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不可能性を超えて

 

井筒和幸監督が『岸和田少年愚連隊』という映画を作った際に、海外への配給を拒んだという。自身にとっての映画の肝である岸和田弁のニュアンスが翻訳によって削ぎ落とされるのを嫌がったのだ。翻訳という行為は、考えてみるとある種の大きな飛躍を孕んだものであることがわかる。というより、翻訳という作業には原的な不可能性があるのではないか。この原的な不可能性を乗り越えるには何が必要か。

 

ここで翻訳という行為と演技という行為の類似性を三つの点から鑑みることから始めたい。

 

1 始点、他者の言葉

真正面に、翻訳とは何かと問われて真っ先に出て来る答えとしては、「原作自体が持つモチーフやエッセンス、その当時のその場所の読者に果たしたであろう機能や批評性、つまりは原作と読者の関係性そのものを現代のいまここに移し替えること」と答えるであろう。だが、鴻巣友季子は『翻訳ってなんだろう?』において、翻訳という作業は、書くという作業の前の原文を読むという作業が翻訳の重要度の8割を占めるという。つまりは原文の精密な読書、深い読書による理解が翻訳という仕事の大部分であるという。
演技という行為も一般に「役の感情を表出する」だとか、「物語の世界を体現する」というような仕事だと言われるが、実際に作業の大半を占めるのは、台本を読むという作業になる。まずはいかに台本を精密に深く読むか、ホンを読める俳優と読めない俳優のそれには雲泥の差がある。

 

2 両義性、矛盾する関係性の内包

また鴻巣は同著において、翻訳というものの原文に対する批評性と当事者性に言及する。批評家同様にその作品を読み込んで解釈することに加え、フランスの翻訳学者アントワーヌ・ベルマンが「翻訳とはその作品を体験することである」というように、作品に対する体を張った読書で他者の言葉を生きることが大切だという。ある種絶対的主観と、絶対的客観を同時に身体に存立させるという無謀な行為である。
ここにも演技行為との類似性を見て取れる。演技をするという行為は、役になり切るというような言説が示す通り、劇中の人物への限りない接近の試みと思われがちであるが、もう一面、物語それ自体や、物語における自らの機能的側面、そのシーンにおける役割を批評的に判断する眼が求められる。いわゆる「離見の見」と言われるものであるが、身体内部にその矛盾を動的平衡状態を保ちつつどれだけ強烈に内包できるか、そこのバランス感覚にかかっていると言っても過言ではない。

 

3 媒介者

翻訳行為と英文和訳の違い考えた時にも演技行為との類似性が垣間見られる。鴻巣はその違いに「読者の有無」をあげる。演劇という地場の成立要件としてピーターブルックは空間・俳優・観客をあげた。役者という身体と翻訳家という身体の第三の類似項は、「他者の言葉」と「他者の視線」という接地点においてのみ存立しうる点と言える。そしてその両者は時として時間と空間を超越する。

 

さて、原的不可能性の内実が明らかになりつつある。

 

ここでさらに一つの事例を挙げる。

私的な話になるが、以前児童相談所で働いていたときに言われた言葉が脳裏に焼き付いている。プライバシーの問題があるので詳細は省くが、ある子供が悩んでいたので、何か少しでも為になることが言えたらと思い、話を聞いた。話の中で自分の彼女の心と共有できる場所を探し、こう切り出した。「君の気持ちはわかるよ。」しかしその冒頭の喋りだしで双方のコミュニケーションは砕け散った。彼女は「あんたに私の何が分かんの」と言い放ち、スタコラサッサと消えてしまったのだ。呆然と立ち尽くした私は、「確かにここに来るような子供がしたであろう経験を自分は何一つ持ち合わせてはいない。想像はできるが、実際の経験に比べて想像力とはなんと虚しい微力な力ほどしか有していないのであろうか」と絶望的な思いに苛まれた。

 

「他者」というのは、得体の知れない怪物である。演技という行為、翻訳という行為の不可能性とは、この得体の知れない怪物に挟まれながら、矛盾する二つのベクトルを身体内部に強烈に駆動させ、時空間をも飛び越える両者の媒介者たり得るという無謀さ。しかしそこで立ち止まっていては何も始まらない。

 

では、この不可能性を乗り越えるにはどうしたらいいか。コミュニケーションの遮断を回避し、井筒監督の首を縦に振らせ、彼女の心を癒すためには繊細かつ力強い地道な作業が必要そうだ。

 

まず考えるべきは、ゼロ地点へ回帰し、生成の現場に接近することで「他者の言葉」の良き理解者たること。生成した瞬間の現場、すなわち歴史的価値判断が混じり込み、それを汚す前の生の状態への限りない接近を試みること。零度地点の実作者の思いと読み手の織りなすテクストの触り心地を確かめる。その為には、自らの身体をそこに投げ込むことに加え、自らの身体を離れ、時空を超えた批評眼を持つことが必要である。

そして良き理解者ゆえに自分の理解をただ押し付けるようなマスターべーションにならぬよう、現在の視座における「機能」の回復、再興を丁寧に考えること。ある作品が、そのジャンルにおいてエポック的な作品になることは、ままある。しかしそれはその後の文脈を改変し、固定化され、新たな文法としてそのジャンルに収束してしまう。ロラン・バルトは『エクリチュールの零度』において、「語法の刻印を押された秩序へのいかなる隷従からも解放された白いエクリチュール」を希求し、アルベール・カミュの『異邦人』というテクストを白いエクリチュールと評した。しかしそれが価値の土俵で規範化された時点で、それはもはや機能としての新鮮さを失い、後世の読み手にとっては既視感となるという、影響の時間的転倒が発生してしまう。ゆえにここで考えるべきは「機能」である。価値は時制に取り残されるが、機能それ自体は未来へ延長する。原作の歴史的価値を修復する試みは、翻訳にも演技体にも存しない。それは原作自体に現在の視点が照射されることで果たしうるのである。価値を追い求めた瞬間、逆説的にその作品の価値は死んでしまう。過去から取り出すべきものは、常に機能の回復と再興である。果たしうる機能それ自体は時制に囚われず、ここには影響の倒錯は介入できないのである。

最後に怪物である他者とのディスコミュニケーションの飛躍を許容し、逆に楽しむこと。「媒介者は作者の代理。」「ノイズを消したい。」「作者に成り切りたい。」「透明になる。」それは単なる原作の重みからの逃避である。「ただ原作を忠実に体現しました。」「私は媒介者にすぎません。」そのような完全なるコミュニケーション神話はただの幻。翻訳者も演技者もまずは読者の一人。他者との交流に正答はない。ノイズを産まないはずはない。私にはこう読めたと、自分という身体のノイズを引き受けて、ディスコミュニケーションの飛躍を後は柔らかく楽しむ。

翻訳、芝居。

わからない、でもわかりたい、そのアンビバレンスな状態でなにか確かなものを見つけようともがきながら、それでも確かなものなどないのだと打ちひしがれながら、必死に、傷つき、前へ進んだ時に零れ落ちる血痕のような言葉にこそ他者の魂は宿るのではないか。

文字数:2934

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