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勉強する個体群の誕生

『別のしかたで ーツイッター哲学』には、ジェンダーについのステレオタイプな思い込みについて再考させられるものがある。

オネエ系タレントの活躍は、同性愛者状況の改善の呼び水としてはいいんだろうけど、「男の同性愛=体は男だけど女心で男を愛する」みたいな紋切型のイメージはまずいわけですよ。同性愛者には色々いるわけで。でも「男と女」というフレームがないと、たいがいの人は安心できないのだろう。そこが問題〔2013-05-12  00:28〕(1)

このジェンダーとフレームの問いは、千葉の著作に繰り返し現れる。

このような、欠如を媒介する他者の欲望の連動が、欲望とは「他者の欲望を欲望すること」であるというラカンの定式であり、そしてラカン派の精神分析においては概して、他者の欲動の連動にとってその究極の純粋な理由とは、ものごとを象徴的に分節化できる可能性(つまり言語能力としての理性)の限界としての「性差」(男/女を分けるスラッシュ)が、現実にこの世界にー異性間で生殖してきたこれまでの私たち人間によって経験される限りでのこの世界にはー刻まれてしまっていることである。以下では、この性差のあり方を〈性別化というリアル〉と表現しよう。(2)

私は、仮に二つの謎を分ける。そして、次のように考えるに留めておく。ファルスというジェンダー化された概念は、〈他者の現前/不在の謎〉と、〈性別二元性の謎〉を一致させる概念である。(3)

 繰り返されるこのテーマは「言語は男も女も使うのに、どうしてファルスはジェンダー化された概念なのだろうか」「どうして別のフレーム=切り取り方がないのだろう」という、疑問を呼びおこす。私も、「どうしてフェミニストはラカン派の精神分析を使うのだろうか」「にもかかわらずこの「ファルス」というフロイトーラカンの概念を嫌う女性も多いのはどうしてだろう」と思ってきた。だが、現代において言語を考える上で、この「ラカンは、人間を「言存在 parlêtre」(言語を使えることを本質とする存在)であると規定している」(3)以上、ここを避けて通るわけにはいかない。

 ところで、動物への生成変化を一つの理想とみなす『動きすぎてはいけない』においては、現代におけるポストポスト構造主義の流れに位置する、カンタン・メイヤスーらの思弁的実在論や、グレアム・ハーマンらのオブジェクト指向存在論にも同様の傾向があるとみなし、その源流に「人間=《私たち》を中心にしない主体化論」(5)を論じたドゥルーズの『経験論と主体性』に注目すべきだと主張されている。

 その反論として想定されているのが、人間中心主義から逃れられていない、ハイデガーの存在論である。ハイデガーは「「石には世界がない」、「人間は世界をつくる」、そして、石と人間の中間において「動物は世界が貧しい」という三つのテーゼを掲げていた。」(6)として、ドゥルーズの「貧しい」世界を想起させもするが、しかしやはり「人間の言語=ロゴスの全体」(7)として「〈どんな他人であれ、同じ人間「として」はコミュニケーションできるはずだ〉という翻訳可能性の超越論的な必然性を、当たり前のことであるかのように主張している」(8)と非難される。
 この部分の出典はハイデガーの講義『形而上学の根本概念』であるが、ハイデガーの別の講義『ニーチェⅡ』においては、別の文脈でこの「石=岩石」が登場してもいる。

なぜなら、誤る可能性がまったくないところでは、たとえば岩石などのように、真理へのいかなる関与も存在していないか、それとも、絶対的に認識する存在者(すなわち創造する存在者)のように、いかなる主体性をもーすなわち、いかなる意味で自分を拠りどころとすることをもー排除するような、真理への純粋な拘束があるかの、どちらかだからである。(9)

 ここでは「人間=誤る可能性」「それ以外=真理へのいかなる関与もないか、もしくは真理への純粋な拘束」が問われている。現代の思想における主な潮流が、二番目の「真理へのいかなる関与もない」の方にあることを示していることになるわけだが、ハイデガーの存在論では「人間=誤る存在」も視野に入っていること、その上でニーチェ以降に「真理」と「非真理」が問われていったことは、強調しておきたい。

 

『動きすぎてはいけない』において「サディズム=アイロニー=死の本能=カントの超越論」に対して「マゾヒズム=ユーモア=死と破壊の欲動=ヒュームの経験論」として位置づけられていた二つの概念は、『勉強の哲学』では「追求型(勉強の基本)=アイロニー=懐疑 →(究極的には)超コード化による脱コード化」に対する「連想型=ユーモア=連想 →(究極的には)コード変換による脱コード化」に変化(生成)する。

 ユーモアは、ズレた方向に話を広げる「拡張的ユーモア(意味飽和のナンセンス:接続過剰)」か、もしくは不必要に細かい話を始める「縮減的ユーモア(形態のナンセンス:意味の次元における縮減)」となってしまうが、これは理念型であって、実際には私たちひとりひとりの個性=特異性としての「享楽的こだわり」によって、切断して足場が仮固定される…という「勉強の三角形」が示される。
 『勉強の哲学』において、「接続過剰」は「切断」へと至るが、『動きすぎてはいけない』において突き進んでいくのは「アイロニー」のほうだった。ドゥルーズからの引用がある。

超越論的探求にとって固有なのは〔le propre d’une recherche transcendandale〕、勝手にそれを止める〔arrêter〕ことができないということである。ひとつの基礎は、それが生じる底なしのなかへ、さらなる彼岸へと急かされる〔précipité〕ことなしに、どうして限定しうるものだろうか。(10)

 おそらくこの「超越論的」で「止めることができない」という文言が、サドの印象を決定的に悪くしている。河出文庫版の『ザッヘル=マゾッホ紹介』においても(もともと『ザッヘル=マゾッホ紹介』という題名だからだが)、マゾヒズムの描写は「品位をたたえたまま」(11)で、「サド的な無感情の冷淡さ」が「感情に対して敵対的に行使」されるのに対して、「マゾッホ的な理想の冷淡さ」は「あたかも感情性のほうが非人称的な要素という高次の役割を引き受け」(12)ており、この二つの概念を対に用いるならば、どうしてもアイロニーにユーモアが勝ってしまうだろう。『動きすぎてはいけない』でもその路線は保たれる。

こうして、《欠如》なき純粋なマゾヒズムという理想と、《欠如》を論証する純粋なサディズムという理念とのあいだに、急ぎすぎてはいけない=動きすぎてはいけない、という節約のテーゼを伴う、実地でのマゾヒズムを位置づけることができる。世界・自己の形態を全壊させることなく解離させ、別のしかたの関係束へと生成変化させるマゾヒストのーベーコンが描くようなー形象が、中間地帯において肯定されるのである。(13)

 勉強の理念を追求するアイロニーから、ユーモアへの折り返しへという、節約=エコノミーの流れも、『動きすぎてはいけない』から直接導き出されたものではないだろうか。
 『ザッヘル=マゾッホ紹介』の論理を突き詰めていけば、『勉強の哲学』でアイロニー追求型の勉強を進めて、かつユーモアへ折り返すことができず、決断主義によってある人の考えに完全に乗っ取られてしまったカラッポの人は、ひとつの真なる世界へ行ったきり、もう帰って来ることはできない。その危険を回避するために『勉強の哲学』は書かれた訳だが、同じ考えが『動きすぎてはいけない』の第7章「ルイス・ウルフソンの半端さ」にもあてはめることができる。

逆に、アルトーの場合についてドゥルーズは、「流体的」「連続的」であるとされた器官なき身体のその流体性・連続性を、理想化している、しすぎているのではないだろうか?(中略)
境界線を越えて、旅は失敗するかもしれない…そう、動きすぎてはいけないのである。(14)

おわりに

デイヴィッド・ヒュームといえば、18世紀スコットランドにおいて、経験論者というより懐疑論者といってよいほど帰納的な合理性、および因果関係(原因と結果の必然的な結びつき)に疑いの眼差しを向けた哲学者としての面もあるが、最期は歴史家たるべく『イングランド史』に心血を注いだ人物でもある。(千葉の『動きすぎてはいけない』にも書かれてあるが)ドゥルーズの『経験論と主体性』にも「ヒュームはなによりもまずモラリストであり、政治思想家であり、歴史家であるということだ」(15)とある。

そして、「個人的な利害関心の本質は、エゴイズムではなく偏りであるからこそ、共感の方もまた、個人的な利害関心、個人的な情念を超出することはない」「共感は、エゴイズムに劣らず社会に対立するからである。(中略)誰も他者と同じ共感をもっていない」(16)とした。

おそらくこうした考えがが『動きすぎてはいけない』における「節約」「無関心」といった個体の群れが共生していくための方法を生んだのだろう。

だが『経験論と主体性』には「哲学は、わたしたちがおこなうことのについての理論として構成されるべきであって、存在するものについての理論として構成されるべきではない」(17)と締めくくられている。これをあえて「この社会哲学を、存在論に敷衍せねばならない」(18)とした千葉の一歩がやがて『勉強の哲学』へと生成変化し、多くの者を勉強する気にさせることになったのだ。

【註】
(1)千葉雅也『別のしかたで ーツイッター哲学』河出書房新社 p.147
(2)千葉雅也『意味がない無意味』河出書房新社 p.102
(3)千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出文庫 p.214
(4)同上 p.198
(5)同上 p.113
(6)同上 p.438
(7)同上 p.438
(8)同上 p.440
(9)マルティン・ハイデッガー『ニーチェ Ⅱ』平凡社ライブラリー p.460
(10)『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』 p.410
  引用元は『マゾッホとサド』晶文選書 p.141(『ザッヘル=マゾッホ紹介』河出文庫 p.173)
(11)ジル・ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』河出文庫 p.37
(12)ジル・ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』河出文庫 p.78f
(13)『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』 p.412
(14)『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』 p.369f
(15)ジル・ドゥルーズ『経験論と主体性』河出書房新社 p.26
(16)同上 p.36
(17)同上 p.214
(18)『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』 p.140

文字数:4443

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