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彼女の顔

新潮文庫新訳版の『風と共に去りぬ』の表紙に描かれた女性の顔を読者は知ることができない。彼女は私たちに顔を向けてくれないのだ。

一見すると、些細に見えるこの事実は、興味深い問いへと我々をいざなう。顔のない形で女性(スカーレット・オハラと考えていいだろう)が表紙に描かれることで、彼女の顔への興味が読者に去来する。女性の顔が描かれないのは、映画版『風と共に去りぬ』の女優ヴィヴィアン・リーを想起させないことに尽きるだろう。それほどまでに、映画版は私たちの<風と共に去りぬ>のイメージを規定している。ヴィヴィアン・リーはスカーレット・オハラではない。しかし、スカーレット・オハラの中に我々はヴィヴィアン・リーを見てしまう。読者は、時代錯誤だと気づきながらもそれを避けることができない。

ここで描き出したのは、翻訳という行為と時間をめぐる問題である。翻訳は言語間・文化間・メディア間の移行という問題だけでなく、否応なく時間の問題をはらむ。翻訳は原作から常に遅れて発生するからだ。しかし、翻訳は決して単線的な時間の中で完結するわけではない。時に、上のような時代錯誤状況をも生み出すことがある。

問題は時代錯誤だけではない。新訳版の表紙における女性の扱いからは、元のテキストGone With the Windではなく、映像へと翻訳された『風と共に去りぬ』こそが、特権的に扱われているようにも見受けられる。顔が描かれないことで、あえてヴィヴィアン・リーから離れようとすることで、強力な磁場を持った映画版の特権性が示されているのだ。映画版の『風と共に去りぬ』は翻訳されたテキストであるにもかかわらず、Gone With the Windに対して特権的な地位を占めている。この事実は、一般的な翻訳に関する直感を揺るがす。通常であれば、起点となるテキストは、翻訳されたテキストよりも優位にあると考えられている。しかし、ここでは、原作の正統性が、少なからず侵されている。なぜ、このような転倒は起きるのか。


ここで、一つの補助線を引いてみたい。参照するのは自身も翻訳家として活躍したベンヤミンの「翻訳者の課題」である。この小論の中で、彼は純粋言語という概念を提唱する。純粋言語とは、翻訳行為のなかにおいてはじめて立ち現れるような、複数の言語が指し示そうとするもの―一種の超越的な言語―のことである。ベンヤミンの見方に沿えば、翻訳とはこの純粋言語を目指す運動という側面がある。純粋言語を志向するような運動の中で、原作と翻訳の関係はどのようにとらえられるのだろうか。研究者の野内はベンヤミンの立場を以下のように説明する。

原作と翻訳との関係を、オリジナルとコピーといった序列関係ととらえてはならず、むしろ原作はそれ自身としては種子でしかなく、翻訳において成長、成熟する物であり、それゆえそれ自身だけで自己完結したものではなく、欠けたものと考えられている。(山口他、14)

ベンヤミンにおいて翻訳は原作の種子の成熟のために不可欠な要素として見出されているのだ。

その上で、ベンヤミンは翻訳者の問題が、詩人―原作者と考えてもいいだろう―の抱える問題と異なる問題だと指摘する。

翻訳の志向は、文学創造の志向とは別のなにかを、つまり、ある外国語で書かれた個々の芸術作品から出発してある言語の総体を目指すだけではない。翻訳の志向そのものがある別の志向でもあるのだ。詩人の志向が素朴な志向、最初の志向、直感的志向であるのに対して、翻訳者の志向は派生的志向、最終的志向、理念的志向である。なにしろ、数多くの言語を一つの真の言語へと統合するという壮大なモティーフが、翻訳者の仕事を満たしているのだから。(ベンヤミン)

ベンヤミンは翻訳者の仕事の意義を、純粋言語への接近を補助することに見出している。ただし、彼にとって、純粋言語への接近は、あくまで言語の水準において起こる運動である。ここでは、翻訳者も言語に従事する者として描き出されているといっていい。翻訳の問題が言語の問題へと収斂していくのは、「翻訳者の課題」の冒頭にも示されているように、ベンヤミンが需要者・読者を考慮に入れることを拒否しているからだ。あえて読者を加えてみせることで、新たな地平を開くことはできないか。というのも、翻訳者は読者でもあったはずだから。読者が、翻訳を通して、主体的に何かの生成にかかわっているということはあり得ないのか。


ベンヤミンは翻訳者の独自の位置を認めつつ、「翻訳は、それがいかに優れたものであっても、原作に対して何か重要な意味を持ちうることは決してない」という仕方で、時間的な影響関係の転倒を否定している。しかし、ここで読者という水準を導入することで、影響関係の転倒を我々は扱うことができるようになる。読者を通して、翻訳が原作に対して重要な意味を持ちうることがあるのだ。上で「翻訳は決して単線的な時間の中で完結するわけではない」と述べたが、それは翻訳には必ず、翻訳者という読者が存在するからだ。

翻訳における時間的な転倒―あるいはそれをアナクロニズムといってもいいだろう―は読者である翻訳者を通して発生する。しかし、それは避けるべき事態なのだろうか。むしろ、翻訳におけるアナクロニズムは、元のテキストの可能な読みの一つを引き出しているということはできないか。ベンヤミンの言葉を模していえば、常に完成へと運動し続ける純粋テキスト―Gone With the Windではなく、<風と共に去りぬ>―へと我々を接近させるような運動が翻訳者という読者を通して発生しているのではないか。そして、こう理解したとき、新訳版が映画版の『風と共に去りぬ』のイメージを払拭しようとしなければならなかった理由も明らかになる。映画版の『風と共に去りぬ』も、あくまでも一つの可能な読みの提示に過ぎなかったのだ。

さらに論を進めれば、Gone With the Windですら、純粋テキストを構成する一つの要素でしかないという境地へと私たちは進んでいくことができるかもしれない。常に翻訳者という読者を通して読まれ、訳されることで、原作として名指されうるテキスト自体が変化を繰り返しているのだ。あるいは、シェイクスピアの『ハムレット』を取り上げてもよいかもしれない。有名なセリフ“To be,or not to be, that is the question”は短いセリフにもかかわらず、幾通りにも訳し分けられてきた。ここで、翻訳者たちが対峙しているのは、起点となったテキストだけではない。むしろ、過去に生成された翻訳を含めたテキストの総体に翻訳者は対峙しているのだ。その時、起点となるテキストは、翻訳されたテキストたち同様、総体の一部として受容され特権性を奪われる。そして、その総体は常に変化し続けているのだ。


新訳版の『風と共に去りぬ』の表紙に描かれた女性の顔を私たちが知ることはできないのは、彼女の顔が常に変化の途上にあるからなのだ。


参考文献

国立国会図書館「ハムレットを日本語で」

山口裕之他『ベンヤミン―救済とアクチュアリティ』河出書房新社。

ミッチェル、マーガレット『風と共に去りぬ』鴻巣友季子訳、新潮文庫。

ベンヤミン、ヴァルター『ベンヤミン・アンソロジー』山口裕之編訳、河出文庫(kindle版)。

文字数:2978

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