日本の工業化からも商業のグローバリゼーションからも取り残され、そこにゴミとして残った素材を再構築した作品である*5。この作品の再構築の方法も、やはり対称構造と対比構造となっており、まさしく仏壇に置かれた物のような宗教性を見せる作品になっている。内藤礼が作家として認知された時点も、時代で言えば日本のバブル崩壊後である。やはりゴミやジャンクばかりが身の回りに残っており、その中でどのように人生を考えるかとした際に、人が宗教的体験をすることや、美というものを考えること、科学的探求を始めること、そういった場面を再現することに立ち戻ったのだろう。

 

作品の中にはもちろん、筆者が読み切れていないものも残っているだろうし、作品自体から特に読む物が無いと思えるものもあった。これは残念に思った。最初の作品は、豊島美術館のインスタレーション作品と同じタイトルの、「母型」となっていた。豊島美術館の作品の素晴らしさは、その場に入った最初に動きが見えた際の、なんかゴキブリとかネズミみたいなのがソロソロと這っているように見える点にある。上野不忍池で一晩すごしたり新宿で夜を明かして朝日の中で道をあるいていたりすると、うわっ、と叫びたくなるような小さい生き物がうごめく感覚だ。しかしそれが水で、湧き上がっては流れていく構造だとすぐに気がつく。気づいたとき、この人は自然現象を自ら作りたいのだとわかる。そこには確かに緑色の虫も歩いてきたりしていて、空の色も写っていた。そのため、今回の<母型>が何を再現しているのか、私には分からなかった。水の形だけというならそれは残念だ。また、「ひと」と名付けられた小さい人形は、あとから調べれば東日本大震災の後たくさん作るようになった作品と分かるが、その場でみて特に興味深いものだとはいえなかった。さらに、帰りの通路ではスタッフが作品の絡まった糸を解いたり色々と忙しそうな姿を見た。白鳥の水面下の足が忙しそうな、日本人の仕事という感覚。河合隼雄が「中空構造」と名付けていた、その中には何もなく読みだけを誘うものという感覚。ひたすら積極的な読みを誘発しながら、何も無いということ。「禅」が、なにかにつけてツッコミを入れられる存在になる原因でもある。

しかしそれで何が悪いのだろうか?宇宙に彷徨って生命も尽きると分かったときに、何が頼りになるか。その時の暇つぶしとして幼児期の体験を思い出す、ということなどを想像すると良いと思う。また、マチエールとしての色ガラスについては、ニュートンの分光学とゲーテの色彩論の対立を思い出すとよい*5。分光学は科学として美術に影響を与えたし、生物学・解剖学で明るい場所ではたらく視細胞がRGBの三種類だという発見から、印象派の筆色分割も生まれた。これは、筆者が小さい頃テレビを吸い込まれてしまうように間近で見ていた経験から生まれた共感でしかないかもしれないが。しかし、読みこむことで同時代を生きている作家だと思えることは、現代美術が時代と鑑賞者によって作られるという意味で間違った鑑賞法ではないと思うのだ。

*1 https://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/2010-01-13

*2 https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/18181

*3 https://casabrutus.com/art/82579

*4 http://d.hatena.ne.jp/Andrey_2Ko/20050523/1268981725

*5 https://www.steinerlenzlinger.ch/?cat=42

*5 「虹の解体」リチャード・ドーキンス

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