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エポックメイキングという古典

かつてイタリアの作家イタロ=カルヴィーノは、1981年に「なぜ古典を読むのか」という記事を書いた。そのなかで〔私たちがどういう人間たちであるのか、どこまで来ているのかを知るためなので、そのためには(イタリア人にとっては)イタリアの文学を読むことが必要になる。自分たちを外国の人々とくらべてみるために。また、外国人(の著作)が必要なのは、これをイタリア(のもの)と比べるためだ〕という分析をしている。そして18世紀の詩人レオパルディの環境と自らを比較する。レオパルディの場合は〔古典を読む環境は、完璧なかたちで存在した〕が、現代では古典を読むことを〔ながい時間を、人文主義者たちのいう〈オティウム〉(高尚な閑暇)の息の長さを知らない、私たちの生活のリズムとは相容れないように〕感じてしまうという。

だが、これは決して悪いことではない。私たちのいる場所で読むから見えてくることがある。カルヴィーノは、古典派なるべく原文で当たるべしというが、そういうわけにもいかない。翻訳は、未知の世界を照らす灯りだ。古典の新訳が出る時代に居合わせられるのは幸運とも言える。翻訳者の目線と近い場所で読むことになるからだ。

あなたは、スカーレットが、実は美人ではなかったと言われて信じられるだろうか。しかしマーガレット=ミッチェルはそのように描いている。美人ではないが、男性にとってチャーミングな女性だという。原文を紹介しよう。

SCARLETT O’HARA was not beautiful, but men seldom realized it when caught by her charm as the Tarleton twins were.

2015年に鴻巣友季子が翻訳したスカーレットは、このように現れる。

スカーレット・オハラは実のところ美人ではなかったが、たとえばタールトン家の双子がそうだったように、ひとたびその魅力の虜となった男たちには、美人も不美人もなくなってしまうのだった。

もっとも、ほかの誰もが「絶世の美女でした」とは翻訳していない。長年、日本でお馴染みの大久保康雄・竹内道之助による翻訳もこの通りだ。

スカーレット・オハラは美人というのではなかったが、双子のタールトン兄弟がそうだったように、ひとたび彼女の魅力にとらえられると、そんなことを気にするものは、ほとんどいなかった。

日本での受容は、1936年にアメリカで出版された『Gone With The Window』が大久保・竹内の両名で完訳されたのが1940年。そして1977年に再度出版されたのは1964年の本国での改訂版を底本にした改訂版が出ている。

この冒頭の差異には、日本での本作の受容の歴史が凝縮されているのだ。

少なくともミッチェルは「男たちは」と描いている。日本語は主語がなくても存在できるからといって、省略すべき箇所とはいえない。なぜか。スカーレットが女性から嫌われるひとつの理由に、女性から見たら(おそらく本当は)特に美人ではなない、という事実があるからだ。そしてそのことは物語が進むにつれて、周囲の登場人物(特に女性)たちとの関係性にも連なってくる。美しいとされる女性には2種類いる。「女性からも好かれる人」と「男性からの支持を妙に集める人」だ。その現象に、彼らは気付いていなかった。

さらにもうひとつ、彼らはメディアミックスの結果を考えていなかった。若い時代に接したテクストへの興奮が冷めることがなく、映画『風と共に去りぬ』でスカーレットを演じたヴィヴィアン=リーの美貌を忘れてしまったのだろうか。いやむしろ、彼らも物語に登場する男性たちに漏れず、スカーレットが美人であるかどうかはどうでもよく、骨抜きにされていた可能性だってある。

原文に「実のところ」にあたる表現はない。これを過剰な演出と感じるだろうか。しかし、本書を開く時にヴィヴィアン=リーの顔を思い出す人がほとんどではないか。だからこそ、この一文は、映画とは別の世界が始まるのだと宣言する嚆矢になる必要があるのだ。

数十年前よりは女性の声がよく通るようになった日本。ここに生きる私たち。もしかしたらミッチェルと同年代の翻訳者よりも、彼女が描きたかった世界に近づけるのかもしれない。しかし、そこにも、それゆえの限界が迫っている。それは会話の箇所である。

ミッチェル自身は「コロキュアリズム(日常会話のような話し言葉)」での会話文を大切にしていたが、これを日本語に表すのは難しい。発表当時に作者がステレオタイプを使ってキャラクターを表出しようとしていたことを考えれば、鴻巣友季子自身が述べているように、老人の「~じゃ」やお嬢様方の「~ですってよ!」、召使の「~しただよ!」という口調にも理解ができる。しかし、その時代もそろそろ終わるかもしれない。この手法を率先して取り入れてきた映画翻訳の現場でも、このような文体から脱却しようという試みがある。創作物においてキャラクターがますます重要になっている現在、たやすく逃れられないだろうが、いずれは、それらを定型と感じられない時代が来るはずだ。すでに、黒人たちの話し方に居心地の悪さを感じる2018年現在の私がいる。

この作品は、アメリカ文学にとってエポックメイキングだった。ミッチェル自身は、ただ南部の一時代を書いただけだと思ったのだが、1936年に発表されるや否や世界中を熱狂の渦に巻き込んでいった。それは、アメリカという国の存在感が増していたこともあるだろう。それだけでなく、男性と同じようなことをして、疎まれ、刹那的な性愛を感じる日々を生きるという、新しい時代を予感させる世界が描かれていた。そして結果的に、ベストセラー小説の映画化で大ヒットするというハリウッド・日本映画における方程式のスタートになったと言ってもいい。その新時代への予感は、日本にも波及していたからこそ、大久保・竹内も4年で出版までこぎつけたのだろう。

それでは、日本でどのように読まれたのだろうか。有吉佐和子の『出雲の阿国』に、その応答の片鱗が見える。

日本語で肌の色が違うという理由でしゃべり方が異なることはなかなか当てはまらない。ただ、方言というものがある。これを駆使して有吉佐和子は『出雲の阿国』を執筆した。歌舞伎の創始者として歴史に出てくる出雲出身の踊り子「お国」の生涯を追った大河的なストーリー。踊りに命をささげるお国の視点で、揺れ動く戦乱の世から江戸時代の幕開けを描いているのだ。愛する人への猜疑心、友への嫉妬、2人の男で揺れ動く心、心の向くままに動くこと、本来男性がするべき傾いた振る舞いが周囲を苛立たせ、困難を呼んでしまう。これは『風と共に去りぬ』だ。そのうちに、未亡人となったスカーレットがレットに導かれてワルツを踊る場面と、阿国が躍る場面のリズム感がシンクロしてくるのだ。

スカーレットの物語が生まれた300年以上前に、モデルになった阿国は生きた。太平洋の向こうで約350年後、スカーレットの物語が生まれる。そして、阿国は物語として生まれ変わった。古典をもとにきっと、今も、次の物語がどこかで生まれている。

参考文献

『出雲の阿国』有吉佐和子 2002、中公文庫

『なぜ古典を読むのか』イタロ=カルヴィーノ著、須賀敦子訳 2012、河出文庫

文字数:2971

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