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翻訳と〈警察化した知性〉

恥ずかしい話だが、筆者は日頃よく誤訳をしでかす。そしてありがたいことに、誤訳を指摘してくれる知人がいる。誤訳の指摘は大きく二つに分けられる。一つは、文法事項や言葉の意味をきちんととれていないというもの、もう一つは、原作者の意図を汲み取れていない、というものである。前者については単純な誤訳であるので、すぐに自らの訳文を訂正するのだが、後者となればときたま、そうはいかなくなる。筆者なりに原作者の意図を汲んでいるからだ。翻訳の際、古典翻訳ならばなおのこと、原作者は亡くなっていることがほとんどだ。それにも関わらず、いやそうであるからこそ、原作者の本当の意図をめぐって、議論となるのである。ところで、そうした議論をするときに、原作者の意図というものに極端に固執した人に出くわすことがある。筆者は内密理に、冷やかし半分で、彼らの態度を〈警察化した知性〉と呼んでいる(例えば、マルクス研究者がアーレント研究者に当たりが強い場合などに)。

〈警察化した知性〉にはいくつかの問題点がある。まず、取り締まり以上の成果が生まれにくいことが挙げられる(「アーレントのマルクス解釈は間違っている。何故ならマルクスはそんなこと言っていないから」となる)。次に、解釈の可能性を閉じてしまうこと(「我々よりもアーレントの方が正しい」とはならないこと)、そして、原作者についての解釈の妥当性をめぐって、終着点のない議論を行ってしまう(「私の方があなたよりマルクスを理解している」)、ということも挙げられる。言ってみれば、亡き原作者からの承認をめぐる闘いに突入してしまうのだ。しかし、原作をきちんと理解しようとすること、原作に思い入れをもつことと、〈警察化した知性〉とは、同じことの両面である。翻訳とは、〈警察化した知性〉の炙り出しに他ならない。

さて、古典新訳の場合、既存の翻訳の数が多いほど、〈警察化した知性〉からの取り締まりを受けるわけだが(○○訳の方がよかった、この訳者は原作をわかってない、この訳者の日本語は下手、などと言われて)、当然、自分で自分を取り締まるということもあるわけである。こうしたなかで、もし「先取りの剽窃」が生じたら、それは驚くべき、奇跡的なことである。「剽窃」というネガティブな評価が下るのだから、旧訳より新訳の方が良いということになるのであり、また「剽窃」なのだから、旧訳と新訳とに連続性がある、ということになる。もし〈警察化した知性〉、すなわち、価値判断が確固としたものとなっているがゆえに他の価値を排斥し取り締まる傾向性に、それが庇護している旧訳、原著に対して「先取りの剽窃」の感を抱かせたら、新訳の大勝利というわけだ。

しかしながら、そのようなことがどうやって可能となるのだろうか。ここでは一旦翻訳の問題からは離れて、今日においてなぜ、どういった場で「先取りの剽窃」が起こるか、考えよう。これが生じるのは例えば、今となっては型通りのものとなった人物キャラクターの原型を、より色褪せたものとして感じはするものの、古い小説のなかに発見したり、何かと80年代、90年代をリバイバルさせた製品が多い昨今、当時を知らない若者が実際に当時のものを見て、何か新しさや、あるいはリバイバルされたものとの違いを、感じるといった場合である。これらは要するに、無歴史性の引き起こす事態である。昨今、無歴史性は至る所に広まっている。何もかも今のものとし、歴史性を度外視して作品を並べ立てるという態度に、「先取りの剽窃」という事態は対応している。あるいは相対主義的な事態ともいってよいだろう。価値的にも時間的にも、上下はないのである。

話を戻そう。そもそも古典新訳とは、「こういう訳もあっていいだろう」くらいの生半可な動機で着手できる代物ではなく、既存の翻訳が存在するにも関わらず取り組むのだから、「それでもこう訳すしかないのだ」といったくらいの強い動機がそこにはあるはずである。よって対決すべきは、新訳を認めない傾向のある〈警察化した知性〉ではなく、易々と「先取りの剽窃」を認めてしまいがちな無歴史的相対主義者なのである。むしろ、価値判断と歴史的文脈を両方ふまえた「先取りの剽窃」を引き起こすには、新訳は〈警察化した知性〉との動的な共同作業に入らねばならない。

だから、新訳の訳し方のディテールなどというものは、ここではあまり本質的な問題ではない。それに「こうでしかありえない」といった感を古典新訳が抱かせるというのも、かなりハードルが高い。それより重要なことは、新訳の出現により、〈警察化した知性〉の原著に対する眼差しに変化が生じるかどうか、である。どういった変化かというと、原著がアクチュアリティーを獲得することと、賞味期限切れを露わにすること、こうした変化であり、これら両方が同時に起こるという奇跡が起こったなら、それが「先取りの剽窃」になるのである。ここでいう賞味期限切れとは単に、使われている言葉が古いものとわかる、という事態のことではない。原著における経験しえない何かが、トポスのようなものが、立ち現われることである。今となっては再構築できない、文字で記述したものから直接読み取れないようなもののことである。それゆえ、「先取りの剽窃」とは、時間を要し、直接箇所を指し示せないような、そうした経験であり、すぐさま「先取りの剽窃」とは認識できないものである。大抵薄ぼんやりとした違和感であったり、ともすれば新訳に対する非理性的な憤怒といったかたちで、意識化されるのである。

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