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タコツボから何か聞こえるか

2018年8月下旬。平成最後の夏が終わるのだという。日本における元号で、平成は1989年に始まった。この前は昭和、この次の元号が決まっているのかはよく分からない。「興味ない。元号などというローカルルールは廃止で結構では。」という声も聞こえる一方、日本企業の職場では相変わらずちょっとした予想とかが始まるのだろうし、発表されたときに何か面白い話にして皆で笑う瞬間とかが来るのだろう。ネタ的コミュニケーションは終わらないのだ。しかし平成は終わるということで、様々なメディアで総括をしようという流れが見えている。ポップカルチャー(大衆文化)には、大衆がその時代の世の中をイメージした事象が現れる。では平成年間の人々や、社会のあり方がもっともよく描かれている作品や事象は、何だろうか。はじめに、それはコンテンツでは無いはずだ。現在の時点から眺めてしまえば、日本における大衆の消費の欲望は平成のはじめから既に大きな物語を失っていて、個人的な嗜好を突き詰める方向に進んできたことがわかるのだから。さらに、消費の欲望から二次創作的なコンテンツを生み出すようなアーキテクチャが時代のポピュラーカルチャーを現した時代も経てしまったのだから。これは消費のポストモダン化であり、タコツボ化である。タコツボや、タコツボに向かう過程だった作品やその消費の形態それぞれが時代を現すとは到底、思えない。

平成という約30年はどんな時代だったのか。例えば1969年から2000年とはどう異なるだろう。ポップカルチャーで言えば、1969年はウッドストックというフェスが行われて、音楽と政治の結びつき、皆が、このエモーションで世の中を変えられると信じた年だ。ヒッピーカルチャーは最高潮と思われたが、後から見てみればそれはその時代の共同の思いの終着地点だったようだ。もちろん補助線を引いてみれば、その流れの前段階には日本の禅がアメリカに輸入されたこと、ビート・ジェネレーションによるそのリスペクト(若干ゲロにまみれていたようだが)、カウンターカルチャーとしてヒッピーとの合流がある。その流れの後には、LSD体験で啓示を受けた経営の天才が、電子計算機を身近でおしゃれなものにして、いま私たちのポケットの中で光っているとも言える。最近は10代のガラスのハートみたいに壊れやすく割れやすい、ダイエットしすぎたような、こいつ。

こいつ。スマートフォンのことだが、ではこのデバイスは果たして日本の平成を見てきただろうか。iPhoneの日本発売は2008年だ。後半3分の1しか過ごしていない。ではデバイスをもっと振り返ってみるとどうだろう。今では「ガラパゴスw」と言われているケータイ。やはりこれも大衆のものとなって20年くらい、前半3分の1を一緒に過ごしていない。ワンセグでテレビ見れたりしたんだ、というか、ケータイでテレビ見たかった頃とかあったんだ、という所には、メディアの変遷において残像が常に残るようなイメージ、つまり過去皆が慣れてきたものが次の時代のデバイスにも若干滑り込み・映り込みをしているという、運動の軌跡が見えると言えそうだ。20年前くらいにも、ウッドストックは開催されて(*1)、それは商業主義と暴動のイベントだった、とされている。商業主義というもの。スマートフォンもそうなのだが、インターネットの分野ではこの商業主義の楽観性が個人の嗜好をうまく捉えたり、情報を個人的に上手く取り扱えるようにしてきた。現在のAIブームに繋がっている。音楽の消費に関しては、ここ数年でサブスクリプションサービスが隆盛を迎えている。データで音楽を聴くようになったのはどのあたりからだろう。iTunes、の前に様々な方式のシェアリングサービスもあった。それだってまだ10年前の話だけれど。

タコツボ化、という言葉に戻ろう。筆者自身はこの言葉を、サイエンスの教育を受ける過程で聞いた。しかしそのサイエンスというのも、既存の専門性にとどまってはいけない、総合的に学問をしなおそう、という理想からその時代に生まれた変わった名前の学部で受けたもので、今からみるとそれも一つの時代を現していそうだ。アカデミアにおいて既存の学問はすべてタコツボ化している、新しい知はそうではない部分から生み出さなくてはいけない、ジェネラリストになれ、そのような薫陶を受けてしまった。音楽家の菊池成孔は料理に関してもSNS化と消費のオタク化、タコツボ化が起こっていると語っている(*2)。アカデミアがタコツボ化を抜け出すプランの成果を出すことができたのかは、まだ分からない。結局、大衆の消費だけでなく、教育や、広げてしまえば人とのつながりの感覚すら、タコツボ化が日本の平成の終着点のように見える。蓋つきのタコツボの蓋も閉じていきそうだ。

あーつまりもうどういうことだってばよ。タコツボに入る前のタコ(タコは進化的には貝に近い。だからもともと殻にこもってたのだ、ということは置いておく)が皆で夢を見た時点、ここは何かの事象が見たのだろうか。ポケベルなんてもう鳴らない。シーソーゲームしてるつもりのあなたのLINEはスクショされて皆に笑われてる。RealなEmotionは不気味の谷の際くらいにいるアンドロイドが見せてくれそうだ。もう、メルト。溶けてしまいそう・・・

「あれ、お前それ歌えるの?」

「あなたあ、古い歌知ってるねえ、デュエットしよお」

再度確認すると、ポピュラーカルチャーは大衆文化であり、ユースカルチャーとは異なる。平成全体を見たそれなりに高い年齢層がこの国には多い。バブルという分かりやすい夢が儚く終わった残り香で、もう少しの間同じものを見てると信じさせたような事象。その後のオタク化で少しずつグループはわかれ、その結束を高めるような機能を持った事象。アンドロイドの歌声を逆に挑戦ととらえて、技術を磨いた場所。ついにはただ一人で技術を磨き、一人の夢を強化するようになった小さな箱。怪しげな赤い光と装飾の店で最近になってまたデュエットが行われているようなもの。

カラオケである。平成を現すポップカルチャー的事象とは、カラオケであった。

生まれたときには昭和に残された歌が歌われた。通信技術による配信で、皆が聴いてるJ-POPのヒットチャートがやってくるカラオケボックスという場所が出来た。アニソンを歌うグループや、洋楽に流れるグループ、まだヒットチャートを追いかけるグループ、などができた。ボーカロイドの曲を人の声で歌ってみる文化ができてきた。一人で行く人が増えてきた。歌ってみた、演奏してみた、・・・。カラオケは、少なくとも日本の平成の音楽文化すべてを見通したといってよいだろうと思う。

SNS社会は、このようなタコツボ化したのちの人々から熱い歌声が急に聴こえてくるような場所になっている。この歌声達に、共通するものが何か見える日はくるだろうか、平成以降になれば。

 

*1 ウッドストック1999 https://www.udiscovermusic.jp/features/woodstock-and-beyond

*2 「菊地成孔の北欧美食巡り総括 タコツボ化した東京の食事情を問う」 https://fika.cinra.net/article/201802-kikuchinaruyoshi

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