欲望の欠如にどこまで介入できるか【冒頭部分】
序
その作品は、かつて例に見ない反響を呼び起こした。多くの読者は『コンビニ人間』の主人公に共感することはできなかったが、文句なく面白い小説であるという感想を述べた。ある評者はこの作品には「自意識のドラマがない」(1)と言い、別の評者は「(主人公からは)自己愛さえ、きれいさっぱり消えてしまっている」(2)と指摘した。だが、この作品に対しては「この人間世界の実相」が、つまり「現実が、見事に描き出されている」(3)という評価が与えられ、同作は2016年に芥川賞を受賞した。つまり、読者は作中の主人公に感情移入することはできないのだが、描写されていることは「本当に起こっている」という強い実感を持つことができるのだ。村田沙耶香『コンビニ人間』はこれまでの小説と比べて、どのような点が違うのだろうか?
『コンビニ人間』のあらすじは、以下のようになっている。郊外の住宅地で育った古倉恵子は、大学一年生の時に始めたコンビニのアルバイトで18年間働き、現在36歳になった。店員にストーカー行為をしてクビになった白羽という同僚を家に泊めた際に、折しも自分の変化を望んでいた恵子は白羽をそのまま自宅に住まわせることにした。白羽の影響もあってコンビニを辞め、派遣企業の面接を受けたのだが、面接の帰りに偶然近くのコンビニのトイレに寄った時に、自分が最も望む環境はコンビニ店員として働くことだと悟り、その様子を見た白羽は恵子の元を去っていく。
以上が話の顛末であるが、主人公恵子は一連の出来事に対して、独特な言動により周囲を混乱に招いていく。
恵子は幼い頃より、周囲の大人たちから奇妙な子供として見られていることに、自覚的だった。幼稚園の時に、公園で死んでいる小鳥を手にして、泣いている子供たちを目の前に「お父さん、焼き鳥好きだから、今日、これを焼いて食べよう」と言って母を絶句させた。小学校に入ったばかりの時には、取っ組み合いのけんかをする男子を見て「誰か止めて!」という悲鳴を聞くと、スコップで男子の頭を殴って、そばにいる女子たちを泣かせた。
悲しむ父母を目にした恵子は、自分から行動を起こさないようになっていった。
こうした性格は、大人になっても治らなかった。怒るということがどういうことか分からない恵子は、周囲の同僚が怒っている時に、同じことで自分も怒った振りをすると、同僚たちが嬉しそうな顔をすると学習し、周囲の反応に安堵するようになった。ただし、いつまでたっても結婚も恋愛もしない恵子に対して、妹のミホはずっと不安を抱いていた。自分を変えなければいけないと思い、白羽を自宅に住まわせることにさせたのも、ミホをはじめとした周囲の影響があったからだ。ミホは白羽のことを聞くと、姉の恵子にもついに恋人ができたと思い込み、狂喜乱舞した。また恵子の自宅に、白羽に金を貸している義理の妹が訪れて、恵子に対して不審な目を向けた。
ミホたちと談笑していても、恵子は自分のおかしさについて怒ることなく反芻する。
あ、私、異物になっている。ぼんやりと思った。
店を辞めさせられた白羽さんの姿が浮かぶ。次は私の番なのだろうか。
正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。
そうか、だから治らなくてはならないんだ。治らないと、正常な人達に削除されるんだ。
家族がどうしてあんなに私を治そうとしてくれているのか、やっとわかったような気がした。
自分の不遇な境遇に恨みをいだく白羽も、同じような立場の恵子に対して残酷な口をきく。
「古倉さんも、もう少し自覚したほうがいいですよ。あんたなんて、はっきりいって底辺中の底辺で、もう子宮だって老化しているだろうし、性欲処理に使えるような風貌でもなく、それどころか社員でもない、アルバイト。はっきりいって、ムラからしたらお荷物でしかない、人間の屑ですよ」
問題点1 何が中心的な課題とされているのか
主人公恵子の特異な性格のゆえに、この小説に出てくるいくつかの論点を、既存の「問題」の枠組みに当てはめることは難しい。評者たちの間でも見解が分かれているからだ。
芥川賞選評のうち一人は、同作は「職場というものが、その仕事への好悪とはべつに、そこで働く人間の意識下に与える何物かを形づくっていくさま」(3)を小説化した作品であるとみなした。しかし別のところで、他の評者は「多分これは「労働」を描いていながら「労働」がテーマではないのだろう」「この作品は、恵子にとっての「家族」の物語なのだ」(4)と指摘している。
では「家族」や「女性」の問題としてとらえることはできるのだろうか。先に引用したように、結婚と出産についての白羽の辛辣なセリフによって、また物語が女性の一人称によって語られていることもあり、女性の生きづらさや家族の問題として浮かび上がる場面もある。しかし女性問題・家族の問題といった切り口だけから語るには、『コンビニ人間』は他にも多くの課題を抱えている。
この作品を「孤独」の問題としてとらえる評者もいる。物語の最後で「コンビニ人間」として生きようと決意する恵子は「普通」の価値を放棄して自分の「異物」性を受け入れる。だが恵子の覚悟は読者によって「あっけなく承認され」て、気軽に共感され消費されることにより、この作品は「孤独を保持することの難しい現代社会を象徴する事象」(5)であるとされているのだ。
では「孤独」を突き詰めると「狂気」に至るのだろうか。他人と共感することができない恵子は、確かに狂気じみた言動を繰り返す。物語の最後では白羽から「気持ちが悪い。お前なんか、人間じゃない」とまで罵られるのだが、恵子の言動を「狂気」という問題に収めるのは困難がある。恵子は物語の最後に狂気に陥るのではなく、その奇異な性格は幼少期から一貫して変わっていないからだ。
問題点2 どのようにして読者の胸に響くのか
冒頭に記したように、この作品の多くの評者は、主人公に共感を示すことは難しいとしている。怒りの感情を感じることができない恵子は、怒るフリをして周囲の安心を引き出すことにより、自分が排除されないように苦心する。しかしそうしたマイナスの感情を抱くことのできない人物描写に対して、読者はあまり現実味を感じることができない。
ではこの作品から受ける強烈な印象は、どこからやってくるのか。
引用した白羽の毒のある台詞は、主人公恵子と作者村田が同世代、かつコンビニのバイトをしているという似た境遇であることとも相まって、やや自虐的な調子を帯びるのは避けがたい。
物語が過剰なまでに自虐的/加虐的な描写を含むとき、なにが読者の情動に訴えかけるのだろうか。
『コンビニ人間』はフィクションであり、主人公恵子と作者村田は同一人物ではない。
だが例えば私小説の場合、露悪的な描写が作者=主人公の加虐性を引き立たせる場面が多いのは数多く見られる。下記にその一例をあげてみる。
女が怪訝な顔を振り向けた途端、ふと私は自分の失言に気付いたが、ここしばらく鬱積していた猜疑や内憤の流出は、もはや抑えることができなくなっていた。
「おまえが本当は子供が欲しくてたまらずにいることなんか、こちとらとっくにお見通しだよ」
「……なによ、それ」
「とぼけなさんな。おまえがはな小型犬を飼いたがったのは、取りあえず子供がわりのものが欲しかったんだろう?それがぐれはまとなりゃ、次はぬいぐるみを擬人化か。惨めなもんだな」
せせら笑うと、女は一瞬にして顔色が変わり、細い目を見開くと何か震えを帯びたような声で、
「うるさいよ!なにが惨めだよ!余計なお世話だよ!あんたなんかになにがわかるのよ!えらそうに言わないでよ!」
断続的にがなりだしてきた。(西村賢太「焼却炉行き赤ん坊」)
だが『コンビニ人間』における主人公は、これと類似した発言を受けても、全く反応しない。
攻撃的な言葉は主人公恵子を飛び越えて、直接読者の胸に刺さってくる。
しかし、作中人物が冷静に受け止めて微動だにしない場面を読みながら、読者の方だけが衝撃を受けているならば、この作品から引き起こされる感慨とは、これまでの作品とはどこか違うところがあると指摘することができるのではないか。
問題点3 どのようにして読者の価値観が揺さぶられるのか
雑誌『群像』の合評において、『コンビニ人間』が読者の価値観を揺さぶられる理由について論じている号がある。
福嶋 これは、交換可能であることの屈辱と安心を書いている小説です。それゆえ、読者の価値観そのものを揺さぶってくる。
吉村 なぜならば、我々もその両方を持っているから。
福嶋 まさにそうです。我々がほんとは見たくないものをほとんどサディスティックな筆致で暴いているところに、この小説のよさがあると思う。(6)
上記の合評とは別に、この作品は概ね「普通とは何か」という価値観が揺さぶられる作品として語られることが多い。これは作者村田が「書いていて、普通の人がすごく怖い感じがしてきました」(7)と発言していることにも由来する。
価値観が揺らぐ体験は、この作品においては、読者の「普通/異常」の境界線が揺らぐことと等しいとする。
『コンビニ人間』においては、登場人物の言動はどのようにして別の登場人物に働きかけて、読者に境界線の揺らぎを起こさせるのか。
一方において主人公恵子の社会的地位の脆弱さと性的能力の欠如が、白羽から「正確に名指される」ことにより、外部の権力関係として個人の内面にまで侵入してくる事態が挙げられる。他方において、恵子は「普通」の規範に照らして欠けているものを欲望することが期待されることになる。後者の例としては、妹ミホたちによる「結婚」、あるいは白羽の義理の妹からの「結婚もしくは就職」といった要素が挙げられる。
しかし恵子はこうした指摘を心の底から信じ、危機として捉えていないところが肝心な点である。結婚もしくは就職していないことを指摘され、欠けているものを欲望するよう期待されるが、自身の価値観が揺さぶられる経験にまで発展するには至らない。
白羽のサディスティックな発言や、ミホたちの心ない言動に対してショックを受けるのは、恵子ではなく読者なのだ。
こうした恵子の一連の無感情な反応に少なからぬショックを受けた評者もいる。先に挙げた星野は「一体、作者は何を描きたいのだろう。その世界の行きつく果ては、人間が自意識を消滅させる「清潔な」(つまり死のような)世界ということだろうか」(1)と村田の世界観に疑義を呈する。
同じく先述した佐藤は「負の感情のセンサーシステムがまったく働かない姿というのは、生きづらい世の中を生き抜くには一つの完成形と言えなくもない。しかし、作中の主人公同様、やはり他者との切り結びには、それなりの困難を覚悟する必要があるだろう」(2)と指摘している。
これは問2の最後に挙げた問題とも結びつく。登場人物は事態を冷静に受け止めて、読者のみが衝撃を受ける際に、上述のような危機感を抱く読者が一定数、浮上してくるのだ。つまり、個人的な物語の中においても、社会的な規範の遵守が要請される可能性があることが、この作品の特徴の一つであるといえる。
そこで、「無感情」「無関心」あるいは「自意識の欠如」「負の感情を失うこと」は、社会問題として扱われるべきか、という新たな課題が浮かび上がってくる。
■註
1 星野光徳「自意識の消滅について」群系 2016年秋号
2 佐藤優「嫉妬と自己愛の時代 第8回」 中央公論 2016年11月号
3 第百五十五回芥川賞選評 文藝春秋 2016年9月号
4 矢澤美佐紀「新種のヒトとして生きる」 社会文学 2017年46号
5 永井里佳「村田沙耶香「コンビニ人間」の孤独と増田みず子「シングル・セル」の孤独への一考察」 世界文学 2017年7月号
6 福嶋亮大、苅部直、吉村萬一 「創作合評第484回」 群像 2016年7月号
7 又吉直樹、村田沙耶香 芥川賞対談 文芸春秋 2016年10月号
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