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SIDE-B 1990年代/少女的ポップカルチャー

【目次】

OP. 2020年代=改元後ヒトケタ年代

 

#1-”SEKAI-KEI” NO OWARI

◆少女小説

コバルト文庫、ティーンズハート

◆現実はやってくる

 

◆少女小説のその後(2000年代へ)

桜井亜美

 

#2 -液晶化現象

◆フラット化

◆インターネット

自然災害から人生の節目まで

 

#3 -Over

◆クールジャパンはどこにあるのか

セーラームーン

◆キャラを超えた関係性

 

#4 Last Cords

もういい加減にレクイエムを歌いたい

 

参考文献

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OP. 2020年代=改元後ヒトケタ年代

1990年代を総括する動きは、2018年に入って活発になっている。2018年は、なんでも「平成最後」である。だから来たる時代、次の元号に向けて備えたいという人々の焦りが見てとれる。

たとえば安室奈美恵の引退は、1990年代を起点にしたポップカルチャーの節目を示唆する。しかしまだ本当は、1990年代は終わっていないのだ。

時を同じくして、「SUNNY~強い気持ち・強い愛~」という映画が封切りされた。出演者や制作側はもちろん、受け手側も「あの時代の女の子たちは輝いていた」と述べている。しかしながら、この作品で強調される「懐かしさ」は、本当にノスタルジーに値するものだろうか。もし輝いてたとすれば、その輝きの正体を差し出すことが歴史化させることだ。しかしながら、制作側の「あの頃の女子高校生ってパワーがあったよね!」という褒め言葉が出てくる。この現象自体が、当時からアップデートされていない証拠である。

この映画で描かれる1990年代の女子高校生の象徴は雑誌『egg』である。その文化を肯定的にとらえる批評の試みは、宮台真司をはじめ当時から行われていた。その文化は「コギャル」または「援助交際」的な世界だ。しかし、これはSIDE-Aしか見ていない。そもそも、1990年代の批評において重要とされている2種類のタイプは「セカイ系好きな男の子」と「援交だってアリなギャル」とされてきた。もちろん、この二者しかいないと思っている批評家はいない。現代の嗜好は「細分化されている」と承知のうえで、それでもSIDE-Aに偏った言説になっている。それ以外は「バンギャル」「メンヘラ」「腐女子」というジャンル読みもの的な扱いをされてきたのが実情だ。

 

本来は、SIDE-Bも、まるごと総括しなければ、時代をとらえることにはならないはずだ。

 

この論考では、その観点に立って1990年代におけるSIDE-Bを扱う。軸にするのは「日本の少女的なセカイ」だ。

 

そもそも何の理由があって、西暦10年ごとの区切りで話をする必要があるのだろう。

それは、私が人の生きている営みを浮き彫りにしたいからだ。そのためには、時間軸というものさしを使いたい。現代社会では、1年単位で物事は進んでいく。1年単位で何がどれだけ売れたのか。誰が有名になったのか。そしてそれを10年単位の「時代」として区切ることが、どうしても多くなる。

 

そして、1990年代にこだわるのはそれだけではない。1990年代は、改元ヒトケタ年代でもあったのだ。それは2020年代以降に呼応している。

 

冒頭にも少し触れたが、日本では西暦のほかに「元号」の時間軸も存在する。これは今ではもはや、あまり意味を成していないように見える。普段は多くの人が気にしていない。だからと言って、存置するか否かという論議には至らない。当たり前の制度として、空気のように存在している。年末年始に「今年はXX年だね」と振り返るのが関の山だ。

 

日本での元号の仕組みは、そもそも大和朝廷に中国大陸から輸入された。以降、連綿と使われてきた制度である。しかし、今のような元号の使われ方は、たかだか最近150年のことだ。「明治」は発明された。

 

「ひとつの時代は、天皇の在位期間に相当する」という定義は、突如として立ち上がったものだ。時代を象徴するのは、他ならぬ天皇であると規定し、実は、戦後に生まれる「象徴天皇制を先取りしていたのである。この意味で、現在の元号制度は、近代日本が発明した、数少ない「思想」と言える。

この元号制度は、時間の規定を変えた。「明治元年」の成り立ちを紐解くと、魔法のようなものだった。私たちは150年もの間、その魔法にかけられているのである。

 

繰り返すが、1990年代は改元ヒトケタ年代のことでもある。そして偶然にも、次なる改元ヒトケタ年代は2020年代と同調する予定だ。ただし、これは単なる1990年代の繰り返しにはならない。それだけにはとどまらない。

 

理由は、いくつかある。まずひとつは、私たちはこれを喪に服することなく迎える。これは明治以来の出来事である。

そして何よりも、すでに1990年以降の30年を経験しているからである。同じことが起きても、まったく新しい気持ちで迎えることはできない。

私たちは明治時代の人に比べて長生きを運命づけられている。「人生100年時代」なのだから、これは仕方のないことだ。

私たちは、これから未知の領域に足を踏み入れる。宇宙へ飛び立つ前に、海の様子を知る必要がある。この論は、そのために描かれる。

 

#1

◆セカイ系のはじまりは、少女小説にあった。

新井素子の作品がセカイ系の元祖であることは疑うことのない事実だ。彼女の作品を少女小説の中に収めることには抵抗がある人もいるだろう。そもそも「少女小説」と区切ることの是非はあるにせよ、コバルト文庫の文脈で語られる際は、少女小説という枠組みでよいはずだ。

ジュブナイル小説。ヤングアダルト小説。色々な呼び方があるが、ライトノベルの原型と言われているものだ。1970年代前後、それまでの少年少女小説よりも、書き手の感覚が読み手に近い作品のレーベルを集英社や講談社が発表した。

新井素子は、この文脈で言うと、氷室冴子らと共に、そのコバルト文庫の初期を代表する作家である。その作品世界はSFとも親和性が高く、後のライトノベルの源流という性格を持っている。

東浩紀が『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』で指摘しているように、新井素子が描きたかったのは、現実の側ではなかった。後にセカイ系で多く見られるような、世界の終わりに二人でいることで満たされるセカイの側だったはずだ。それは作品が発表された時代にも関係している。

しかし、それだけではなかった。

少なくとも読み手にとって、それだけではうまく結べない問題があった。

何故なら、その後の少女小説レーベルに見られる作品のシチュエーションは、セカイとともに迫ってくる現実を、処理しながら進んでいくものが圧倒的だ。コバルト文庫やティーンズハートのフォロワーにも、ファンタジー要素の強い作品は多いのだが、家族や友人との不和という伏線を持ちながら、この世ならざる者と出会うパターンは王道である。

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