印刷

時空間をかき乱すかき混ぜ棒としての翻訳

「若い読者に大友克洋の漫画を勧めると、『なんですか、これ。既視感のあるパクリばかりじゃないですか』などと言った」という例示とともに「先取りの剽窃(le plagiat par anticipation)」という言葉を読んだとき、何の問題があるのだろう?普通のことでは?という考えが脳裏をかすめた。時間的に先行する作品が、後続する作品をパクったという表現は確かに過激であり、先行作品を愛する人たちから反感を招くことは十分理解できる。だけどこういう感覚を持つこと自体に対する違和感が、びっくりするほど私にはなかった。

なぜなのだろうかとあーだこーだ考えていたら、主に二つのこと、創造過程と作者・読者の二重の時間性による、創造連鎖へのポジティブな期待に由来するのではないかと考えるに至った。

 

外部環境との相互作用からしか生まれ得ない創造

作者(一人でも複数人でも)の頭の中にあるものが、何か目に見えるものとして形になったとき、創造物が生まれたということができる。創造物が小説であれば、ほかの人が理解可能な形の文章ということになる。頭の中にあるものは五感を通じて獲得されていく。何かを読んだり、聞いたり、見たり、他人と会話したり議論したりすること、つまり外部環境との相互作用を通じて増幅されていく。そもそも言語も他人から学習していくこと、また、外部とのかかわりなくして生きていくことはできないということを考えれば、何の相互作用もなく、頭の中に文章が生まれていくということは原理的にありえないだろう。

このような創造過程の原理を考えると、どんなに世界観をまるごと変えるようなパラダイムシフトを起こした創造物だとしても、それを可能にした、多数の小さな創造物の連鎖があったからこそ生まれているということを感じてしまうようになる(天才による創造という物語は魅せられるし好きではあるけれど、天才一人への過大評価は幻想ではないかという思いを強く持つようになってしまう)。

 

歴史時間と読者時間の二重性

古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人であるソポクレスの『オイディプス王』と、精神医学者ジークムント・フロイトの「エディプス(オイディプス)コンプレックス」を題材に、相互作用の時間軸について考えてみたい。

創造物は、その誕生年月を時系列に並べることができる。これをここでは「歴史時間」と呼ぶことにする。歴史時間という観点で見れば、『オイディプス王』と「エディプスコンプレックス」は明らかに前者の方が先行しているといえる。実際、フロイトは母親に対する近親相姦的欲望を、父王を殺し自分の母親と結婚した物語である『オイディプス王』になぞらえて命名するというように影響を受けている。

しかし、この二つの創造物を受け取る読者(未来の創造者)側は、この歴史時間の順番に読むとは限らない。読者の読んだ順番という意味でここでは「読者時間」と呼ぶことにする。読者時間という観点で見れば、「エディプスコンプレックス」から読み、『オイディプス王』へという流れは十分にあり得るし、このような読者は、『オイディプス王』に対して「先取りの剽窃」の感覚を持つかもしれない。実際、フロイトがエディプスコンプレックスという現象を命名するまで、『オイディプス王』を子どもにとって普遍的にある母親への欲望の物語であるというような観点で読む人はいなかったわけであり、影響の時代的転倒のきっかけをつくっている。そして読者時間的観点から見れば、歴史時間的に過去から現在へだけでなく、現在から過去への影響は日常的に起こっているとも言える。

 

ピエール・バイヤールはなぜ「先取りの剽窃」を提示したのだろう?

創造物同士の相互作用から新たな創造物が生まれ、歴史時間と読者時間の二重性により、その相互作用は過去から現在だけでなく、現在から過去へも普通に起こり続けている。そしてそのような創造物の連鎖を私はポジティブに期待しているゆえに、冒頭で示した「先取りの剽窃」に対し違和感を感じなかったのだろう。

この「先取りの剽窃」という言葉の提唱者の一人はピエール・バイヤールとのことだが、彼はなぜ、ある意味あたりまえとも言えるような言葉を提唱したのだろうか。『le plagiat par anticipation』というそのものズバリの本を彼は書いているが、残念ながらフランス語を読めない私としては正確なところはわからない(翻訳が望まれる!)。しかし彼は、『読んでいない本について堂々と語る方法』という本も書いている。その中で、過去の作品に没頭しすぎると読者の個人的宇宙から遠ざかる危険があるため、書物にあまり拘泥せずに創造者になるよう読書する(読まずにコメントする)ことを勧めている。

ここから言えそうなことは、読書を神聖視する必要はないというにとどまらず、古典や過去作品を神聖視するどころか過去作品こそ現作品を剽窃しているんだくらいまで言ってしまうくらい創造的に読書をしてもいいんだ、むしろそれくらいしてまで創造者を増やしていきたいんだという、ピエール・バイヤールの思いがあるのではないだろうか(本を読まずに好き勝手言ってしまっても彼的には許されるだろう)。

 

先取りの剽窃を促進することこそ翻訳の意義

翻訳というのはあたりまえのことだけれども、原作があるからこそ存在することができる。また、Aという原作の文章に対してBという翻訳をしたとき、Bを翻訳し直せばAになるということはほぼない。Bという翻訳は、原作が書かれた時代背景の資料等からAをどう解釈し、これからの読者に違う言語で伝わるよう、翻訳時の時代状況に影響を受けている翻訳者が、過去と現在の相互作用を通じて表現を創造していく。翻訳は原作よりも必ず遅れるという特性上、歴史時間と読者時間の転倒を促進しやすく、翻訳時の時代性がほのめかされていく。

先取りの剽窃という言葉はネガティブなイメージを持ちやすいが、今回考えてきたように、後続作品が先行作品に対して新たな観点を創造的に提示するというのは、文化を超えた対話を促進することを期待されている翻訳においては、むしろ積極的に促進すべきことではないか。そしてこのことは、時系列的に離れている古典新訳に対してとくに顕著になる。すでに翻訳があるものを新たに翻訳することになるため、必然的に新しさの提示が求められる。文章を現代の人にも読みやすくするという側面もあるのだろうが、物語の内容自体が変わるわけではないため、それだけでは新訳する意義は弱い。だからこそ、これまでの翻訳では提示できていない新しい観点、それこそ、原作や旧翻訳が先取りの剽窃をしていたと言い切ってしまうくらいの観点を、翻訳者は原作の内容を変えずに提示することが求められているのではないか。『風と共に去りぬ』で言えば、スカーレットが希望の地として故郷であるタラに戻るという「地方創生」の物語を剽窃したように。

 

参考文献

  1. ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』、筑摩書房、2008
  2. 鴻巣友季子『翻訳ってなんだろう?』、筑摩書房、2018

文字数:2892

課題提出者一覧