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彼女は何をみていたのか―日向あき子の解剖学

目次

・批評家日向あき子とその興味の中心

・ポップ・アートと呪術性

・マクルーハンとレヴィ・ストロース

・1960年代の美術とその周辺

・日向あき子の目線の先にあったもの

・日向あき子を見つめ返す

 

 

一人の批評家がいた。彼女は何を見ていたのか。それを解き明かそうとするのが本稿の一つの目的である。彼女の名前は日向あき子という。

 

なぜ日向に注目するのだろうか。それは、彼女の中に奇妙にも思える興味の接続を見出すことができるからである。彼女は、美術批評を中心としながら、マンガ・ポスター・都市そのものなど狭義の美術にとどまらない多様な同時代動向について批評活動を行った。経済評論家の竹村健一などと並んで、日本におけるマーシャル・マクルーハンの紹介者の一人としても知られている。マクルーハンの著作などを同時代的に受容し、「現代性」を追求する一方で、彼女の批評には、色濃く「原始性」への興味が見られるのだ。私が奇妙な接続と呼ぼうとしているのは、彼女の批評の中に、一見すると対立的にも見える事項への興味が同時にみられるからである。日向はなぜ「現代」への興味と共に「原始」への興味を同時に抱いたのか。そして、その興味のあり方は、マクルーハン紹介者としての彼女のあり方といかなる形で結びついているのか。そして、彼女の見つめていた先には何があったのか。これらの問いを、日向を準備した時代との関わりの中で解き明かすこと。日向あき子という批評家を解剖すること。それが本稿の目指すものである。

 

批評家日向あき子とその興味の中心

論を進める準備として、日向あき子について簡単にふりかえっておきたい。彼女の批評家としての実質的なデビューのきっかけは、1963年に美術出版社が行った第4回芸術評論募集で佳作となったことである。それまでも、展覧会評などを発表していたが、このコンテストで佳作を得たことがその後の継続的な批評活動を行っていくきっかけとなった。なお、日向が佳作となった回では、宮川淳が「アンフォルメル以後」で第一席となっている。また、第1回の芸術評論募集では東野芳明が、第2回の芸術評論募集では中原佑介が第一席となっている。彼女は、東野、中原、宮川といった戦後の美術批評を担う若き批評家の一人として活動を始めたのだった。

日向は、米国を中心とした同時代美術に関する著述を多く残していく。彼女自身が後に語っているように、彼女の批評家としてのデビューはポップ・アートの誕生と時期を同じくしていた。例えば、ポップ・アートの代名詞ともいえるアンディ・ウォーホール。彼が「アーティスト」として初めて個展を開いたのは、日向の受賞の前年、1962年のことであった。この時、キャンベル・スープの缶を描いた作品がずらりと画廊に展示されたのである。日向は、まさに彼女の批評家としてのキャリアと並行して進行していく現象としてのポップ・アートを中心に積極的な批評活動を行っていく。

彼女の仕事をもう一つ特徴づけているのが翻訳である。彼女は、執筆と並行して美術史・フェミニズムの著作などを翻訳していった。特に、彼女の関心を知る上で重要となるのが、ロバート・ゴールドウォーターの『二十世紀美術におけるプリミティヴィズム』(原題はPrimitivism in Modern Art)を翻訳して、1971年に出版していることだろう。この著作は、マティスらをはじめとする画家にみられる「プリミティヴィズム」の問題を扱っている。彼女は、訳者あとがきの中で翻訳を終える4、5年前から「「原始性」についていろいろかんがえており、この著書からは、多くのものをいただいた」(221)と述べているのである。つまり、彼女は批評家として歩み始めたかなり初期の時期から「原始性」への興味を抱いていたこととなる。

ポップ・アートへの興味と原始性への興味という一見つながりを持たないように見える2つの事項への興味は彼女の中でいかにつながっていたのだろうか。1973年に出版された『ポップ文化論』の中で、彼女はポップ・アートの特性について「ポップ・アートには、都市的・人工的なものを肯定しようとする態度、大衆文化への接近、無署名性、オリジナリティの否定、複製性、芸術の特権階級性否定などといった傾向がある」と述べている(9)。なるほど、日向が指摘するポップ・アートの特質は特に反駁すべき点がないように見える。例えば、ポップ・アートが描き出したのは、リチャード・ハミルトンの著名なコラージュにみられるように大量生産された工業製品に囲まれた都市的な生活であった。あるいは、先にも取り上げたアンディ・ウォーホールが最初の個展で32枚のキャンベル・スープの缶を描いた時、その枚数に特段の意味はなかった。彼は、市販されていたスープの種類の数だけそれを描いたのだ。そこに、旧来的な芸術家に求められたような「オリジナリティ」は必要なかったし、「キャンベル・スープ」を描く作家はウォーホールでなくともよかったろう(もちろん、現在では、キャンベルのスープ缶を見つめて、ウォーホールの影を見出さないことはむしろ難しくなっているけれども)。

私が気になるのは、この後に続く、以下のような一節である。

 

ポップは、われわれが今日ただ今その中に生活している文明の地質そのものをまず受け入れ、一体化することでそれと呪術的なかかわりを持とうとする。そうすることで、われわれの文明にふさわしいポエジーと美を引き出そうとする。無署名性、人工性そのほかの今あげたいくつかのポップの傾向すべての根になっているのは、現在の文明の地質に対するポップのこの呪術的な態度だろう。(9)

 

なるほど、ポップ・アートの中には、私たちの生活を支えているもろもろの条件をまず受け入れるような態度が確かに備わっているように思える。しかし、それと、「呪術的な」関係を取り結ぶとはいかなる意味なのだろうか。

 

ポップ・アートと呪術性

前節の最後にたてた問いに答えるためにも、マクルーハン研究者の門林岳史が紹介している「カルヴァン・クラインのスーツの事例」を補助線として引いてみたい。ある教師が大学で視覚文化論(ヴィジュアル・スタディーズ)の入門的な講義を行っている場を想像してみよう。その教師は視覚文化の代表例として広告を取り上げる。いくぶん旧態依然としていて、戯画めいているけれども、この教師は広告がいかに商品への欲望を消費者に植え付けようとしているかを学生に熱心に伝える。そして、この教師はいかに広告が欲望を植え付けようとしているのかを読み解くことこそが視覚文化論の一つの目的であると告げる。ここまで告げた後で、その教師は実際の分析事例として、カルヴァン・クラインのスーツのポスターを取り上げ、このポスターがいかにカルヴァン・クラインのスーツを欲するように私たちに呼びかけるかをひとしきり分析して見せる。おっと、これで、講義の時間も終わったようだ。さて、この講義の後で、学生たちには何が残るだろうか。学生たちの中に批評的な視線は備わるかもしれない。しかし、そもそも一切の消費活動を止めてしまうことなど、我々にはできないのだ。だとすれば、この講義は何を伝えたことになるのだろうか。

 

[この事例]は、ヴィジュアル・スタディーズという研究領域、その対象と方法が、本性上逃れることのできない問題を指摘しているのである。図像分析が「作者」の署名を付された「作品」ではなく広告やポスターといった消費者ないし大衆に宛てられた図像をその対象とするとき、その分析によって開示されるはずの真理は、図像についての真理であると同時に、分析者自身もそこに含まれる「我々」についての真理である。「作品」をめぐって開示される真理は、それがいかに転覆的なものであっても、「作者」へと帰属せしめることにより、需要者を安全圏へと対比させることが権利上可能である。ところがヴィジュアル・スタディーズがもっぱら対象とする匿名的な図像群の場合、開示される真理は最終的に需要者に送り返される。商品世界に生きている以上、分析の結果暴露された虚偽意識からいかに批判的距離をとろうとしても、それから全面的に逃れることはできないのである。(門林40)

 

門林はここで、ヴィジュアル・スタディーズを例に述べているが、広告などをモチーフとして作品制作を行うポップ・アートにおいても同じような構造を取り出すことができるだろう。ポップ・アートが我々の生活を囲む状況を批評的に取り出そうとしたとしても、我々はそこから完全に逃れることはできない。日向が、「今日ただ今その中に生活している文明の地質そのものをまず受け入れ、一体化する」(9)という言葉を使う時、こうしたジレンマ状態がまずは意図されていたように思われる。この、逃れることのできなさを受け入れること、呪術性とはまさにこのことを契機としているのである。

(以下、続く)

 

マクルーハンとレヴィ・ストロース

日向がマクルーハンの様々な著作の中でも『機械の花嫁』を高く評価しているのは重要なことのように思われる。日向はマクルーハンの著作の中でも、広告などを取り上げ、批評的に取り上げてみせた著作をこそ肯定的に取り上げてみせるのだ。

(以下、続く)

 

 

1960年代の美術とその周辺

1960年代はポップ・アートをはじめとして、美術の前提が大きく変化していく時代であった。日向自身のことばを借りてみよう。

ポップ・アート以後の美術の地殻変動は著しい。それを今なお美術の名で呼んでいいかさえとまどうくらいだ。都市プランニング、建築、ディスプレー、大きな船も含めたインダストリアル・デザイン、ポスター、絵画、音楽、コスチューム、映画、映像、人の動き、舞台、光、水、疾走するオートバイや車、室内の空間、ベッドから口紅に至るまで。環境芸術という時、これらすべてのアマルガムと考えるしかない。(417)

(以下、続く)

 

参考文献

門林岳史「広告論のジレンマ―マーシャル・マクルーハンの『機械の花嫁』を巡って」『美術フォーラム21』27号、40-44

日向あき子『ポップ文化論』1973年

日向あき子『視覚文化』1978念

ロバート・ゴールドウォーター『二十世紀美術におけるプリミティヴィズム』日向あき子訳、1971年。

文字数:4190

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