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tofubeatsは〈家具の音楽〉の夢を見るか

tofubeatsのポップミュージック寄りの作品群――例えば、「水星」「ふめつのこころ」「BABY」など――を聞いたとき、その透明さ、普段着のような心地、つまりはある種のとっかかりのなさに、かえってとっかかりを見出してしまいたくもなる。そうした作品群は、用いられた音色のもつ、時に奇特な風合いや、ミュージックビデオとの組み合わせもあいまって、なるほど確かに――はじけるような、表面的なきらめきをもった――「ポップ」ではあるだろう。しかしながら日本の「ポップミュージック」の系譜とは少し異なるものをもつ。日本のポップミュージックは、この場合「演歌」などの大衆歌謡も含めざるをえないのだが、長らくメロディー偏重、「歌うこと」偏重の、湿っぽい抒情性の系譜を辿ってきたのである。

ヒット曲とはそのまま、ヒットメロディーのことであった。大衆の身体に馴染むような、気軽に口ずさめて、ともすれば学校や職場で披露することができるような、そうした音楽。それがかつて、日本でまだ音楽が売れていた頃には、ヒットチャートを賑わせていた。70~80年代の、まだ作詞家と作曲家の権威が顕在だったころには、大衆の身体と心情を言い当てる、多くのゲームが繰り広げられていた。阿久悠や筒美京平、松本隆の仕事を参照されたい。時代を歌うということが、実際に可能だった時代があったのである。これは音楽作家の権威が墜落しても、例えばシンガーソングライターの表現や、ユーロビートと密接な関係をもつ小室哲哉の音楽を振り返ってみても、さほど事情は変わらない。

そしてこの「時代を歌う」という名目の下実行されてきた、日本のポップミュージック固有の湿っぽい抒情性、「泣き」、はっきり言ってしまえば「辛気臭さ」と、ヒップホップのアーティストは対決を迫られ続けてきたはずである。なるほど、「世界に一つだけの花」(SMAP)や「ありがとう」(いきものがかり)のような道徳性を混ぜ込んだ音楽にすれば、公共放送の電波に乗って、よい音楽のお墨付きを得られるだろう。しかしそれはヒップホップ、ラップの音楽のもつ本来のコンセプト、反骨精神であることから離反するという結果にひとしい。カウンターカルチャーとしてのアイデンティティーに、嘘が生じる。おおよそ、カウンターカルチャーの出自をもつものは、同様の運命を辿るのだろうけれども。

それでも、自分たちの音楽をいかに人工に膾炙し、いかに大衆化させるか、まさにこうした問いを持ち続けるかぎりで、彼らはときに同化政策をとることもあるのかもしれない。道徳性とまではいかずとも、ありふれた日常を讃美する内容をもたせたり、ヒップホップを他の形態、多くの場合バンド形態に組み込むといったように。

しかし実のところ、tofubeatsのポップミュージックは、湿っぽい抒情性とも、同化政策とも、離れた場所にいるのである。それはなぜか。主体の「表現」、自己の表明への渇望という、日本の歌謡曲とヒップホップの音楽、どちらもの立脚点となっているものに、そもそも根ざしていないからである。

これはtofubeatsというアーティストがトラックメイカーであるということ、そして素人細工的なものへの感性をもっていること、この二つの点から説明できる。トラックメイキングの技法の一つであるサンプリングという手法は、他の音楽の引用のことである。引用である以上、それは本質的には主体の表現の薄まりを避けることができない。それよりむしろ、文脈操作の面白さを、意のままにしている。素人細工的なものもまた、主体の表現という凝り固まりからの脱却に、重きを置く表現形態を主導する。「WHAT YOU GOT」のミュージックビデオでは、外国人男性が、なんともいえない精度のダンスを披露し、それが映像素材として加工されて、丁度良い軽妙洒脱さを醸し出している。

さて、ここまできて、「それではtofubeatsの音楽作品は、中庸で、内容空疎なものなのか」と疑問を投げかける人も出てくるだろう。あるいは、「湿っぽい抒情性や同化政策と縁を切って、それでも『日本のポップミュージック』足りうるのか」、と。当然、内容空疎ではない。tofubeatsの音楽作品は、内容をもつ。そして、「湿っぽい抒情性」を介さずして、今の大衆の音楽足りえている、新たな日本のポップミュージックなのである。

なぜそう言えるのか。それはtofubeatsの音楽作品が、とある過去に生じた内容(=コンセプト)を懐胎しているからで、そして今日の時代状況もあいまって、その内容が過去に生じたとき以上に、結果を伴っているからである。

その内容とは、エリック・サティが晩年に提唱した、〈家具の音楽〉である。

 

「……何かそれに重要な含みがあるなどとはお考えにならずに、休憩時間のように、音楽などは存在しないかのように振舞われますよう、切に皆様がたにお願い申し上げます。 家具の音楽は何気ないプライベートな会話、ギャラリーにある絵画や誰も座っていない椅子、そういったものとおなじありようで、人間の生活に寄与することを願っております…………」[1]

 

音楽史的には、このサティによる記述から影響を受けて、ブライアン・イーノが「アンビエント・ミュージック」に着手し、あの時間構造の極めて緩やかな音響が生れたということは、言を俟たない。しかしだからといって、ジョン・ケージによるサティ再発見のことであれ、実験的な創作の方向性のみに、サティの可能性が汲みつくされたわけではないのである。上記引用にある「人間の生活に寄与すること」を度外視しないのであれば。

サティのような謎めいた作曲家が、どれほど真剣に〈家具の音楽〉の経験を、人々に要請しようとしたかは、少し疑わしい。本当にサティの音楽はBGMであろうとしたのか、それとも、本当は聞き流されたくなかったのか[2]――ただ、この理念を直接継いで、真っ当に「音楽などは存在しないかのように振舞われ」るような、そんな音楽をやろうとすれば、かえって作曲家の主体が垣間見えてしまいそうなものである。

いずれにせよ、「存在しないかのよう」な何がしかを、積極的につくらねばならない。そのためには、音楽作品自体が消えるまで、徹底的に寄り添わねばならない。一体何に?――人々、ではなく、人一人の生活に。tofubeatsのポップミュージックは、極私的なBGMとして、人々、人の一人一人につながっていく。かつての日本のポップミュージックにとっての「時代」という設定から漏れ出た人にすらつながって。

――tofubeatsは〈家具の音楽〉の夢を見るか。

 

 

[1] エリック・サティ[著] 秋山邦晴・岩佐鉄男[編訳]『卵のように軽やかに サティによるサティ』筑摩書房、1992年、107頁。

[2] 柴野さつき「等身大のサティを求めて……」『ユリイカ 1月臨時増刊号 エリック・サティの世界』第47巻第18号、青土社、2015年、12-14頁。

文字数:2849

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