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カオスな世界を/別のしかたで/死にながら生きていく

改めて振り返りたい。2010年代とは何だったのだろうか。嵐のように過ぎ去った感じが強い。たしかに、ひとたび嵐が吹き荒れると、何もかも根こそぎに攫ってしまう、そういう時代だったのではないか。もしくは、くすぶっていた小火が、突然起きた強風に煽られて、炎上してしまう、焼け跡には何も残らない。そんな様相が、そこかしこに現れている。

日本人にとって最も象徴的なのは、やはり東日本大震災だろう。ゼロ年代が終わり、いよいよ21世紀も本番なのだと思った途端に起きた大地震、大津波、大事故。それらは否応なしに、私たちを変容させた。多くの日本人にとって、ひとつの契機をもたらしたはずだ。

しかしこの流れは、日本特有のものではない。

それはたとえば、全体主義の反省からスタートした相対主義のほころび。当初から危惧されてきたことだが、ますます現実味を帯びてきたのがゼロ年代とするならば、はっきりと露わになったのが2010年代である。「Aにとって不義とされるXはBにとっては正義だ、どちらも正しいのであれば、Xであって何が悪いのか」という感情が、至るところで噴出している。本格的にSNSが介在することで、その溝は加速度的に深まっている。

そして2010年代が終わりかけた今となっては、世界は相変わらず、カオスで充ちている。こんなときに、颯爽と現れる思想があるのなら、きっと人々は取り憑かれるはずだ。それはもう、インフルエンサー並の影響力で。

そんなときに現れたのがマルクス=ガブリエル。『なぜ世界は存在しないのか』は、彼の名を世に知らしめた哲学入門書だ。ガブリエルは、史上最年少でボン大学の教授になるなど、まばゆい経歴が並ぶ若き哲学者。この書籍が2013年にドイツで発表されると、たちどころに時代の寵児になった。日本でも、5年後の2018年に翻訳版が発表されると、一般的な哲学書の枠組みを超えた売れ筋タイトルに。内容の難解さを超えて、『なぜ世界は存在しないのか』などという挑発的なワード、「です・ます調」の語り口や細かいチャプター分けをはじめとする読みやすさ、ガブリエルの風貌(美青年ではないが、いわゆる雰囲気イケメン)と相まって、専門外の人にも多く支持を得たようだ。2018年6月の来日時には、一般紙(朝日新聞社)でのイベント招聘や、NHKでは密着取材・ドキュメンタリー番組も組まれたほど。この取材記録も12月に刊行された。

『なぜ世界は存在しないのか』を少し読んでいくと察するのだが、ガブリエルの論にとって大事なのは、その挑発的な言葉ではない。大切なのは、彼の提唱する「新実存主義」の解説だ。それはカントから続くドイツ哲学の本流とも言えるはずで、ものすごく突飛なこと言っているわけではない。しかし、こんな時代に「新実存主義」と銘打った新基軸を置いたことが、画期的であるといえる。このような形でガブリエルに脚光が浴びることで、同時代の哲学者――例えばメイヤスー、ハーマン――の仕事にも関心が向くはずだ。海の向こうにも、新しい切り口で物事を考えようとしている人が、けっこういるのだと。

そして、この本は他でもない、常に「別のしかたで」物事を見てきた千葉雅也が「推薦」している。

これは何故だろうか。その理由を本人の明かすところに従えば、――そして、素直に辿れば――本質主義だけではなく相対主義だけでもない、第3の道を示しうる画期的な考えがあるから、ということになるだろう。しかし、本当にそれだけだろうか。私はそうは思わない。

千葉雅也の「推薦」とは、実際はそれだけに留まらないはずだ。おそらくは、社会的実験。日本での読まれかたを愉しんでいるに違いない。

自然科学の側からは、どのような応答があるのか。哲学書コーナーとスピリチュアルが同じ分類をされる(ことも多い)日本の書店を経由して、どのように読まれるのか。キャッチーなフレーズに惹かれた読者が、この本によってどのように変容していくのか。――そうした一切合切を愉しんでいるのではないか、そんな気がしてならない。

というのも、哲学とはそういうことなのかもしれないが千葉雅也にとっては特に、「AでもなくBでもない、C」というそれこそ「別のしかたで」答えを探しているようだから。NHKの密着取材で、英語が読めないが原著を買ってサインをもらっていた読者が感動している様子も映し出されていたが、それさえもきっと、千葉雅也は鋭く観察するだろう。

変容する世界で主体がどのように生きるのかについて、千葉雅也は常に問うている。ある論考では、カトリーヌ=マラブーの可塑的世界に、デリダ=東浩紀の郵便的世界を変換して、倫理を打ち立てている(「マラブーによるヘーゲルの整形手術―デリダ以降の問題圏へ」)。

これはとてもわかりやすいし、頷けるのだが、しかしそれでも、私は確信できない。それは、もうひとつ2010年代を象徴する出来事として「#Me Too」問題を通ったからである。

今さら説明は不要かもしれないが、これは2017年、アメリカに端を発した、ハッシュタグを介した運動。他人が声を上げるキーワードとして「#Time’s UP」があるのだが、「#Me Too」のインパクトには勝てなかったようだ。

そもそも「me too」というフレーズ自体が平易な言葉だったからだろう、偶然にも2006年に同じアメリカで、タラナ=バーク氏がマイノリティの性暴力被害者から同じ立場の人につながるために投げかけたのが「#Me Too」だったという話が出てきた。「実は」という裏話がすぐに出てくるのも、実に2010年代的だ。そして最終的には、呼びかけた俳優アリッサ=ミラノ自身が、昔のセクシャルハラスメントで訴えられたということ自体が、この問題を象徴していると思われる。被害者は加害者になりうる。絶対善は、ないのだ。

これからの問題は、この変容がおきた後、どのようにすればいいのかということだ。分断したままでは何も始まらないということは、もう私たちは十分見てきた。しかしここで、ことさらに「連帯」を訴えるほどの純な心は持ち合わせていない。実際問題として、Me Tooを越えて、私たちはどのように生きていけばいいのだろう。

ここで卑近な例を持ち出してみる。

1996年から2004年まで白泉社「花とゆめ」で連載されていた少女マンガ『花ざかりの君たちへ』がある。これは少年マンガのラブコメという形態をとりつつ、「女子の妄想」が詰め込まれたものだ。アメリカ育ち(母はブロンド美女・父は日本出身の獣医)の少女が憧れのハイジャンプ選手に近づきたいがために、単身日本へ渡る。彼が通う私立の「男子」高校・桜咲学園(全寮制!)に男装して入学。彼と同じクラスになり、寮でも相部屋(!)になって満面の笑みである。彼の方は早々に少女が男装しているという事実を知りつつ、彼女を好きになってしまうのだが、本人がまったく気づかないまま、ハプニングが続いていく、というストーリー。

「花とゆめ」読者へのサービスの意味合いも強いBL的な要素がちりばめられている。そして、この高校生たちが、寮の中で度々飲酒をしている。

久しぶりに読み返してみれば、このマンガは、少女誌の掲載と鑑みれば、現在の基準ではアウトな要素が多い。それこそ、男装して全寮制の学校に乗り込むなんて、愚の極み。いくらフィクションといえども、美形の保健の先生が学校でタバコをふかしているとか、寮の中で未成年が飲酒をしているとか(彼らはヤンキーではない)、NG要素が満載なのである。

私はもはや、この作品を少女マンガとして、純粋に楽しめなくなっている。あぁ、とてもつまらない人間になってしまったという気持ちもある。しかし、これはもう仕方の無いことなのだ。#Me Tooの後にも先にも、いろんなことが目の前で起きた。そして私の思考は変容してしまったのだ。

しかし、こうした変容は、つまらないことだけではない。

職場でのセクシャルハラスメントを考えてみる。あれは、脅しであることが問題なのだ。不快に思っていると意思表示ができないこと。「あぁここでクライアントのことを全力拒否したら、ウチの社長は私のことを守ってくれないだろう」と判るが故に、身を任せてしまうこと。「これを本気で嫌がったら、この人から仕事が来ないかも。事実、あの先輩はこの人と仕事ができていない」と思ってしまうこと。

今思うと、あれは何だったのだろうか、と不思議になる。

#Me Tooに参加すればよかった、というわけではない。しかし、あの問題で、人が傷ついているのだということはわかった。それは男性も女性も関係なく。「#Time’s UP」よりも「#MeToo」を選んでしまうのが人間である。傷を交換したい人間の姿を見てしまった。そうなると、もう怒りに震えるだけではない。怒りを通り越して、共存したいと思う、そんな思考が芽生えたのだ。キレイごとではないのだが、綺麗に見えるのなら、それでも構わない。

この状態をして、「解離」や「分身」であると、私にはとても確信が持てない。むしろやはり、乗り越えるには、主体は一度死に、別のしかたで生きていくほかないのだ。

文字数:3731

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