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いまや隔離された喫煙所にて、大衆の言葉を問う −平成のタバコ離れ−

 

 

 

 

本課題のはじめの読者となるだろう東浩紀、安藤礼二、佐々木敦らの盲点になるような「平成/批評」観を見出しその可能性を示すことなど、考えれば考えるほど難しい。課題の目的はおそらく、様々な書物によって語られた平成の批評を整理し直すことでも、または平成生まれの若者の視点でとらえた批評像を形作ることでも満たされない。平成にとっての批評を考える「私」は、分裂せざるを得ない。

 

 

 

 

 

危機が騒がれる。2017年になるとドナルド・トランプがアメリカ合衆国の大統領に就任、同年の11月には東アジアを歴訪した。興味深いのは、中国でトランプを迎えた習近平が故宮を案内したことである。故宮は中国共産党の高官ですら入ることのできない場所であるにも関わらず、習近平はまるで中国における現人神たる皇帝にでもなったかのように、宣誓の際には必ず聖書を用意する−アメリカ大統領を案内した。先の読めない世界情勢においては、米中両国のリーダーもそれぞれ人間の理性を超えた存在と繋がろうとする。人間の理性的議論や合意に従って物事を決める傾向は衰退し、理性の外側の超越的な力が求められる。これが平成になり、全世界的な危機の時代の中で生じた独裁的な国家の増加、極右勢力の台頭の背景である。

同じことが、安倍政権と日本を取り巻く政治状況にも当てはめられるだろう。じっくりと時間をかけて議論を行い安定した社会を継続していくことが、成熟した民主主義の姿なのは強調するまでもない。しかし、平和な時代には試行錯誤することができた議論と選択は、世界中でテロが多発し、国内では原発事故が発生し、隣国の北朝鮮が核ミサイルを手放そうとしない状況の中では、導かれなくなった。思想史研究者の片山杜秀によれば、立場の異なる国や政党同士が話し合いの中で利害を集約させていくというモデルはもはやリアリティを持ち得ない。そこには長い時間をかけても議論の落とし所が見つからないような状況が、いやむしろ議論をすればするほど分裂が生じてしまうような状況が横たわっているのだ。

近代の民主主義が無力なものに転じてきたからこそ、人々は強引に意思決定を進める独裁者に惹かれていく。さらには超越的な存在とは、独裁者であるかもしれないし、神であるかもしれない。時間の経過を含んだ民主主義の意思決定に耐えられない、という世界のトレンド。これはそのまま、いま批評の言葉を紡ぐことの困難に直結するだろう。じっくり考えることを放棄するような社会において、批評は人々からまともに取り合ってすらもらえない、のかもしれない。

 

 

 

 

 

もちろん、平成30年の間、批評が沈黙していたわけでは決してない。本文では各々の批評家による詳しい批評の詳細を記述することは難しくなるが、1989年1月7日に昭和天皇が崩御し、年号が平成に改められた瞬間から、その後に続いていく大きな社会変動への言及を批評は保ち続けてきた。1995年にオウム事件が起こると、大塚英志は80年代における消費文化論の延長で「物語」の影響を示唆する。オウムの歴史認識の特徴となった「陰謀史観」や「終末思想」は、80年代以来のおたく系サブカルチャーからの直接的な引用、もしくは無意識的な「反響」であり、それが彼らの歴史認識の空白を埋めるものとして機能してしまったのではないか。これに対し、同時代の論客宮台真司はおたく文化をオウム問題に結びつける「類似」の思考を批判する。何か新規なものが出てきたときに、かつて存在したものとの「類似」を指摘するのは、社会学的にみればデタラメな納得の図式なのだ。オウム事件を「世代」ではなく「時代」の問題だと捉えた宮台にとっては、「正史」のような理念を必要とする心のベクトルこそが、オウムの誕生に直結する。だからこそ、彼は90年代の「終わらない日常」を生き延びなければならないと説いた。例えばこのようにして、批評は人々の生活を映し出していた。

しかしながら、全ての批評家が人々の生活の身近なレベルまで言葉を浸透させていたわけではない。むしろ大塚や宮台は少数派だったのではないか。1980年代の「ニューアカ」ブームを取り巻くように登場した論客たちはアカデミズム内外に数多く存在したにも関わらず、日本を取り巻く言論空間は、平成時代を生きる人々にまで批評の「声」を届かせなかった。なぜか。

竹田青嗣が加藤典洋との対談で用いている言葉を借りれば(『二つの戦後から』)、それは「義の欲求」が「生活の欲求」から乖離していったからに他ならない。社会への関心は、大衆の生活の具体的な動機から離れていき、絶望や不信を伴った批判精神が論客を「大所高所」に立たせるようになった。社会的な批判を試みる際に、元々は大衆の生活を批判の拠り所にしていたはずが、大衆の生活意識それ自体に批判の矛先が向けられるようになる。竹田が1990年の湾岸戦争時に感じ取っている日本の言論空間の問題が、平成を通して連続した影響をもたらしているのではないか。

「義の欲求」は「大衆への絶望」によって導かれる。論客が「ラディカルな」ロマン主義と政治のリアリズムから大衆に絶望し、距離を取ろうとすることを竹田は指摘していた。前者は共同体の外側に立って大衆の生活的リアリズムを憎み、大衆を信用できない後者は大衆の素朴なロマンティシズムを批判する。精神的に近寄ると大衆の現実が気に入らないし、現実に近づくと今度は彼らの心性に不満を持つ。このようにして、社会への関心は、大衆の生活が持つ具体的な動機と相容れないものになっていく。

するとどうなるか。多くの大衆に生じたのは、「言葉の遠近感覚の喪失」だと考えられる。もはや遠くで起こっている(ように見える)問題を、自分事として普段の生活の近くで捉えることができない。想像力を飛ばすエンジンすら病にかかっているような状態がもたらされる。

平成を通した「ストリート」の思想も、近くで起こっている問題への遠近感の喪失させ、結果的には遠くで起こっている事象へのそれも脱臼させてしまった点で類似する。社会問題が声高に取り上げられる中で、大衆は生活と結びついた言葉の運動神経を狂わせてしまう。

「生活の欲求」が後退させられたことにより、言葉が持つ「想像力の射程」が短くなった。これが平成における批評が導いたひとつの側面ではないだろうか。無論、この傾向に(結果的に)抗おうとする批評の潮流が平成時代にも芽生えていたのはいうまでもない。

 

 

 

 

 

 

大塚や宮台もサブカルチャー批評を通じて言葉を大衆の生活に近づけようとしていたものの、「生活の欲求」に近いところで生まれた言論とは、強調するまでもなく東浩紀以降の「ゼロ年代批評」だろう。オタク・カルチャーとコンテンツ批評が結びつくことで、ライトノベルやゲーム、セカイ系を中心とするアニメ作品などに対し、新たな消費者層としてのオタクからも多くの言葉が紡がれるようになった。自然主義的なリアリズムに対抗し、メタレベルのリアリティを探求するような創作も促進されていく。

以上のような状況の中で素朴に見逃されがちなのは、ポップカルチャー批評の「器」としての機能ではないだろうか。オタク文化を形作る若者たちは、思想や哲学などの前提知識を持たないまま「ゼロ年代批評」に接することになる。彼らがなぜ議論についていくことができたかといえば、例えば「分析の土台となっているアニメの物語内容を知っていたから」だ。ただ単に難しい話を展開されても理解できない批評読者にとって、自分の知っているコンテンツ作品を足がかりにすることで先の議論をフォローすることができた。そこにはインテリ以外にも開かれた批評の回路が存在していた。ポップカルチャーを経由させながら、社会や芸術表現のことを学んでいく。この時批評の言葉は、文化の消費者たるオタクによる「生活の欲求」から乖離することなく生まれていたわけだ。

ここで、「ゼロ年代批評」における「説話論」の影響力へと目を向けなければならない。同時代の批評においては、キャラ(キャラクター)やデータベースに関するラディカルな批評が存在する一方で、結果的に数多くのオタクたちがブログなどを通じた「ゼロ年代批評」を行う際に依拠したのは、作品内容を「物語る」ことと社会状況を接続させるような技法だったのではないだろうか。プロの論客たちがマイナーなコンテンツに潜む表現の世界を構造的に紹介しようとしたのに対し、素人論客の多くは「コンテンツ語り」に夢中になったわけである。

加えて、2008年になると、宇野常寛による『ゼロ年代の想像力』が出版される。90年代的な「ひきこもり」からゼロ年代的「決断主義」への移行が、アニメやドラマ、漫画などのポップカルチャーを横断的に紹介しながら強力に語られる。続く2011年の『リトルピープルの時代』でも、宇野は「説話論的」な語り口を用いて、戦後のサブカルチャーと戦後民主主義の連関を描き出した。プロの論客が紹介するウルトラマンや仮面ライダーの世界は、若者が具体的な生活の位相に沿って思考を構築するためのより大きな「器」となった。

しかしながら、結果的にこの「説話論的な」語り口が強調され続けてしまった事実こそが、批評対象と大衆の生活の間に存在する距離を近づけ過ぎ、もはや限りなくゼロにしてしまい、「言葉の距離感の喪失」を新たな角度から招いてしまったと言えるのではないか。言葉の射程がゼロ=無限になる。どういうことかというと、そこで批評の言葉は「切断」的な特徴を後退させ、「接続」性を強調するようになっていくのだ。読者や観客などの「消費者」が補完的に知っている作品内容を、説話的に繰り返してライトアップし、社会という物語に繋いでいく批評のスタイルは、「超」コミュニケーション的とも言い換えられる。これはインターネット登場以後に、人々が言葉をスムーズなコミュニケーションの道具として、つまり「接続」的なものとして過剰に使い始めた背景と裏表の関係にある。

コミュニケーションの中でも「切断」の効果を持ち得ていた批評の言葉が、「生活の欲求」に接近しすぎるがあまりに「接続」的なものへと変わっていく。ただでさえセカイ系のアニメ作品などは、「安全な痛み」の中で展開される物語と共に、現実社会との乖離を指摘されることが多いにも関わらず、ゼロ年代批評における説話論の系譜は結果的に、「超」コミュニケーションとして、批評の読者から「言葉の距離感」を喪失させてしまうのだ。

 

 

 

 

 

それでも、2010年代後半になるとポップカルチャー批評にも変化が現れてくる。「器」としての効果はそのままに、たとえば「消費者が理解している物語内容」と「社会構造」を、「説話」ではなく「表現」を介して結びつける傾向が強まってきた。キャラやデータベースなどの「パきっとした」表現に、たゆとう「時間性」の位相が新たに加えられる。もはやコンテンツは縦横無尽なコミュニケーションを内包した。消費者とのインタラクションを表現の次元へ深く組み込んだ創作が増えてきたことが新たな批評の背景には挙げられるだろう。そしてそれらテン年代的なポップカルチャー作品の多くは、もはやほとんど批評で語られなくなったという意味で「マイナー化」した「マスカルチャー」の中に見出される。

やや比喩的に話す。これまでヤンキー的なマスカルチャーは批評でほとんど語られてこなかった。ヤンキーはゼロ年代批評では記号化され、空疎なゼロ記号のようにして扱われた。しかしながら、ヤンキーの振る舞いの中には、切断的にマスカルチャーへと接する孤独な大衆の姿勢が存在していて、オタク的なポップカルチャーの語り口とは異なる可能性が浮かび上がる。オタク的に大衆化された世界が「繋ぐ」ポップカルチャー批評を導くならば、ヤンキー的なポップカルチャー批評は個人をマイナーに分離する方向へ向かうのではないか。

孤独なオタクは、たとえひきこもったとしても、実は部屋の中から常に大きなコミュニティへと繋がっている。ヤンキーのひきこもりとは、ひとりになってタバコを吸うだけのツッパリの姿勢に他ならない。もはや「超」コミュニケーションとなってしまった環境の中で、場をシラケさすことがヤンキー的な批評だ。読者と作品を過剰に繋げる(1=1の関係)のではなく、社交のみを残して、ツッパリ(1対1の関係)を構築すること。そのようなポップカルチャー批評の構えが今や存在するはずだ。「器」であり、「切断」のための言葉であり、マイナーとメジャーがもはや逆転した磁場の中で、虚構がよりマイナーに扱われる環境で、批評読者の「言葉の射程」を地道に回復させる。

それは平成を引き継いだ「平成30年代」の批評のひとつのスタイルだと言えるかもしれない。それは「超」コミュニケーションから「読者に思考を上演して見せる一方で、読者に思考停止を促してもいる」批評ではない。「自分が思考したかのような錯覚」を抱かせる言葉ではなく、大衆が自らの批評を構築していくための言葉を持つ。それは、大衆が「社会」に対してある種の「責任」を負い、「公共性」とのポジティブな関係を取り戻すための「ボトムアップ型」の批評である。それは、作品とインタラクション表現を介して「システム」と「非合理」の関係に触れ、コンテンツの外部へと大衆を導いていく批評である。それは、鎖をかけられた大衆の好奇心を、さらなる複雑さに向けて解き放つための批評である。

 

 

 

 

 

片山によれば、平成とは、(宗教団体を除いて)「中間団体」が弱体化し、ひとりひとりがバラバラにアトム化した時代だ。小泉政権が導いた劇場型政治は未だ存続し、社会そのものが崩れていった。かつて日本の政治は、よくも悪くも地域組織や労働組織や職能団体などの「中間団体」に支えられていたのにも関わらず、その仕組みが崩壊したのである。

批評においても、この「グレーゾーン」にメスを入れ、「インテリ− −大衆」の関係に有機的な運動を導入することができないだろうか。それは無論、「義の欲求」だけでなく「生活の欲求」に目を向けることで、むしろ前者が後者の中から生まれてくるように心がけることで可能となる。「生活の欲求」から批評の言葉を紡ぐことで、現代人が失った「言葉の距離感」を再生させる。例えばこれが、平成30年間の批評実践を受け止めた「平成30年代のポップカルチャー批評」が目指すことのできる可能性だ。

(もちろん、オウム事件の際に大塚から指摘された「物語」の影響力を無視することはできない。人々がフィクションに傾倒するということは、現実と虚構を短絡させる危険性を常に秘めている。そのため、このポップカルチャー批評はそれ独自で影響力を強めることは難しくなる。例えば、全く別の角度から社会や芸術を論じる批評家とともに動く編集者が、編集的批評としてのテキストを生む仕方が適しているのかもしれない。そこで編集者はグレーゾーンを交通する「器」となり、インテリと大衆を結ぶための存在として、2通りに機能する。批評を出版に導く編集者として、またはどこか遠くからでも批評の読者を間接的につなぐ、テキストの書き手として。)

課題に答えよう。平成にとって批評とは何か。それは平成を生きる大衆の「言葉の射程」を時に短くし、また別の時にはそれを逆説的に無限に延長させ、そのバランスの調整を要求する言語の戯れである。

 

 

 

 

 

 

終章だ。これまでに述べてきたことは、様々な点で間違っている。ポップカルチャー批評と書いたが、「器」にはそれぞれの「好奇心」によって導かれるジャンルをあてはめれば類似する効果が見込める。とにかく、自分の手元で言葉の距離感をつかみ直すことが重要ではある。

しかし、なぜこのようなことを書かなければならないのであろうか。なぜ書くのか。

矛盾するように聞こえるかもしれないが、批評は何かの役に立たせようとして導かれるものではない。文芸批評、映画批評、美術批評、演劇批評、音楽批評、社会批評、、、それに触れている間だけ、世界が変わるような体験というものがある。その外で社会の役に立つかどうかなど、本来考えたくはない。誤りである。

ポップカルチャー批評も、筆者が信頼するジャンルだからこそ、ここで「器」としての役割を演じてもらっただけのことだ。そもそも本稿でこれまでに語られてきた文脈から切り離したところに、ポップカルチャー批評の豊かさも存在する。むしろ単一的なポップカルチャーの回路からポップカルチャーを論じないことの方へと、批評の展開も現れてきている。

どうすればよいのか。仮にどんな状況であれ、批評を書きたいとする。簡単に書くだけで満足するのならば、場所はいくらでも作り出せる時代だ。しかしこの「壁」のような違和感にぶつからない「平成生まれの=平成の」批評家は存在するのだろうか。強い呪いが漂っているみたいだ。言葉を紡いでよいのだろうか。批評を楽しく読むためなら、たとえば自分1人が代わりに編集業に励み、複数の若い書き手が生まれることの方が幸せなのだろうか。いや、それでも。

とにかく、批評は存在するのだ。

だから存在している間に、存在する理由も考え続けるしかないし、テキストを書き続けるしかないし、間違い続けるしかないし、そのための批評を「行う」しかない。昭和の続きかもしれない、平成の30年代を生きてみる。

 

 

 


 

 

参考文献

 

 

・佐々木敦『ニッポンの思想』、講談社現代新書、2009年

・東浩紀監修『現代日本の批評 1975-2001』、講談社、2017年

・東浩紀監修『現代日本の批評 2001-2016』、講談社、2018年

・片山杜秀、佐藤優『平成史』、小学館、2018年

・加藤典洋、竹田青嗣『二つの戦後から』、ちくま文庫、1998年

・竹田青嗣『批評の戦後と現在』、平凡社、1990年

・大塚英志『定本 物語消費論』、角川文庫、2001年

・宮台真司『終わりなき日常を生きろ−オウム完全克服マニュアル』、ちくま文庫、1998年

・東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』、講談社現代新書、2001年

・東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007年

・黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。−アニメ表現論序説」(東浩紀、北田暁大編『思想地図vol.1 特集・日本』所収)、日本放送出版協会、2008年

・宇野常寛『ゼロ年代の想像力』、早川書房、2008年

・宇野常寛『リトル・ピープルの時代』、幻冬舎、2011年

・さやわか『キャラの思考法 現代文化論のアップグレード』、青土社、2015年

 

 

文字数:7554

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