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金沢アートダイバー

 

 

 

DIVER-CITY

 

石川県金沢市。ここに市内を流れる2つの川がある。

1つ目の川の名は、犀川。金沢平野を流れ日本海に注ぐこの川は、金沢を代表する作家室生犀星が周辺に生まれ育ち、多くの作品に残したことでも有名な川である。市内の金沢文芸館へ行くと、在廊していた職員から、室生犀星を中心とした犀川の文化は、金沢では「山の手の文化」として認識されていることを伺った。

東茶屋街の方向に向けて足を進めれば、金沢の市街地を流れるもう一つの川が目の前に現れる。浅野川だ。広々と開けて、背後に雪を頂いた山脈が連なる犀川の端正な流れと比較すると、浅野川はしっとりとした雰囲気を醸し出している。この川のすぐ側にあるのが泉鏡花文学館である。泉鏡花は、室生犀星と並んで金沢を代表する作家であり、生まれ育った浅野川周辺を作品内に多く描き出した。そして、泉鏡花文学館の職員は、浅野川周辺の文化を「庶民の文化」と紹介した。いわゆる山の手の文化を代表する室生犀星とは対照的に、泉鏡花は、社会の底辺に生きる民衆や俗な世界と関わり合い、結びつこうとする志向を持っていた。

それぞれの文化水域を代表する2人の作家の影響が色濃く存在し、景観や水量豊かな犀川は男川、緩やかな流れを持つ曲線的な浅野川は女川とも呼ばれている。金沢は、2つの川と文化によって育まれた土地なのである。

そんな土地にアートが展示されるならば、どのような反応が生じるのか。思えばアートもまた金沢のようにして、時にハイカルチャーの文脈から、そして別の時には庶民の文化から語られるものだろう。

ここに記されるのは、2017年11月25日から2018年3月11日の間に、金沢21世紀美術館で行われたある展示の様子である。

『ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー』展。イギリスとフランス、さらにはEUとアメリカの境界にも文化的に接する「カナダ」という国からやってきた、男女2人組のアーティストとその作品について。

個人的なことを言えば、筆者がかつてカナダに長く滞在していたことも、この展覧会評を書く小さなきっかけになっている。それでも、カーディフ&ミラーの作品が、2つの川が流れる文化水域「金沢」にやってきている事実の方が、明らかにその偶然を記すことの意味があるように思えた。

 

 

 

 

 

ART DIVER

 

ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミュラーは、高度な音響とメディア技術、さらには独創的な造形を駆使することで、「聞く」「見る」と言った複合的な知覚体験を伴う独特な世界を創り出す。彼らの世界観に触れれば、そこでは聞こえない音が聞こえたり、見えないものが見えたりするかのようにして現実が瞬く間に飛び越えられ、観客は彼らの物語に「没入」してしまう。

2人は共にカナダに生まれ、1995年頃から共同制作を始めた。カナダBC州にあるグリンドロッドを拠点に活動し、第49回ヴェネツィア・ビエンナーレでは、カナダ代表として特別賞を受賞している。カーディフ&ミラーは国を代表するアーティストとして認められると共に、その後もドクメンタ13(2012)など国際展に多数参加するようになった。

国内では横浜トリエンナーレ(2005)ほか、第1回恵比寿映像祭(2009)、越後妻有アートトリエンナーレ(2009)、瀬戸内国際芸術祭(2010)、あいちトリエンナーレ(2013)などに参加しているため、日本での認知も進んでいると言えよう。

では、金沢で開かれた『ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー』展の白眉はどのようにして表現することができるのか。

展示室が独立して点在しているという、ユニークな構造を持った金沢21世紀美術館の空間を活用して、ひとつの展示室につきひとつの作品が展示される。それらは日本初公開のインスタレーションだ。作り込まれた作品の細部に目を凝らせば、鑑賞者は度々その知覚や価値観を揺さぶられる。加えて、各展示室を廻るプロセスの中には、異なる物語が次々と現れるようにも感じるかもしれない。

複数の部屋に散らばったインスタレーション鑑賞は、もはやディズニーランドなどのテーマパークにおける観光客の体験に近い。テーマパークは園内全体のコンセプト、つまりソフトをより強調する場であり、美術館には作品というハードが置かれていたことを考えれば、このように述べることもできるのではないだろうか。

〈遊園地〉に近い体験が現れていた、と。

 

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とはいえ、ここに存在しているのは、巨大な機械によって人間の身体を振り回し、死の危険と隣り合わせだった古き〈遊園地〉の姿だ。

ひとつめの部屋に入りまず目を引くのは、部屋の中央に置かれた大きな処刑装置の圧倒的な存在感だった。

鑑賞者の目の前には暗闇で鈍く光る大きな赤いスイッチボタンがある。押すか押さないかの選択に迫られたあとで、改めて作品を見渡すと、先に鋭く尖ったものが付いた機械仕掛けの2本のアーム、ピンクのフェイクファーで覆われた椅子、天井から下がるミラーボール、エレキギター、テレビのモニター数台、本棚の上やテーブルの下を蛇のように這い回るケーブルが目立つ。果たして何が処刑されるのか。赤く光ったボタンを押し込めば、マシンは動きはじめ、もう後戻りはできない。

《キリング・マシン》は、フランツ・カフカの短編小説『流刑地にて』をヒントに作られている。カフカの物語の舞台は、熱帯の離島の流刑地だ。この島には、鋭く尖った無数の針で罪人の肌に直接判決文を彫り込む処刑の装置が存在する。まるでバレエを踊っているかのように繊細な動きをプログラミングされた《キリング・マシン》もまた、小説の装置と同じように判決文を刻む。カフカの物語と異なるのは、受刑者が椅子の上に乗っていないということだ。目に見えない犠牲者を前に、観客は死刑執行人を演じることになる。

なぜ椅子に座る罪人がいないのか。カフカの社会批評の文脈を現代に重ねてそこに読み取るならば、罪人が「もはや私たちの目や耳にとどまらなくなった」からではないか。消費社会の中で、人々は辛い現実から目を背けごまかし続ける。人々は死刑や拷問の存在に恐怖する一方で、それを行う装置にも似た社会構造を、見物人として作り上げてきてしまったのだ。犠牲者の不在は、観客が刑の執行人でもあり、見物人でもあることを表現する。

激しい「運動」の後で機械仕掛けの2本のアームが元の位置に戻り、音楽と光は突然に止む。マシン正面のデスクランプにはゆっくりと光が灯り、再び例の赤いボタンを照らす。次に作動させる観客を自ら待ち構えるような《キリング・マシン》に、スリルを覚えざるを得なかった。

 

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各部屋を回っていくと、《小さな部屋のオペラ》、《驚異の小部屋》など、音に強くこだわったインスタレーションが並んでいる傾向に気づく。「バイノーラル音声」でイヤホンから静かに語りかける声に導かれたまま公共空間を歩く−《ウォーク》シリーズを代表作に持っているカーディフ&ミラーのことだ、これは強調せずとも当たり前のことなのかもしれない。《小さな部屋のオペラ》では、巨大な木箱の中を覗き見ると、そこら中に散らばったレコードの存在に気がつく。現実から逃れようと音楽に陶酔するR・デネヒーという男の物語が、雨音をかき消すようにしてスピーカーから語られる。《驚異の小部屋》とは、簡単に言ってしまえば、20個の引き出しがある古いカード収容棚のことだ。しかしながら、カーディフ&ミラーは、各引き出しに音楽や日常の生活音、ナレーションなどの様々な音源を納めている。それぞれの引き出しを開ければオーディオトラックが再生されるため、鑑賞者はDJのようにして重なり合う不協和音を楽しむことができる。極めてポストモダン的な作品のようにも感じた。

それでもやはり、続く部屋で《マリオネット・メーカー》を見たとき、この展覧会にはある不気味な一貫性が通底しているという可能性を、観客は捉えざるを得ないのではないだろうか。展示室に置かれた1台の古いキャンピングトレーラーを覗くと、マリオネットたちの小さな世界が拡がっている。人形が音楽に合わせて踊り出すのを見ていると、そこが怪し気な夢の世界のようでもあり、不気味さと楽しさが両立する雰囲気に魅了される。観客はこれと似たような「インパクト」を、別の展示作品に見出すはずである。むしろ展覧会の中で例外的な存在だったのは、《驚異の小部屋》の方で、他のほぼ全てのインスタレーション作品が類似する特徴を持っている。それらはどれも怖そうに見えるのに、どこか興味を惹きつけられてしまうものなのだ。

 

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展示ルートも終わりに近いところ。

その部屋にあるのもまた、もちろん間取りの中央に位置する華やかなインスタレーション作品である。《ザ・カーニー》は、狂気に取り憑かれたような音や野性味溢れるロックミュージック、奇妙な人形やオブジェ、そして複数の色に変化する電飾を組み合わせて制作された「カルーセル」であり、マルチメディア・インスタレーションと呼ぶこともできる。

遠くから見えば「カルーセル」に見える作品は、さらに近づいて観察すると異なる様相を見せ始める。中心にはドラムセットが置いてあり、自動運動式のバチがバスドラムを叩いている。カラフルな動物の座席から愛らしさはすでに消え、悪夢に出てきそうな形相が鋭く光って見える。さらにそれぞれの口には拡声器が取り付けられていて、そこから流れる声にも邪悪な意図を読み取られずにはいられない。上を向けば、天使に見立てた2体のマネキンがぶら下がっていた。カルーセルが回り始めると、電飾はゆっくり点滅しながら赤から青へと変色する。サウンドが流れ始めた時、最初に聞こえてくるのはサーカスのリズムだ。音楽の回転数が上がりスピードが乗ってくると、電飾の点滅もそれに合わせるようにして加速する。狂乱的なライトショーが終わり、突然全ての音が止んだかと思うと、やや間を置いてから「きらきら星」を歌う女性の声が聞こえてくる。それを追いかけるようにして子供たちの歌声が重なり、最後にはそれが泣き声に変化する。

このインスタレーションこそ、今回の展覧会におけるカーディフ&ミラー作品の特徴を芯から捉えているのではないだろうか。「視覚効果」と「作家の個人的なリアリティ」の背後に現れているのは、不自然でいてどこかカーニバル性の強い世界の縮図なのである。どういうことか。

カーディフ&ミラーは、TVドラマやショービジネスなどで用いられる特殊効果を意図的に取り入れている。目には眩しい舞台演出や、連続して起きる予期せぬ出来事、点滅を繰り返す照明などが目立つ。劇場でみる芝居のように綿密に計算された作品の雰囲気は、上記の特殊効果を巧みに用いることで生み出されている。観客は小さな小屋の中で、オペラを見ているような気分にもなるはずだ。

これらはみな、まさに〈遊園地〉の乗り物が人々を惹きつける効果にも近い。カーニバルの乗り物の電飾が点滅するのを前にして、恐怖を感じつつも魅了される。一般的で馴染みがあり、それでいてエキドチックかつ不可思議という場に設定された緻密な構造が、観客を歓迎的に招くムードを演出している。計算されたセットにショーの観客として人々を招き入れること。そしてそこで作品に付随したスリルと興奮を感じさせるのが、カーディフ&ミラーのアートなのである。

加えて、彼らのインスタレーションには、視覚的な要素だけでなく、文学、音楽、歴史、映像などを参照した様々な素材が使用されている。作家個人にとっての重要な断片を、ナレーションや音楽、劇的な舞台構成が束ねることで、場には詩的な忘れがたい体験が強烈に現れる。観客はスリルを楽しむ緊張感の中で、時に困惑すら覚えるかもしれない。でもきっとそれで良いのだ。作品の断片は、観客個人の中にある過去の記憶に触れ、経験の中で触れた映画や音楽、行った場所の思い出を刺激し「かき混ぜる」。これまで知っていた認識をばらばらに崩し、現実世界を脱臼させ、観客に突き返してくるような力学が働いている。〈遊園地〉とは、そのようにして現実とはまた別の風景を人々に見せてくれるものでもあった。

不自然でありながらエキゾチックに観客を誘い、世界をかき混ぜるものとしての〈遊園地〉は、中世に流行したカーニバルへと接続されるのだ。

《ザ・カーニー》の先にある展覧会の真価を捉えるため、さらにここからカーニバルの役割を掘り下げてみよう。展覧会が行われる意義もまた、そこに宿っているのだから。

 

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一般に、カーニバルとは西洋に始まった謝肉祭のことであるが、祭りの間は普段厳しい階級制度が一時的に保留され、参加者は自らの好きな身分を演じることが許された。道化師が王様の格好をしても良かったし、逆に王様が道化師になっても良かったのだ。

しかしながら、カーニバル的な特性は、現代の世界において失われつつある。支配的な社交のルールを面白おかしく逆転してみせることで表現されていた社会批判や身分解放への思いは、現代の娯楽文化ではほとんど見ることはできない。西洋の資本主義社会の象徴とも言える過剰消費によって覆い隠されてしまった。

今日、遊園地は商業事業である。それは幸福感を感じられるものはなんであれ消費したいという人間の尽きない欲求を満たそうとする、金儲けのための巨大産業になった。人々は「魔法の国」の中でジェットコースターやクマのぬいぐるみなどに身を投じ、普段から娯楽産業に対して全く無批判になる。

この、両義的な遊園地のあり方、カーニバルから商業事業への変化というベクトルを、現代のメディアアートへ照応することができるだろう。美術批評家の黒瀬陽平が言うところの「ITベンチャー系メディアアート」を先導するアーティストの例として、teamLab(以下チームラボ)の取り組みを紹介する。

チームラボが展開するのは、デジタル技術を駆使した「ボーダレス」なデジタルアートであり、彼らは『学ぶ!未来の遊園地』と言うプロジェクトタイトルを持って、日本全国に「共創」の空間を増やすことにも取り組んでいる。しかしながら、そこで子供から大人までを一貫して体験されるアートとは、プロジェクションと身体の間に宿るインタラクティブ性に欠けた、つまり多様なコミュニケーションから距離をとった「感情に薄い」インタラクティブ表現に他ならない。あらかじめプログラムされた通りの反応を、プロジェクションは鑑賞者に提示する。そこには、身体があるがゆえに起こる機械的な反応があるだけで、真の意味での相互的な感覚の交通は存在しない。そしてそのような場所を彼らは「遊園地」と名付けてしまうのだ。

ここに見られる「遊園地」の姿が、カーディフ&ミラーの用意する〈遊園地〉と明らかに異なるのは言うまでもない。カーニバルが存在していないからである。「IT系メディアアート」という文脈に話を戻せば、「インテリ」であり「遊ぶことの楽しみをわかりやすく主張する」ことは、カーニバルに付随する「無教養」な人たちの「衝動や狂気」とはかけ離れている。資本主義を経て、本来あった〈遊園地〉の姿は消え失せてしまった。しかしながら、そのかつての楽園をカーニバルの想像力から再び召喚することで、チームラボの描くユートピアはディストピアの表情を露呈する。

さらに言えば、チームラボとカーディフ&ミラーの作品は、遊園地に例えられるような同じ「没入型」のアートを提示しながら、やはり相互に相容れないものなのだ。

 

僕たちは、観客の疑心を増長するシナリオを作り、作品の中のリアリティに彼らを取り込む。そうしておいてから、そのリアリティを破壊する言葉や音で作品の世界観をひっくり返すのだ。突然足元の敷物を引っ張って抜き取るみたいに。(ジョージ・ビュレス・ミラー)

 

カーニバルが支配的な社会の枠組みに対して及ぼしていた破壊効果を、現代風にアレンジして継続させた作品が《ザ・カーニー》である。私たちが持つ楽しい娯楽施設としての「遊園地」のイメージは、簡単に捻じ曲げられる。不協和音に逆再生される音楽、気味の悪い笑い声や子供の泣き声、ライオンの雄叫び、それらが急に止んだかと思えば、また振り出しに戻ってインスタレーションは動き続ける。人間の悪夢や残酷な出来事は、いつまでたっても終わらない。

この作品を通して、観客は娯楽文化の暗い一面の存在を思い起こされる。危うくもあり、魅力的な世界、それこそが現代に提示する批評的な〈遊園地〉なのであり、カーディフ&ミラーが用意したかったものなのだ。

各展示室に分離された「没入型」のインスタレーションが、〈遊園地〉のようなアトラクション感覚を演出する。もちろん作品自体も、付属する照明などで不気味な遊び場の輪郭を強調する。現代に流行するメディアアートが建設する「遊園地」から人々の想像力を救い出すことを、衝動的で狂気的な作品群は楽しんでいるのかもしれない。チームラボには、「足元の敷物を引っ張って抜き取る」ようなことはできないのだから。

 

 

 

 

EARTH DIVER

 

『REALKYOTO』編集長の小崎哲哉は、著書の『現代アートとは何か』(河出書房新社、2018年)の中で、現代アートの3大要素を「インパクト、コンセプト、レイヤー」に見ている。

インパクトとは「人がそれまでに見たり、聞いたり、感じたりすることのなかった衝撃」を指し、コンセプトは「作家が訴えかけたい主張や思想、知的なメッセージ」のことである。金沢21世紀美術館の特徴を利用し、不気味だがスリリングなインスタレーションを、各展示室それぞれに遍在させる形で成し遂げられた〈遊園地〉は、稀有なインパクトをもたらした。そしてカーディフ&ミラーは、娯楽文化の暗い一面をカーニバル性の表象によって強調していて、これもコンセプトとして認知されるだろう。

レイヤーとは、「鑑賞者に様々なことを想像、想起、連想させる」ことで「その結果が作品全体のコンセプト理解に役立つ」働きを持つものである。現代の「遊園地」が、チームラボのアートによって変化の過程にある最中、カーニバル性を孕んだ〈遊園地〉の存在を提示することは、「いまなぜこの展示に意味があるのか」を明示する効果的なレイヤーとなっているのではないだろうか。こうしてインパクトやコンセプトが補強される。

もちろん展覧会のキュレーターが以上のレイヤーを意識したかどうかまではわからない。外部からの批評の役割とは、作家やキュレーターが意識していない文脈を展示本体に接続することであろう。本稿の字数にも限りがあるため、議論を厚く整えることはできないが、展示に関してさらにもう一つの「レイヤー」が存在することに、端的に目を向けてみる。

かつて金沢の市街地には、2つの〈遊園地〉があった。「粟崎遊園」は1925年に開設され、1941年に軍に接収され閉園した。「涛々園」もまた1925年に開設され、1943年に同じ理由で閉園した。当時の〈遊園地〉は、大劇場やスキー場、動物園、大浴場、洋食堂などを内包し、娯楽の場は、金沢の人々の活気で溢れていた。

今から数えて最も近いところにある過去の冬には、一体何が起こっていたのだろうか。犀川と浅野川が流れ、2つの遊園がかつて影を潜めた地、金沢。そこへ同じ雪国のカナダからやってきたのがカーディフ&ミラーという2人組だった。わずか4ヶ月半の間とはいえ、確かにそこには、アートを通し、両義的な娯楽性を担保する〈遊園地〉が蘇っていたのだ。

 

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