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高橋源一郎のメタ小説は、(コアな)高橋源一郎ファンでなければ楽しめないか?

 1981年『さようなら、ギャングたち』でデビューを飾った高橋源一郎は、日本においてポストモダン文学を代表する作家の一人とみなされています。つまり、矛盾をはらんだ物語、通常の文章に突如挿入される大きなフォントの活字や頻発する太字ゴシック体の文字、そして作品の虚構性を押し出すメタフィクション的な視点等の、独特の特徴が見られるのです。

 

『日本文学盛衰史』(2001)は、二葉亭四迷の葬儀(明治四十二年)の直前場面から物語が開始されます。その後四迷の葬儀場面に登場する石川啄木や森鴎外などの文豪が、現代のインターネットや携帯電話(作中ではPHSですが)を駆使されている現代と、明治時代の設定の中で混合され、物語は進行して行きます。とりわけ夏目漱石『こころ』の登場人物「K」とは誰か、という謎に迫っていく後半以降は、読者を物語の中に引き込んで行きます。

 

現代日本の読者が感情移入できるのは、設定が現代に置き換えられている場面が多いため、読者が現代のシチュエーションに登場人物の行為を当てはめ、具体的に想像することが可能だからです。田山花袋はAV監督ではなく、前衛的かつ芸術的なエロ「映像作家」になっているのではないか、など、読者各自が自分の設定を想像できるところも魅力の一つとなっています。

 

この『日本文学盛衰史』において、夏目漱石の神経衰弱の情景の執筆と同時期に、胃潰瘍になってしまった作者高橋源一郎の胃カメラの写真も生々しくページに登場しますが、通常、作品に感情移入することから「一歩身を引く」こうしたメタフィクションの手法によって、(いわゆるコアな高橋源一郎ファン以外の)読者を、物語に感情移入させることは可能なのでしょうか?

 

以下、『さようなら、ギャングたち』および『恋する原発』(2011)を題材として取り上げ、ポストモダン文学の手法、つまり通常の小説の文法から外れた、主にメタフィクション的手法によって書かれた小説に対して、読者はどのように感情移入できるかについて、述べていきます。

 

『さようなら、ギャングたち』は三部構成の「小説」ではあるのですが、内容も形式も型破りで、まるで「現代詩のように斬新な」小説です。概略を紹介しますと、第一部「「中島みゆきソング・ブック」を求めて」においては、主人公「わたし=さようなら、ギャングたち」と恋人「S・B(ソング・ブック)」が、死んでしまった、わたしと恋人の娘「キャラウェイ」を埋葬します。第二部「詩の学校」では、わたしは先生となって詩を教えますが、そこへ木星人が現れたり、物語は無軌道に展開していきます。第三部「さようなら、ギャングたち」においては、第二部の終盤において突如登場した、四人のギャングたちとわたしとの駆け引きが主な筋立てとなっています。

 

この小説は読者ごとに、そして同じ読者でも、読むたびに異なる印象を引き起こしますが、一箇所、メタフィクション的手法によって描写された場面において、読者が登場人物の視点に「なる」ことができることを、指摘しておく必要があります。第二部の終盤近く、恋人S・B(ソング・ブック)が大好きなマンガの場面を広げたまま、ねむってしまった肩越しに、主人公の「わたし」がS・Bの手の下のマンガの場面をみつめる次のシーンです。『さようなら、ギャングたち』の中に突然大島弓子原作『まだ宵のくち』のマンガが一頁ちょっと、本当に登場してしまうのです。

 

(『さようなら、ギャングたち』講談社、170p、なお作品中に引用されたマンガは大島弓子原作『まだ宵のくち』から)

 

 読者が登場人物の視点に「なる」ことができるとは、ちょうど今、

 

 

 上の画像をご覧いただくことによって、この文章を読んでいただいている読者の方が一瞬、私の目玉の中に入っていただいた(ような気がする)のと類似した効果を持っています。『さようなら、ギャングたち』において、高橋はマンガを使うことにより、作中の「わたし」の目玉を読者の目玉の中に入り込ませ、瞬間的に読者の視覚を奪うことができたといえます。

 

『恋する原発』(2011)は、東日本大震災の被災者支援チャリティーのために、義援金募集のためのAV(アダルト・ヴィデオ)を制作しようとする「会長」「社長」と、その企画に疑問を抱き、内心ブツブツ文句を言いながらも自分のやろうとしていることの意味を模索する「おれ」についての物語です。小説中に高橋源一郎本人の「震災文学論」が挿入され、メタフィクション的な視点が持ち込まれます。

 

「震災文学論」において高橋は、人々が読んだり書いたりするものには「文法」「正義の論法」といったものがあり、ひとたびそれに疑問を投げかければ、社会の「敵」となることも覚悟しなければならないこと(高橋は9.11テロ後のスーザン・ソンタグへの世論からの攻撃を念頭に書いています)が冒頭に書かれています。(科学技術ではなく)人間の愚かしさをコントロールことが不可能であることを見据えたうえで、未来の(まだこの世に誕生していない)「死者」について思いを至らせねばならないこと、等々も冷静に論じられているのです。

 

 この『恋する原発』において注意すべきことは、作中の「震災文学論」だけを取り挙げても(ここだけピックアップしても十分考察に値する見解が述べられてはいるのですが)、震災当時、無数に語られていた「震災論」に埋もれる可能性もあったということです。冒頭に掲げられている「不謹慎すぎます。関係者の処罰を望みます。 ー投書」という二番目の前書き(この小説には前書きが三つあります)にある通り、この「不謹慎」で「挑発的」で「放送禁止用語」にまみれた(文庫本の高橋本人のあとがきによれば)「ひどい小説」の中に挿入されてこそ、この震災論における主張が強度をもつ、ということなのです。一見とんでもない設定の『恋する原発』の中にメタフィクション的に「震災文学論」が置かれることによってはじめて、「正しいこと」「いま語ってはいけないこと」とは何かについて、読者の中に疑問が生まれ、読者は「我が事として自分で考える」ことができるのです。

 

ここで、冒頭の問い(メタフィクション的手法によって書かれた小説に対して、読者はどのように感情移入できるか)について、「メタフィクション的手法によって作品の虚構性を前面に出す作品と、それに対して、完全に虚構性によってしか成り立っていない通常の小説は、読者の感情移入の性質が異なるのだろうか」と言い換えることができます。そこで、以下高橋作品の中でもメタフィクション的手法を用いている二作品と、そうでない二作品をあげて、主に読者がどう受容するか、について比較してみます。

 

 以下の二作品については、小説のメタフィクション的描写が割合と、前面に押し出されています。『ジョン・レノン対火星人』(1985)では連合赤軍事件についての、『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』(1984)では東京拘置所に拘置されている政治犯と拘置所所長および看守たちについての「小説」であるにもかかわらず、この世界の不条理について告発する作者高橋源一郎の姿を思い浮かべずにこれらの小説を読むことは、同時代の(つまり現代の)読者にはほとんど不可能です。『ジョン・レノン対火星人』『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』においては、高橋が19歳の時(1970年2月から8月まで)拘置されていた「東京拘置所」が主要な舞台となっているからです。図書館で著者のことを全く知らずに偶然これらの本を手に取った人、等の例外を除く、高橋源一郎がどんな作家であるかをある程度知っている読者は、作品の後ろから何かを主張する作者高橋の姿を想像してしまうのです。

 

 逆に『ゆっくりおやすみ、樹の下で』(2018)や『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』(2017)においては反戦、象徴天皇制等の社会批評を扱いながら、作者高橋の姿は前面に押し出されていません。読者は『ゆっくりおやすみ、樹の下で』の主人公ミレイちゃんと語り手のぼく、また『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』のぼく(ランちゃん)の虚構の物語に没頭できるのです。小説の文体に常に意識的であった高橋自身は、小説にメタフィクション的描写を導入すると、作者の問題提起が読者の脳裏に反映する可能性があることを、知っているのではないでしょうか。従って、この2作品においては、作者の主張による現状への異議申し立てという方式よりも、小説自身が持つ虚構の物語に夢中になり、読者自身が問題提起をして欲しい、と作者が判断したと推測することができます。

 

 こうした見解に対して、この二作品が子供でも読めるようにやさしく書かれていること、特に『ゆっくりおやすみ、樹の下で』は作者自身があとがきで、この作品が作者高橋にとって最初の児童文学である、と認めているとおり、主に子供を対象に書かれた作品であるため、通常の小説の枠組みから外さずにオーソドックスな型の小説形式で執筆したのではないか、という反論が想定されます。しかし、同じ『ゆっくりおやすみ、樹の下で』のあとがきで、作者は「子どもたちこそ、もっとも手ごわい読者」であると述べているのです。そうであれば、高橋源一郎の作風を強く押し出す方法の一つである、小説のメタフィクション的描写を採用するか否かについて、作者は熟慮の上で、この二作品については、不採用の立場をとったと考えるのが妥当だと言えるでしょう。

 

 従って、メタフィクションの手法によれば、「フィクションによって成り立つ物語を疑うことによって、外からの(多くは、見たくない現実に対する)視線を、ノンフィクションである現実世界に対しても導入すること」を読者が受容できる限りにおいて、読者を物語(メタフィクションの小説)に感情移入させることは、可能であるといえます。そうであれば、いわゆるコアな高橋源一郎ファン、高橋の経歴を知らない読者であっても、『ジョン・レノン対火星人』や『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』で取り挙げられている政治問題について、考えを巡らせることは十分に可能です。この見解から照らしてみると、フィクションの手法によれば、作者は作品の虚構の世界に全てを委ねて、読者が自分の内面から問題提起することを願っている、といえるでしょう。

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