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彷徨う身体と漂える作品

国立西洋美術館に「理想の身体」と標榜しているミケランジェロ展に行ってきた。

 

彫刻、絵画、建築のすべての分野で名をなし「神のごとき」と称された男、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)。彼がシスティーナ礼拝堂に描いた《アダムの創造》と《最後の審判》はあまりにも有名です。しかし、自らを語る時、彼はあくまで「彫刻家」という肩書にこだわりました。
二十代前半に完成させたサン・ピエトロ大聖堂の《ピエタ》、フィレンツェ共和国の象徴とされる巨大な《ダヴィデ》など、その卓越した技と美意識が表現された大型彫刻作品は、各地で至宝とされています。そのため、これらの作品を中心に据えたミケランジェロの展覧会は、これまで日本では実現がきわめて困難でした。
本展は、《ダヴィデ=アポロ》《若き洗礼者ヨハネ》というミケランジェロ彫刻の傑作を核に、古代ギリシャ・ローマとルネサンスの作品約70点の対比を通して、両時代の芸術家が創りあげた理想の身体美の表現に迫ります。

<国立西洋美術館ミケランジェロと理想の身体 ホームページより引用>

 

 

のですが、、、やっぱり。なんだろう。身体性を標榜しているなら今回こそは!と思ったんだけど、結局こうなんだよな。俺が悪いのか?俗物だからか?なんだ?どうしても「ありがたいものがきた展」に見えてしょうがない。

かの世界遺産となり得ました国立西洋美術館に、なんと、あの、ミケランジェロがやってきました!ありがたや、ありがたや。教養のある皆様、どうぞご覧ください。あ!教養のないそこのあなた!!あなたには決して理解できないかもしれませんが、とても価値のあるものなので、決してその汚いお手をお触れにならない様お願いいたします。

ちっ、いちいち癇に障るな。少しくらいいいだろ。綺麗にしすぎじゃねーか。除菌しすぎてねーか。俗物的には教養とかよくわかんねーし、なんでもいいからもっとこう、わくわくさせてくれよ。いや、わかるよ。フツーのエンタメじゃないんだろ。タイセツなブンカだろ。ゲイジュツってやつだろ。それはわかるんだ。でもこっちだって暇でしょうがないけど大切な時間と、なけなしの金を払って来てんだ。少しはさ、うぉー楽しかった!スゲェー!ってなこと感じたいじゃん。

いや、もちろん、俗物なりに感じたことはあった。ありましたよ。こいつめっちゃいい身体してんな、とか。こいつは短距離向きで、こっちは長距離向き。こいつはケンカ強そう。お前はなんでこんなにエロいんだ。おぉ、なんかこれは高そう、みたいな。そもそも約2000年前に造られたものが目の前にあるのですから。それはあまりにも信じられないもので、さっき怒られたのとは違う店員さん(?)に「これホンマもんですか」と聞いてしまいました。「はい、作者不明のものも何点かございますが、ご覧のパンフレットに記載されている通りでございます。」

でもなんか、作品を見にきているのか、歴史を目の当たりにしているのか、よく分からなくなってきてしまいました。そう、そうなんだよ。美術館にくると鑑賞行為をしてるのか、お勉強しに来てるのかなんだかわからなくなるんだ。そういえば、前に誰かが縄文土器の展示方法に「教科書に載ってんじゃねーんだ」って激怒していたな。岡本太郎か?縄文人は俺の真似してるって言ってたくらいだから、何かいいそうだな。少しわかるのは、古代の生々しい彫刻像や絵画が目の前にあってもう少しの接近で楽しくなりそうなのに、その前に常にフィルター一枚挟んで見ている様な。。。。

今回に関していえば、生の身体性を感じるなら、同じ上野でも動物園に行ったほうがよかったなぁ。あの動物臭さ?獣臭っていうのか、あれ好きなんだ。ゴリラってめっちゃ強そうじゃない?あの胸板!!どんだけ筋トレしたらああなれんだ。あ、不忍池から出てくる唐十郎でも良いや。でももうやらないよなぁ。シンクロ率高くない?俗物ですいません。でもこれなら、ミケランジェロさんでなくても良くないか?まあ実際ミケランジェロの作品自体は2点しかありませんでしたが。

そうそう、見てたら途中で思い出したんだけど、『最強のふたり』っていう映画。あれで美術作品を揶揄するシーンがありましたが、大爆笑とともに俗物から見た美術とは詰まる所こういうもんだな、と納得してしまいました。

結局興味ある人や、専門家にわかってくれれば良いというスタンスなのでしょうか。娯楽作品なんてそんなもんか。実際美術館の客の入りは総じて上々なようだし。俺みたいに批判する奴なんてごまんといるだろうし、よくわかっている人たちからすれば、あんな何も知らない美術的感性のないバカはほっといて良いよって感じなんだろうし。でも、でもさー、ジャンルで閉じこもってるのは勿体無いよな〜。キャパ狭いよ、キャパが。

まぁ俺はディズニーランドにでも行って楽しもうと。いや、いまはUSJが激アツか。

RIZINの那須川VS堀口もめっちゃ楽しみ。WBSSの井上尚弥も横浜アリーナで生観戦!

それにしてもチームラボプラネッツトウキョウは楽しかったなぁ。裸足ってのが良いよね。写真撮りまくったな。どれインスタに載せよう。

 

他者と共に、身体ごと、圧倒的に没入する
人々は、超巨大な作品空間に、他者と共に、身体ごと、圧倒的に没入します。

チームラボプラネッツは、チームラボが長年取り組んできた、「Body Immersive」というコンセプトの、身体ごと作品に没入し、自分の身体と作品との境界を曖昧にしていく、超巨大な身体的没入空間の作品群からできています。

「Body Immersive」とは、デジタルテクノロジーによって、作品とそれを媒介するキャンバスが分離され、キャンバスを変容的なものにすることができることによって、もしくは、連続した動的なふるまいによる視覚的錯覚によって、身体ごと作品に没入させることができるという考えです。
そのことによって、人々は身体と作品との境界が曖昧になり、自分と世界との関係を考え直すきっかけになるのではないかと考えています。
そして、一つの世界が、自分や他者の存在で変化していくことで、自分と他者が同じ世界に溶け込んだ連続的なものとなり、自分と他者との関係が変わっていくのです。

<チームラボプラネッツ(豊洲)公式サイトより引用>

 

 

 

というような断絶を創作者の端くれとして自己の内外に常に感じる。

ピーターブルックという演出家が「演劇は最低限エンターテイメントでなければならない」と語ったらしいが、そのことの意味をよく考えさせられる。と言っても、より簡易に鑑賞出来る様にしなければならないとも思わない。この時代、「閲覧」なら自宅でなんでもかんでも平易に可能である。ならば、むしろもっと鑑賞出来るということを困難にする必要があるのではないかとすら思う。作品の肝は、鑑賞される対象自身の力と鑑賞者の身体の熾烈な拮抗状態にあると思っているからだ。そしてその拮抗状態を作るのは紛れもなく空間演出に他ならない。これこそピーターブルックのいうエンターテイメントではないだろうか。

別役実が語るように、身体性の欠如は例えばニュースの風化を早める。たまたまなんらかの事件に遭遇して野次馬の最後尾に付き、事件の経緯や事実関係をよく把握できなくても、そこに居合わせた事実というものは人間には大きく、ただ家でニュースを見て、事件の事実関係や事の顛末を詳細に知るよりはるかに経験としては深く刻まれる。
また、地酒が「うまい」と思わせるのも、独特の製法や、その土地の材料の特徴もさることながら、その土地に在る身体という身体的事実がそうさせている部分が大きい。いつもの居酒屋で呑む地酒はただの酒の一種類に成り下がる。
スティーブ・ジョブズも、いつも見ていて全くわからなかったが、LSDをキメた後に曼荼羅を見たら理解できて感動が止まらなかったと。これはちょっと違うか、

ある一つの作品なり物事を提示するにも、その前段階においてその身体に何を与えてどういう身体性を保有してもらうかによって、そのコミュニケーションの仕方は全く違ってくる。作品がいくら潜在的に力を有していても鑑賞者の身体がそこに拮抗していない場合は大した感動は生まれまい。

逆も然り。日本三大がっかり名所なるものがあり、その一つに数え挙げられる高知の「はりまや橋」へ行った時のことである。最初はどこに在るのかすら見つけられず、ようやく見つけた場所は何度か通った場所。え、これ?期待を裏切らないがっかりを提供してくれた。これは鑑賞者の身体に作品が拮抗してこないズレから生じるものであろう。

それゆえに、この二つを突き合わせる装置としての、作品群を覆うハード面の演出はとても繊細に扱わなければならない。

その点において、基本的に美術館の展示に対していくつかの指摘をせざるおえない。

まず第一に、コンテンツの空間への親和性の低さだ。入れ物としてのハード面に入れ替え可能な作品群が持ち込まれ、パッケージされている様に感じられ、空間に対して作品が浮いている。
また、矛盾する様だが、コンテンツに対して、空間があまりにも予定調和である様に思えてならない。そこに設えられた作品群は、いつも美術館に対してある様にしてあるのである。
そこには、驚きもなければ、作品が有するはずの空気感という様なものが感じられない。作品がその空間に根付いていないのである。そこにある必然性を感じ得ない。こうした作品群は持ち運び可能であるが故に、美術館を転々とし、その美術館ごとに、エディットされ、展示される。これでは空間に作品が埋め込まれ、固有の匂いや空気感を醸し出すはずはないのだ。本来の作品の在りようは、皮肉にも宣伝用の言葉によって語られている。そのような空間おいては鑑賞者の身体も空間に接続せず、その身体は幽霊のごとくその中を彷徨うしかない。

また、二つの引用文を比べてみると明らかであるが、前者はそもそも演出の視点の軸足が鑑賞者でなく作品にあるという印象も拭えない。作品に軸足をおいてしまっているため、帰って身動きが取れず空間が硬直してしまっている。旭山動物園の行動展示は有名だが、あれは動物の本来の姿を鑑賞者に見てもらおうという試みであった。これに類して語ると、現在の美術展示は、作品を檻に入れて大事に保管し、持ち運び可能な形にしてしまっている。一見作品を大事にしている様で実のところ、その過保護さが作品を殺してしまっているのではないか。これでは折の中の動物も本来の姿を覗かせない。作品たちはそこにある必然性を失い、ただ見られるためにある。見られるためにある作品は、カッコつけてよそ行きの顔しか見せてくれない。唯一の利点は、いつでもどこでも持ち運び可能、閲覧可能。動物園で飼育員から餌をもらい従順に過ごす動物と、アフリカの大自然で生きるために狩をして過ごす動物のどちらがより劇的であろうか。

つまりここでは作品自体も空間に接続せずその中に漂い、鑑賞者の身体も空間に接続せず只中を彷徨う。ここに欠けているものはそのふたつに杭を打ち込む作品の定点性である。

井上雄彦氏が初めてアメリカでNBA観戦した際に、まずその空気感に圧倒されたと語る。長年そこで行われた歴戦の数々、バスケットボールというスポーツの匂いや、音や、空気、そこから生まれる感動までもが、その場所に染み付いている。そこにバスケットボールというスポーツがあり得てあるのである。それははじめて大相撲を見たときのそれだったという。

また、『わが町』という戯曲はまず冒頭に進行役によってこの町の場所が詳細に語られるが、これに対して別役はこう評する。

ここには、「特殊化すればするほど普遍化する」という法則が働いている。奇妙な話だが、世界の片隅で発生した小さな出来事は、「どこにでもあるよ」ということでどこにでもあることを伝えられるのではなく、「ここにしかないよ」ということで、逆にどこにでもあることを伝えられるのだ、ということである。

その土地、その場所、その空間に生まれ、そこに行き続けることこそ、またそのように在りてあるよう魅せることこそ、作品と身体を空間に接続し、作品と身体の熾烈な拮抗を生む磁場となり得る。いま、まさに必要なのは、そこに在りてあること、そのこと可能にする定点なのではないだろうか。

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