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小説を通して考える

高橋源一郎の著した多様な作品群を読むとき、読者はある戸惑いに襲われる。彼の評論のことばと小説のことばが全く違うものによって成り立っているように思われるからだ。高橋の評論を読むとき、それらの作品が極めて「わかりやすい」ものであることに読者は驚かされる。一方で、彼の小説を読むとき、時に読者は、その「わかりにくさ」に、「とっつきにくさ」に、驚かされるであろう。これが同じ「作者」によって書かれたのだろうかと。

ここでは、評論家としての「高橋源一郎のことば」と小説家としての「高橋源一郎のことば」の間に存在しているように思われる差異を、いかに理解すればよいのかを考えていく。そのために、まず、高橋の評論の中から彼のことばに対する問題意識を取り出してみたい。そのうえで、この小論が素描しようとするのは、「小説を通して考える」とはどのようなことかである。一般に、評論は思考の結果を記すものと考えられているが、小説独自の思考の方法があるとすれば、それはいかなるものなのか。「高橋源一郎のことば」を通して見つめてみたい。


考えること


高橋は膨大な数の文芸評論を書き残している。これらの評論の中では「文芸」ということばで即座に想起されるような文学作品だけが取り上げられるわけではない。例えば、高橋の興味のあり方は『国民のコトバ』におさめられたエッセイ群の中にみることができるだろう。この本の中に、読者は「官能小説な」ことば・「相田みつをな」ことば・「VERYな」ことばなど、高橋がジャンル小説・カレンダー・女性誌などの様々な媒体から収集した多様なことばを確認することができる。これらのことばは、ありふれていて、一見すると取るに足りないようにも感じられる。なぜ、高橋にとってこれらのことばを収集すること・評論することが意味を持つのだろうか。

ことばを収集する意味を考えるためにも、高橋が別の場所で行っている「街頭インタビューのことば」に関する分析が役立つだろう。多くの場合、街頭インタビューに答える人々のことばにはよどみがない。インタビュイーのよどみのなさ、とまどいのなさを取り上げながら、高橋は以下のように書く。

ぼくは、[インタビューの回答]には、おそらく「考え」はなかったのだと思う。

ただ単純な質問に、反射的に口から飛び出す回答があっただけだ。なぜ、「反射的」に口から飛び出したのか。そのような回答が(社会から)期待されていることを、その人は、(なんとなく)知っているからだ。自分が「考えた」結果、そう思ったのではなく、そのように答えるのが「正しいから(そんな気がして)、そう答えた。それは、ぼくたちが受けてきた教育の成果でもある。(高橋2016 19-20)

 

街頭インタビューだけでなく、ことばが利用される各々の局面において、期待される規範的な振る舞いに沿ってことばを発すれば私たちは考えないですむ。規範的なふるまいのことを、ことばの規則といってもよいだろう。高橋にとって、様々なことばを収集することは、我々がどのような規則に従ってことばを利用しているのかを観察することである。そして、ある社会的コードに従ってことばを利用するとき、私たちは「考える」ことを一旦留保することができる。

では、高橋のいう「考える」経験とはどのようなものなのだろうか。

 

考えるということは、たとえば、「どもる」ということによく似ているのです。「どもる」ということは、同じことを繰り返すということです。それから、結論に行き着かないということです。結論にたどり着く前に迂回するということです。それはたぶん、他人とコミュニケートするためのたった一つのやり方なのです……。(高橋1995 205)

 

ここで高橋が「考える」ということに対して、「どもる」という比喩を持ち出していることは重要なことに思われる。自身も吃音の経験を持つ研究者の伊藤亜紗は、「繰り返し」や「迂回」を伴うどもる経験について「「自分のものでありながら自分のものでない体」をたずさえて生きる」こと(17)と表現している。彼女の表現は、どもることで、自らの意識の下、常にコントロールされていると思われているしゃべるという行為が、突如として自分自身のコントロールを外れてしまうような状況を体験した上で発せられている。考えるという行為にも似たような側面があるだろう。私たちは考えようとするときに、ことばが独自の力をもって動き出すような感覚を受けることがある。伊藤のことばを借りれば、考えることは「自分のものでありながら自分のものでないことば」を意識する経験、ことばの規則を意識する経験の中から生まれるといえるのではないか。

こうして考えてみるとき、高橋にとって、様々なことばを収集しそれを観察するということは、「考える」ことに他ならないことがわかってくる。先に高橋の取り上げることばが、時にありふれていて、一見すると取るに足りないように見えると書いたが、まさに、そうであるからこそ、普段意識されることがないからこそ、これらのことばを採集し、その裏にどのような規則が働いているのかを子細に観察しなくてはならないのだ。そして、その観察結果が評論という形で私たちの前に提示される。


ことばの規則


高橋の小説を論じる上でまず確認しておきたいのは、高橋はことばの裏には常に何かしらの規則が働いているという自覚の下で書いているということである。あるいは、こう言い換えてもいいかもしれない。高橋にとって評論を書くとは「ことばの規則」について考えることであった。一方で、小説を書くとは「ことばの規則」を通して考えることなのだ、と。その意味で、高橋の評論と小説における関心は共通している。しかし、アプローチの違いが、冒頭に述べたような差異を生じさせている。

ここで、改めて、規則ということばについて整理をしておこう。というのも、高橋は様々なレベルでことばの規則に向き合っているように思われるからである。ここで網羅的にことばの規則を例示することはできないが、いくつかの例を挙げることで、高橋が取り組もうとしている問題を指し示すことができるだろう。まず、高橋が街頭インタビューの例を挙げたときに指摘する、インタビュイーたちが踏襲する規則がある。これはことばを利用する際の社会的に妥当な振舞いを決めるコードだと理解しておけばよいだろう。一方で、高橋が官能小説などを論じる際に―物理的な場ではなく読書空間を論じるときに―言及することばの規則とは、ジャンルをジャンルたらしめる、読み手と書き手の間に存在するの暗黙のルールといえるだろう。最も根源的なレベルでは、ソシュールが指摘したような言語の恣意性といった言語の持つ作用も高橋の向き合うことばの規則ということができる。利用するにせよ無視するにせよ、高橋はこれらの規則の存在を意識せざるをえない作家なのだ。私たちが問わなくてはいけないのはこれらのコードの存在を自覚した上で、高橋がいかなる小説を書くのかである。高橋が小説を通していかに考えるかである。


小説を通して考えること


考え始めるにあたって、『あ・だ・る・と』に注目してみたい。『あ・だ・る・と』は、1988年に「週刊女性」に連載された、アダルトビデオ業界で働く人々を題材にした小説である。初期三部作(『さようなら、ギャングたち』(1982)『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』(1984)『ジョン・レノン対火星人』(1985))の刊行以降、文芸批評や短編などの発表は続いたが、高橋には長編小説を発表しない/できない時期が続いた。執筆が長期にわたった『ゴーストバスターズ―冒険小説』(1997)を刊行してから、高橋は多数の連載を持ち、矢継ぎ早に作品を発表するようになっていく。『あ・だ・る・と』は、高橋が多作になっていく時期に書かれた作品であり、『日本文学盛衰史』と並行して連載されていた時期もある作品である。

この時期に何が起こったのか。ここでは、高橋のことばの規則に関する焦点が移行したのだと指摘したい。高橋の初期三部作はソシュール的な意味でのことばの規則に高橋の関心が集中していたように思われる(例えば、文芸評論家の石川忠司は「初期の仕事は散文詩じみていて、すなわち言語自体への関心が前面に出てい」ると指摘している(石川 31))。一方で、『あ・だ・る・と』は、、高橋が特に読み手と書き手の間にあるジャンル的な規則について自覚的に取り組む転換点に置かれた作品であるように思われるのだ(この変化の裏には、高橋が小説を通して扱おうとする問題自体の変化もあっただろう)。


アダルトビデオの「内面」


『あ・だ・る・と』という小説の特徴を一言で表そうとするならば、アダルトビデオに存在する種々の規則(これらの規則は、アダルトビデオが「正しく」機能するために必要である)を、小説のことばによって自覚的にとらえなおした作品だといっていいだろう。3つの章とエピローグからなるが、中でも「女尻の皺」と題された第2章は、監督である「ぼく」がアダルトビデオ業界の裏話をインタビュー形式で暴露するという形をとって展開する。この章は、アダルトビデオに出演する女優や関係者へのインタビューの文体を模したものになっている。この暴露話の中で、業界に対する、あるいは監督個人に対するのぞき見的な欲望(こうしたインタビューを読もうとする目的の大部分はこういったものだろう)を満たそうとした読者は裏切られることになる。というのも、「ぼく」という語り手の内面、あるいは内面のなさがグロテスクに浮かび上がってくるからだ。

ぼくへのインタビューは、業界で働く男優たちの話で始まる。紹介されるそれぞれのエピソード―登場する男優たちは女性とまともに付き合えなかったり、妄想を抱えていたりする―は、子細に考えてみればそれぞれの男優の生きづらさや弱さを象徴するエピソードにも聞こえるが、ぼくは「笑う」ことでそれらのエピソードを表面的に消化していく。読者は、80ページほど続くインタビューの中で数百回「(笑い)」という記号に出会うのだ。このあらゆるエピソードを無意味に消費してしまうようなぼくの笑いは、アダルトビデオに出演する女優たちや女子高生に向けられる。そして彼女たちに向けられる性暴力をも表面的に消費していく。

 

やつの手口はいろいろあって、それはまた後で説明しますが、中にはどう考えてもレイプとしか言いようがないのだってある。

「お前、よく告訴されなかったよなあ」って聞いたら、「ああ、女の子へのフォローをちゃんとしてたら、大丈夫ですよ」って。

なんかいってることがぼくみたいですねえ(笑い)。(高橋1999 130)

 

不気味な笑いを繰り返す語り手のグロテスクさは、彼が自分の身の回りで起こった出来事を流暢に話す一方で、それらについて情動的な、倫理的な判断をほとんど下さず、さらには自分の素性についてはほとんど語らないことからも強化されていく。

ここで、高橋は、アダルトビデオの業界インタビューというのぞき見的な欲望が起動する装置を意識的に使いながら、語り手の内面の見えなさを執拗に描いていく。読者は、インタビュイーの告白を聞きながら、彼の「内面」を探りたいという欲望を抱く。しかし、その欲望を成就することはできないのだ。実のところ、アダルトビデオには「内面」など求められていない。そこには、画面の表面で展開する「行為」さえあればいいからだ。インタビューにしても、読者が求めているのは、劣情を刺激するような「表面的な」エピソード群だろう。そんなアダルトビデオをめぐる「お約束」を部分的に踏襲しつつ、高橋は「内面」という古くて新しい問題へと読者を接続させてみせるのだ。

『あ・だ・る・と』において、語り手の内面の存在/不在の問題が表面化するのは、この小説において読者と書き手の間で共有されているリアルの水準(それは「ジャンル的な規則」でもある)が、我々が生きる現実とほとんど変わらないところに存在しているからだ。『あ・だ・る・と』の中では、インタビューの語り手のように個々の人物の動機について理解が困難だと感じることはあるが、そこで起きている出来事自体が了解不可能というわけでは必ずしもない。だからこそ、我々の関心は「語り手の内面」に引き付けられ、アダルトビデオを、例えば私小説などの伝統の中に位置づけようとする欲望に取りつかれる。

一方で、『日本文学盛衰史』のように明治以降の文学空間を小説を通して考えようとするとき、あるいは戦争や災厄などに象徴される「危機」について小説を通して考えようとするとき、高橋は別のレベルでのリアルの水準を導入する。『あ・だ・る・と』は、後に用意される作品群を通して本格的に問いに向かい合う前に、ジャンルという規則を参照しながら書くということは、考えるということはいかなることかを作家に準備させた作品であったのだ。


物語ることの意味-物語不在の場所で


児童文学というジャンルを強く意識しながら書かれた二つの小説(『ゆっくりおやすみ、樹の下で』と「さよならクリストファー・ロビン」)を通して、さらに小説を通して考えることとはどのようなことかについて考えてみたい。この二つの小説は、児童文学を強く意識して書かれたがゆえに、そもそも物語るとはどのようなことかというあらゆる小説にかかわる問いを自身の中に抱え込まなければならなかった作品であるともいえるだろう。そして、これらの作品を通して高橋は我々をことばの―あるいは物語の―極限まで連れて行くのだ。

『ゆっくりおやすみ、樹の下で』は、朝日小学生新聞紙上で、2017年の7月から9月という夏休みを挟む期間に連載された小説である。連載時は、読者の子どもたちが過ごす夏休みと並行しながら、主人公の女の子ミレイちゃんも母の実家である鎌倉で一夏を過ごすという形になっていた。11歳のミレイちゃんは、母の実家である「館」に預けられ、祖母と暮らす中で、不思議な体験をすることになる。彼女は、祖母の住む「館」の不思議な力に誘われてタイムスリップを繰り返すのだ。

ミレイちゃんがタイムスリップして会うことになるのは、ミレイちゃんが現実にはあったことがない曾祖母(大バーバ)とその恋人ムネヒコさんである。一度目のタイムスリップは1936年、昭和11年の夏へ。ミレイちゃんは自分と同じ年恰好の大バーバと出会う。このときすでに戦争が近づいていた。2度目は1944年、昭和19年の夏。戦争はすでに始まり、大バーバは恋人のムネヒコさんと離れて暮らすようになっている。3度目のタイムスリップの際にミレイちゃんは、激しい銃撃戦が繰り広げられている戦場で、傷ついたムネヒコさんに出会う。しかし、彼はすでに衰弱しきっている。彼が大バーバにむけた小さな贈り物を手にして、ミレイちゃんはムネヒコさんと別れることになる。そして、4度目のタイムスリップの際にミレイちゃんは年老いて死期を目の前にした大バーバに再開する。そして、ムネヒコさんからの贈り物を彼女に届けるのである。

『ゆっくりおやすみ、樹の下で』で中心的な問題として取り上げられているのは、いかにして過去を癒すことができるのかである。戦争によって離れ離れになってしまった二人の恋人たちをつなぐこと。これが、ミレイちゃんが担うことになる使命である。高橋はミレイちゃんをタイムスリップという物語装置に乗せて、それを実現させる。この使命は、物語と並行して現実を歩む子どもたちに託されたものでもある。「ミレイちゃんのような形で過去を癒すことはできないとしても、あなたたちは何らかの形で過去を癒すことができるのだ」という願いにも似た形で、高橋は子どもたちにバトンを手渡しているのだ。小説を通して考えるということは祈ることでもあるのだ。

「さよならクリストファー・ロビン」もまた、小説を通して「危機」について考え、「物語る」とはどのようなことかを考える小説であるといっていいだろう。この作品の中のキャラクターたちは、「みんな、誰かが書いたお話の中に住んでいて、ほんとうは存在しない」(5)ことを知っている。この事実を知ってしまったキャラクターたちは自分の存在の寄る辺なさに不安を覚える。しかし、もっと重大な出来事がこの世界には起こっていた。世界の向こう側で「あのこと」-それが何であるかはわからないが、どうやらとても大きな出来事だった―が起こり、この世界が「虚無」に包まれ始めるのだ。

物語の終盤、クリストファー・ロビンとくまのプーは、最後までこの「虚無」に飲み込まれまいと必死に抵抗する。抵抗の手段は自分で自分の物語を書き続けることだった。しかし、クリストファー・ロビンも書くことをやめ、消えてしまう。世界に一人残されたプーはクリストファー・ロビンが登場するお話を書いて、彼を元通りにしようとするが、再び現れたクリストファー・ロビンは、これまでの記憶をすべてなくし女の子になっていた。そんななか、プーは自分の物語の続きを書こうとする。

 

ぼくは、今晩、最後のお話を書くよ。そして、すべてを終わらせるんだ。それが正しいことなのか、ぼくにはわからない。でも、ただの熊としては、頑張ったと誉めてほしいな。

(中略)

さあ、もう時間だ。ぼくは、部屋に戻るよ。きみも、自分の部屋へ行くんだ。もしかしたら、もう僕たちは会えないのかもしれないそれでも、僕は、僕と君の最後のお話だけは書くつもりだ。

さよならクリストファー・ロビン。でも、僕は、もう一度、君と会いたいな。あの木の下で。(高橋2012 25-6)

 

「虚無」に飲み込まれないために、物語り続けること。これが、高橋が提示する物語り続けることの一つの意味である。しかし、高橋はさらに遠い場所へと私たちを連れていく。「さよならクリストファー・ロビン」が悲しみを誘うのは、プーが死んでしまうからではない。プーの死が物語られないからなのだ。物語る人がいなくなった世界にもはや死はない。「さよならクリストファー・ロビン」は私たちを物語ることすら許されない地平まで連れていく。そして、物語不在の場において、もはやそこには存在しないかもしれない物語ることの意味について再考することを迫るのだ。

 

この小論では、高橋源一郎のいくつかの評論と小説を取り上げ、評論家としての「高橋源一郎のことば」と小説家としての「高橋源一郎のことば」の間に存在しているようにも見える差異について考えてきた。我々が発見したのは、差異ではなかった。むしろ、どこまでも、ことばについて考えること、ことばを通して、小説を通して考えることを徹底し、ことばの―物語ることの―極北へと我々をいざなう高橋源一郎という一人の作家の姿だった。

 


参考文献

石川忠司

2005『現代小説のレッスン』、講談社現代新書。

 

伊藤亜紗

2018『どもる体』、医学書院。

 

高橋源一郎

1995『文学じゃないかもしれない症候群』、朝日文芸文庫。

1999『あ・だ・る・と』、主婦と生活社。

2012「さよならクリストファー・ロビン」、『さよならクリストファー・ロビン』、新潮社、5-26頁。

2014『国民のコトバ 電子書籍版』、毎日新聞社。

2016『非常時のことば』、朝日文庫。

2018『ゆっくりおやすみ、樹の下で』、朝日新聞出版。

文字数:7869

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