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NO MORE ? 先取り泥棒

the plagiarism by anticipation~「先取りの剽窃」、なかなか響きが良くて、個人的にとても好みである。なんかかっこいい。それはさておき、何にしても盗みはしてはいけない。それは法治国家において窃盗罪や著作権侵害にあたる行為となり、れっきとした犯罪であるからだ。「剽窃」、つまり「盗作」とは辞書によると、「他人の作品の一部または全部を自分の作品として発表すること」[ⅰ]とある。

辞書の定義からも分かるとおり、今回の課題である「先取りの剽窃」は厳密な意味での「盗作」とは異なっているようだ。なぜならその言葉が意味する現象は、世界や価値を揺るがすような強力な作品に影響を受けた後続作品を、読者が先に読むことにより、むしろオリジナル作品の方が盗作のように「感じられてしまう」ことである。これは後続作品を作成した作者の「盗作問題」ではなく、作品の受容者、読者側の問題である。

ふむふむ、でも私はここで次の疑問を持つ。読者がオリジナル(のアイデアを持った)作品のあとで後続作品を読むこと、それによってオリジナル作品をパクリ作品だと感じてしまうことに、いったい何の問題があるのだろうか。

 

オリジナル作者の視点1(作者存命)

「いやいやいや、それは私のアイデアだから。なんでそんな劣化コピーのほうが売れているんだ。これじゃあんまりだ。」

 

オリジナル作者の視点2 (作者没後)

作者は死んでいるので何も言えません。

 

オリジナル作者の視点3 (一流芸術家の場合)

とても素晴らしい作品を作ることができた。とても評価されたし、後継に影響力もあったようで何よりだ。さて次はどんな面白いものを作ろうか。

 

読者の視点1

「なんですか、これ。既視感のあるパクリばかりじゃないですか」[ⅱ]

 

読者の視点2

「なんで、こんな作品がもてはやされているんだ。こんな試みは、もう5年も前に○○ ×○さんの作品で試みられているじゃないか。それを新しいだの革新的だの、、なんだかなぁ。」

 

読者の視点3

「いやいや、○○ ××のやってることだって30年前に△× ○×さんがやったことのひどい焼き直しに過ぎないよ。」

 

ポストモダニストぽい人の視点

もういい加減近代的な「作者」信仰はよさないか。ロランバルトの言うところの、「作者の死」すなわち、作品をゼロ地点から創りあげることのできる作者などというのは原理的に存在できないということを実感すべきだ。[ⅲ]つまり作者とは、創造主ではなく単に書いている者であって、決してそれ以上のものではないから、作品と作者は端的に分けて考えるべきだ。それは作者が生物学的に生きているとか死んでいるとか、そういうこととは別次元の問題で、、、

 

*あくまで個人の感想です。

 

 

さてここに、満を持して私の視点をさらりと書く予定であったのだが、なかなかどうして、簡単には書けなかった。しかしまぁ、これまで仮想的にどのようなことが言われるのかを列挙してみて、少し落ち着いて考えていると、読者がオリジナル作品をパクリ作品だと感じてしまうこと、それ自体にはやはり何ら問題はないように思えるのである。それはあくまでも、読者の主観的な問題以上のものではないからだ。そのことによって原作の価値が損なわれることはないのではないか。あるとすれば、まぁ経済的な損失という尺度によるものくらいで、端的に、その読者の事実誤認があるというだけである。加えて、私が特に問題ないと感じる理由として、ポストモダニズム的な「作者の死」を自明としていることも挙げられるのであるが、どうも全面的に受け入れるというのとは違っているようなのである。それは「作者の死」の肯定的な側面を私が過剰に評価していることによっている。

 

ここからは、翻訳、特に古典新約について、この「先取りの剽窃」問題を考えてみる。まず、「古典新約」とは、既に翻訳がある作品を新たに翻訳することである。2006年から光文社古典新約文庫等、古典新約に特化した文庫本レーベルも誕生しており、近年ブームとなっている。一方で(これは映画の字幕をはじめ、翻訳全般に起きることでもあるが、)誤訳、不適切訳が散見されるといったことで論争も起きているようである。

 

もちろん誤訳は誤っているから誤訳なのであるが、端的に誤訳と言っても、そこには2つの意味合いがあるように思える。一つは、記号表現的な誤訳(シニフィアン)であり、また一つは記号内容的な誤訳(シニフィエ)である。前者の誤訳(例えば「海」を「山」と訳したり。主人公[私]のセリフを友人の[彼]のセリフと取り違えるようなもの)は端的に誤りであるといってよいが、後者、すなわちそのテクスト(=記号)があらわす概念やイメージが間違っているというのは、とても困難なことに思える。そのため、翻訳という行為は、どれだけ原文に忠実に行おうとも、原理的に、翻訳者の介入を余儀なくされるものであり、それはつまり、翻訳者の解釈により、別の作品が生み出されているといっても過言ではない行為なのだ。それは、よくよく考えてみれば極めて自明である。翻訳は科学的な手法、すなわち、だれがやっても同じ結果が得られるような方法のみによってなされるものではないからだ。(それはある種の逐語訳的に変換したものになるはずである。)それに加えて、翻訳者がその作品をどう理解し、どのように伝えるのかといった要素が多分にある。ただ、逐語訳的な変換を行っただけでは、違う文化圏の作品をその文化圏の人々と同じように感じることは困難である。ましてや、同じ文化圏であっても、読み人によって作品から受け取るものは異なってくる。このような、「原作そのままの翻訳」という原理的不可能性を、それでも可能に近づけること。そのために原作を作り替えることが、翻訳という行為の本質的な意味なのではなかろうか。そのため、そこにはアナクロニズム的な問題も(翻訳者が意図的に行っているのであれば)存在しないのである。

翻訳作品は原作と同じ作品であると同時に違う作品でもある。それがどうしても受け入れがたい読者は、原作を読めばよいということになるのである。

 

以上の点を踏まえて、古典新約と、他の翻訳の差異について考えてみる。すると、その最大の違いは、既に翻訳されたものが存在しているということである。つまりそれは、オリジナルだけではなく、先行翻訳との比較も生じるということだ。同じだけれど異なる作品が3つ(あるいはそれ以上)存在する。読者は3つの作品をポストモダニズム的に、作者の死した作品として、自由に堪能できる。それとは別の視点、翻訳者の視点からみると、まるで、作者の死したはずの原作、既刊の翻訳に対して、新たな生を吹き込むような行為なのである。その生は、読者のもとにたどり着いた瞬間に死んでしまうのであるが、それを手にした読者が、その作品を新たに蘇らせるといったように連環をなすものなのだ。

それは「剽窃」なのではなく、まぎれもない「創出」の営みではないだろうか。

 

[ⅰ] 大辞林 第3版

[ⅱ]  http://school.genron.co.jp/works/critics/2018/subjects/04/

[ⅲ] 内田樹 『寝ながら学べる構造主義』 ロランバルトに関する項より要約

文字数:2964

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