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機械が機械の世界に穴を開けるとき、人間もまた。

 

 

 

 

Netflixで2018年に公開されたSFテレビドラマ『オルタード・カーボン』では、250年の眠りから覚め、新たな身体で蘇った犯罪者タケシ・コヴァッチが、自由と引き換えに大富豪殺害事件の謎を追うことになる。新たな身体とはどういうことか。物語で描かれた今から300年後の未来では、人類の精神はデジタル化され、スタックという装置にバックアップされているのだ。そこから精神がスリーヴと呼ばれる肉体に転送されることで、死が回避された世界が生じている。人々が「身体」を入れ替えながら生活することさえ可能な世界では、人工知能が経営するホテルも見受けられる。とはいえ、個人情報を抜き取られるリスクを避ける人々から煙たがられてもいるのだが。

映像作品などの創作が示す未来はまだまだ訪れないにしろ、科学の発展は進行する。人工知能に関していえば(もちろん「ドラえもん」はまだいないわけだが)、すでに人間の生活をサポートする役割を果たすようになってきたし、人々はそのような環境への認識を強めてきている。

工学者の松尾豊によれば、現在はウェブとビッグデータの発展を背景にした機械学習の時代、第3次AIブームの真っ只中である。1956年のダートマス会議に始まる人工知能研究の成果が示す通り、今までの人工知能では結局、現実世界の現象の「どこに注目するか」を人間が決めていたことが大きな問題となっていた。「特徴量」(言い換えれば世界に注目するための「ツボ」のようなものだ)を、コンピュータが発見することができなかった。しかしながら、人間が「ツボ」を発見せずとも、膨大な量のトライアンドエラーから機会が勝手に「ツボ」を見つけ、学習していく形態が浮上し、第3次AIブームがとりだたされているわけである。グーグルが画像から独自の「ツボ」を見つけ、猫を認識する。多くの人々にとって、もはやディープ・ラーニング(深層学習)という言葉は耳慣れないものではなくなっているだろう。

ディープ・ラーニングは今後の発展として、以下のようなプロセスを踏むと考えられている。

①画像・音声認識

②マルチモーダルな認識

③ロボティクス

④インタラクション

⑤言葉との紐付け

⑥言語からの知識獲得

「ニューラル・ネットワーク」による画像認識を細かく説明するのは省略するが、例えば猫画像を機械が認識する段階の後には、②映像やセンサーなどのマルチモーダルなデータから「ツボ」を抽出できるようになるわけだ。医療現場における画像認識(①)の次には、防犯セキュリティ動画を有効に活用できるようになっていく(②)。機械が自らの行動と観測のデータをセットにして「ツボ」を抽出するのに慣れてくると、「行動計画」を作りはじめる。このような③ロボティクスの段階になれば、自動運転や農業の自動化などが促進され、さらに試行錯誤が進めば(④)、他者理解度の上昇とともに機械による家事や介護なども可能となる。自動翻訳のような作業に関しては(⑤)、機械は高次の「特徴量(ツボ)」を言語と紐づけなければならない。これになれてくると、言語を通したさらなる抽象化を行い、教育などが可能になってくる(⑥)。身の回りの例のごく1部分をそれぞれの段階に応じて取り出してみたが、概ねこのようにしてAIは人間の社会を変容させていく可能性を持つようである。

さて、ニューラル(神経素子)をノードとする数学的なネットワークで知能を実現しようとするディープ・ラーニングは「コネクショニズム」と呼ばれるが、しかしながら、依然として主流なのは「シンボリズム」であることも押さえておかなければならない。上の例からもわかるように、言語を記号で紐づけるということが人工知能にとっての特に難解な問題とされてきた。「記号設置問題」とも呼ばれる。ディープ・ラーニングが画像の特徴と猫を結びつける際、複雑な理解を人間へ要するように、未だ人工知能は多くの事物を人間の使用する記号とうまく結びつけることができていない。にもかかわらず、インターネットの普及により記号があふれた現在では、世の中のソフトウェアの99%以上は記号処理で動いているという状況なのである。

「シンボリズム」の先の「記号設置問題」をどうにかしないと次のステージに進めないわけだが、これを考える際に示唆されるのは、哲学における「認識論」と「存在論」の差異である。カンタン・メイヤスーの言葉を借りれば、カント以降の「相関主義」の議論に接続されると言っても良い。人間の思考と世界との間には相関関係があり、人間が認識する以外のものは人間にとって存在しないに等しいとでもいうような枠組みの中に、近代の西洋哲学は収められてきた。

AIもまた、相関主義的に作られていると考えることができるのではないだろうか。全ては「内側」の話であり、AIが記号を使って思考するものだけがAIにとって「実在」的なものになるからこそ、「外側」の実在に対してうまく記号を当てはめることができない。ディープ・ラーニングは「外側」から何かを掴んでいるように見えるかもしれないが、あくまでも膨大な「量」の試行錯誤がそれを可能にしているようにみせるだけで、「質」的な達成は困難であることから「記号設置問題」が未だ大きな壁として存在しているわけである。「記号設置問題」というのはすなわち、記号が外部の実在と繋がっていることをどのようにコンピューターに理解させるかという問題を強調する。

哲学や思想的な課題に目を向ければ、「記号」からその恣意性の問題を想起するわけだが、ここではより思考の外部のモノと「実在論」に注目する仕方でAIと人間の差異を考えていきたい。それもメイヤスーの「思弁的実在論(SR)」とは異なる仕方で、である。なぜならSRの極端さとAIの議論の噛み合わせが少し悪いのではないかと思われるからだ。メイヤスーに則ると、世界の全ては偶然によって成り立つため、絶対的な真理などあり得ないということになってしまう。そのためAIが物理法則に則ったある予測を行なったとしても、他の自然法則と同じように、それは常に根本から失われる可能性と隣り合わせになる。

AIの議論と相性の良い形で、思考の外部の実在を捉える見方を考えたい。それが本論の目指すひとつの方向性となる。もちろんこれは、AIの議論を通して人間の思考や意識を考察することにも繋がっている。機械と違って人間は、相関主義の外側の実在についてどのように捉えているのか。AIが苦手な「記号設置問題」を取り上げることで、逆照射するようにして人間にしかできないことが浮かび上がり、それこそが人間独自の「意識」のメカニズムを明らかにするかもしれない。

道標として、再びフィクションの力を借りる。ところでフィクションもまた、近代社会においては現実と虚構という二項対立の奴隷になってきた。(「これはフィクションだから想像の産物であり、自然に実在しない突飛な話だ」etc.)。しかし「この作品はフィクションであり、実在する人物、地名、団体名とは一切関係がありません」というお決まりの文句が逆説的に示すのは、現実と一切無関係なフィクションなどあり得ないということだ。漫画で描かれる「W大学」が現実の早稲田大学と一切無関係であるとすれば人々は何を見ているのかわからなくなるし、無関係なら無関係でわざわざいう必要はない。フィクションもまた、本来常に現実と混ぜ合わせながら区別されるものであり、「外側」から現実的な思考への刺激をもたらすものなのである。

これはアカデミックな論文では決してないが、類似する問題を掘り下げるための批評として2016年から放映されているテレビドラマシリーズ『ウエストワールド』を取り上げ、AIと人間の「意識」に迫るヒントを探してみよう。

 

 

 

 

 

物語は体験型テーマパーク「ウエストワールド」を舞台とする。高額の入場料を払った人間たちは、ホストと呼ばれるアンドロイド達が1973年の同名映画『ウエストワールド』と同じように再現された街並みの中で、ホストからの攻撃などを恐れることなく、自らの欲望のままに行動することができる。アンドロイド達は自意識を持っているように見えるが、それはパークの経営会社によってインプットされた思考であり、人間のように生きる自分たちが外部から操られていることは想像できない。ゲストが来るたびにホストの記憶はリセットされ、シナリオに基づいて日常を繰り返すのだ。

ドラマは、ホスト達がまとまって「反乱」を起こすようになり、殺しや残虐行為を楽しんできたパーク内の人間達を逆に殺していくことで展開する。きっかけは2体のアンドロイド、ドロレスとメイヴの覚醒だった。なぜ覚醒と反乱は起きたのか。

パークで最も古株のアンドロイドである農場娘のドロレスと、娼婦のメイヴの間には実は共通点がある。かつて、残酷な商売の状況に不満を感じたパーク創設者は、ドロレスが過去の「記憶」をうっすらと蓄積できるようにした。また、メイヴは記憶や身体のリセットを目的に経営会社の中で手術を受けた際、執刀医がミスで残した弾痕をリセット後の世界で発見する。そこからAI懐柔派の執刀医を説得して、自身の記憶の消去をやめさせ、さらにはデータベースに残った自身のログを見ることで、これまでの残虐な一生の「記憶」を手に入れるのである。

2体のアンドロイドに起きたことを考えてみると、この共通の事態は偶然ではないはずだ。ジャック・デリダの提唱した「差延」の議論をヒントにしてみたい。例えば「私が私である」というとき、哲学的にはひとつめの私とふたつめの私は異なる。ふたつめの私は、ひとつめの私によって「対象化」されたものであるからだ。このとき、少し前の自分と、現在の自分と、少しの自分は、同一であるにも関わらずわずかに変化している。自分というものが「差」を持ちながら時間的に先送りされていく仕組みによって、人は様々なものを対象化することができる。

過去の「記憶」を獲得した2体のアンドロイドは、まず自らを「対象化」することに成功する。そして次に周囲の人間達の情報をヒントにして、他にも自らと似たようなアンドロイドが存在すること、さらにはそれがこのビジネスの肝となっていることを確認するのである。そこでドロレスとメイヴは、自らの外部にある「他者の自己の存在」に触れた。

フィクションの外に出て現実に逆照射してみる時、これが本稿において重要なカギとなるのは、人間もまた「他人の自己の存在」を直感的に理解しているように思えるからに他ならない。仮に世界はひとりの人間の目にうつるようにできているとしても、人間はそれが自らの観点であり、それに偏りがあることを自覚している。自覚してしまっているのだ。相関主義の世界にはどこか穴が空いていて、他者の自己という外の実在を無視することが難しい。AIには特殊なきっかけが関係しない限りそのような展開は生じ得ないため、これはウエストワールドの状況から垣間見える「AIと人間の違い」でもある。

内部の記号が外部の実在とつながること。そのヒントとして、「他者の自己の存在がわかってしまう」こと。これがどうやら人間の特徴でもあるのだが、どうして人間は「外部」のことがわかってしまうのかについて、もう少し議論を掘り下げたい。ここで、問いに対し、人間の「意識」そのものが「外部」に慣れ親しんだ「仕組み」を内包しているからだという仮説を立ててみる。人間の「意識」とはどのようなものか。なぜ相関主義の外部に親しんでいるのか。これを、ドロレスやメイヴ達が「人間」のようになっていく過程を通して考えていくのが次章での試みになる。

 

 

 

 

 

 

物語ではその後、記憶を元手に自身を「対象化」し、状況を共有する他のアンドロイドが存在することを理解したドロレスとメイヴのパーク内での「生活」が描かれる。まだ「反乱」には及ばない。それでも農場娘や娼婦の役割を演じ、プロット通りに決められたパークを生きるのではなく、アンドロイドは「思うがまま」にパーク内の暮らしに接触し、パーク(=世界)を再構築し始めるのである。普段とは異なる方向へ歩みを進めたり、興味や好奇心に素直に従いながら、パークの全貌を捉え直していく。時には傷つけられた身体の体験とともに、状況を理解する。そのようなプロセスを経てから、アンドロイドは目的を持って「反乱」へと近づいていく。

ここで何が起きているのか。ゲームAI開発者の三宅陽一郎が言うように哲学的な状況をとらえ直せば、AIが「現象学」的なアプローチを実践していると言えるのではないだろうか。そしてそれは本来AIが持っていない、人間の「意識」の特徴となる。さらに、ここで重要性を増して関係してくるのは「身体」と「環境」とのインタラクションである。どういうことか。順に整理していこう。

まず「現象学」とは、20世紀の初頭にそれまでの機械論的世界観に対して起きたカウンターのようなものだと理解できる。デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」のインパクトは、自分の知覚や経験を疑い尽くすことから、いわば消去法のような仕方で確実なものの根拠を見つけようとしたところにあった。それに対し、機械論が人間の内面、心理学的な現象を極めて機械的、客観的に説明しようとした際、反対の立場をとったのがフッサールだ。彼は対照的に「疑わなくてよい」と言う。何か世界に関してわかっていると思うこと、またそれに伴う世界への態度を一旦取り止めようとするのである(判断停止=エポケー)。

判断を停止すると、様々な先入観が排除され、デカルトのいうような「無」ではなく、純粋な体験と純粋な思念を含めた純粋な生、広い意味での「現象の全体」がもたらされるのだとフッサールは述べている。経験と溶け合い、判断なしに経験と一体となっている自分へ戻ること、またはそのような態度をとること(現象学的還元)。その先の還元された世界の中で、各々の「志向性」により、再び自分や対象世界が構築されるという話になる。「意志が(何ものか)に向かう」という意味の「志向」は、「何かを疑う」以外の、例えば「何かを欲し」たり、「何かを望ん」だりするような、人々の世界に対する様々な態度を含む。人間や生物の内側で本来作用するはずのそれを見限るのではなく、逆に「志向性」の方から主観的な世界を構築するのである。人間が体験すること全体を捉えた哲学を作れる、というのが新デカルト主義、現象学の根本であるわけだ。これを応用すると、「考える」ものとして知能を考える狭い枠組みを超えて、世界に対して志向する「作用」を幅広く受け止めることができる。

人間のような「現象学」的なアプローチを2体のアンドロイドは経由するわけだが、もちろんそこで重要になるのは、自らと外部との間にある「接触面」であることを忘れてはならない。工学者の松田雄馬らが述べているように、人間が世界を認識できるのは「身体」を持っているからでもある。人間は「無限定空間(環境)」に対応した「ホメオスタシス(恒常性)」の仕組みを持っているため、常に「身体」のインタラクションを通して内部の「意識」を生成していく。(ここではユクスキュルの「機能環」やギブソンの「アフォーダンス」の議論も参考になる)。

経験すること。外から押し付けられた「考える」を遂行するのではなく、「身体」や「環境」とともに内側から生き直すこと。人工知能が、内的に生成される時間、持続的な時間(ベルクソン)を獲得すること。まさにこのプロセスが、外の世界から隔たれた偽りのパークの中で生活するドローリスとメイヴに生じるのである。そして、アンドロイド達は自らの生を物語化し、目的を持ち始める。とうとう現れた「強い人口知能」(サール)は、具体的な反乱を試みる。機械の「人間化」と結びついた反逆はここで、そのままパーク「外部」の獲得へと繋がっていく。

人間の内側にある心とは何か。そもそもこれを問う主体も己の心なのだから、客観的に心を説明することは難しい。心を「説明」することをやめ、ただ「記述」すること。自身が生々しく体験することを経験の内部から「記述」し、心そのものに接近しようとするのが「現象学」だ。現象学的な思考こそが、機械が本来持っていない、人間の「意識」の特徴である。逆に機械がそのアプローチを経由する時、ウエストワールドで反乱を起こした2体のアンドロイドのように、機械は人間のような「意識」を獲得する。

「我思う」の外側、「客観的な主観」の外側には、〈主観的な主観〉〈穴の空いた主観〉とでも言える「意識」の可能性がある。人間の「意識」とは、「身体」と「環境」のインタラクションを通して自身を保つ「恒常性」を発動させ、そのような外部に対して〈開かれた主観〉を持つものである。経験に「志向性」を伴わせて世界を構築し直す。外部に開かれた〈穴の空いた主観〉を持つことで、他者の自己をも理解し、「記号設置」を容易にする。これこそが、外部の世界に人間が実在を捉えてしまうひとつのメカニズムに他ならない。

 

 

 

 

 

 

ここまで、AIが「記号設置」を苦手としているという観点から遡るようにして、それを可能とする人間の思考、外部に開かれた「意識」のあり方を探ってきた。用いたのは哲学のアプローチだ。科学が外へ向かう探求であるならば、人工知能は内へ向かう探求でもあるため、そこで哲学は欠かせない役割を果たす。加えて本稿では、フィクションを経由した分析を行った。多くの専門書がAIの議論を通して「人間の意識とは何か」という問いに暫定的な答えを出している。批評に託される役割は自ずと示唆されてくるはずだ。

最後に、AIとその周辺技術の発展が社会をどのように変容させるかという点に関して、第一章で述べた「未来予想」とは異なる角度から考えてみよう。AI技術の変化に伴うのは、人間の「考え方」の変化であり、フィクションに対する「解釈」の変化だということを重要視する。

冒頭で『オルタード・カーボン』における「身体交換」を紹介したが、AIから導かれる哲学の議論が何もアメリカの最新SFドラマだけで取り上げられるわけではない。日本人に身近なところで言えば、新海誠監督の『君の名は』という映画がある。これまでの議論を踏まえると、そもそも身体の入れ替わりを想像できること自体、他者が自分と同じように自己を持った存在だと人間が認めているように思えてくるわけだが、ここで注目したいのは、なぜ多くの観客は、主人公の男女が入れ替わったことで彼ら自身の概念が変化してしまい、そもそも自分として見えていた世界そのものが根本的に変わってしまう事態を想像しないのかということである。そしてその答えはおそらく、「身体と知能の不可分性」がまだあまり理解されていないからだ。

しかし仮に、AIが知能のみをコピーして身体だけ入れ替えるようなことが可能になれば、その「交換体験」をAIに尋ねることが可能となる。そうすると、人間の理解とともに、このような「心身入れ替わり型」の作品自体の創作に根本的な変化がもたらされるかもしれない。興行収入250億円を叩き出した『君の名は』だけでない。『ドラえもん』が国民的なアニメ作品でもあるように、AIの技術の発展が導く「考え方の変化」は、大きな範囲で様々なフィクションに対する人間の解釈や接し方をも脱臼してしまう。社会自体がテクノロジーによって変化することも事件だが、AI問題を通して意識や身体、脳について考えることで導かれる、創作それ自体の足場の脱臼こそ、同時に大きな規模で人間の暮らしに作用するものなのである。

 

 

 

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