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現在のレンズを通して過去を読まねばならないということについて

鴻巣友季子訳『風と共に去りぬ 第1巻』(2015)を読み始めると、冒頭からスカーレットが舌ったらずに「えっと、ゆう……ゆう……友好条約を結ぶんだって。(1)」などと喋っていて、あどけない。こんなんで大丈夫なんだろうか、スカーレット…これから波乱万丈の人生を歩むのに…

 今回の課題における「先取りの剽窃」の問題を言い換えれば、「後世の作品によって、古典作品に対する現在の読者の見方が変わってしまうこと」ともいえる。後世によって生まれた技術や概念を、古典の新訳に適用することは可能なのだろうか?
 本稿では土田友則によって提唱された「間読み性」の概念を適用し、後世の読者への影響の是非を問う。

「間読み性」とは、「間テクスト性」の理論を応用した土田知則によって、著書『間テクスト性の戦略』(2000)において提唱された概念だ。
 「間テクスト性」の理論とは、完全に独創的な作品というものは存在せず、あらゆる作品には他の作品の影響があるというジュリア・クリステヴァらによって提起された理論である。
 土田の「間読み性」の概念においては、この「間テクスト性」が、個々の作品間から、受容者側である読者へと応用され、先行者から後続者への時間的な足かせが取り除かれることによって、「影響」の概念を脱構築しなければ、「読む」行為は「いつになっても開かれたものにはならない(2)」、とされている。

つまり、個々の作品の影響関係にとどまらず、ある時代において作られた作品を受容する、後世の読者の「読む」ことの問題へと差し向けられるべきだとされているのだ。そして「影響や源泉について語る時、複数テクスト間に措定されがちな位階関係(優劣関係)を極力無化すること(3)」により、複数のテクスト間が自由に結びつくことができ、そこに様々な「読み」の可能性を追求できると結論づけられている。
 その典型的な例が、土田の同著においては、イギリスの小説家にして文学理論家、デイヴィッド・ロッジの『小さな世界』の次のセリフの引用箇所に象徴的に示されている。「ぼくらはどうしてもT・S・エリオットの詩というレンズを通してシェイクスピアを読んでしまうってことなんです。(以下略)」(4)。

ここで、ある古典の異色な「新訳」を提示して、「間読み性」の実例を検証してみたい。参照作品は『ソクラテスの弁明 関西弁訳』(2009)から引用する。

アテナイ人のみなさん、わたしを訴えてる連中の話を、みなさんがどういうふうに受け取りはったんかわかれしまへんが、わたしは、上手いこと言うなぁ……と我を忘れて聞いとりました。
せやけど、ほんまのことは、これぽっちも言わなんだ。嘘八百の中でも一番あきれたんは、みなさんにわたしは雄弁家やから気ぃつけんと騙されるっちゅうように言ってたことです。そんなこと、わたしが弁明を始めたら、ちっとも雄弁家に見えへんのはわかりきってるし、すぐに嘘やとわかってしまう。恥ずかしげもなくようも言うたもんやと思います。(5)

この「新訳」の読者(受容者)は,「間読み性」の概念に照らし合わせた場合、どのような影響を受けているのだろうか?
 まず「関西弁は気さくで面白い」という、主に近代以降におけるラジオ・テレビによるマスメディアによって流布されたイメージを、本来格調高く翻訳するのが当然視されていた古典作品に対してぶつけた、実験的な作品として受け取ることによって、古典の著者といえども、日々の気分に左右されがちな、生きた人間が書いた作品だということが分かり、親しみを覚えることができる、といえる。
 古典作品の翻訳における新訳の、趣向を凝らした効果を示す一つの例だろう。

次に、この「間読み性」の概念を今回の課題本文にある「後世の読み手」(大友克弘の漫画を「既視感のあるパクリばかりじゃないですか」と言った若い読者)」に適用すると、自由な「読み」の可能性を拡張するためには、先にオリジナル(≒古典)とされている大友克弘を読んだ読者と、大友に影響を受けた作品(≒古典の新訳)を読んだ読者の「読み」に位階関係(優劣関係)は存在しないことになる。
 大友克弘の原作を「古典」、大友に影響を受けた作品を「翻訳」と呼んで良いかどうかは議論の分かれるところかもしれないが、ある人の考えを言語によって別の相手に伝えることは、全て「翻訳」であり「翻案」でもあると定義するならば、この「間読み性」が提起する問題は、現代において影響関係があるとされる作品たちについても当てはまるのではないか。

これに対して、オリジナル作品に感銘を受けた世代からすれば、オリジナル作品と明らかにそっくりの世界観・雰囲気を持つ作品が、オリジナルをしのぐほどの影響力を持つことに違和感を感じる、という反論が想定できる。つまり、オリジナル作品が不当に扱われているという思いがぬぐい切れないのではないか、ということだ。

私は、こうした意見には賛成できない。第一に、上述した『ソクラテスの弁明 関西弁版』に沿って理由を述べる。同著の訳者は、格調高い文体をくずして、生きた人間が死刑判決を前にして、いかに自己の正しさを主張したか、というひっ迫した状況を、訳者なりの方法で再現することが目的だった。あくまで「こういう読み方もありうる」という例示の一つである。仮にこの翻訳書がベストセラーになったとして、岩波文庫の青帯(哲学等)や講談社学術文庫がこぞって『○○作品 関西弁版』を続々と刊行する事態になることを、オリジナル作品にこだわる読者が危惧するだろうか?

第二に、課題に挙がっていた大友克洋の作品を「パクリ」呼ばわりして話題になった件についても、それが明らかに異常な事態だという共有があったからこそ、SNSで話題になったのである。従って、大友の作品は既にオリジナリティのある世界観を打ち立てた作品として認められているのであり、その追随者によってその地位が取って替えられる恐れは(現在のところ)ないといってよい。或いは、大友の作品に影響を受けて作られた作品(≒翻案)に興味を覚えた読者が触発されて、大友の作品を再発見し、異なる趣向を凝らした別の作品を創る可能性も残されている。

結論として、たとえ「アナクロニズム(時代錯誤)」と言われようと、同時代の読者に分かりやすい訳語を模索し、読者の感情移入を促すような古典の新訳は、推奨されるべきであり、後世によって生まれた技術や概念を訳語に使用することは可能である、といえる。

 などと気負った発言をしてしまったが、今回の課題提出にあたり、鴻巣訳『風と共に去りぬ』新潮文庫五冊を購入し、家まで帰る道すがら、「南北戦争って、何年から何年までだっけ?確か日本でいえば江戸時代末期…」と必死で思い出そうとしていた自分がいる(1861年~1865年)。スカーレットなら、死ぬまでこの年号を忘れないだろう。

【引用文献】
(1)マーガレット・ミッチェル著 鴻巣友季子訳『風と共に去りぬ 第1巻』新潮文庫、2015年 p.13.
(2)土田知則『間テクスト性の戦略』 夏目書房、2000年 p.96.
(3)同上、 p.119.
(4)同上、 p.98.
(5)プラトン著 北口裕康訳『ソクラテスの弁明 関西弁訳』 PARCO出版、 2009年 p.18.

文字数:2982

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