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『寝ても覚めても』に流れるtofubeatsの音

濱口竜介監督による映画『寝ても覚めても』は、川の映画といってもよいだろう。映画のヒロインである朝子(唐田えりか)が、ミステリアスな青年、麦(バク、東出昌大)に出会い恋に落ちるのは、大阪中之島の国立国際美術館だが、この場所は、2つの川に挟まれた中州になっている。また、この映画は、朝子と麦そっくりの青年亮平(東出昌大)の二人が、大きな事件を乗り越えたのちに、二人がこれから時間を共に過ごすことになるであろう二階建ての一軒家から、前を流れる川を見つめるカットで幕を閉じる。そして、何よりも私たちが注目しなければならないのは、この映画の音楽を担当したtofubeatsによる主題歌が「River」と名付けれられていることだろう。

tofubeatsによる楽曲「River」は、単に映画にとって重要な意味を持っているだけではない。他のアーティストへの楽曲提供やリミックスを数多く行っているtofubeats自身にとっても、映画音楽を作成するというのは大きな挑戦となっていたのだ。特に、インタビューでの「主題歌と映画に齟齬があっては絶対いけない」「自分の曲は自分の衝動で作りますけど、この曲には役割があるんですよ」(tofubeats 111,112)といった発言からは、映画音楽を作成することへの並々ならぬ意気込みが感じられるだろう。

では、tofubeatsは映画「寝ても覚めても」に音楽を提供することを通して何を成し遂げたのだろうか。この小論では、tofubeatsによる音楽に着目しながら、「寝ても覚めても」を論じてみたい。音のついた映画に慣れてしまった私たちは時に当たり前すぎて見落としてしまうが、音楽もまた映画を織りなす重要な要素であり、映画の中に視覚とは異なる次元をもたらしてくれるのである。そして、特に、この「寝ても覚めても」という映画においては音楽が重要な要素を果たしているように思われるのである。

いくつかの前提:映画とその原作について

映画版の「寝ては覚めても」において音楽が果たしている役割を確認するためにも、まず、簡単にあらすじを確認しておきたい。物語は、大阪に住む朝子がほぼ同じ年齢の青年、麦と運命的な出会いを果たし、恋に落ちるところから始まる。「寝ても覚めても」麦のことを考えているといった朝子の溺愛ぶりは、周囲の人間から、半ばあきれられる一方、朝子の若さが発する情熱の発露としても受け止められる。朝子がそんな幸せな時間を過ごしている中、事件は突然に起きる。ある日をさかいに、麦は行方不明となってしまうのだ。物語は麦の蒸発と共に、大きな時間的経過をみせる。大阪から東京へと居を移した朝子。彼女は、ある日、麦とそっくりの青年、亮平に出会い、再び恋に落ちることになるのだ。自らの亮平への恋心が、かつて付き合った麦とそっくりであることから来るのか、あるいは、亮平その人に魅かれているからこそ来るのかという逡巡を巡らせながら。

この映画は、2010年に発表された柴崎友香による小説『寝ても覚めても』を原作にしている。原作と映画化までに時間的な隔たりや、メディアの変化があることもあり、映画版では小説版からのいくつか大きな変更が施されている。例えば、劇の中盤、朝子と亮平が出会い、恋愛関係を紡ぎ始めた時点で地震が発生する。映画版ではこの地震が、原作の小説が作られた後に発生した東日本大震災を思わせるものになっている。こうした変更は、観客の生きる現実と、朝子をはじめとする登場人物が生きる現実をリンクさせるような形で行われているが、ストーリー上も大きな意味を持っている。例えば、朝子と亮平はこの地震の発生直後に、人々が家路を急ぐ街中で「運命的に」再開し、愛を確認し合う。そして、二人は東北地方に度々ボランティアに向かうことになるのだ。

とはいえ、最も大きな変更は、原作者の柴崎自身が「映画と原作で一番違うのは、そもそも朝子が写っていることだと思うんです」(柴崎b 87)と語る通り、映画と小説における「人称」の変更の問題だろう(もちろん、映画ではtofubeatsによる音楽が流れることも忘れてはならない。音楽の問題は「人称」の変更と密接な関係を結んでいる)。この変化によって何が起こったのか。

 

朝子とその声

少し、朝子というキャラクターについて振り返っておこう。彼女は映画の中では、ほとんど自らの主張を行わない人物として描写されている。彼女は自らの行動の理由を言葉にしない。彼女が発する言葉のほとんどは、彼女の周りの人物に対する「うん」や「はい」といった簡便な受け答えであるか、「あたし、亮平のこと好きやで」といった極めて直接的な彼女の感情の発露である。小説は、彼女の一人称で語られるがゆえに、彼女の内側で起きる変化が、ある程度読解可能になっていたが、映画では、カメラという第三者の視点を通すことで、彼女の内なる感情は観客から見えにくくなってしまっているのだ。

この問題について、例えば、批評家の田中竜輔は、映画の冒頭に置かれた朝子が麦に一目ぼれをするシーンを取りあげながら以下の様に述べている。

冒頭から朝子という登場人物の視点から決定的に切り離されている映画版『寝ても覚めても』のカメラは、あくまでもカメラのまま、スローモーションまでも伴って、朝子の麦へのひとめぼれを「演出」する。それゆえに、私たち観客は朝子の麦への一目惚れを共有することはできない。その一目惚れは、朝子の視点としてかたちづくられるイメージとは絶対に受け止めようがないものだからだ。(田中 36)

確かに、麦に向ける朝子の感情の突然の変化は不可解であり、容易に観客は共有することができない。しかし、観客である私たちは、彼女の内側で起こる劇的な変化を知ることも出来る。そう、tofubeatsの音楽を通して。

朝子が麦に一目ぼれをする際に挿入される音楽は、私たちを少し警戒させるような不穏な音の連なりで始まる。その後、不穏で途切れることなく続く音が鳴り始める。気が付くと、ビートを刻むドラムの音が聴こえてくる。朝子の心臓の鼓動の様に。この後、劇中で何度か繰り返されることになるこのテーマ音楽によって、私たちは彼女に決定的な何かが起きたことを知るのである。確かに、映画のカメラは朝子の視点から切り離されているかもしれない。しかし、この映画の中に流れる音楽は彼女に寄り添う。この映画の中での音楽は、朝子の内なる声ともいえるものなのだ。

もしかしたら、映画の冒頭から、朝子の中では時間が止まっていたのかもしれない。田中は朝子の周囲の友人たちが結婚、出産、大病などの大きな変化を経験する一方で、「この映画の朝子には、物語の時間経過に準拠した変化というものが、彼女の外観、身振りや演技の水準においては、徹底してそぎ取られているように思われた」(田中 35)と述べている。先にも述べた通り、映画内では、麦が蒸発してからかなりの時間がたっているにもかかわらず、観客は朝子の外的な変化を容易に感じ取ることができないのだ。朝子は、亮平との間に積み重なっているはずの時間を拒んでいるようにも見える。この印象は、映画冒頭で流れたテーマ音楽が重要な場面で反復して使われていることで強められている。朝子の中の時間の流れは、麦と出会い「一目惚れ」をした瞬間にくるってしまった。そして、亮平と出会った後も、おそらく朝子は麦への思いを反芻し続けていたのだ。麦への思いをなぞり返すたびに、tofubeatsが「River」の中で歌うように、思いは「太く、深く、強く」なっていく。一度生まれた愛は、二度と消えることがないのだ。

映画の中で麦が朝子の前に現れるのは、亮平と大阪に引っ越す前日という最悪の日だ。そして、麦は彼女を連れ出し、車で北海道へと向かう。このとき、改めて冒頭でも流れたtofubeatsによるテーマ音楽が流れ始めるのを観客は聴く。いや、おそらく、朝子の中では、映画の冒頭から音楽が流れ続けていたはずなのだ。カメラが朝子の周囲の人物をとらえているとき、観客は朝子の中で流れ続けていたはずの音楽を聴き逃し続けてしまっていただけなのだ。彼女の内なる声を。

「今までの方が全部長い夢だったような気がする。すごく、幸せな夢だった。成長したような気でいた。でも目が覚めて、私、何も変わってなかった」(田中・濱口 77)

 

川から海へ

映画の中でも、原作の中でも、川は極めて印象的な形で使われる。何度か述べているように、朝子と麦が初めて出会うのは、2つの川に挟まれた中之島だ。また、原作の中で、行方不明になっていた麦は、川と一緒に朝子の前に再度登場する。

テレビの画面は切り替わって、今度は川沿いの道が写った。コンクリートの護岸にずっと柵が続いていた。見たことがある場所だった。女の子のうしろ姿があり、その向こうに髪の長い男が、川沿いの柵にもたれて立っていた。

「なにしてるの」

髪の長い男が言った。川に流れる水の音が、かすかに聞こえる。わたしは、髪の長い男の顔だけを見ていた。髪の長い男の顔だけを見ていた。肩の下までの長い髪。無精髭。痩せた頬。

すぐにわかった。

麦だった。(柴崎a 203-4)

出会いの場所が川辺であるならば、川が行き着く海は別れの場所となる。映画の中で、麦と北海道へと向かう途中、もう一度朝子の心変わりが訪れる。東北で高速を降り、津波を防ぐために設置された大きな堤防の近くで休んでいる間に彼女の中でなり続けていた、あの音楽は急に途絶える。彼女の中で流れ続ける音楽をかき消すことになるのは、東北の海の音だ。彼女は亮平のもとへ帰ることを決断する。「何も変わってなかった」わけではないのだ。朝子の中にも、外にも、大きな変化が訪れていた。その変化を、彼女自身が聴くことができなかったのだ。ずっと流れ続けていた不穏な音楽のせいで。ここから映画は急展開を見せ、朝子は亮平のもとへと戻る。一度流れ着いた海から、改めて別の川の流れをさかのぼるかのように。

再び川へ

大坂で同居を始める前日に亮平のもとを離れるという大きな事件を起こしたものの、朝子は亮平のもとに戻り、亮平も二人で同居するはずだった家に朝子が入ることを拒まない。この家は川沿いにある。川辺で亮平と朝子は再び出会うのだ。いや、今度こそ本当に出会ったといっていいのかもしれない。

最後に二人が川を見つめながら交わす会話で、『寝ても覚めても』は幕を閉じ、静かにエンドロールが流れ始める。

亮平「きったない川やで」

朝子「でも、きれい」

(田中・濱口 82)

小説版では、物語を閉じるにあたって「雨粒が僕の頭に落ちてきてる歌(Raindrops Keep Falling On My Head)」が流れている。朝子がこの歌を口ずさむのだ。雨が頭に降り続ける中でも不思議な明るさを歌い上げるこの曲の代わりに、我々が聴くことになるのは「River」だ。この歌によって、原作の終わりの持つ明るい終わりは、より複雑なものになっている。特に、静かに始まったこの歌が最も盛り上がりを見せる最後の一節は、全く別の視点から映画を語りなおしているようにも思える。

 

いろんな愛を

集めた色のようだ

喜びも悲しみも

映してる

 

映画の中で朝子と亮平が家の前の川を見つめる時、映像は静けさに包まれている。しかし、朝子の中に、あるいは、亮平の中には大きな音が鳴り響いている。この歌を聴きながら劇場を去ろうとするとき、観客は朝子と亮平の中で流れる音も同時に聴こうとするのだ。

 

***

 

この小論で描き出そうとしてきたのは、tofubeatsが提供した音楽によって『寝ても覚めても』に何が起こっているかだ。カメラとは全く違う形で物語を語っているという意味で、tofubeatsが提供した音楽は映画音楽として最良の仕事をしているといっていいだろう。

 

参考文献

柴崎友香a『寝ても覚めても 増補新版』河出書房新社、2018年。

柴崎友香b「二人と半分の重なり」『ユリイカ』第50巻12号、82頁~91頁。

田中幸子、濱口竜介「寝ても覚めても」『シナリオ』第74巻9号、50頁~82頁。

田中竜輔「川の流れの向こうに」『映画芸術』第68巻3号、35頁~37頁。

tofubeats「運搬・堆積・浸食」『ユリイカ』第50巻12号、107頁~117頁。

tofubeats「River」

文字数:5020

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