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『ちひろさん』の視線の先には、何が見えているのか?

1 『ちひろさん』について

 『ちひろさん』は平成25(2013)年7月号より、秋田書店発行の女性向けマンガ雑誌「エレガンスイブ」に掲載され、現在も連載継続中のマンガである。作者は安田弘行。周辺労働者として働く女性の辛さを描いたコメディタッチの作品『ショムニ』は、テレビドラマにもなり、ヒット作となった。『ちひろさん』は、平成30年間における、女性のあり方を象徴していると言ってよい。一体どういうことか?
 ところで『ちひろさん』には、主人公ちひろさんの前エピソードともいうべき、風俗嬢時代の物語である『ちひろ』が存在する。そして『ちひろ』の方が時間的にも先行して刊行されている。つまり、『ちひろ』なくして『ちひろさん』は存在しなかったのだ。

 そこでまず『ちひろ』のことについて、簡単に紹介しなければならない。ちひろはファッションヘルス(個室で顧客に対し、性行為以外の性的サービスを行う店舗)に務めている、客からの指名が人気ナンバーワンの女の子だ。彼女の魅力は、通常人では予測できないその言動にあるのだが、彼女の言動に潜む秘密とは…。

 そう、その秘密を探っていくことのできる方法論の一つとして、『ちひろ』の続編ともいうべき『ちひろさん』の読解がある、といってよい。『ちひろさん』における主人公ちひろさんは、街の一見どこにでもありそうな弁当屋「のこのこ弁当」で働いている。彼女は、本名の古澤綾ではなく、かつて風俗嬢だった頃の源氏名「ちひろ」であることに、こだわりを持つ。

 ちひろさんを心から受け入れて、彼女を無二の存在とするのは、通常の社会では「周辺に位置している人々」に多い。学校の同級生との、人間関係に葛藤している女子高校生「オカジ」(第二話)、母親から充分に受け入れられていると感じることができず、小学校では攻撃的な行動をとりがちな佐竹マコト(第四話)、などなど。

 どうして、社会に溶け込むことに、ある種の困難さを抱える人々が、ちひろさんには心を開くのだろうか?その秘密は、ちひろさんが自ら選択した社会的ポジションと、そして平成という時代—高度経済成長の後にバブル崩壊が続き、グローバル社会が到来し、東日本大震災という国難にぶつかった—時代について考察するために、どのようなヒントを与えてくれるのだろうか。
 従って本稿の目的は、ちひろさんとは一体どういう人で、『ちひろさん』を生んだ平成とはどんな時代だったのか、そして、ちひろさんが平成の時代に生きて行く上で、一体何が困難であるのか、を問うてみたい。

 

2 ちひろさんはどういう人なのか

ある種のマジメな女性から見れば、ちひろさんは、上昇志向のない、かといって早く結婚したいとも思っていない、全くもって、もどかしくてやりきれない人、ということになるだろう。ごく普通の男性から見れば、時には腹の立つ存在となっているようだ。

「理想のマダム(16話)」では、恋の百戦錬磨を自他ともに認めるバーのマダムに「結局 女の幸せって 死ぬまで恋をし続けることでしょ」と言われて、ちひろは「なーんだ つまんない」と不機嫌になってしまう。また「ちひろ先輩(第五話)」では、ちひろの風俗嬢時代の後輩が、ちひろを訪れ、共同ビジネスを企業しないか、とちひろに対して提案するのだが、ちひろは断る。
 断る理由を教えてくれ、とすがる後輩に対して、ちひろは「結婚できず 風俗にいられず 弁当売りでもやるしかなく あんたの見ているちひろさんって ずいぶんとかわいそうな女なのね」と答える。ちひろは微笑んでいるが、空虚な目をしているようだ。

ちひろさんの生きる社会では、周囲の人間が、様々なメッセージを、ちひろさんという鏡に反射させて、各々が、自分達にとっての都合のいい物語を、ちひろさんの中に読み込む。ちひろさんは、今日もそこに存在しているだけだ。彼女は、明るく笑い、「のこのこ弁当」を訪れる人々に接客する。

 ちひろさん独自の見解がストレートに出てくるのは、例えば「すずちゃん 第二十七話」だろう。周囲に遅れを取られまい、と必死で競争に勝とうとあがく後輩のすずに対して、ちひろさんは言う。

自信が欲しいって言ったわよね?

他人の背中ばっか追いかけてたら

一生自信なんか手に入らないわよ(中略)

 

そのくだらないマラソンに勝つ唯一の方法はね

走るのやめちゃうことなのよ

それしかないの

 

3    働く女性にとって、平成とはどういう時代であったか

 これは厄介な、というより、かなり間口の広い問題だ。一般論で美しく飾ることができても、実践が醜くなりうる分野でもある。醜いっていうのは、実はあの企業はブラック企業でした、ってことだ。勤労女性のための法整備について、ここではざっと概略のみ示す。内容はもとより、導入された年次に注目されたい。
 昭和の終わり(昭和60年、1985年)に制定された男女雇用機会均等法が、平成18年(2006)年改正により、女性差別禁止法から、性差別禁止法へと、生まれ変わった。
 仕事と家庭の両立(というと、シングルマザーがはじかれちゃう気がするんだけど)に悩む、働く女性のために、「育児介護休業法」が平成3年(1991年)に制定され、翌年より施行されている。現在ではワーク・ライフ・バランスを考慮して、男性も視野に置かれつつある。いわゆるイクメンってやつだ。働くパパ、家事も頑張って!、という感じ。

とはいえ、何か先行きはあまり明るくないらしい。少子高齢化に伴う年金制度の全体像について、長期的な設計と運営が求められている。これらに対処するには、日本では二つくらい方向性がある。ちひろさんが年を取ったら、将来はこんな風になる選択肢が社会にはありますよ、という考え方のみ、概略を示す。

 一つは「ワークフェア」型で、本来の意味としては、福祉の需給条件として勤労を求めること、だけど、対処法としては、私的な人的投資・就労強制、なんてことも許容範囲内。だから究極的には、資本主義市場こそ個々人の能力を効率よく引き出せるであろう、という考えにまで持っていける。もう一つは「自由選択」型。各人の働き方とライフスタイルの多様化支援のため、公的な人的投資へ目が行く。実際はもちろん、こんなにハッキリ分かれてはいない。

 福祉国家にはだいたい三つくらいレジームがあって、大雑把にいえば、アングロ・サクソン諸国の自由主義型(≒公的扶助と低水準の社会保険)、大陸ヨーロッパ諸国(とはいえドイツとフランスはかなり違う)の保守主義(≒職域別の社会保険)、北欧諸国(なんと広い概念かと思うが、まあスウェーデンのこと)の社会民主主義(≒普遍的な社会保険)の中から、あっちをちぎったり、こっちをちぎったりして、何とかやりくりをしたいな、と思っている。

 でもこれは本当にざっくりとした分別で、時とともに移り変わっていく可能性だってある。日本では平成の30年間にどういう方向に進んで行ったか、もう答えは出ている。だから、違う可能性もあったのだ、ということに注意すべきだ。こちらについても、施行年等に着目してみれば、アノ政権でアノ法律が、みたいなことを知る、目安にはなる。これは政治史ではないので、詳細は省く。

 平成11年(1999年)の労働者派遣法改正により、労働者派遣は合法化されることになった。でもこれって、元来許されないことだった。職安法は、職業紹介について、国家独占政策を採用していたので、本来、労働市場は自由であってはならない、はずだったのだ…。これは、仲介業者が介入すると『女工哀史』みたいな人身売買等が、歴史的にあったことを踏まえた話である。

 平成15年(2003年)に製造業への派遣拡大となり、規制緩和が進んでいく。ゼロ年代に入ると、社会生活保護受給者の急増に伴い、「自立支援」の動きが始まる。労働者派遣法はその後改正され、平成24年(2012年)に事業規制が強化され、平成27年(2015年)には、事業所単位での期間制限の見直しや、均衡待遇の推進、雇用安定措置の義務化等が導入された。労働契約法(2012年)と労働者派遣法(2015年)の改正により、大量の雇い止めが起きる(≒失業者が大量発生する)2018年問題ってのがあるが、それが今年(恐らく平成最後)の問題だ。

 

4   『ちひろさん』および『ちひろ』を生んだ、時代の社会的条件について

 『ちひろさん』は、平成という時代をあらわすにふさわしい作品であり、幸いなことに、いまもなお連載は継続中だ。理由を次章以降により示す。
 宮台真司『サブカルチャー神話解体』(1993)は、戦後日本のサブカルチャー史について、複数の社会システム理論を援用することにより解説した著書であり、1992年までが考察対象となっている。
 その続編ともいうべき『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(2017)においては、若者を取り巻く現状が出てきた背景について、<システム>の全域化による<生活世界の空洞化>が原因だとされている。

  マックス・ウェーバーの言葉を使えば、物事を計算可能にする手続きが一般化した領域が<システム>です。例えば、役割&マニュアルが優位なコミュニケーション領域です。

それに対し、残余の領域が<生活世界>です。役割&マニュアルではなく、善意&内発性が優位なコミュニケーション領域です。<システム>ではマニュアルが支配するのに対し、<生活世界>では慣習やしきたりが支配します。(宮台 2017  p.176.)

 

次にそうした変化がどういう経緯で生まれてきたのかを、歴史的に追尾します。<生活世界>の空度化=<システム>の全域化は、郊外化の動きと平行します。そして、郊外化は、<第一次郊外化>と<第二次郊外化>という2段階で生じました。

<第一次郊外化>とは、60年代の団地化です。<第二次郊外化>とは、主に80年代のニュータウン化です。<第一次郊外化>は、「地域の空洞化 ✖️ 家族への内閉化」によって特徴づけられます。地域が担っていた便益の供給を、専業主婦が専一的に担うようになるわけです。

(中略)

<第二次郊外化>=ニュータウン化は、僕が「コンビニ&ファミレス文化」、あるいは先ほど「デニーズ化」などと名付けてきたような過程です。この過程は「家族の空洞化 ✖️市場化行政化」によって特徴づけられます。

簡単に言えば、専業主婦化が緩和され、その分市場サービスや行政サービスが利用されるようになる傾向です。この動きは、男女雇用機会均等化とも連動して生活形式の多様化をもたらしましたが、家族的な絆の希薄化というダークサイドを伴いました。(宮台 2017    pp.181f.)

 思春期の子供たちは、感情的安全の拠り所として、学校でも地域でもなく<第四空間>と呼ぶべきところを求めて行くことになる。<第四空間>とは、第一に、70年代末から広がる、アニメやゲームなどの「仮想現実化」がある。第二に、80年代末期から生じる「匿名メディア化」で、1985年に発生するテレクラ等による出会い系の活用が相当する。第三に、80年代末期から生じる、「匿名ストリート化」であり、ヤンキーとは区別されるべきチーマーが主勢力となっている。互いにニックネームだけで呼び合い、参入離脱が自由で、絆と呼べるようなものは、ない。チーマー周辺からコギャルが出てきた、と宮台は報告する。

 ここで、2018年現在のちひろを仮に32歳くらいに設定すると、1986年生まれとなり、上掲の理論に当てはめれば<第二次郊外化>の余波を受けた世代だといえる。
 この後宮台は同著において「第四章 3 処方箋」として、日本においては、欧州型ではなく米国型の対処法に追随していることを、明らかにしている。米国型の処方箋とは、<システム>全域化の副作用を、<システム>全域化の徹底によって処理しようとする。
 具体例として挙げられているのが、ファストフードの客の回転率の操縦に見られるように、硬い椅子を置くこと、である。これは、命令や価値観に依存する制御ではなく、人間の快不快に依存する制御を行っているということである。ちなみに欧米型とは、地元商店・地元産業・地元文化・地元の絆などの複合体を守ろう、とするものである。

 

5    では、そのような環境の中、ちひろさんはどのように生きてきたのだろうか

 <第二次郊外化>によって、ちひろの周りの同級生たちの中には「第四空間」ともいうべき、バーチャルな空間や人間に絆を求めて行った可能性は高い。
 ファッションヘルスの風俗嬢としてであれ、お弁当や「のこのこ弁当」の店員としてであれ、本名「古澤綾」とその家族を一時忘れて、「ちひろ」として生きること。それは<第四空間>の中で、キャラクター名を帯び、それに見合った役割をこなして生きて行くことのように、一見、思えなくもない。

 つまり、意地悪な言い方をすれば、「あなたには本当の名前があって、家族もいるのに、フワフワ浮いたような空想の世界を生きているだけなんですよ」とちひろさんに指摘することだって、できるはずだ。
 だが、物語中、ちひろさんほど「地に足のついた」働く女性はいないのだ。働く、だけではなく、人間との付き合い方においても、ちひろさんは「のこのこ弁当」の多彩な客が、どこまで自分たちの相手をして欲しいかを、的確に見抜き、客人達に対応する。

 ただし、時々無性に、一人になりたくなることがある。空いている建物の一角、寂れた商店、とちひろさんは「秘密の隠れ家」を作り、そこで一息つく。
 ここまで書くと、ちひろさんは、平成不況・非正規雇用者に対するモデルと言って良いのか、自信がなくなる。接客の上手さについては風俗嬢譲りとしても、周囲の「恋愛は?結婚は?」という不安そうな、暖かい眼差しに対して、また「起業して、世間をあっと言わせてやりましょうよ」という元後輩の必死の願いに対しては、「もういいよ 酒がマズくなった」としてその場を立ち去るだけなのだ。

 言い換えれば、ちひろは「第四世界」の永遠の住人になってしまったのだろうか?ピーターパンのように、ただひたすら「現実に戻りたくない」と思うだけの人でしかないのだろうか?

 

6 平成の時代に、ちひろさんが生きていくことの難しさについて

ある意味では、前章の最後の問いは当たっている。母親が死ななければ、家族とも連絡を取らず、死んでも弟と連絡を取ったくらいだ。ちひろさんの家族は、ちひろさんが墓参りに来たことも知らない。第四十五話の「そして綾になる」では、「のこのこ弁当」がある「この街の人々に素敵な家族ができ」たと思ったので、本名である古澤綾を名乗ろうと思った。
 ただし、もちろん独身で、たまにふと一人になりたくなってしまうのは前と変わらず、だ。

 ちひろさんが、あらゆる女性のモデルになるとは、私も思っていない。
 ただし、80年代の<第二次郊外化>=ニュータウン化を経て作られた核家族の成員に対して、その後生じた、家族的な絆の希薄化という事態につき、いかにして家族の絆「のようなもの」を埋め合わせて行くか、という一つの具体的な応答にはなっているはずだ。

 あなたの目の前で行われている競争に、やりがいを見出しているならば、大変結構なことだ。
でも、そうでない場合だってある。そんな時はちひろさんのように「くだらないマラソンは走るのをやめる」ときっぱり言い切る、という選択肢もある。勇気を要することだと思うけれど。
また、とりあえず社会的レースには参加していますが、家では一人でやりたいことがあって…という場合だってあるだろう。

 実はこちらの方が、人間の中で、バランスを取るのに苦労するのではないか。
 仮に、組織の構成員の側の人間に主張させてみるとしよう。レースには、乗るか、降りるか、どちらかにしていただきたい。「マジメに仕事をしているか」どうかよりも、「マジメにレースに乗っているか」どうかの方が、時には組織の空気を決めることがあるからだ。

 組織、っていうと、身近なことのように思えて、ドキッとするだろうか?
 では別の例を挙げてみよう。権力と芸術について。

 

   芸術の持つ自立性について、そして、自律した世界観を持つことの困難さについて

 ロシア・フォルマリズムとか、ロシア・アヴァンギャルド(美術)といった芸術潮流に与する作品や芸術家たちが、旧ソ連の、特に1930年代のスターリン体制下において、弾圧されていた。『ドクトル・ジバコ』の作者ボリス・パステルナークや、詩人のウラジミール・マヤコフスキーなどが相当する。
 彼らが弾圧の対象になったのは、『沈みゆく大国』の袴田茂樹によると、一つには、言論の抑圧により、政治的な言葉は、間接的に文学や芸術の表現をとらざるを得なかったからだ、としている。しかしもう一つ理由があり、「芸術が力を持っているのは、その時代の支配的なイデオロギーに対してそれと同じ次元で政治的に対抗するからではなくて、それとは全く別の次元のリアリティを独自に築いているからだ。(袴田 1996  p.59.)」としている。
 「モダニズムの美術やパステルナークの作品は、その政治性や社会的なテーマゆえではなく、政治を超越した自立性ゆえに、結果として強烈な体制否定の力を持ち得たのである。抽象画を当局が弾圧したのも、芸術のこの力を知っていたからだ(袴田 同上)

 これは、ちひろさんが抱える困難と、繋がっているのではないか?
 ちひろさんとは、自立性の高い世界観を持って生きる人だったのだ。
 ちひろさんには、ちひろさんのことを心配してくれる、優しい人々が沢山いる。
 そしてまさしくこのことが、ちひろさんを苦しめる時がある。彼(ら)は、とっても優しいけど、日常の話題を合わせるくらいで、あとは放っておいてほしいのにな…とちひろさんは、思う。

 様々なワーク・ライフ・バランスがあり、でもそれを前提とする、大勢が要求する価値観(少子高齢化に伴う問題等)もやっぱりあって、だからちひろさんのような「適齢期の女性」にとっては、ある面からみれば、平成とは、とっても生きにくい時代なんだろう。

でもせめて、競争にヒートアップしすぎたら、燃え尽きてしまうぞ、ってことは、覚えておくべきかもしれない。そこはちひろさんに、学びたい。
 こうした考え自体は、昭和の終盤辺りから、流行語の一つにすらなっていた(例えば浅田彰『逃走論』(1984)における「パラノ社会」がこれに該当する)。
 従って、『ちひろさん』に代表される、平成時代を象徴するような事象(女性が自立性の高い世界観を持つことの困難さ)は、福祉国家である日本における、ここ30年位の変遷、及び、社会システム論から照らし出された、<生活世界>の空洞化=<システム>の全域化と、繋がりがあると言える。

 

【参考文献】

全章について

安田弘之『ちひろさん』1巻~8巻 (株)秋田書店 Kindle版(2014~2018)

安田弘之『ちひろ』上・下巻 (株)秋田書店 Kindle版(2014)

第3章

大内伸哉『歴史からみた労働法』日本法令(2012)

田中拓道『福祉政治史』勁草書房(2017)

カオナビ 人事用語集 https://www.kaonavi.jp/dictionary/2018-issue/

第4章

宮台真司 『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬社文庫(2017)

第7章

袴田茂樹『沈みゆく大国』新潮選書(1996)p.59.他

浅田彰『逃走論』筑摩書房(1984)p.26.他

文字数:7975

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