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僕らの美術鑑賞

【1】

 こんな話がある。京都の建仁寺を訪れた際、俵屋宗達の作品「風神・雷神図屏風」をぼんやりと眺めていると、後から老夫婦がやってきた。屏風は、うす暗い部屋の最奥で照明により照らされ、厳かにたたずんでいた。それを見た老夫婦は、大層感動した様子で、「死ぬ前にこんなに立派な作品が見られてよかったよかった」といったようなことを話しながら、その場を去って行った。
 俵屋宗達の「風神・雷神図屏風」は確かに建仁寺の所蔵品であるのだが、実物は京都国立博物館に寄託されている。部屋の奥で厳かに光り輝くあの屏風はレプリカなのである。老夫婦に感動を返すことはできない。彼らは確かにそのレプリカを眺め、感動していたのだから。
 話は変わるが、建仁寺には「風神雷神図屏風」の他にも「双龍図」という有名な天井画がある。大きな黒龍が法堂の天井を埋め尽くす、これもまた見るものを色々な意味で圧倒する名作である。2007年に私はその天井画を鑑賞した。鎌倉時代から悠久の時を超えてたたずむ、その作品の歴史性に圧巻させられていた私は、その絵が2002年に描かれたことを知らなかった。もちろん有名な画家による大作である。私の感じた歴史性はそっとお堂の片隅に置いてくることにした。

それにしても建仁寺の持つ批評性はすごい。

【2】

 美術作品の展覧会には、全国の美術館を順次作品が巡るような形式のものがある。例えば、昨年6月に静岡県から始まった、「新海誠展「ほしのこえ」から「君の名は」まで」は、全国12の会場を巡るものであり、10月からは金沢の21世紀美術館で開催される。私はたまたま昨年東京に出かけた際に、国立新美術館で開催された同展覧会に足を運んでいるのであるが、仮に自分の住んでいる地域に同展覧会がやってきたときにどう思うだろうか。

 

1:新海誠展ね。前に見たから、内容も分かっているし(つまらなかったから等)、もういいや。

2:前に見た時にとても感動したから、(忘れちゃったから、何か気になったから等)もう一度見に行きたい。

 

 多くの人は1、一部の新海誠作品のファン層は、2のように考えると思われる。私に関しても、この新海誠展に関しては限りなく1のようなことを考えると思われる。しかし、この1,2のケースに当てはまらないような場合も考えられる。それは以下のようなものであるだろう。

 

3:今度は金沢で行われるのか。どんな展示になるのか興味深い、見に行こう。

 

 これも、新海誠作品のファン層が考えるように思えるが、それだけではなく、「展示」というプロジェクトそのものに興味があるという場合にも考えうるものである。私自身に関して言えば、それほど美術作品に関する知識もなく、何も知らないまま鑑賞するような素人、一般人である。そんな素人の私ではあるが、依然上記2のような理由で、同じ画家の企画展に足を運んだことがあった。それぞれ主催者が異なるものであったのだが、その二つの企画展は大きく異なっているように感じられた。私は上記3のような観点から見に行くこともあるということを体験させられたのである。

 

【3】

 その企画展というのが、2016年10月に京都市美術館で行われた、「若冲の京都 KYOTOの若冲」と2018年に石川県立美術館で行われた、「若冲と光瑤」という2つの展覧会であった。

 まず、この二つの展示の開催について、京都の「若冲の京都 KYOTOの若冲」(以下、京都展)は、画家、伊藤若冲(1716~1800)の生誕300年を記念して行われた企画展である。伊藤若冲の生誕300年記念の展示は、同年4月に上野の東京都美術館で先に行われ、わずか1か月程度の会期に動員数45万人、平日でも3時間待ちと、一大ブームを巻き起こした(と言われている)。なんでもアメリカの美術コレクターが若冲絵を評価し、高値で購入したことなどが話題の種になっているようである。もう一方の石川の「若冲と光瑤」(以下、石川展)は、北國新聞創刊125周年、石川テレビ創立50周年、及び石川県立美術館開館35周年記念に行われた企画展である。何やらきりの良い数字が並びたてられているが、これは開催年から考えると、それ以前に行われた、東京、京都での若冲人気に乗っかって企画されたものと考えられる。展示の規模に関して言えば、京都展と比べると小規模なものとなっていた。その代わり、石川展では、当初は評価の低かった若冲作品を早い時期から評価していた画家として、石崎光瑤(1884~1947)による若冲の模写や光瑤自身の絵が展示されていた。これは、上記の若冲ブームの先駆けがもっと前にいることを世の中に訴えるような、メタ批評的な視点があるとも捉えることができる。加えて、石崎光瑤は、石川県の隣県である富山県生まれの画家であり、北陸の美術館で行う意味というのも説得力があり、それがこの企画展の大きなアピールポイントにもなっている。

 なるほどなるほど、、、とキュレ―ションや展示の企画立案に対して、安直に興味深さを感じたのは確かである。しかし、落ち着いて考えてみると、そのように興味深く見る目ばかりではないことがどうも気にかかるのである。勿論、企画者の意図や作者の意図というのはあり、そこに刺激的な世界が存在することもあるだろう。しかし美術作品が多くの人に開かれているということは、無意図的に作品と向き合うことができることなのではないだろうか。

【4】

 まずもって私は、伊藤若冲の作品が、東京で一大ブームを巻き起こしていたということを全く持って知らなかった。私が若冲に「なんとなく」興味を持ったのは、2014年に公開されたアニメ、「グラスリップ」によるのである。主人公の深見透子の母親が、「昔若冲の模写をしていた時に・・・」というセリフを耳にしていたことがきっかけである。

 何から興味を持つのかは、人それぞれであるし、それが、全く予期しなかったところへつながっていくこと。それは行ってしまえば、ごくありふれたことである。しかし、その一つ一つのきっかけというのは、その人個人にとってはかけがえのない出会いであり、リオタールの言うところの、大きな物語の失墜した後の世界、とりわけインターネット以後の個人化が進んだ世界では、より一層重要な意味合いを持ってくるのではないだろうか。アートの世界は、アートプロジェクトや鑑賞者参加型のアート等、直接的な意図に引きずられすぎている側面があるように感じるのである。アートプロジェクトやキュレ―ションの仕方、それ自体がアートであると言ってしまえばそうであるのかもしれないが、鑑賞者は、企画者や作者の高度な技術や深い思想、意図以上に自由に、あるいは不自由に作品と向き合っているのである。

 本物と偽物を私たちは見分けることができない。また、そのものの歴史性を私たちは正確に推し量ることも困難である。そして大きな関心がなければ、一度見れば十分だと考えがちでもある。逆に言えば、私たちは本物であることに価値があると思い込み、歴史性があることにも価値があると思い込み、それを知っていると思い込めることに価値を見い出してしまうのである。

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