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「任意のP」はサバイバーとして動く

誰かが言う。世代論なんてアテにならないと。その指摘はたしかに、ある面では正しい。同じことを体験しても、まったく同じように感じる人なんて、いない。あるいは総論が過ぎれば、性格診断にも似た「たいていの人に当てはまること」になるのかもしれない。ときには、表現者の特異点は時代と離れた所にあるという指摘もあるだろう。
もちろん、世代論ですべてが語れるとは思わない。しかし、表現者が社会と無縁の存在ではない以上、いずれかの場所性、時代性を負っている。表現者とはいえ、時代から逃れられるはずはない。さらに、優れた表現であればこそ、時として内部に歴史を孕んでいるものだ。その歴史性は、受け手の態度により異なる様相を見せる。受け手の側にも同じぐらいの共通項があれば、それは心地よい符牒として機能する。反対に知らない者にとっては、その歴史の厚みに包まれるであろう。そしてその歴史は、表現者の内部と分かちがたいものだ。そういう意味で、「ある面」を語るには足るものだとして、歩みを進める。
あなたは、1995年をどう過ごして、2011年には何をしていただろうか?
映画監督・濱口竜介のことを平成最後の年末に書く以上、この時代は振り返らざるを得ない。
1995年に立ち戻るにあたり、いまいちど思い出してほしいものがある。ポケットベル、ポケベル、ベル。 通信機器というより無線呼び出し機「ポケットベル」である。
1975年~1981年生まれを「ポスト団塊ジュニア」あるいは「ポケベル世代」と呼ぶことがある。「団塊ジュニア」でもなく「ゆとり」とも言えず、いまいち存在感の薄い年代だが、この論考では、さらにこの中でも1977年~1981年生まれを限定したい。何故なら1995年に思春期の真ん中を通っていたから。1995年に動いた彼・彼女たちを仮に「任意のP」としよう。
「任意の」の在処。それは、数学の教科書に現れては消える呪文である。自由意志のもとに定めるP。
ポケベル、ピッチ、プリクラ、パラッパラッパー。いろいろなPに囲まれて、それらのPを手にして、新たな自由意志でどこにでも行ける気がしていた、あのとき。そんな世代を仮で示す呼称として「任意のP」がふさわしい。
ところで「ポケベルって、14106でアイシテル」のアレですよね?――という声が聞こえてきそうだが、少し違う。ここで挙げたいのは、それから一世代後のポケベルだ。「1112324463」という数字をプッシュ式電話でベル打ち(正式には「2タッチ入力」と言う)することで、受信した側には「アイシテル」と表示される時代があった。
一方からコードを送れば、片言でメッセージが届く。機種やサービスによっては絵文字だって送れた。 「14106」なんて秘密を共有して脳内で変換する必要もなく、わかりやすい形で相手に届けることができるのは、これまでとは大きく違う点だ。
このポケベルサービスは、「任意のP」にとって実体を伴って「ウチら」の時代というものを感じた事象のひとつだった。大人たちは、どうしてこんなにポケベルを持ちたがるのか、腑に落ちていない表情をしていたから。 2018年の今、過去のベクトルを向けば、この頃インパクトが大きい新製品は「Windows95」であるのは間違いない。だがしかし、実際にその事実に目覚めていた中高生は少数派だったはずだ。それよりももっと興味を惹きつけていたのは「ドコモのポケベル」だった。この点、すでに「ガラパゴス化」の予兆はあったのだと言える。
果たしてポケベルのメッセージは、それが既読かどうかはわからない。しかし、届いているはずだ。だからこそ、返事が来ないとか、折り返しの電話がないとか、そういうことで、たじろぐ。人の心は文明の力で、いとも簡単に揺らいでしまう。もちろん、現在の中高生におけるスマホ普及率からしたら、たいしたことはない。持っていなかった中高生のほうが多かった。それでも、人というものは、ふとしたモードで行動が左右される心許ない動物であると感じ取っていたのだ。なぜなら、それは装置の特性だけではない。世の中が揺らいでしまっていたからだ。
1995年は時代の境界線である。そんなことはゼロ年代とっくに言われていたことではあるのを知ったうえで、説明は不要かもしれないが確認をしておこう。まさしく戦後50年を迎える年だった。1月に阪神大震災が起き、それからほどなくして3月、東京で地下鉄サリン事件が起きた。被災地域でなくても、阪神大震災一瞬で街は燃えてしまうこと、安全だと言われていた高速道路も決してそうではなかったことが、戦後初めて露見した。そしてオウム真理教。 集団が変容し暴走する恐怖と同時に、世紀末思想やハルマゲドン的破壊衝動への興味も増していく。そんな中、じわじわと「ブルセラ」は先鋭化を遂げ、「援助交際」という言葉が巷にあふれ始めた。言うまでもなく、現在の「JKビジネス」の源流はここである。宮台真司も「援交・震災・オウム」 を関連づけて、 当時の日本の情勢を次々と解き明かしていった。 今やフォロワーのバイブルである『制服少女たちの選択』『終わりなき日常を生きろ』もこの時から生まれたものだ。
そして、あれほどイケてる証拠だったポケベルは、1年も経たないうちに「Pメール」にその地位を明け渡すのである。Pメールとはピッチ(PHS)に備わったSMSの先駆けだ。軽薄としか言いようがない。しかし、汚職をする政治家が一般の人を裏切っているのだ。そして、社長も背任をする。そんなことに比べれば、何ら悪くない。極論を言えば、公衆電話に並ばせることを改善しなかったポケベルが悪いのだ。
そんな社会の流れとは別に、身の回りで「キャラ化」が進んでいく。キャラがカブるのは避けるが、悪目立ちはしない。あなたがキティを持つなら、私はマイメロ。男子も女子も、なるべく同じような格好をして、それでもちょっとした差異を競う。
しかし、そうして時が過ぎる中で、「任意のP」たちは気づいてしまう。アイツとワタシは結局のところ、同じ「P」でもわかりあえない。そして人はときどき、説明のつかない衝動に襲われる。キレる瞬間は、どうしたってある。
それだけ揺らげば気が済んだかと言えば、そうではない。その余波は数年続き、時代のムードを作りあげていく。 世紀末現象では片付けられない揺らぎだった。21世紀にも入って約20年が経とうとする現在の私たちも、まだその余波の中にいる。
その後も、この「任意のP」はしばらく、マーケット的には「F1層」「M1層」と呼ばれる場所に滑り込むことで、時代の潮流を左右していく。「任意のP」がお気に入りにしたiモードが口火を切ることで、日本の通信事業のガラパゴス化が固定化されていった。「任意のP」たちは、 メッセージを送りつけ合う装置を常に求めてきた。 コミュニケーション不足や心の闇が取り沙汰される事件が次々と起こる中、そんな世相を無視するかのように、いや、もしかしたらその反動かもしれない。やがてその潮流が「任意のP」から次の世代へとグラデーションのように浸透しながらたゆたい、SNS、YouTubeという世界的な流れにぶつかり、さらに漂流していく。その流れがぶつかるたびに、日本のメーカーは削られていってしまう。
要するに、日本の景気は先細りになるばかりだ。実感としてはよくならない。
さりとて、任意のPたちは学生時代のアルバイトで、ものすごく消費に貢献した。だが、社会に出るときに大きな壁にぶつかった。高卒でも大卒でも、ベースは就職氷河期で、職場にはバブルの残滓すら残っていないかった。一生使えると思っていた資格が給与UPの役にも立たず、前の世代とは予算が縮小されていく中で、成果主義が導入されるという現象が、 そこかしこ、いろいろな職種で起きた。「任意のP」が自由意志で動けるのではなかった。実のところ、いつでも入れ替え可能な存在に過ぎになかったのだ。彼ら・彼女たちは、社会に出てからずっと、サバイブしている。今や不惑の40代に差し掛かるところでも、彼ら・彼女たちは、サバイバーとして動き回るのである。
濱口竜介は1978年、神奈川県生まれ。つまり1995年を17歳で迎えている。本論で言うところの「任意のP」である。そして、このムードの中で、濱口は映画を撮ろうと、映画監督を志した。大学卒業後は映画の助監督、TV番組のADをしていたが、2006年に大学院・映像研究科へ進む。
2008年、修了制作としての監督作品『PASSION』を発表後、映画表現を探り、その都度画期的と捉えられるインディペンデント作品を発表していく。
酒井耕との共同監督で2011年から2013年にかけて発表した、東日本大震災以後をドキュメンタリーで追った「東北記録映画三部作」。『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』はカメラに相対する、人物たちの語らいで基本的に構成されている。そして2012年のENBUゼミナールの卒業制作として撮り下ろした『親密さ』。2015年に発表した5時間18分にも及ぶ大作『ハッピーアワー』。
2018年には、柴崎友香の小説『寝ても覚めても』の映画化で 初の商業映画を発表したばかりだ。「第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品」というニュースは記憶に新しい。
彼の映画制作において、自他ともに認めているのが、学生時代の師・黒沢清からの影響である。そしてシネフィル的な手つきは、しっかりと受け継いでいる。映画を制作する手法にしても、タイトルのつけ方にしても、過去に敬意を表し、歴史をふまえた振る舞いをする。
しかしそれだけではない。時代を更新しようとしている。それは「そうせざるを得ない」状況がもたらしたものだが、確実に濱口の映画を豊かなものにしている。
2011年3月11日。多くの日本人と同様に、濱口にとって、大きな転機となった。本格的に映画を撮ろうという力をつけてきた頃に見舞われた震災。起きた直後は、誰もここまで長引くとは思わなかったのではないか。こんなに酷い状況を乗り越えるならば、当初は、再び日本は生まれ変われるに違いないとか、楽観的な雰囲気もあったように記憶する。しかし、しかし、7年経った今、どうだろうか。私たちーー少なくない人が、いつの間にか忘れたフリをしている。あの夜のことを。あの日々を。そしてまだ、解決していない問題があるということを。1995年の残響の中で起きたのが2011年の地震のように思う。私たちはまだ何も、乗り越えてなどいない。
濱口は、日常の延長を描こうとする。黒沢清をはじめ、先を行く世代がSFやホラーというジャンル映画で、さらに前の世代を更新しようとしたように、一世代前とは別のベクトルで構築しようとしているのだ。濱口によれば、それは現実的な問題でもあるようだが・・・・・・。
『寝ても覚めても』のインタビューで、この作品に限らず「人を撮る」ことを続けてきたことに関して〈お金がない環境で自主映画を作ってきて、基本的には「人を撮る」「自分と他者との関係を撮る」という形でやってきました。これなら作り続けることができるからです〉とコメントしている。
だがしかし、これは現実的な問題だけではない。日常の中で他者とどのように関わっていくのかということにフォーカスすることで、日本映画に強度を持たせようとしている。日常の身振りと言葉で、他者とどうやって相対していくのか、映画というフォーマットで真摯に示すことは、極端に少ない。小津映画に代表されるような、静的な、絵画的な日常の描き方もある。しかし、キャラクター同士がそれにふさわしい発話を重ねていくことで、ドラマが生まれる、リアリティが立ちあがる、そんな映画を濱口は目指しているのだろう。それは、小津の目線で、映画を21世紀に再構築することではないか。
小津安二郎は戦後、いわゆる「戦争映画」は残していないとされている。しかし、戦後の日本を描くことで、戦争を換喩している。すでに明らかなように、『晩春』、『麦秋』、『東京物語』は明らかにヒロインの紀子には戦争の影がある。こうした形で小津が戦後を映画にしたように、濱口は震災後の日常を映画にしようとしている。日常の記憶として。だからこそ『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』が生まれた。
ところで、小津安二郎はやがて、変わりゆく日本を厭世的に捉えて苦しんだようだが、これからの濱口はどうだろう。
すでにサバイバーである濱口に、それは起こらないのではないか。「任意のP」の世代として、物心ついたころから、すでに支配されていた空気で育ったからだ。さらには、小津が、他の監督たちがどのように映画を撮ってきたかを知っているから。
さらに、こう考えているのが彼だけではないことも救いだ。この日常を、他者との対話を描こうとしている表現者が、同世代にいる。
たとえば、1981年生まれのマンガ家、ヤマシタトモコ。デビュー当時の「どんなマンガが描きたいか」という問いに〈ひととひとは絶対にわかりあえない。なぜわかりあえないのかを描きたい〉と答えていた。つまり、2011年以前、すでに彼女はそう考えていたということだ。そしてそれは、必ずしもアンハッピーエンドではなく〈わかりあえないけど寄り添うところが、文明人の美しさだと思います〉とまで宣言している。
これは、濱口が『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』で描いたエンディングとシンクロしている。
だからこそ、思う。もし死角があるとすれば、濱口が映画を愛するが故のことだろう。『寝ても覚めても』の原作を読んだときに「ドッペルゲンガー」の主題だと思って面白いと感じたという。それは、映画を撮っているからこその発想なのかもしれない。小説を読んだ時点で二人の男が同じ顔を「していた」かどうかは、判断がつかない(いやむしろ、「朝子」にしか「同じ」に見えなかったのではないか)。
しかしそれは希望でもある。まだたどり着いていないところだから。
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参考文献
・濱口竜介『カメラの前で演じること』2015/左右社
・三浦哲哉『ハッピーアワー論』2018/羽鳥書店
・柴崎友香『寝ても覚めても』2010/河出書房新社
・さやわか、西島大介『マンガ家になる!』2018/ゲンロン

文字数:5828

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