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ポスト・ギャル男のパンプアップ − テン年代のたゆとう断片

 

 

 

 

筋トレが流行している。空前の大ブームである。筋トレ専門youtuberは30万人近くのチャンネル登録者数を持ち、筋トレを説いた自己啓発本がベストセラーになる。Googleトレンドで「筋トレ」というキーワード検索をかければ、その人気度が2010年台に目に見えて増加していることが示される。フィットネスクラブやジムの利用者数は増加し、素人が気軽に筋トレを始められる時代がやってきた。

2010年代に筋トレを始めた「初心者」たちは、同じ筋トレ人口の中にカウントされながらも、筋トレブームの前から筋肉を大きくすることを目的にトレーニングを続けてきていた人々(ボディビルダーなど)とは様々な点で異なっている。明らかな「マッチョ」になる前の初心者たちを区別するために、本稿では大きな筋肉を持たない彼らを「トレーニー」と呼ぼう。トレーニーは、テン年代の筋トレブームに乗っかって、筋トレという危険な遊びに手を出し始めた人々のことである。

2019年1月29日に公開された千葉雅也の「権力による身体の支配から脱すること――。哲学者千葉雅也が考える筋トレの意義」というテクストは、そんなトレーニーや現在の筋トレブームをアイロニカルで懐疑的な立場から見つめたものであった。グローバル資本主義の激化。人々は流動的な世界の中で確実なものを得ようとし、それを原始的に実現してくれるのが筋トレである。権力による身体の支配に対し、自己準拠的な身体を取り戻すことができていない。結局のところ筋トレを通して得られるものは他律的に作られた身体なのだと千葉は論じる。

しかしながら、ここでアイロニカルに筋トレを分析するだけでなく、あえて筋トレの存在すらも徹底的に受動的に受け止めてみたらどうなるだろうか。千葉がかつてラッセンの絵を前にして行ったように。あなたは筋トレを愛していないとは言ってない。本論は、哲学者、批評家である千葉雅也にとっての筋トレの意味を考える試みである。

 

 

 

 

 

そもそも筋トレがどのようなものか、イメージがつきにくいかもしれない。以下にしばしば見受けられる筋トレの光景を描写してみよう。

まず今まで筋トレをしてこなかった人々が身体を鍛えるという新しい「環境」へ「引っ越してくる」わけだが、筋トレをはじめて少し経つと、上達へと向かう彼らがとりわけ気にするのは「最適な筋トレとは何か」ということだ。安全なトレーニングの仕方を身につけることは大事。その一方で、筋肉をつけたい初心者は必要以上に、時に過剰に、正しい鍛え方を求めようとする。

例を出そう。胸の筋肉を鍛える際、基本となるベンチプレスから始めるも、それだけでは飽き足らないトレーニーがいる。最も正しい胸トレメニューとはどのようなものか。ベンチプレスをする意味はあるのか。無論、その正解など定まらないにも関わらず問いは止まない。もしくは、今の仕方がベストなのだと「決断」しそこに留まるトレーニーもいるかもしれないが、その数は多くないだろう。

従って次に見られるプロセスとしては、彼らはジムで鍛えている他者やトレーナーなどの「経験者」に筋トレのアプローチをきくことになる。筋トレyoutuberの動画を見るのでも良い。同じベンチプレスでも、仰向けに横たわっていた台を少し起こし角度をつけることで大胸筋の上部を刺激する人もいれば、両腕を真横に開いてそれぞれの手に重りを持ち、腕を伸ばしたまま胸の前まで持ってくる動作を行うことで胸の筋肉を収縮させる人もいる。しかしながら、筋トレ初心者にとってこのプロセスが行き着くのはメニューの「飽和」である。アプローチ群に目移りしながらも、どこかで「比較を中断」しなければならない。

そこで今度は、自分にあったメニューを「享楽的に」選んでいくことになるだろう。やっていて楽しいから、またはどんどん筋肉がつくから。だがその背景には、遺伝的な資質があることを忘れてはならない。生まれ持った骨格や筋肉の形状、質はそれぞれに異なり、従って各自の身体に適した筋トレのメニューはどこかで「非意味的」に決定されていくのだ。もちろん、その仕方がベストなものかは判断がつかないため、再度これを疑い始め、新しい筋トレの可能性へと向かう。疑った後にはまた他の経験者にアドバイスを求め、そこから自分のこだわりでメニューを改良していく。そしてまた疑う。ループが生まれる。

このように筋トレは、千葉が『勉強の哲学』の中で議論する、言語を介した「ラディカルラーニング」へと部分的に近接している。筋トレという行為においては「玩具的に」身体が使われ、「自己破壊」がもたらされているようにみえてこないだろうか。筋トレもまた「勉強」であり、千葉の哲学との距離もそう遠くないはずなのだ。

 

 

 

 

 

筋トレとトレーニーの振る舞いは、千葉の「ギャル男」論(「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない−倒錯の強い定義」)を参考に把握することもできる。

千葉によれば、90年代の終わりからゼロ年代の始まりにかけて渋谷センター街に現れたギャル男は、日焼けサロンで肌をタンニングし、ロングヘアーのハイブリーチ・メッシュを目立たせたギャルへの「生成変化」に巻き込まれている。ギャルのメイクが導くのは、「男性によって憧れられ−貶められる女性らしさからの分離」であり、ギャル男は一方で彼女たちを保守的な恋愛に組み込むための「釣り」を仕掛けながら、もう一方ではギャルのそのような分離に従って自らの存在の足場を揺るがされてしまうのであった。千葉が注目するのは、そこに醸し出されるギャル男の「どうでもよさ」に他ならない。

そして、千葉がギャル男から抽出する「無責任な「分身」の乱立」は、マッチョを前にしたトレーニーの振る舞いの中へと継承されているのではないだろうか。筋肉をとにかく大きくしたいボディビルダーは、異性にとっての「丁度良さ」を軽々しく超越していく。一般的にかっこいいと思われる筋肉量の程度は度外視され、むしろ筋肉がありすぎるアンバランスな「キモさ」の方へと向かう。怪物的、享楽的。トレーニーもまた、マッチョへの「生成変化」を通して、もはやモテたいのかどうかもわからない、筋肉によって元々の目的がどうでもよくなってしまうかのような「無鉄砲な」方向へと骨抜きにされてしまうのである。

過剰な筋トレを通して人々は、ギャル男のように「自己の存在丸ごとの軽量化」を達成してしまう。あとで再び触れるが、筋トレをしているにも関わらず、トレーニーが一方では自身を軽量化してしまうのがミソだ。ギャル男のエアリーなヘアと、マッチョが巨大化させ誇示するマイナー筋。大衆の多くが気にかけないようなところで爆発する過剰な「盛り」は、本当にこだわっているのかが当人たちにも判断できなくなるような「どうでもよさ」の次元において、存在論的な軽さを誘発する。

こうしてテン年代(末)のトレーニーは、90年代(末)のギャル男の「現在形」としての、ギャル男の「分身」としての、自身の存在を際立たせ始めるのである。

 

 

 

 

 

一方で、ギャル男とトレーニーの違いとは何か。20年ちかくの歳月を経由した「分身」には何らかの差異が見出せるはずだ。それを考えるために社会の動向を分析し、千葉の議論に即した形で90年代から現在までの時代整理を行う。

「アンチエビデンス−九○年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」の中で千葉が言うように、例えばコーディネートとインターネットの在り方から「断片化」を90年代のキーワードとして導き出すことが可能である。

80年代までの全体を統一させるようなファションの効力は弱体化し、90年代のファッションは、「(ⅰ)もはや何でも並列化の時代であり、だからこそ(ⅱ)どうしたらいいか決定打がなく、しかしまだ(ⅲ)決定的な未知がありうるのかもしれない、という三重の否定性」を含んだコーディネートの特徴を強くする。「断片」の組み合わせは、人々にとって不安を伴う操作であり、結局服を選ぶ際には「ある程度」の妥当性でやり過ごすしかなくなってしまうのだが、それでもコーディネートの不安を快楽に転じることが可能になっていた。しかしゼロ年代になると、その不安を解消する、まるで事務処理のようなファストファッションが流行し、90年代のファッションに存在した倒錯的な快楽は影を潜めてしまう。

この90年代的な「断片」がゼロ年代にかけて「全体」へと吸収されてしまう傾向は、インターネットの様相からも把握できるだろう。千葉によれば、人目につかないでいることも可能だった初期ウェブ上の小さなアジールは、ゼロ年代後半のネット環境の中で消え失せてしまった。「断片的な否定性という快楽の契機」と「あいまいなエロティシズム」は蒸発してしまうのだ。

90年代の「断片」とゼロ年代の「まとまり」。2つの状況を受けてテン年代を見つめ直すならば、そこにはまるで「まとまったまま断片化する」かのような文化の様相が浮かび上がってくる。繋げられてしまいながら、それに逆らいの刃を立てること。ギャル男ではなくトレーニーこそが持ちうるのは、このテン年代的な特徴に他ならないのである。どういうことだろうか。

 

 

 

 

 

ギャル男と彼らがなびかせるエアリーなヘアが、まさに「断片」的な存在として扱われる。千葉はギャル男の佇まいの中に世界の「多孔性」をも見出している。一方で、ここまでトレーニーが、そして筋トレが「断片」的な特徴を持ちうることは述べてこなかった。「繋げられたままの断片化」を考える前に押さえておかなければならないのはまず、これらがいかに「バラバラ」なものであるのかということだ。

人体には、大小含めて600を超える筋肉が存在する。たとえば人間が一歩進むとき、それは「歩く」という単純でまとまった動作に見えながら、同時に約200個の別々の筋肉が動かされている事実はほとんど認知されていないだろう。筋肉は、関節や骨格にそれぞれの仕方で結びつきながら、人体の中で「断片」的に存在するのである。筋肉同士が繋がっているような感覚になるだけで、筋肉はあくまで骨と骨の間に存在する。

筋トレにおいてもまた、同時に全ての筋肉を鍛えることはできない。胸を中心に鍛えるならば、胸を鍛えるためのメニューを選択する。一方で、胸の筋肉を鍛える際、たとえば腕の筋肉も補助的に関わることになる。それぞれの筋肉はまるで「以下性」を発揮しながら、有限に関わりあう。

筋肉やトレーニーを成り立たせる筋トレ自体にも「断片」的な性質が見受けられる。それをふまえた上でようやく、「ギャル男とトレーニーの違い」=「繋がれたまま断片化すること」の正体に向けた踏み込みが強まっていく。

 

 

 

 

 

この新しい身体現象を探るにあたってのヒントとなる文化現象を取り上げよう。それは、ゼロ年代からテン年代にかけて生じている「キャラ」の扱われ方の推移である。

評論家の宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』の中で、近代的な自我の捉え方、「ほんとうの自分」を希求するアイデンティティ像を乗り越えるための可能性として、改変可能な「キャラ」を取り上げている。押さえておきたいのは、宇野がキャラの書き換えにおいて、コミュニケーションこそ必要不可欠なプロセスだと述べている点である。

これに対し、ライター、物語評論家のさやわかは「時間がキャラを更新するために」(『キャラの思考法』所収)の中で、2010年代にはキャラ概念が「時間的な広がり」を前提として成り立っていることを指摘する。ゼロ年代的なコンテンツとコミュニケーションの二元論に依拠するのではなく、観客参加型のようにもはやコンテンツの中にコミュニケーションさえ内包されてしまう状況において、キャラの書き換えについても「時間的な推移によってキャラが変わる」のだと捉え直そうとする。パキッと幾度も行えるキャラ変に対して、「一定でない、たゆとうものとしての」イメージを内包するキャラ。

この「時間性」の導入は、ゼロ年代からテン年代にかけての文化変容を捉える上で示唆される、極めて重要な観点であるだろう。断片的にネットと繋がる90年代を経て、さらにはネットの全体に触れるゼロ時代を経て、いまテン年代はネットと個人が常時接続されているような状況になっている。持ち歩き可能なスマートホンがそれを可能にする。さらにはもはや人々がスマホのようになったとも言える。アプリをダウンロードし、新しく必要な機能があればアプリを丸ごと書き換えていた人々は、所有するアプリをアップデートするようになる。入れ替えるのではなく、それを育てるようになる。ここにもテン年代的な「時間性」の概念が見出される。人々はたゆとう断片とともに生きている。

「キャラ」の議論を経たいま、「ギャル男とトレーニーの違い」へと話を戻す。それは「繋がれたまま断片化すること」でもあった。そしてその正体とは、トレーニーの断片的な筋肉がまとった「時間性」に他ならない。筋肉をつけるには、時間がかかる。一度筋トレで筋繊維を破壊してから超回復を待つというプロセスを、何度も何度も繰り返すことで徐々に筋肉の膨らみが増し、盛り上がってくる。そして、筋肉は消すのにも時間がかかる。激しい有酸素運動や食事制限を行っても、筋肉の他に脂肪が消えていくため、筋肉自体が小さくなるのにもまとまった時間が必要だ。時間性を持ち、生成途中の断片としての筋肉をトレーニーは身にまとう。ここにテン年代の揺らぐ身体が見出される。

さらに、千葉の問題意識に重ねるならば、時間性を伴った筋肉は「アンチ・エビデンス」としての性質を持つ。先ほどキャラ論におけるテン年代的な「時間性」の概念を紹介したが、これは同時に「履歴を持つ」ということでもある。デジタルに近ければ近いほど、その時間は履歴になる。キャラに関しても、例えば漫画の図像でなく人間と伴った場合には、履歴の曖昧さは高まるだろう。一方で、今やアナログなものでさえデジタル化される時代だという見方も説得力を増している。人々の身体はデータ化され、保存されていく。しかしながら、600を超える断片である筋肉は、それぞれが細かくデータ化されることは今の所はあり得ない。全体としての筋肉量がはかられるだけで、常日頃から変化する筋肉が現在どのような状態にあるのか、個別に正確にデジタル「履歴」化されることはないのだ。筋肉は、履歴にならない断片として時間性を孕み、一定でなくたゆとう断片となってトレーニーの身体に付着する。過剰さと多孔性を併せ持った盛り上がりのマッス。それは一方で付着先の存在を「軽量化」させながら、同時に時間という「重み」を与えるものなのである。

 

 

 

 

 

ギャル男からトレーニーへ。軽さを保ちながら、そこに可変式の重りが組み合わされる。もはやトレーニーには「ポスト・ギャル男」としての可能性を見出すことができるはずである。

千葉は自身の「ある程度」の判断として、ギャル男の最後の輝きは2006、7年頃であったと述べている。ジェンダー・イメージの攪乱が失われたのと対応するように、ゼロ年代後半には例えばEXILEがその勢力を強めていった。千葉はストレートでゴツゴツした男性の質感に、グローバル状況との関連を見出している。人々は倒錯のない、グローバルにわかりやすい男へと変わっていったのだ。

「ポスト・ギャル男」としてのテン年代トレーニーは、実はドメスティックとグローバルの間で挟み撃ちにされている。人々はグローバル状況に慣れると、それをドメスティックな仕方で奇形的に弄ぶようになる。印象的な事件は2009年に起こった。サントリーの飲料水「ダカラ」のCM内で、「細マッチョ」「ゴリマッチョ」というパワーワードが大声で歌われたのだ。これに異性の眼差しが合わさり、細マッチョがモテの条件になったりもした。テン年代のトレーニーはこうして、異性の目線を意識して筋肉をつけすぎないのか、筋肉肥大の欲望に従うのか、両者の間で「不安のマゾヒズム」に苛まれることになる。これはグローバルな文脈にドメスティックな文脈が融合したことで生まれた状況であり、千葉がかつて時代遅れになって失われてしまったと唱える「九○年代的な揺らぎの身体論」の萌芽が、身を固める手前で揺らぐテン年代のトレーニーの中に垣間見える。分身のように。

千葉はいま、「ポスト・ギャル男」としてのトレーニーに可能性を見出しながら、次の議論の可能性を探っているのではないだろうか。時に肥大化し、時になかなか消すことのできない一筋の筋肉はポスト・トゥルース状況におけるトゥルースの在り方を示唆するだけでなく、筋トレは過去の千葉の議論と『意味がない無意味』の接続をも可能にするだろう。「潜在的に無限な多義性の思考から、有限な意味を身体によって非意味的に切り取ること、そして行為すること」、さらには「頭空っぽ性」を筋トレは内包する。デジタル履歴化されない時間性を持って、「エビデンシャリズム」にも対抗する。また、千葉が度々取り上げるマラブーの「可塑性」や松本卓也の唱える「ポスト精神主義的人間」は、トレーニーの身体を射程に捉えるかもしれない。純粋に心因的な話が成り立たないという方向の中で、器質的/物質的個性の次元での人の多様性に基づき、多様な自分をどのようにマネジメントするかという時代(松本)において、トレーニーの身振りは重要性を増していく。

 

 

 

 

 

ギャル男のヘアのように、筋肉を「非意味的切断」の議論のアレゴリーとして捉え、そこに「乱交的なコーディネート」を見出せば、千葉の他の議論への接続も可能になる。なぜなら千葉は一貫して、一貫性のなさについて考えてきた(いる)からだ。非意味的切断に裂かれた画面や身体、そしてその先の分身のことを論じている。

そんな彼の批評の方法とは、「インフラクリティーク」なのであった。良し悪しを判断する批評でも、良し悪しの価値を宙づりにする批評でもなく、ただ表象の乱交に対応する、思考の乱交としての「批評以下の批評」へと陥っていくこと。

三鷹SCOOLで行われた『意味がない無意味』出版イベントにおいて、千葉は学生時代の創作体験を話していた。絶え間ない「自己ツッコミ」を持つ千葉が当時から気にしていたのは、作品に対する批評の不可能性であった。他者の創作を代弁する際の、価値判断の不確定性が生じてしまう。千葉はそれに違和感を持つからこそ、「マジメとジョーダンをギリギリまで判断つかなくさせるような」批評を書くのだろう。その批評はいかなる価値判断でもない。ゆえに批評は、目の前の作品に対する一種の分身として立ち現れる、もうひとつの「作品」となる。

表象の乱交に対する分身としての「作品」も分身ゆえにまた一種の乱交であるならば、インフラクリティークを書くその「作家」とは乱交に導かれた主体に他ならない。だから、あなたはきっと筋トレを愛しはじめているはずだ。乱交するアーティストとは90年代末のギャル男であり、テン年代末のトレーニーである。

 

 

2018年の新語・流行語大賞に「筋肉は裏切らない」がノミネートされた。トレーニーの勘違いを指摘した千葉の分析は的を得ている。同時に今ははっきりとこうも言えるだろう。筋肉はあなたを裏切り、あなたの身体をバラバラの断片の寄せ集めにするものなのだと。ジムへ行くと、あなたは90年代のギャル男の分身になることを誘われる。新たな表象の乱交は、服を脱いだところで、もしくはファッションを内側から食い破ろうとする身体の膨らみの上で生じている。更衣室に入る。ユニセックス香水のようなデオドラントウォーターから、柑橘系の匂いが漂ってくる。

 

 

 

 

文字数:7998

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  • 藤原 神護
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