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主題と変奏 松本人志の場合

1.

平成について、この時代区分に生まれたものや、イメージ、気分、流行したものをかきあつめることは簡単だ。新語・流行語大賞の過去の受賞歴を調べるなり、今ならちょうど、各ウェブサイトで、写真付き年表の特集が組まれているので、そういったものを眺めていればいい。しかしそうした断片をかきあつめてみたところで、残るのは、この時代を過ごした人間なら甘酸っぱい気恥ずかしさくらいなもので、それでは平成を振り返ることにはあまりならない。極私的な体験、単なる出来事、これら以上のものに言及せねば、振り返ることにはならない。

かといって、出来事間の線を補填して、平成という時代に意味付けを行うのも、そう易々とはできない。ましてや時代精神なんてものは、もっと存立しがたい。そもそも、時代精神など事後的に、それ以降の時代の見地から把握されるようなものであるから。なにより、意味付けを支える枠組みのアップデートを、人は平成という時期に迫られ、今なおその課題は生き続けているということを、無視することはできない。宇野常寛は『リトル・ピープルの時代』で、「ビッグ・ブラザーは完全に壊死し、大きな物語は消失した。あとはリトル・ピープル――小さな物語へのコミットメントの問題『だけ』が残されているのだ」[1]と、つまり、〈力〉の所在が既存の権力機構にではなく、グローバリゼーションとネットワーク社会においては、その成員一人一人の側に完全に移行し、それに対する想像力こそ必要なのだと、大胆に書いている。平成について考え、平成の時代精神を抽出しようと試みるなら、人はこうした事情から出発するのである。

ただ、一旦冷静になって考えてみてほしい。意味付けのアップデートから出発するからといって、すぐに途方にくれる必要も実はないのではないか。昭和が終わっていない、と考えるならば。

平成とは、さながら昭和のゴミ箱である。例えば、『日本の論点』(文藝春秋社から1992年以降逐次刊行されている、それぞれの分野の論客が書いたオピニオン記事を所収したもの)を手にとってみれば、そこで論じられている社会問題といえば、米軍基地、原発、憲法改正、食料自給率、働き方……他にも、実際には平成以前に端を発する問題点が目白押しである。他にも、映画『シン・ゴジラ』においても、「戦後は続くよどこまでも」という台詞が印象的に用いられていたように思う。平成のなかで、どれほど昭和が幅を利かせていることか。新しい想像力が必要とされると、あるいは、実際に特定の時代の意味付けなどできないと考えても、なにも現実の古い問題まで雲散霧消するわけではない。そんな都合のいい話などあるはずがない。

だから、事後的に把握されるのを待たずして、今すぐ平成の時代精神について取り組むなら、新しい想像力や、時代の意味付けに真正面から体当たりするより、そうした点について発展させるのが生産的なのである。すなわち、平成という時代にあって、昭和の精神と、人がどのように格闘しているのか、という点について。

 

2.

昭和の精神とは、経済発展の理念であり、物質的な生活を獲得する悦びであり、これらに支えられた安寧を目指す集団を形成する活力となるものである。これは90年代初頭のバブル崩壊を境に、経済の低迷に伴い鳴りを潜めるより他なかったものの、現在に至るまで、弱体化しつつ未だ存在している。その精神に左右されない、オルタナティブな生活スタイル(例えば、田舎での自給自足生活、ノマドというワークスタイル)は、その都度提案され、メディアを賑やかしはするものの、主流となるには至らない。なるほど、縛られることが多くても、結局会社勤めの方が何かと楽ではあり、働き方改革とはいえ、社員がたくさん働いて利益を多く上げねばならないという現実まで変わるわけでもない。加えて、地方創生とはいえ、田舎より都会の方が生活上便利である。

経済発展の弊害を唱える論理ならいくらでもあるだろうし、物質的な生活を、「本当は精神的な豊かさの方が大事だ」と言って牽制する論理も、すでに聞き飽きたほどである。しかしながら事態が、その論理が指し示すほうに進んでいるかどうかは疑わしい。「モノ消費よりコト消費を」などと言ったところで、収益が芳しくなければすぐに別のスローガンが提唱されるだろうし、何らかの理由で物質的な生活に不足が生じたら、やはり人はまずは物質的な生活を欲求するはずである。集団への志向ということで言えば、個でいるより集団でいる方が、「絆」という概念が指し示すように、美徳ですらあるのである。個でいることの美徳を表わす日本語は、存在するのだろうか。

つまるところ、昭和の精神とは、快楽の原理に基づいている。だから、論理で反論することはできても、根本から覆すことはできない。おそらくこのまま唯々諾々と快楽の原理に基づいていれば、人々は平成どころか、昭和すら終えることができないままである。それではどうすればよいか。別種の快楽の原理が必要だ。もっと穏当な言葉に言い換えると、新しい幸福論が。しかし既存の幸福論に論理や実践で反論しても、すぐさまニヒリズムの誹りを受けてしまう。あるいは、既存の幸福論の強化に一役買ってしまう。だから、新しい幸福論は、現実において、論理や実践で獲得することができない。さて、どうしたものか。

ここまできて人は、論理ではない何かに、または現実の外側に、救済を求めることになる。一時はそれは宗教のことだったかもしれない。あるいは芸術作品――いずれにせよ、これらが時流に則した救済を施すのかどうかは怪しい。それなら、一人の、大変問題含みな天才に、頼ってみるのはどうだろうか。

それは、松本人志というお笑い芸人である。それも彼の1990年代の活動に限定して。彼の一連の活動における〈想像力〉に、昭和の精神との格闘のなかで、何か新しい幸福論を指し示すものがありはしなかっただろうか、今一度考えてみよう。

 

3.

松本人志は、小学校の同級生である浜田雅功を相方に、ダウンタウンというコンビ名で80年代から活動を開始した。ダウンタウンは関西地区で放映された番組『4時ですよ~だ』でアイドル的な人気を獲得し、そのままの勢いで東京へ進出。またたく間にスターダムにのし上がった。お笑いバラエティ番組『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』、トークバラエティ番組『ダウンタウンDX』、音楽番組『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』など、多くの番組が90年代に人気を博し、今なおテレビのバラエティ番組で存在感を示し続けている。

人気の要因の一つは、松本の独自の笑いのセンスにあった。従来の演芸とは一線を画すような、ブラックで毒気の強い、ウィットに富んだワードチョイス。それをぼそりと一言つぶやいただけで笑いを引き起こすそのスタイルに、大衆は心を奪われ、多くの芸人志望の若者を生んだという。そのセンスは、ときに笑いとはかけ離れた、暴力や下劣さの剥き出しとなったラディカルさ故に、笑いという結果に至らないことすらあった。とはいえ、松本による笑いの探究の結果、お笑いというジャンルそのものが洗練されたということに変わりはないだろう。

この頃の松本の活動のなかでも、とりわけ注目に値するのは、1991~97年に放送されたコント番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』である。これはそのまま、松本による、大衆との格闘の歴史であり、暴力・不条理・グロテスクさ・下劣さを大いにまとったラディカリズムと、視聴率に現われるとされる大衆からの支持の間で、悪戦苦闘する松本の姿が、そのまま浮かび上がってくるかのような軌跡である。

とりわけ昭和の精神との格闘という点では、「世紀末戦隊ゴレンジャイ」という12回にわたって放送されたコント・シリーズが、特筆すべき存在である。このコントにおいて、昭和の精神との格闘がいかにして現われているか、説明しよう。

 

4.

「世紀末戦隊ゴレンジャイ」とは、タイトルからわかるとおり、昭和の5人組ヒーロー戦隊のパロディコントである。ゴレンジャイは、板尾創路、ほんこん、今田耕司、東野幸治、松本人志が演じる。そして彼らと対立するのは、浜田雅功扮するドクロ仮面である。基本的に、ゴレンジャイとドクロ仮面のやりとりでコントが進行するといっていい。

コントの道具立て、設定として、ゴレンジャイには当世風の若者らしさをキャラクターとして盛り込んであり、ほんこんは東野の兄であり、東野は松本と第一回の時点では初対面でまだよそよそしいなど、当人らにしかわからないような繊細な人間関係が成り立っている。そして重要なことは、彼らは〈ヒーロー〉を知らない。それでも――いかにも当時の雰囲気を反映しているようだが――ゴレンジャイとして、昭和のヒーローらしからぬ、オンリーワンの個性を出そうとする。

そして敵となるドクロ仮面、彼は昭和の精神の代弁者として機能している。14年目にしてやっと怪人として独り立ちし、数多の昭和のヒーローを見てきた年長者として、あまりにヒーローらしからぬゴレンジャイを毎度指導するという、そうした役割を担うことになっている。ヒーローは見た目が肝要である、チビッ子に愛されねばならないなどと、方向性を指し示す。それに対してゴレンジャイは毎度ヒーロー像を提示するのだが、回を重ねるごとに、なんとも的外れのほうに展開していってしまうのである。

しかしその展開は、ある規則性をもっている。参考のため、第一回から第十二回までのゴレンジャイの恰好と構成を、以下に示す。

 

第一回:板尾(アカレンジャイ)ほんこん(キレンジャイ)今田(アカレンジャイ)東野(アカレンジャイ)松本(キレンジャイ) 

第二回:今田(アカレンジャイ)ほんこん(キレンジャイ)板尾(ミドレンジャイ)東野(ゆずレンジャイ)松本(ゆず)
※武器は板尾がブーメラン、ゆずレンジャイが矢、キレンジャイがハート、アカレンジャイがムチ、ゆずが棒、なおすべて緑色で統一されている。

 第三回:今田(ノースリーブのアカレンジャイ)板尾(アオレンジャイ)ほんこん(女性のモモレンジャイ)東野(タイガーマスク)松本(フジランドのウェイター) 

第四回:今田(ファルコン)ほんこん(ドキンちゃん)板尾(Rの女)東野(ノーパンしゃぶしゃぶ)松本(森ビル) 

第五回:今田(アカレンジャイハイレグ+パラソル)ほんこん(モモレンジャイ土方)板尾(アオレンジャイテナガザル?)東野(キレンジャイ貴婦人)松本(ミドレンジャイキングギドラ?) 

第六回:今田(喪服)板尾(喪服)東野(喪服)松本(喪服)
※ほんこんが自殺したという設定。 

第七回:今田(アカレンジャイ)板尾(アオレンジャイ)81歳の老人(モモレンジャイ)東野(喪服)松本(ミドレンジャイ) 

第八回:板尾(アオレンジャイ)松本(ミドレンジャイ)[ゴレンジャイと名乗る。二人なのに]東野と今田(放課後電磁波クラブ)
※完全に分裂してしまう。ドクロ仮面に統一するように説得される。のちにほんこん(モモレンジャイ)登場。仲を取り持つために、自殺したふりをしたことをあきらかにした。 

第九回:今田(アカレンジャイ)板尾(デルモアカレンジャイ?)ほんこん(アカレンジャイの腹芸)東野(汚されたアカレンジャイ?)松本(アカレンジャイ喰い?) 

第十回:今田(ボイン)板尾(ごっつボイン)ほんこん(超ボイン)東野(数あるボイン)松本(回るボイン)
※ボインファイブになる。 

第十一回:今田(巻きボイン)板尾(呪われたボイン)ほんこん(轢かれたボイン)東野(ボインをからっとあげてみました)松本(寿司ボイン)
※新生ボインファイブになる。 

第十二回:今田(アキラファイヤー)板尾(なめねこ)ほんこん(ガチャピン)東野(パイマン)松本(ガララニョロロ)
※他コントキャラの流用である。

 

これらは、〈統一と分裂〉をめぐる変奏である。第一回は役の重複による過剰な統一、第二回は「ゆず」という突飛な異物を入れることによる分裂、第三回では「タイガーマスク」と「フジランドのウェイター」という、突飛な異物も分裂し、第四回は異物のみになるという統一、といったように。これ以降も変奏は続く。第五回には色は申し分なく分裂するのだが、それぞれのデザインが気持ち悪いものとなっている。第六回から第八回は、「自殺といじめ」が笑いの題材となっており、その深刻さもあいまって、変奏の気持ち悪さはギアを一段階あげるものとなる。第七回の異物はモモレンジャイとして連れてこられた老人であり、これは松本が完全に操作しており、その関係性はグロテスクである。第八回にはまったき分裂が生じ、統一は御破算となる。理想的なヒーロー像を求めた結果、なぜか第十回、第十一回で、乳房を出した女性のモチーフが登場するのであった。〈統一と分裂〉、この主題自体が、突飛な異物となり果ててしまった、ということになる。

そもそも、理想的なヒーロー像のための〈統一と分裂〉というアイデア自体は、ドクロ仮面側、すなわち昭和の側から要請されたものであった。そして松本はゴレンジャイというこれ自体昭和的なモチーフを駆使し、そのアイデア自体を、次第に、異物としてしまったのである。

ここに、昭和の精神をそのまま飲み込んで、消化して異物となす、そうした平成の精神の気概がうかがえるのではないだろうか。

 

 

 

[1] 宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎、2011年、148頁。

映像資料:『THE VERY BEST OF ごっつええ感じ 3』(DVD)、よしもとミュージックエンタテインメント、2003。

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