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空間を切り取る写真家と、時間を保存する私

【目次】

0.  日常を切り取る写真とはなにを意味するのか ~問題提起~

1.日常に入り込んできた写真の由来 ~簡単な歴史を概観する~

(1)ニュースと共に日常に入り込んできたイメージ(報道写真)

(2)写真エージェンシー「マグナム」に集った報道写真家たち

2.  一つ目の分析 ~日常におけるスナップ写真の意味~

(1)共有されたイメージとはどのようにして作られるのか(アンリ・カルティエ=ブレッソン)

(2)イメージが人々に共有されるとはどのような意味を持つのか(森山大道)

3.  二つ目の分析 ~日常におけるコンポラ写真とはなんだったのか~

4.  三つ目の分析 ~現代においてインスタに投稿することの意味~

5.  日常を重ねるという行為 ~一つの結論~

 

 

0.  日常を切り取る写真とはなにを意味するのか ~問題提起~

 そのとき、目の前のすべてが、過去に見えた。モニターの中ではなくて、外に広がる、今ここにあるものこそが、すべて過去だった。カメラで撮られて画像の中に収まり、過去として、記録された光景として、そこにあった。カメラをうれしそうに持っている春代も、珍しがって覗いているえみりんも、うしろの肉を切るカップルも、行ったり来たりする店員も、既に過去だった。こうやって、時間が確実に過ぎていくことが、唐突に、一度に、目の前に表された。わたしは、とんでもないことを知ってしまって、しばらく表情を失ってモニターと現実の光景とを、同じ視界の中に見ていた。(中略)
麦の写真を一枚も持っていないから、わたしは麦のことを考えるのかもしれないと思った。

柴崎友香『寝ても覚めても』

春代からメールが来ていた。タイトルも本文もなく、画像が二枚添付されていた。(中略)
もう一枚を、見た。右半分は岡崎の顔が占めていた。目も口も大きく開けておどけているがカメラに近寄りすぎてぼけていた。その左側で、わたしと麦がステージの端にもたれていた。麦、と思った。十年前の麦は、こっちを見ていた。(中略)
わたしは、見た。懐かしい麦の顔と、それを隣でじっと見つめている自分の顔と。十年前のわたしと今のわたしが、同時に麦を見ていた。うしろの黄色い銀杏は、葉を散らせている途中だった。黄色い葉が、空中で静止していた。
新幹線の中じゃなくて、他に誰もいなければ、わたしは声を上げていたと思う。
違う。似ていない。この人、亮平じゃない。

(『寝ても覚めても』)

 小説『寝ても覚めても』は、かつての恋人、麦(ばく)の写真を一枚も所有することのできなかったヒロイン朝子が、その後「写真を撮ること」つまり目の前の時間を凝固させて保存させることに惹かれてゆき、並行して、麦と顔がうりふたつの亮平と恋に落ちていく物語である。
 麦がふたたび朝子の目の前にあらわれた時、朝子は本能的に麦について行くことを選ぶ。しかし二人が新幹線で逃避行を繰り広げる途中、旧友の春代から受信したメールに添付されていた、十年前の麦の写真を凝視したあと、現在の麦を見たた途端に、憑かれていた想いから急に目が覚めるのだ。そして朝子は、麦を新幹線に置いたまま去っていく、という筋立てとなっている。

 

小説『寝ても覚めても』には、主人公の朝子が、写真を撮ることの意味について、思いを巡らす場面が、時折挿入される。それは同時に、時間が経過していくこと、そして、写真の中で今ある時間をストップさせてしまうことの不可思議さについて、思いを巡らすことでもある。
 一方、濱口竜介による映画『寝ても覚めても』では、朝子と二人の恋人である麦と亮平、それぞれ別々の出会いの場面において、1978年頃に「コンポラ写真」のムーブメントを担った代表的な写真家である、牛腸茂雄の写真展がシーンの背景として設定される。

「コンポラ写真」とは、1978年写真雑誌『カメラ毎日』6月号において、淡々と撮影された日常の出来事をカメラに収めた写真作家たちの作品に、寄せられた名称である。この名称は1966年にアメリカで開催された「コンテンポラリー・フォトグラファーズ 社会的風景に向かって」に由来している。同展覧会において、リー・フリードランダーやゲーリー・ウィグノラントら写真家の作品が、ありふれた日常風景が撮影されていたことにちなみ、似たような傾向を持つ日本の若手写真家たちの作品が「コンポラ写真」と称せられた。アンリ・カルティエ=ブレッソンや木村伊兵衛らのスナップ写真へのアンチテーゼとして登場したと解釈されている。

やがて「コンポラ写真」の作品群は、ブームの流れとともに忘れられていったが、1992年季刊写真誌『デジャ=ヴュ』8月号において牛腸茂雄特集が組まれたことをきっかけに再評価が起こり、代表作『SELF AND OTHERS』(初版1977年)が1994年に復刻し、2001年には同名のドキュメンタリーも公開となった。

そもそも写真とは、1839年に発表されたダゲレオタイプから、1871年に発明された写真乾板を経て、カメラが既製品となった。その後、1925年に35ミリフィルムのライカが生産され、二眼レフ・一眼レフカメラ、インスタントカメラ、デジタルカメラと経て、芸術・報道・ドキュメンタリーの各分野に深く関わってきた。のみならず、化学・医療・司法の分野においても、技術の発達とともに日進月歩の歩みを重ねてきた歴史を持つ。

現在はスマートフォンの普及により、誰でも手軽にスナップ写真を撮影し、インスタグラムをはじめとするSNSに投稿、「自撮り」を「インスタ映え」させ、「いいね」などの双方向的コミュニケーションを手軽におこなうことができる時代となった。

したがって、なぜ今私たちは芸術的な写真作家を必要とするのか、再びその存在意義を問い直す時期にきているのではないだろうか。
 そのためにはまず、芸術的とされている写真家の中でも、とりわけスナップ写真家として名高いアンリ・カルティエ=ブレッソンと、彼が所属した写真家エージェンシー「マグナム」を取りあげ、芸術写真と報道写真について、大きな流れを把握する必要がある。

次に、日本において1960年代から路上スナップを撮りだした森山大道について、そして、1970年代にスナップ写真家への対抗として「コンポラ写真」を作り上げた写真作家の一人とされている牛腸茂雄についてとりあげて、「ありふれた日常生活を写真に切り取る」という行為がどのような意義を持っていたのかを検討する必要がある。

最後に今日、スマートフォンの普及とインスタグラムの流行がもたらした、スナップ写真等の現代的な意義について考察していく。
 つまり本論は、日常生活を切り取る行為であるスナップ写真~コンポラ写真~インスタへの投稿とは、私たちの生活体験と日々のイメージ形成にとって、どんな意義を持っているのか、を探ることが目的とされる。

 

1.日常に入り込んできた写真の由来 ~簡単な歴史を概観する~

(1)ニュースと共に日常に入り込んできたイメージ(報道写真)

写真機がまだデジタル化していない時代、日常的に触れる写真とは報道写真のことであった。
報道写真は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、新聞・雑誌の発展にともない発展してきた。1925年に発売された小型カメラのライカにより「報道写真家」が誕生し、アメリカで1936年に写真がメインの週刊誌『ライフ』が刊行された。
 同誌が消費社会の進展とあわせて発行部数を上げていくと同時期に、大恐慌の後においては、貧困の悲惨を告発するドキュメンタリー写真を報道する写真作家も登場する。
 ところが、第二次大戦後、テレビの普及などもあいまって、徐々に『ライフ』の発行部数は伸び悩み、1972年に同誌は休刊となった。

日本においては、1970年代までに「全共闘運動」の広がりを背景に、『朝日グラフ』『毎日グラフ』などの、新聞社の発行する月刊誌が注目されてきた。学生運動が下火になると、1980年代には『フライデー』『フォーカス』などの写真週刊誌が発行部数を伸ばした。1960年代にはポラロイド社のインスタントカメラ発売によって、日本におけるカメラの普及率は高まったが、写真週刊誌による有名人に対する過激取材への需要も収まらず、ひところほどではないが、写真週刊誌『フライデー』は現在も刊行されている。

報道写真とは、民衆に政治・経済・社会一般の「具体的なイメージ」を提供する存在である。もしそうであるならば、報道写真の広まりは、消費社会の波及とともに、人々を啓蒙し、民主化のために役立つものとなるはずであった。しかしその実態は、冷戦下におけるプロパガンダの道具に利用され、また大衆を惑わす消費社会の広告を広めていくこととなった。

ここに、写真が個人の生活に入り込んでくるとすれば、それは社会の中で、他者との歩みを揃え、話題を同じくし、もし可能であれば消費社会の中で、他者より物質的にわずかでも勝っていたい、という欲望が生まれてきたことだった。
 ここで「イメージ」を提供し、人々の話題に花を咲かせることができたのは、著名な写真家のドキュメンタリーではなく、匿名記者により、新聞の一面に大きく掲載されるトップ記事に添えられた写真の数々だったのだ。

(2)写真エージェンシー「マグナム」に集った報道写真家たち

写真エージェンシー「マグナム」は、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソンら四人の写真家によって創設された、写真エージェンシーであり、常時50名程度の定員を持つ。
 20世紀後半においてこの組織は、著名な写真作家の集団として、報道写真に大きな影響を与えた。とりわけ顕著な特徴は、個別の写真に「署名」がなされて、写真とはマスメディアから降りてくるものではなく、一人の人間がカメラのボタンを押して、風景から一定の場面を四角く「切り取る」という行為が、人々に実感されたことだった。

ロバート・キャパはスペイン内戦等で取材を行い、目の前で死にゆく共和国軍兵士をカメラのシャッターに収めた「伝説」を持つ(しかしその後、当該写真に対する様々な疑惑が起こってきた)。
 アンリ・カルティエ=ブレッソンは、第二次世界大戦のレジスタンス運動に参加し、大戦後はキャパらとマグナムを設立した。そして1952年に写真集『決定的瞬間』を発表後、世界中の写真家に影響を与えた。カルティエ=ブレッソンのスナップ写真への貢献は、後述する。

もう一名だけ、「マグナム」から写真作家を選ぶとすれば、数々のフォト・エッセイを発表し1978年に帰らぬ人となったが、昨年生誕100年を記念して新たな写真集が発行された、ユージン・スミスの名を挙げるのが適切だろう。スミスは1975年に写真集『水俣』を発表し、チッソ工場の排水が原因で引き起こされた水俣病患者や公害裁判、渦中に巻き込まれた人々と背景の自然・工場を撮影したことで、日本においても知られている。

だがスミスにおいて特筆すべきことは、自分が象牙の塔にこもりたくない「報道写真家」であることを選択したにもかかわらず、「芸術家」としても名を残したいという、彼の苦悩の軌跡である。
 自分の写真が「商品」として扱われることに我慢がならず、雑誌の都合上、記事に割り当てられた自分のページ数が割愛されたと知ると、迷いなく『ライフ』を辞職してしまう。
 そして生涯における最大の野心作、とスミス本人だけが思い込んでいる、ピッツバーグ市の記念刊行物に取り組むことになったのだ。

当初の委託側の予定であった二、三週間という滞在期間は五ヶ月に及び、当然予算もひっ迫したが、スミス本人は文献を読み、土地を歩きまわり、まだ手につけていない仕事のイメージを膨らませる。そしてこの写真による、壮大な都市研究に思いを馳せるのだ。徹夜で仕事をするためにベンゼドリンを服用し、レコードを大音量でかけ、食事は乾燥マッシュ・ポテトとウィスキーで済ませていた。そして駐車場に置いてあった車から、カメラとレンズが盗難に遇ってしまう。

 こうした「芸術家の伝説」に、カメラマンもその一人として殉教することになったのが、20世紀後半の世界だった。
 ある時代においては、作曲家や画家が芸術家として庇護を受け、人々は建築を見上げて、そこから発せられる様々なメッセージに思いを馳せた。
 大衆社会が発展すると、人々は複製芸術の消費を開始するのだが、人生を投げ打った孤高の芸術家、という伝説は21世紀の現在でも健在である。

無名の私が押したカメラのシャッターと、有名人が押すカメラのシャッターは、等しく工場で作られたはずのものだ。
 複製芸術の登場とともに、芸術品そのものからアウラは消えてしまったが、有名性という「固有名」だけは特権的な力を保ち続けている。
 写真集の刊行とともに、写真は「写真作家の作品」と「匿名記事の写真」に分裂したが、双方ともに固有の方法によって、不特定多数の人々に影響力を及ぼしたのが、写真というジャンルの固有性である。

 

2.  一つ目の分析 ~日常におけるスナップ写真の意味~

(1)共有されたイメージとはどのようにして作られるのか(アンリ・カルティエ=ブレッソン)

スナップ写真という写真のサブジャンルは、人々に奇妙な二分した感情を抱かせる。
つまり、店頭で記念ハガキなどの形で販売されているのを見るとき、それらは著名な写真作家の作品なのだ、ということに疑いを持つことはないのだが、もしかしたら私にもこんな写真を撮影することができるかもしれない、という親しみをわき起こさせるのだ。
 そこに写されているのは、大抵は市井の人々であり、生活感にあふれた街並みや、季節感に満ちた川辺の景色、雑踏ですまし顔で歩く人々、笑う子供達などである。
 しかし、まぎれもなくその四角く切り取られた風景は、人々の共有物として記憶されている。

アンリ・カルティエ=ブレッソンは、小型カメラ「ライカ」とともに街を歩きまわり、「決定的瞬間」をシャッターに次々と収めた写真作家として、後世に影響を与えた。
 それは言い換えれば、スナップ写真とは、いかなる特定の場所・時間にも制約されずに、人々の日常の暮らしの中に宿ることを伝えた、ということでもある。
 逆に言えば、日常の暮らしを魔法のように印象的に変えるためには、カメラを覗き、画面構成を構える写真作家の「眼」が決定的に重要であるという宣言をした、ということだ。

報道写真のような特定の場所・時間を離れて、また、芸術家としての人生に賞賛を送られる伝説的存在から離れて、スナップ写真は、写真作家が「決定的瞬間」をファインダーに収めた「眼」のイメージを共有する存在として、人々の生活に入り込んでいく。
 カメラのファインダーを覗いてピントを合わせ、多くの現像されたフイルムから一枚だけ選択された完成写真と、写真作家の「眼」は完全な等価物とは言えない。
 あえて指摘するならば、やむなくゴミ箱行きとなった無数の「失敗作」をつなぎ合わせれば、写真作家がある時・ある場所でどのような動きをしていたのか、を推測することはできる。
 だが、人々の記憶に共有されるものは、ある価値判断によって選別された美的イメージである。

(2)イメージが人々に共有されるとはどのような意味を持つのか(森山大道)

ネルソン・グッドマンは『芸術の言語』において、ある人類学者の言葉を引きながら「世界中で同じ意味を持つ普遍的な語や音複合体がないのと同じように、世界中で同じ反応を引き起こす身体運動や表情や身振りはない」との見解を出し、そこから「再現も表現も同じように、習慣によって特定の人々にとっては特定の関係がしっかりと固定されたものになっている。しかし、いずれの場合も、それらの関係は絶対でも普遍的でも普遍でもない」と語っている。
 これは、ある社会における人間が、感情を込めておこなった身振りに対して、別の社会の人間がそのメッセージを誤って受信する可能性がある、という指摘にとどまるものなのだろうか。
 それとも、異なる習慣を持つ人間とは、ある一定の年齢を超えると、(理性的にではなく)感情的に同じ追体験を行うことがきわめて難しくなる、という警告なのだろうか。

森山大道は1938年大阪に生まれ、フリーのカメラマンとして活動し、雑誌に写真を発表する傍ら、写真集・エッセイ集などを刊行し、海外においても多くの個展を開いている。
 「アレ・ブレ・ボケ」と呼ばれる作風においては、荒れた粒子、ピントがボケて不鮮明な画像となるなど、既存の均質な構図を持つ写真への異議申立てが、前面に押し出されている。

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