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はらわたに届くほどの愛

 

 

A

 

人間の言語活動とは本来、その発言を支える行為や身振りと無縁ではない。発言する人物が、どのような行為・身振り・姿勢を伴いながら語ったのかは、その発言のパフォーマティヴな効果を考える上で見過ごすことはできないだろう。

たとえば、ある人物が相手との間に保つ距離は、語る言葉以上に、その人物が相手に抱く感情や意図を示すことがある。もちろんそれは一義的ではなく、「身を寄せる」ということが、その人の屈託のない親しさの表出であることもあれば、戦略的な馴れ馴れしさの場合もある。しかしその人物が何を意図していようと、相手との距離の短縮という行為、「近さ」という配置が、その人物と相手の関係に変化をもたらすことこそ重要である。

本稿はまず、「接近」という行為を成立させる人間同士の配置の変化には、ある人物と他の人物との関係において生じている出来事について、多くの読み取るべき情報が込められているという事実から出発してみたい。

 

 

哲学者の柳澤田実は、「接近」という行為を成り立たせる人物同士の配置の変化を記述したテキストとして、キリスト教の福音書を参照している。人間イエスの人物描写(容姿や声色)に乏しい福音書において、イエスの身体的行為は、福音書の編纂者たちが示したイエスの人物像を最も雄弁に語る情報となるのだ。柳澤の『イエスの〈接近=ディスポジション〉』を参照して、「接近」という行為がもたらす効果について考えてみよう。

まずイエスの身体的行為の特徴としてあげられるのは、留まらず常に移動することである。人々が引き止めても、イエスは移動を止めることをしない。加えてイエスは、束の間の邂逅の間に「恒常的に運動・移動するという性質」を人々に付与していった。イエスに接触された人々もまた、歩き始めるのだ。

イエスが指示した恒常的な移動において、そこで一体何が実現されているのか。それは何よりも「人との出会い」であり、出会いの特徴は、物理的「接近」と「近さ」の表明に現れていた。例えば、いわゆるキリスト教の「隣人愛」について教示するテキストとしても有名な、『ルカ福音書』の「よきサマリア人の譬え話」にも人物間の配置についての記述が見受けられる。

そこでイエスは隣人とは「…である」という仕方で固定的に定められるものではなく、各人が「なる」という仕方で実現するべき実践であることを明らかにする。そのために挿入されているのが、「ユダヤ人の祭司やレビ人ではなく、被差別民であるサマリア人が、本来は差別する側であるところの瀕死のユダヤ人を道端で助ける」という譬え話なのであるが、注目すべきはやはり行為と人物配置の描写である。テキストからは、「サマリア人が瀕死のユダヤ人に近づいて、その悲惨な状態を認識して憐れに思った結果、さらに近づいて介抱した」という一連の行為が読み取れるのだ。それはサマリア人の徹底した「接近」の記述に他ならず、遠ざかっていったユダヤ人祭司たちの動きと遠近のコントラストをなしている。

『ルカ福音書』のテキストは、そもそも「隣人」とは、「近いもの」を意味することを気づかせてくれるのではないだろうか。しかもイエスの主張に即して整理し直すならば、「近いもの」とは相対的に自分の近くに定位された誰かではなく、自ら「近づくもの」となる。つまり「近づく」という身体的行為を担う者こそが「隣人」であり、この「接近」という行為こそが隣人を愛するということの中心をなしていると考えられるのだ。

以上を踏まえるならば、福音書とは読者を「近づく」という行為に向けて、情動によって条件づけるためのテキストだと言えるだろう。そのために接近と情動喚起のドラマが多数記述されているのである。

さらにこの情動の喚起についても考えを深めたい。

哲学者の河本英夫は、『システム現象学−オートポイエーシスの第四領域』の中で神経学者アントニオ・ダマシオの「ソマティック・マーカー」仮説を応用し、「遂行的イメージ」の存在を主張している。例えば目の前に、赤い水が撒き散らされているような情景に直面した場合、ソマティック・マーカーは認知的な事態の把握(赤い水が本当は何なのかを認識する)以前に、緊急事態であることを気づかせる。このようにイメージが、記憶に基づいて、しかしその記憶を意識化させないほど直接的に情動を喚起することがあり得ることから、河本は、情動と不可分に結びついたイメージを、何らかの情報を知らせるための「知的表象」と区別して「遂行的イメージ」と呼ぶ。

『ルカ福音書』における、身体的行為としての「接近」は、情動を伝達する「遂行的イメージ」として定位されているのではないか。福音書の記述は、読者に、イエスが何をしているのかということに関する認知的な事態の把握をさせるのではなく、直接的な情動の喚起と、その情動と「接近」という行為の連関を強く記憶させることを目指している点で、上述の「遂行的イメージ」と類似しているのだ。

整理すると、イエスが実践した「愛」とは、他者への具体的な「近づき」によって直接引き起こされる情動と、それと緊密に結び付けられた行為のカップリングであり、別の言い方をするならば、情動そのものを介して伝達され、条件づけられ、学習される情動と行為の連結に他ならない。もちろんこのように述べることで、「愛」を単純な学習行動の図式に回収する危険性があることを自覚しつつも、ここでは上述のように「愛」を理解することの意義の方を強調しておきたい。以上の仕方で「愛」を解釈し直すことにより、イエスによる「愛」の教示は、道徳的規範の教示とも、さらには私秘的で内面的な宗教的経験とも異なることが明らかになるのである。福音書から解析される「愛」とは、行われるべき規範として知的に理解された後に意志的に実践される行為ではない。「愛」は、他者からの「接近」を(イメージを介してであれ)経験した者の情動が直接動かされることによって伝達・学習されるのであり、またそれは学習した者の他者への接近として表出せずにはいられないものとして現れるのだ。

 

 

 

 

B

 

情動を喚起させる〈接近〉が、ある作家の映画の中にも強く現れているのではないか。たとえばここに濱口竜介監督作品を形作る特徴を2つあげてみよう。

三浦哲哉は、『ハッピーアワー』の分析を通して、「心理表象主義」の乗り越えのために機能する「重心」を取り上げる(「『ハッピーアワー』論」)。人間描写や心理表現のみに映画世界を限定してしまうことを免れ、現れるのは、「スリリングな身体の劇」である。人間と人間の間には「重心」が存在し、互いが互いを支え、それが安定するよう探り合うという営み。その営みの繰り返しとして、濱口が日常を捉えていると三浦は主張する。「支え合い、重心を共にする身体の関係の変容が先に生きられるのであり、それがほころびるときにはじめて、観客は登場人物とともに思考し、推論することを余儀なくされる」。

また荻野亮は、濱口映画を「交通の劇」と表現する(『椅子について』)。作品の登場人物たちは、乗客の意志とはおよそ無関係に目的地へと向かう移動主体である列車やバスといった交通機関にしばしば身を預け、もう後戻りのできない楔を物語に打ち込んでいく。「列車やバスに乗ることとは、他なる匿名の速度に身をゆだねることである。」

これらを受けて本稿がとるのは、「重心」も「交通」も共通する問題系の元に現れているという立場だ。人間の移動、特に〈接近〉と情動の伝染について考えることで、以上の2つの特徴だけでなく、濱口作品の「はらわた」に批評の言葉を響かせることができるのではないか。

 

 

実は、濱口作品において登場人物はめったに〈接近〉しない。だからこそ現れる〈接近〉は意味を強調するのであるが、映画でしばしば見受けられるのは、「登場人物同士が元々近い距離に配置された状態で会話が始まるケース」だと言えよう。〈接近〉を抽出するには、あらかじめ距離を保った登場人物がそこから〈近づいて〉くる瞬間に注目しなければならない。そして〈接近〉は、物などを取りに行くのではなく「人物(相手)のために」行われると整理しておくと、その発見が容易になるだろう。

たとえば『ハッピーアワー』の中でも、窓から神戸の港が見渡せる「PORTO」にてワークショップが開かれるのだが、そこでアーティストの鵜飼が看護師のあかりにアクティビティの中で〈接近〉し、額を合わせている。参加者の風間に関しては、ワークショップ内で専業主婦の桜子に〈接近〉、額を合わせるだけでなく、その後に自動販売機の前でも〈接近〉しているのが見受けられるだろう。これらが映画の展開を大きく左右するのは、作品を見終えた観客には理解できるはずだ。

しかしながら、ここでは『ハッピーアワー』を分析することよりも、「重心」を描いたこの映画の「以前」から、〈接近〉のテーマが極めて重要になっている事実に目を向ける必要があるだろう。

『親密さ』を取り上げる。映画について先に紹介しておくと、本作は『親密さ』という演劇を作り上げていく過程をフィクションとして演じる前半、さらに実際の上演を記録した部分を主とする後半から成る2部構成を取っている。主人公となるのは新作部隊の上演を間近に控えた演出家の令子と良平であり、映画はカップルでもある2人の関係や日常、そして社会が、稽古を繰り返す間にゆっくりと確実に変化していく様を映し出す。

この映画の白眉も、「初めから固定された近接」を多様することで、それとは異なるわずか数回の〈接近〉から、物語を駆動してしまうところにあるのだ。

1つめ、深夜のバイトが終わり、部屋で寝ている良平の元を令子が訪れる場面。令子はベッドで寝ている良平に〈接近〉し、彼の上に横たわる。本稿前半の議論を土台におけば、令子による〈接近〉は、良平の情動の喚起を今後の展開で促すための重要な鍵となる。

令子と良平の関係は、稽古を繰り返しながらこじれていくのだが、令子が原稿の大幅な変更を行った際に良平が激怒し、2つめの〈接近〉が現れる。彼は怒鳴りながら彼女に〈近づき〉、帰ってしまう。これまでの稽古を通して自ら〈接近〉しなかった良平がようやく、身体の身振りを通して令子に本気で向かい合うのだ。その直後、電車の中で一人でいる良平の元に歩いて〈接近〉し、彼の隣に座るのが令子だった。3つめの〈接近〉もまた、身体経由の情動に導かれるようにして出現する。

映画では、〈接近〉という行為を通して情動を喚起させ続けることこそが、2人の「愛」として表現され、物語の根幹を担っている。思えば良平がバイト先へ向かう電車の移動でさえ、線路の近くでそれを楽しみに待ち受ける令子がいるならば、2人の感情を支える〈接近〉になり得るわけだ。

ゆえに、電車を舞台とするラストシーンは感動を促す。カップルは破局し、朝鮮で活動する国際協力隊の一員となった良平は、帰国中に駅のホームで、偶然令子とすれ違う。電車に一度乗った良平は、電車をでて、目の前の令子に〈接近〉する。そこから2人の会話が始まるが、別れの時はすぐにやってきて、彼らは互いに異なる電車へと乗り込んでいく。駅を出て、分岐点が来るまでに並走する2つの電車の車内で、彼らは窓越しに「投げキッス」をしながら、車両の一番後ろまで走り抜ける。2人を引き離す電車の移動に、最後の最後まで逆らうようにして、令子と良平が少しでも〈接近〉し続けようとする。お互いが情動を確かめ合い、そこには言葉はなくとも行為のみで現れる「愛」が描き出されるのだ。

『親密さ』の議論を経たいま、『ハッピーアワー』の見方も変化するのではないだろうか。同作において身体作用が初めて現れたのではない。字数の都合で概略するが、筆者の考えでは、「東北記録映画3部作」を経て正対する人物の間で働く「重心」に重要性を見出した濱口が、『親密さ』で表現する〈接近〉の身振りに「重心」を組み合わせて生まれた作品が『ハッピーアワー』だと整理される。登場人物の間に現れる「重心」は、両者の関係のバランスをコントロールするものというおおまかな理解の域を超えて、具体的には、媒介項として磁石のように両者を〈接近〉させたり遠ざけたりするものと読み解くことができるのではないか。(同時に、これは〈接近〉を主体から「半分」切り離す点で、濱口作品の中でも特殊な例に当たることに留意しておかなければならない。)5時間に渡る贅沢な時間から身体を映すことで可能となった「重心」の新たな表現はあるにせよ、『ハッピーアワー』は『親密さ』における〈接近〉表現の変化として位置付けられる。

 

 

そして『ハッピーアワー』とは異なる仕方で、この〈接近〉からなる「愛」のテーマを発展させたのが『寝ても覚めても』である。同作は、〈接近〉の強度によって情動と「愛」に変化を起こさせる。どういうことか。

物語は、主人公の朝子が麦と出会い、運命的な恋に落ちるところから始まる。しかし、付き合い始めてからしばらく経ったある日、麦は突然姿を消してしまうのだ。2年後、東京に引っ越した朝子は、麦とそっくりの容姿をもつ亮平と出会う。朝子は戸惑いながらも亮平と付き合い始め、関係を深めていくにも関わらず、結婚間近になると再び麦が現れ、朝子は決断をせまられることになる。

麦が〈接近〉の人であることは想像も容易いだろう。川沿いで爆竹が鳴り視線を交わらせるショットでは、その後麦がいきなり朝子に〈近づき〉最初のキスをするわけだが、実はそれよりも前、映画冒頭では写真展で作品を見る朝子に麦が背後から〈接近〉していて、朝子もそれに気づいている。身体の情動が展開を導いていく。

さらに亮平も〈接近〉の特徴を共有する。閉館間際の写真展で友人を待つ朝子の背後から、彼女に〈近づく〉だけでなく、震災後の場面では道端で悲しむ人に憐れみをもって〈接近〉し、ハンカチを渡そうとする亮平の姿が見受けられるはずだ。

そして、彼ら2人の〈接近〉をトリガーにして、朝子も重要な局面で〈接近〉運動で反応し、関係を発展させていくのであった。例えば、亮平が非常階段で朝子に〈近づいて〉キスをし、二人の関係が始まる場面では、喫茶店から会議室にポットを取りに来た朝子が亮平に〈接近〉することが、直前での引き金になっている。しかしこの時点では朝子は、迷いの中で「麦/亮平」に〈接近〉したのだと考えた方が良い。亮平自身に対してのはっきりとした「愛」を自覚するのが後の展開にあることを考慮し、朝子から亮平に対してのはじめての〈接近〉が震災後の路上において生じると捉えれば辻褄もあうからだ。このように、3者の〈接近〉と情動の折り合いがなす身体のドラマとして、同作も本稿の流れに位置付けることができる。

朝子もまた〈接近〉する。しかしそれゆえに、再び現れた麦に〈接近〉する際には、彼女は過去に〈接近〉した際の情動まで思い出してしまう。久々に現れ公園で撮影中の麦へと向かっていく朝子の言動が、「亮平と大阪に行くし大丈夫」から「笑顔で麦に手を振る」へと変化することも、身体の情動を捉えれば決して不可思議なことではないだろう。

麦か亮平のどちらかを選ぶよう選択を迫られる局面が最後にやってくる。麦が突然朝子たちの家にやって来た直後、混乱した朝子は亮平に「来ないで」と思わず強く発言するだけでなく、レストランでは「約束を守って戻ってきた」と主張する麦の手を取り、タクシーで立ち去ってしまうのだ。朝子は、麦の〈接近〉という行為により過去の情動を刺激され、現在に再び情動を宿してしまった。ここでもカメラが捉えているのは、言語や理屈では考えられない身体の導きだ。

しかし朝子にとって、彼女が〈接近〉し〈接近〉される過程で「愛」を感じる人物は、もはや麦ひとりではないのも確かである。彼女が麦についていき、車の中で友人からの電話に「もう戻らない」と答えたにも関わらず、翌朝になると「麦は亮平やない。私、ちゃんとわかってなかった。ごめん。ごめん。」と再び態度を変える。なぜか。この背景に目を向けることが重要なのは強調するまでもない。

鍵となるのは麦の〈接近〉が向くベクトルである。彼は過去に一度朝子の前から姿を消したわけだが、北海道に向かう道中の場面でもその特徴は現れている。彼は「海が見たくなって」高速道路を降り、朝子が目覚めると、防波堤の方へと歩いて〈接近〉していく。その後に朝子の心変わりの言葉が出て来るのだ。一人になってその海を眺める朝子の視線は強烈な印象を残すわけだが、これらの事実をふまえると、亮平の〈接近〉と「愛」が朝子に向けられるのとは対照的に、麦の〈接近〉とそれに伴う「愛」が朝子以外の磁場へも「身体的に」ひきつけられていることが理解できる。〈接近〉がどこに向けられるかによって、〈接近〉の強度にグラデーションが現れ、そして朝子は、「身体的に」亮平の〈接近〉へとより強い親和性を覚えたのだ。言葉や理屈で考えるのではなく、身体と情動のドラマとしてこの作品を眺めることで、朝子の選択は肯定される。ベクトルを定めた後で生じる彼女の最も強度ある〈接近〉は、逃げる亮平を走って追いかけることで物語のクライマックスを用意し、彼の決断を揺り動かす。

 

 

『親密さ』、『ハッピーアワー』、『寝ても覚めても』の3作を紹介してきた。なぜ濱口はこれらの身体のドラマを通して「愛」を語るのか。その傾向が、東日本大震災の後から見受けられるのは偶然ではないだろう。

実は、映画監督黒沢清の近年の歩みにも類似する傾向を見出せる。特に2015年以降、彼は映画で「愛」を語るための原作小説を選んでいるのではないかとすら思わせるのだ。『岸辺の旅』、『クリーピー 偽りの隣人』、『散歩する侵略者』、実はこれらの映画もまた〈憎悪〉を通して「愛」を描き出す[i]。三浦哲哉によれば、黒沢も濱口と同じように「心理主義」を避ける傾向にある作家として位置付けられるわけだが、静的な「心理」だけに陥らず「動的な因果関係」を想定する形で、登場人物が「そうなってしまう」動態を表現するために、黒沢もまた〈憎悪〉を活用しているというのが筆者の見解だ。過去に培ってきた独自の手法を「愛」と親和させるために、黒沢もまた新しい表現を生み出してきているのではないか。

たとえば〈接近〉や「憎悪」を通して、濱口と黒沢が「愛」を表現する背景に、震災の影を見出すことができる。そして、これらの映画を見ることで観客に一体何が生じるのかを考えるとき、濱口が『寝ても覚めても』の中で重要なヒントを残してくれていることに目を向けよう。

ホームパーティにて、亮平の同僚串橋が、朝子の友人マヤの演劇をテレビ画面越しに見る場面がそれである。画面の中で、マヤが串橋に正対し、そこに重心が生まれる。2人の間の重心は刺激され、両者の〈接近〉は促され、情動から「愛」が生まれるきっかけになる。

映画がもし、正対する観客との間に類似する効果をもたらすならば、重心の刺激から〈接近〉と「愛」の伝播が生じるのかもしれない。見知らぬ人にも〈接近〉できる身体の情動を感じ、そばにいる大切な人への〈接近〉のベクトルも強められる。いま濱口の映画はきっとそのような在り方で、崩壊しかけている全てのものへと手を差し伸べているのだと思う。「消すことのできない“何か”」(ジョン・カサヴェテス)が残される。

 

 

 

 


 

[i] 本文以上の詳細については拙稿より。→https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kazukigenron/2604/

 

文字数:7992

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